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昭和史の原点2 満州事変と十月事件

2010年10月11日 | 読書日記など
『昭和史の原点2 満州事変と十月事件
   中野雅夫・著/講談社1973年

今まで聞いたこともないことが書かれてあるのでは?
多くの人たちにとって……。



表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。

「「十五年戦争」への導火線、「満州事変」と「十月事件」の真相
■昭和六年(一九三一)九月十八日夜半に勃発した「満州事変」は、その後の日本の歴史を「十五年戦争」へと導く導火線であった。「三月事件」(『昭和史の原点1』)に挫折した橋本欣次郎・大川周明ら国家改造派は、新たな結束を固めつつ、つぎなる国家改造クーデターの機会をうかがう。
■時あたかも、満州をめぐる情勢はにかわに切迫し、その利権をめぐる日中、日ソの矛盾・対立は激化する。解決策をもち得ない無策な政府、苦慮する関東軍、ここに空前の規模の国際的謀略が企てられた。高級参謀板垣征四郎・石原莞爾らの智将に、資金を握る藤田勇、さらに国内にあって支援する橋本欣次郎らの暗躍は、ついに柳条溝の銃声から「十五年戦争」への幕を切って落とす。
■狼狽する政府は、「事変」の不拡大を勅命のもとに決定する。煮えきらぬ政府の処置にいらだつ橋本ら「桜会」を中心とする国家改造派は、ふたたび武力クーデターを計画、歩兵二十三箇連隊をもって、財閥・重臣・政党・政府機関を一瞬にして殺戮撲滅すべく着々と手をうつも、密告者のために発覚、またも破綻する。世にいう「十月事件」である。本書は、この二つの事件の真相を、新たな資料と関係者の証言等を加えて克明に描き出し、あわせて中心人物、橋本欣次郎の『手記』を収載する。」

三月事件」 下「」引用。

「武力クーデターのひとつは六年三月、議会が流血の大混乱をおこして国民非難をあびているさなかに計画されたもので、「三月事件」といった。
「三月事件」について、天皇側近で最期の内大臣木戸幸一は、
「三月事件は闇から闇に葬られて現実の問題とならなかったが、われわれには大きな衝撃をあたえた事件であった。いわゆる軍の推進力が国内改革をめざし動きだした第一歩で、その後もっともわが国を悩まし、ついに今日の悲惨な状態をまねいた下剋上の顕著なあらわれで、もっとも注目すべき事件であった」
 と論評し、昭和動乱、戦争、敗戦、の原点はすべて「三月事件」にあったと指摘した。」

アメリカ的史観によって歴史はねじまげられた。下「」引用。

「戦後、これらの緒事件は「ファシストの狂気の行動」ときめつけられ、戦争をするために体制が企てた「偽装革命」であるとの評価がくだされた。評価の出所はアメリカが主催した極東軍事法廷であった。ここから戦後昭和史のひとつの歪みを持ちはじめ、アメリカ的史観、あるいはソ連的史観が登場して、真実が蔽いかくされ、真の戦争責任はあいまいもことなった。」

三井戦争推進に……。下「」引用。

「これら緒事件で、衝撃をうけたのは国民ではなく、前記木戸論評に見るように体制側であった。「十月事件」のあと、三井財閥の池田成彬は軍首脳に、
「革命をふせぐには戦争で国民の気分を転換さすより方法はない」
 と主張し、自らも十二年の近衛文麿内閣に大蔵大臣として入閣し、戦争を推進した。中国侵略戦争が本格化したさい、あまりの無謀さを憂慮した神田正種中将が、杉山元大本営参謀総長の秘書で、のちに第十一軍参謀長となり漢口にのいった青木重誠少将はその真意をただしたところ、
「国内に浸潤した革命機運と、『二・二六事件』後に軍内にうっせきした不満をそらすためには、戦争によらざるをえなかったのが一原因である」
 との答えをえたのは、その間の消息を物語っていた。」

「税金泥棒」 下「」引用。

「昭和六年(一九三一)当時、日本の軍隊は「税金泥棒」と呼ばれていた。税金泥棒とは、何ものを生産せず、国民の税金を無為徒食する人間のことを意味している。-略-」

ロシア革命の影響。下「」引用。

「大正から昭和にかけては、ロシア革命の影響があって、国民思想に社会主義・自由主義が浸透した。「搾取」「ブルジョア」「働かざる者は食うべからず」といった左翼用語が庶民の日常語となって、軍人は非生産的な帝国主義の尖兵としての非難を、もろにかぶったのである。」

