磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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世紀を超えて 爆心復元運動とヒロシマの思想

2006年08月13日 | 読書日記など
『世紀を超えて 爆心復元運動とヒロシマの思想』
   児玉克哉・編/中国新聞社1995年

広島の原爆を語るとき、大切なことがいくつかあると想います。
この本は多くの本には書かれていない大切なことが書かれてあったと思います。
多くの人は読んでもわからないかもしれませんが……。



帯にこう書かれてあります。下「」引用。

「爆心地復元は「ヒロシマのこころ」の証(あかし)である。原点広島が核時代に証言者として生き続けるには、時代と国境を越えて普遍的に生き続けるメッセージが不可欠である。冷戦構造の崩壊の今、「ヒロシマの思想」の新たな視点を探る。」


「平和公園」は昔は公演ではなくって、
繁華街で、庶民の日常の生活がいとなまれていたという。

広島の「原体験」とは何か? あれほどの爆弾は多くの分野を欠落させてしまったともいえるのではないでしょうか? 下「」引用。

「多くの分野が欠落したままに時が過ぎた。原爆の悲劇から二四年。「ノーモア・ヒロシマズ」の声は絶え間なく世界に向かって発せられ、またこの国は「世界唯一の被爆国」であり、時にはその体験の欠落を指摘し、「原体験に還れ」と叫ばれても来た。それにしても、「原爆によっていった何人のひとが、どこで亡くなったのか。広島にはどんな人がどこで、どんな生活を営んでいたのか…」
 これら素朴な実態さえもわれわれは残念ながら、広島の被爆の原点は依然として空白を残していた。」


人口についても正確なところはわからないという。
ボクが子どものころには、米穀通帳などいうものがあり、
「配給米」という言葉さえあった。
今の若い人から見れば、まだ戦争中だったの?
と言われそうだが、私は戦後生れです。

「米穀配給登録人口」は過小評価されているという。
1944年2月の「人口調査」では34万3048人。
それから疎開計画によって流出した人口、
学童2万3500人、一般市民の疎開はわからないという。
ほぼ、29万人前後と考えられるという。

軒先で炸裂したという表現は的を得ていると思う。下「」引用。

「復元地図を見ると改めて、「原爆がヒロシマに落ちたのではなく、そこに住んでいたひとりひとりの寿司屋の、八百屋の、うどん屋の平凡な市民の軒先で炸裂した」という事実が再確認できた。」


ドキュメンタリー『爆心地半径五○○メートル』という番組があり、多くの反響があったという。

栗原貞子の「ニッポン・ピロシマ(その一・一九七一年八月=『広島通信』)という鋭い詩が掲載されていました。

裏表紙には四国五郎の絵「元安橋東詰から中島本町」がありました。





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