『由利公正のすべて』
三上一夫、舟沢茂樹・編/新人物往来社2001年
由利公正は東京府知事だったという……。下「」引用。
「由利公正は明治四年七月の廃藩置県後の同月二十三日、東京府知事(四代)に任命された。-略-
「火事と喧嘩は江戸の華」のことばのとおり、江戸では毎年のように大火事が起こったが、由利は近代日本の首都としては、抜本的な都市改造が必要だと考えた。そして、街路を思い切って広くすること、不燃性の煉瓦建築にするなど大がかりな不燃性都市計画を提案した。」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/55/be4eff19056d02ed6782a8028be1f890.jpg)
「初代福井市長へのメッセージ」 下「」引用。
「-略-通常「祝詞」といえば、相手の人物をほめたたえ、通り一遍の祝意を示すのが普通であるが、由利の場合は、市政の公共性を真剣に訴えることに終始している。こうした政治理念こそ、かれが幕末の藩政にかかわったときからの持論であり、とりもなおさず、横井小楠の「大いなる言路を開き天下と公共の政をなせ」(「国是七条」)の趣旨をふまえた「公議輿論」尊重の福井藩論でもあったわけである。」
「五か条の誓文」 下「」引用。
「実は、慶応四年(一八六八)三月十四日、維新政府が公表した「五か条の誓文」こそは、国政の基本方針を明らかにした歴史的宣言書であったが、その最初の草案ともいえるものが、由利により作成されたのは周知のとおりである。これは、まさしく福井藩論を憲章化したものといえる。」
反対派・大隈重信など……。下「」引用。
「実は由利財政を厳しく批判し、かれの失脚をはかった張本人である大隈重信はじめ、井上馨・伊藤博文・江藤新平らとは、とりわけ意見の折り合いがつかなかったといわれる。-略-」
小楠からの最大の遺産。下「」引用。
「師・横井小楠から由利公正が受け継いだ最大の遺産は、人間社会の基本となる「誠」であり、経済活動の基本が「労働」であるという視点、換言すれば「単純明快な自然的自由な体系」であった。その端緒は、横井小楠が諸国のおり、越前を訪れた嘉永四年(一八五一)に始まる。-略-」
労働価値論が正しかった証拠。下「」引用。
「では、由利の構想した労働価値論による産業政策、財政政策は間違っていたのか。そうではあるまい。横井小楠から伝授された労働価値論は間違っていなかった。それが証拠には、由利は新政府を離れた後も同じ方法によって、越前経済の建て直しをやっている。由利は繰り返し「金の本は人間が拵へる」、「金というものは人間が造る」と強調しているところをみれば、生産、労働価値説に依拠していたかがわかろう。「金よりも代呂物が大切である。代呂物よりも働く腕が大切」であると強調してやまなかった。きちんと本質を見抜いていた。」
由利を失った近代日本の財政。下「」引用。
「由利を失った近代日本の財政は、その後、どう展開したであろうか。大隈財政を経て松方財政に至ると、武を備える方向性が打ち出されていく。十分に産業が確立されていないのにもかかわらず、強兵への道を歩むことになる。横井小楠がもっともおそれた武の方へ傾いていった。そのための財政が急がれた。ここには「庶民を子とする政教」はない。国家財政が高い地代でまかなわれ、農村は荒廃していく。重税路線が施され、悲劇の道を歩む。横井小楠、由利公正の目指した国家建設、儒教的理想国家からは想像もつかない方向に歩みだしてしまった。」
「由利公正と坂本龍馬」木村幸比古・著。
坂本龍馬と会談の旅館「たばこや(莨屋)」の碑がたっているようだ。
もくじ
目次
もくじ
もくじ
もくじ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/a3/e613b97310a05d2d2bddbc190c039a5e.jpg)
![エンタメ@BlogRanking](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/82/10459564eb8bf00cc912545b0fc6b3e0.jpg)
三上一夫、舟沢茂樹・編/新人物往来社2001年
由利公正は東京府知事だったという……。下「」引用。
「由利公正は明治四年七月の廃藩置県後の同月二十三日、東京府知事(四代)に任命された。-略-
「火事と喧嘩は江戸の華」のことばのとおり、江戸では毎年のように大火事が起こったが、由利は近代日本の首都としては、抜本的な都市改造が必要だと考えた。そして、街路を思い切って広くすること、不燃性の煉瓦建築にするなど大がかりな不燃性都市計画を提案した。」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/55/be4eff19056d02ed6782a8028be1f890.jpg)