政党内閣は誕生したが……。下「」引用。

「大正七年(一九一八)に、原敬が首相になったとき、陸軍海軍大臣をのぞく閣僚を政友会の党員で構成し、はじめて政党内閣をつくった。それまでの政権はす維新革命を成功させた薩長の藩閥が掌握した。政党はこれに屈従した。政党はこの苦い体験から藩閥と軍人の台頭をおさえるために護憲運動をはじめ、大正十三年(一九二四)六月、最期の藩閥清浦奎吾(けいご)内閣を倒して、軍備を縮小し、政党員の政務次官・参与を陸海軍省にいれて文官統制をねらった。これがほぼ成功し、軍の勢力は削減されて、軍は政党に頭をさげた。」

三井三菱と政党。下「」引用。

「政党はこの二大財閥に従属していた。明治三十三年(一九○○)九月、伊藤博文が政友会を結成すると、政治資金は三井に出してもらった。政友会は資本家地主を基盤にし、三井の中国における利権の拡大をはかり、もっとも保守的でもっとも軍国主義的であった。
 三菱は三井の政友会に対抗して、薩長閥と肥前の大隈重信が作った憲政本党を支持した。この党は憲政会となり、昭和二年(一九二七)六月に民政党となった。三菱は民政党を基盤に、一族から加藤高明・幣原喜重郎、関係者から山本達雄を政界にいれて、ときに自ら政権を掌握した。」

「目にあまる政治の腐敗」 下「」引用。

「政友会も民政党も今日の自由民主党の前身である。両党とも口をひらくと、「天下の公党」といったが、事実は三井・三菱の私党にすぎなかった。政党が私党となったとき、政治は腐敗、堕落せざるをえなかった。」

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汚職疑獄のあまりの多さに、国民憤激。下「」引用。

「こうして、財閥は肥え、政治家は腐敗し、社会的秩序が紊乱したが、その反面で国民大衆は困窮した。困窮のなかから抵抗が発生した。」

争議を指導した賀川豊彦。

娘を売る。下「」引用。

「農民は借金でがんじがらめにしばられた。このために利子の支払いに、娘を売春婦に売らざるをえなかったのである。震災のとき瓢箪池で死んだのはこの娘たちであった。」

「満州ゴロ」利用の関東軍の謀略計画。下「」引用。

「満州には「満州浪人」あるいは「満州ゴロ」略して「満ゴロ」と呼ばれる日本人が数百人いた。日本の社会は行き詰まって、前途の希望もなく立身出世の道もない。せめて満州に渡って一旗あげようとの意志で渡満したが、満州でも志を得ない連中であった。尋常ふつうの人間はいざという時には役に立たないが、「満ゴロ」は不平家だけに行動力があり命も惜しまない。この「満ゴロ」を関東軍特務機関が使って、事変を起こさす計画であった。
 計画は、「満ゴロ」に張学良の服装をさせ、武器弾薬を持たせ、日本の領事館・ホテル・学校・独立守備隊・満鉄線路・鉄橋等を攻撃爆破させ、あたかも張学良軍が先制攻撃を加えたように見せかけ、関東軍はやむをえず応戦した形にして、これを口実に開戦し、一挙に張学良軍を満州から一掃する。その費用五万円、今日の金で五千万円が必要であったのだ。」

日蓮宗の石原莞爾の構想……。下「」引用。

「神田は大正十四年(一九二五)秋にハルピンにいたが、そのときドイツから石原莞爾がシベリア鉄道で帰国した。神田はハルピン駅に出迎えに行ったが、驚いたことに、ハルピン駅前に五十人ほどの日蓮宗の信者が集まり、「南無妙法蓮華経」と書いたのぼりを立て、太鼓をたたいており、その周辺に三千人ほどの日本人が集まっていた、石原は羽織袴の和装で、列車からひょろひょろ降りてきた。お世辞にもどうどうたる姿勢ではないが、石原を迎えて日本人群衆は熱狂した。石原は日蓮宗の信者であった。-略-」

