『敗者の贈物-国策慰安婦をめぐる占領下秘史-』
ドウス昌代・著/講談社1979年
戦中、天理教が慰安所運営に名乗りをあげたという……。
戦中に京都で軟禁されていたドーン神父……。
戦中、天理教が慰安施設を運営。下「」引用。
「服部という航空隊長から、鹿児島県警察部長に、それまで何回となく慰安施設の要請が出されていた。しかし、内務省がそんなことに手を貸す訳にはいかない、と断られ続けてきた。
坂は、赴任して間もなく、この話を聞いて、「かわいそうだ、飛行機に乗ってそのまま死ぬかも知れない若者を、ぜひ男にしてやりたい」と思った。早速、自分が先頭に立って慰安所作りを計画する。
鹿屋の町長に掛け合い、郊外にあった町所有の一万坪の土地を提供させると、周囲を樹木で囲い、その敷地内に、五十軒の家を建てさせた。広いダンスホールを作り、そこでビールを飲みダンスをさせ、気が合えば別室という、インスタント恋愛の型をねらった。
また、町の各宗派の仏教のお坊さんを集め、その運営をやってもらいたいと申し入れる。実費だけで経営し、あとはすべて娼妓に与えるというのが坂の案である。驚いた町の宗教家たちは、そろって尻ごみした。
やがて、やってみましょうと申し出たのは、天理教だけであった。しかし、天理教だけに任せる訳にもいかず、結局は、町長が業者を集めてやらせた。」
もくじ
Index
--大和撫子を守れと京都の神父のもとへ。
朝日新聞社の新垣秀雄は、小石川のカトリック教会本部へ。下「」引用。
「秘書課長の志村辰也神父は、
「パトリック・バーン神父が京都に残っています。あの方が一番適任でしょう」
と言った。-略-宮本記者は、バーン神父係の若い刑事の自転車の後に乗って、鴨川の堤防沿いに、下鴨にあった神父宅へ向う。町には人影もない。-略-バーン神父は強制疎開はさせられず、戦時中の三年八カ月、軟禁状態にあった。といっていも定期的にこの若い刑事が訪れる程度だったらしい。刑事は、バーン神父に心服していた。それが宮本を感動させた。-略-」
バーン神父はラジオで呼びかけた。下「」引用。
「欲八月十八日、神父は、まず日本人への談話を発表する。「連合軍は今次大戦の終結に際し汚点をもって歴史の一頁を刻むようなことは出来ない」ことを、日本人に知らせようとした。
「もしそんなことが起きたら、必ず、土井大司教、ローマ使節閣下を通じて電報で、ローマ法王国に報告し、バチカンはそれを全世界に報告するはずだ。大勢入ってくるアメリカの新聞記者たちも、それを紙面にするに違いない」
「米兵を鬼畜のように、恐れてくださるな。しかしまた、ゆめゆめ気を許してくださるな。異なった人種は些細なことでも異なったもののとり方があるものだ」(「朝日新聞」八月十九日付)。神父は、進駐後はマッカーサー元帥に必ず会って、日本人の今日の危惧を伝えることを約束した。
また、同日夕方、バーン神父は、内幸町のNHK海外局で、日本上陸を待っている数十万のアメリカ艦隊に、マイクを通して呼びかけた。「MY SONS(息子たちよ)、勇敢によく闘ってくれた」と始まる、五分ほどの力強いスピーチであった。」
米軍の日本の女性観? 下「」引用。
「日本娘を「ムース」と呼んだ。「これはムスメから来ているが、ここでは狩りの一番の獲物は娘だから、まったく当を得た呼び名といえる」(『Time of Fallen Blossoms』)。なぜなら、英語でムースとは、鹿の一種なのである。」
しかし、日本の男子よりやさしかったという。
RAAの募集広告について書かれてあった。
職もなく家もなくRAAへ。下「」引用。
「その後も毎日、看板を見て事務所の幸楽にやって来る女性は引きも切らなかった。それに、ズブの素人女性がまざり出すのは九月末からである。学業途中で挺身隊員として徴用され、女子軍需工場で働いていた若い女性が多かった。終戦と同時に国は彼女たちを解放したが、家を焼かれ肉親を失った多くの女性は、帰りたくとも帰る家がない。解放と同時に直面したのが飢えである。
働きたくとも職のない時、衣食住が保証されたRAAの評判を聞いて、彼女たちはダンサーやウェイトレスを志願してきた。中流のごく普通の娘が多かった。」
脱走罪と威す……。下「」引用。
「この時のMPの態度は非情に荒々しく、腕を無理やりに引っぱり、そのために上衣の一部を破かれさえ致しました。交番には日本の警官が五、六人居ました。私たちは組員証、社員証、身分証明書等を提示して、全力を尽くして、真面目な働く女性であることを主張したのです。けれども、警官は頑として聞き入れてくれないのです。『逃げれば脱走罪だぞ(中略)』と威すのです」(昭和二十一年十一月二十八日付被害者Nのマッカーサー元帥宛抗議文)」
山田耕作の姉は矯風会……。下「」引用。
「諸省からそれぞれ予算が出て、「転落婦人保護厚生施設」が設けられる。二十七年までに、全国で十七カ所、そのような施設が作られている。矯風会の慈愛寮は、二十二年四月にガントレット恒子によって組織された。彼女は一橋大の英語教師を何十年も続けた英国人エドワード・ガントレットの夫人である。音楽家の山田耕筰はその弟に当たる。」
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もくじ