「初代福井市長へのメッセージ」 下「」引用。
「-略-通常「祝詞」といえば、相手の人物をほめたたえ、通り一遍の祝意を示すのが普通であるが、由利の場合は、市政の公共性を真剣に訴えることに終始している。こうした政治理念こそ、かれが幕末の藩政にかかわったときからの持論であり、とりもなおさず、横井小楠の「大いなる言路を開き天下と公共の政をなせ」(「国是七条」)の趣旨をふまえた「公議輿論」尊重の福井藩論でもあったわけである。」
「五か条の誓文」 下「」引用。
「実は、慶応四年(一八六八)三月十四日、維新政府が公表した「五か条の誓文」こそは、国政の基本方針を明らかにした歴史的宣言書であったが、その最初の草案ともいえるものが、由利により作成されたのは周知のとおりである。これは、まさしく福井藩論を憲章化したものといえる。」
反対派・大隈重信など……。下「」引用。
「実は由利財政を厳しく批判し、かれの失脚をはかった張本人である大隈重信はじめ、井上馨・伊藤博文・江藤新平らとは、とりわけ意見の折り合いがつかなかったといわれる。-略-」
小楠からの最大の遺産。下「」引用。
「師・横井小楠から由利公正が受け継いだ最大の遺産は、人間社会の基本となる「誠」であり、経済活動の基本が「労働」であるという視点、換言すれば「単純明快な自然的自由な体系」であった。その端緒は、横井小楠が諸国のおり、越前を訪れた嘉永四年(一八五一)に始まる。-略-」
労働価値論が正しかった証拠。下「」引用。
「では、由利の構想した労働価値論による産業政策、財政政策は間違っていたのか。そうではあるまい。横井小楠から伝授された労働価値論は間違っていなかった。それが証拠には、由利は新政府を離れた後も同じ方法によって、越前経済の建て直しをやっている。由利は繰り返し「金の本は人間が拵へる」、「金というものは人間が造る」と強調しているところをみれば、生産、労働価値説に依拠していたかがわかろう。「金よりも代呂物が大切である。代呂物よりも働く腕が大切」であると強調してやまなかった。きちんと本質を見抜いていた。」
由利を失った近代日本の財政。下「」引用。
「由利を失った近代日本の財政は、その後、どう展開したであろうか。大隈財政を経て松方財政に至ると、武を備える方向性が打ち出されていく。十分に産業が確立されていないのにもかかわらず、強兵への道を歩むことになる。横井小楠がもっともおそれた武の方へ傾いていった。そのための財政が急がれた。ここには「庶民を子とする政教」はない。国家財政が高い地代でまかなわれ、農村は荒廃していく。重税路線が施され、悲劇の道を歩む。横井小楠、由利公正の目指した国家建設、儒教的理想国家からは想像もつかない方向に歩みだしてしまった。」
「由利公正と坂本龍馬」木村幸比古・著。
坂本龍馬と会談の旅館「たばこや(莨屋)」の碑がたっているようだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/50/fc4d42489c8635970a16038cc414d9de.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/d5/5ed134fe7b422e80803860cafa1e14f1.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/20/e15df50dab458eb0b20c071f25283890.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/9a/0fa2ff1835226ec9206eee62b0a700f3.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/79/6f7c8afe69f28aaf14a5027d3c29630f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/a3/e613b97310a05d2d2bddbc190c039a5e.jpg)
![エンタメ@BlogRanking](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/82/10459564eb8bf00cc912545b0fc6b3e0.jpg)