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軍艦奉行木村摂津守-近代海軍誕生の陰の立役者-

2010年05月16日 | 読書日記など
『軍艦奉行木村摂津守-近代海軍誕生の陰の立役者- 中公新書1174』
   土居良三・著/中央公論社1994年

表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。

「浜御殿で生れ育ち、若くして幾多の要職を勤めた木村喜毅は、長崎代表取締並海軍伝習取扱になったことが契機となって軍艦奉行となり、その後も幕府の海軍建設に貢献した。咸臨丸のアメリカ航海では司令官として、また遣米使節副使として優れた外交能力を発揮した。明治政府になっても、その人格・経歴に対する評価は高く、在野から日本の近代海軍建設に力を尽くした。本書は、木村の行動の軌跡をたどりながら、幕末日本の諸相を描く。」



著者の曽祖父(長尾幸作)が福沢諭吉とともに木村摂津守の従者となり咸臨丸に乗ったという。

画期的な長崎海軍伝習所。下「」引用。

「幕臣すなわち直参(じきさん)と、大名の家来すなわち陪臣とが同じ場所で教育を受け、生活をともにするということは、当時の幕藩身分制度の下にあっては画期的のことであった。これも永井の英断といわれている。」

「伝習所の実情」 下「」引用。

「木村が専任取締となった当時、伝習所にはオランダ海軍のペルス・ライケン中佐以下二二名の教師団と、多数の生徒がいた。
 まず幕府からは勝麟太郎以下三五名、緒藩からは、佐賀の四八名を筆頭に、薩摩一六名、福岡二八名、萩(長州)一五名、熊本五名、津一二名、福山四名といった人数である。
 この他、通詞や長崎の地場役人数十名が参加していた。幕府第一期生のうちほとんどは永井とともに観光丸に乗組みすでに帰府していた-略-」

「通訳万次郎乗船の根廻し」 下「」引用。

「まず万次郎を通訳に起用することは、木村は初めから考えていて、老中に申し出ていた。しかし万次郎はアメリカで教育を受けた人間だから、アメリカに有利な通訳をするのではないか、といつも疑われる注意人物であったため、いったん却下されたのを再度上申した。-略-」

「辞任、就任の繰り返し」
--勝海舟や大久保一翁だけではないようですね……。

幕臣は39歳病気引退の形で終わり、再び世にでることはなかったが「海軍」との縁は続いたという。

「海軍一家」 下「」引用。

「-略-隠居して芥舟と号してのちは、木村は再び世に出ることなく七二年の生涯を追えた。-略-
 芥舟には成人した二男二女があり、男子のうち浩吉は本職の海軍軍人に、次子の駿吉は東京帝国大学理学部において数学を専攻、アメリカの留学後、無線電信の研究に興味を持ったのが縁で、海軍技師として船舶用無線の実用化に成功、これが日本海海戦完勝の一因となった。
 次女清(せい)(清子とも)も海軍軍人に嫁し、木村家は海軍一家と称してよい状況となった。」

「妙」と勝・福沢を評した木村。下「」引用。

「福沢がこの勧告書を公表する前に予め木村を介して、勝及び榎本に見て貰った。
 勝はこれを見てカラカラと笑って、「天下の福沢先生がこんなにまで勝のことを気にしておられることを知って、おれもそんなに豪いものかと解ったヨ」といった。そのことを木村から聞いた福沢は、「だから勝はもっとやっつけてやりたいのだ」と憤慨したという。
 あり得る話で、福沢は最後の最後まで勝を「やっつけてやりた」かったのである。」

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