ドウス昌代・著/講談社1979年
戦中、天理教が慰安所運営に名乗りをあげたという……。
戦中に京都で軟禁されていたドーン神父……。
戦中、天理教が慰安施設を運営。下「」引用。
「服部という航空隊長から、鹿児島県警察部長に、それまで何回となく慰安施設の要請が出されていた。しかし、内務省がそんなことに手を貸す訳にはいかない、と断られ続けてきた。
坂は、赴任して間もなく、この話を聞いて、「かわいそうだ、飛行機に乗ってそのまま死ぬかも知れない若者を、ぜひ男にしてやりたい」と思った。早速、自分が先頭に立って慰安所作りを計画する。
鹿屋の町長に掛け合い、郊外にあった町所有の一万坪の土地を提供させると、周囲を樹木で囲い、その敷地内に、五十軒の家を建てさせた。広いダンスホールを作り、そこでビールを飲みダンスをさせ、気が合えば別室という、インスタント恋愛の型をねらった。
また、町の各宗派の仏教のお坊さんを集め、その運営をやってもらいたいと申し入れる。実費だけで経営し、あとはすべて娼妓に与えるというのが坂の案である。驚いた町の宗教家たちは、そろって尻ごみした。
やがて、やってみましょうと申し出たのは、天理教だけであった。しかし、天理教だけに任せる訳にもいかず、結局は、町長が業者を集めてやらせた。」
もくじ
Index
--大和撫子を守れと京都の神父のもとへ。
朝日新聞社の新垣秀雄は、小石川のカトリック教会本部へ。下「」引用。
「秘書課長の志村辰也神父は、
「パトリック・バーン神父が京都に残っています。あの方が一番適任でしょう」
と言った。-略-宮本記者は、バーン神父係の若い刑事の自転車の後に乗って、鴨川の堤防沿いに、下鴨にあった神父宅へ向う。町には人影もない。-略-バーン神父は強制疎開はさせられず、戦時中の三年八カ月、軟禁状態にあった。といっていも定期的にこの若い刑事が訪れる程度だったらしい。刑事は、バーン神父に心服していた。それが宮本を感動させた。-略-」
バーン神父はラジオで呼びかけた。下「」引用。
「欲八月十八日、神父は、まず日本人への談話を発表する。「連合軍は今次大戦の終結に際し汚点をもって歴史の一頁を刻むようなことは出来ない」ことを、日本人に知らせようとした。
「もしそんなことが起きたら、必ず、土井大司教、ローマ使節閣下を通じて電報で、ローマ法王国に報告し、バチカンはそれを全世界に報告するはずだ。大勢入ってくるアメリカの新聞記者たちも、それを紙面にするに違いない」
「米兵を鬼畜のように、恐れてくださるな。しかしまた、ゆめゆめ気を許してくださるな。異なった人種は些細なことでも異なったもののとり方があるものだ」(「朝日新聞」八月十九日付)。神父は、進駐後はマッカーサー元帥に必ず会って、日本人の今日の危惧を伝えることを約束した。
また、同日夕方、バーン神父は、内幸町のNHK海外局で、日本上陸を待っている数十万のアメリカ艦隊に、マイクを通して呼びかけた。「MY SONS(息子たちよ)、勇敢によく闘ってくれた」と始まる、五分ほどの力強いスピーチであった。」
米軍の日本の女性観? 下「」引用。
「日本娘を「ムース」と呼んだ。「これはムスメから来ているが、ここでは狩りの一番の獲物は娘だから、まったく当を得た呼び名といえる」(『Time of Fallen Blossoms』)。なぜなら、英語でムースとは、鹿の一種なのである。」
しかし、日本の男子よりやさしかったという。
RAAの募集広告について書かれてあった。
職もなく家もなくRAAへ。下「」引用。
「その後も毎日、看板を見て事務所の幸楽にやって来る女性は引きも切らなかった。それに、ズブの素人女性がまざり出すのは九月末からである。学業途中で挺身隊員として徴用され、女子軍需工場で働いていた若い女性が多かった。終戦と同時に国は彼女たちを解放したが、家を焼かれ肉親を失った多くの女性は、帰りたくとも帰る家がない。解放と同時に直面したのが飢えである。
働きたくとも職のない時、衣食住が保証されたRAAの評判を聞いて、彼女たちはダンサーやウェイトレスを志願してきた。中流のごく普通の娘が多かった。」
脱走罪と威す……。下「」引用。
「この時のMPの態度は非情に荒々しく、腕を無理やりに引っぱり、そのために上衣の一部を破かれさえ致しました。交番には日本の警官が五、六人居ました。私たちは組員証、社員証、身分証明書等を提示して、全力を尽くして、真面目な働く女性であることを主張したのです。けれども、警官は頑として聞き入れてくれないのです。『逃げれば脱走罪だぞ(中略)』と威すのです」(昭和二十一年十一月二十八日付被害者Nのマッカーサー元帥宛抗議文)」
山田耕作の姉は矯風会……。下「」引用。
「諸省からそれぞれ予算が出て、「転落婦人保護厚生施設」が設けられる。二十七年までに、全国で十七カ所、そのような施設が作られている。矯風会の慈愛寮は、二十二年四月にガントレット恒子によって組織された。彼女は一橋大の英語教師を何十年も続けた英国人エドワード・ガントレットの夫人である。音楽家の山田耕筰はその弟に当たる。」
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