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大久保一翁-最後の幕臣- 中公新書536

2010年01月21日 | 読書日記など
『大久保一翁-最後の幕臣- 中公新書536』
   松岡英夫・著/中央公論社1979年

勝海舟とともに幕臣として、命をはっておられたようだ……。



征服者、薩長……。下「」引用。

「徳川の家臣団はどのように対応したか。その対応のパターンは、太平洋戦争敗戦のときのそれとあまりにも類似しているのにおどろく。」

自殺者……。下「」引用。

「-略-堀直虎は反恭順派で、慶喜がふたたび上京して君側の奸を払い、政治の指導権を奪取すべきであると主張したが、これはもとより慶喜の容れるところとならない。直虎は憂憤の松、慶応四年二月、江戸城内で自殺した。
 山内摂津豊福の自殺は堀直虎の場合とやや事情を異にするが、やはり鳥羽伏見戦後の情勢急変に進退に窮してという点で同じである。-略-」

大久保一翁と勝海舟が代表……。下「」引用。

「勝海舟の残した日記には、討幕軍が江戸に迫るころから、彼と大久保一翁の二人が幕府を代表して討幕先鋒軍の参謀連と折衝したことが記されている。江戸への平和進駐と、江戸城の無血明け渡しの条件を話し合ったのである。-略-」

勝海舟の幕府離れ……。下「」引用。

「幕臣というよりも、「ハダカでほうり出されてもおれは食えるぜ」という自由人の自信から、海舟にとって徳川離れはそれほど無理なく、むしろ自然に出てくるものであったろう。」

負け組……。下「」引用。

「しかし勝組だけが歴史をつくったのではない。負組の人びとも、重要な一時期に日本の外交を担当して、いい意味にも、悪い意味にも、これを続く明治の時代に残したのである。歴史の担当者あるいは歴史の構成者としては、勝組も負組も平等に取り上げられねばならない。」

大久保一翁の幼名は金之助、のちに三市郎、忠寛。

「共鳴する坂本龍馬」 下「」引用。

「越中守のもう一通の慶永宛書簡には次のようである。
「去る二日、坂本龍馬を以て一封を呈し候。-略-」

勝と同様……。下「」引用。

「なお、大久保が坂本龍馬に初めて会ったとき、「刺し殺される覚悟」だったといっているのは、海舟と同じ経験をしたことになる。ただし、このころの龍馬は海舟の弟子になり、神戸の海軍操練所建設計画に加わっていたのだから、海舟の同志の大久保を刺す気などは全然なかったのである。」

「第六章 左遷、復活また左遷」
--これも勝海舟と似ている……。

勝海舟と嘆き合う。下「」引用。

「長州問題は悪いほうに悪いほうに進展していった。一翁の書簡が福井に届いた四日後に第二次長州戦争の火ぶたは切られてしまったし、七月二日には老中板倉勝静が兵庫でフランス公使に会って征長作戦を協議、軍艦購入の斡旋を依頼している。八月四日には勘定奉行の小栗上野介がクーレーと六百万ドルの借款契約を結んでいる。-略-一翁が寄合でくすぶっていた勝海舟を訪ねて、二人で半日嘆き合ったというのも、時局の逆行を予想してのことである。海舟は間もなく五月に軍艦奉行再勤となり、やがて八月に長州藩との講和の密使の大役を果たし、新しい活動の地を得る。」

新海軍総裁・矢田堀鴻……。









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