もくじ

ハウスホーファーと石原莞爾。下「」引用。

「石原はこの展望を法華経の大地震烈の予言で自信を深め、同時にベルリン滞在中に知ったドイツの治世学者ハウスホーファーの説で信念をかためた。ハウスホーファーは明治三十六年(一九○三)から四十三年(一九一○)まで日本に滞在し、アジアの地政史にくわしく、後にヒトラーのナチス外交顧問となったが、昭和二十一年(一九四六)に自殺した。ハウスホーファーはこういった。
「世界に雄飛できる民族の条件は、大陸に拠点を持つと同時に、海洋国家であることだ。ドイツはヨーロッパ大陸にあるが、海洋的拠点がなく、地政学的に前途はダメである。これに反して日本は太平洋にさらされて海洋的に満点で、しかも大陸に足がかりがあり、これを拡大して大陸的拠点を確立していけば世界に覇を唱えることができる」」

万歳と煽動……。下「」引用。

「板垣(*征四郎)にいわせれば、戦争に勝っている時は万歳、万歳と持ちあげて煽動し、負けると戦犯だと袋叩きにする。真の戦争責任者は他にいるが、その責任者までが涼しい顔で、戦犯だ、とさけんでいる。そういう虚偽の世間はごめんこうむって、真実の世界に早くいきたい、ということであろう。」

阿片密売のルートのことが書かれてあった。下「」引用。

「高田商会は三井・三菱にならぶ貿易商といわれましたが、実は経済不況の余波で内情は苦しくて倒産前にあります。そこで悪いことですが、再生をはかるたにインドから麻薬アヘンを一船仕入れて、上海で密売しようとしました。ところが上海には秘密結社青幇がいて、高田のアヘン船奪取を狙い、上海にはいれません。天津・大連もダメで、とうとう苦しまぎれに船をウラジオストックにいれました。ウラジオには高田の支店もあり、ほっとしたのですが、それもつかの間で、高田に反感を持つ『朝日新聞』の特派員がいて、秘密をかぎつけてゲ・ペ・ウに密告したので、船は積荷もろとも拿捕されました。外務省では手が出ませんし、ほとほと弱っていましたところ、あなたがヨッフェの新任厚く、モスクワまで同行されると聞きましたので、何とぞお助け願いたく、こうしてお願いに参りました」
 池田と高田は頭を畳につりつけ、男泣きに泣いて頼んだ。藤田は一応話をきいて、モスクワに行き、盛大な歓迎をうけた。帰途、ウラジオによると、自治政府主席アンドリャノフと、ゲ・ペ・ウ長官カルペンコが招待宴をひらいた。そのとき藤田はカルペンコに、
「あなたが拿捕した高田の船を、積荷もろともわたしに払いさげてくれませんか、拿捕したものは返却不可能でしょうが、しかし適当な価格で払いさげることは可能でしょう。あの船があると、日本の労働者が助かります」
 藤田はロシアの泣き所をついて交渉した。通訳は戦後、ソ連大使館の日本語教師となる大日本水産会の竹村浩吉であった。通訳はうまかった。この交渉が成功し、藤田は高田の船はを積荷もろとも、五十万円で払いさげてもらった。高田商会は狂喜した。高田は麻薬アヘンを別船につみかえ、上海にいれた。さすがの青幇も気がつかず、密売は成功して高田は八百万円の利益をあげた。藤田は謝礼に五十万円の手形を書いたが、三十万円が現金化し、あとは不渡りになった。高田商会は一時たち直り、数千万の従業員と家族が救われたが、このような方法は一時しのぎで、しょせん時代の荒浪はのりきれず、やがて倒産した。」

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板垣征四郎は、橋本虎之助少将などを「瀋陽館」に軟禁した。

ウクライナ住民はヒトラーに味方したのと同様に……。下「」引用。

「この情勢は昭和十六年六月二十二日、ヒトラーのドイツ軍がソ連に侵入したとき、スターリンの官僚統制は不満を持っていたウクライナ住民が、ヒトラーに味方したのに似ている。
 恐るべきは悪政だ。国民は生活が苦しいと、現状を打開してくれる政権にとびつく。それがファッシズムであろうと、国民は理論的には取捨選択する余裕はない。
「満州事変」が短期間で目的を達したのは、張学良の傘下にいた地方政権が、関東軍に寝返ったのが、有力な一原因で合った。
 九月二十七日、板垣征四郎は、奉天政府から押収した塩税二十万円を河本大作に送金した。革命資金があり、「満州事変」を支持さすための世論工作費であった。橋本から、謀略費の援助をうけた謝礼の意味もあった。-略-」

靖国神社での葬儀。下「」引用。

「次の旬日の後、中村大尉の葬儀盛大に靖国神社に於て施行せられる。他の一般将校は一般葬儀と考へあるに過ぎざりしも、桜会の連中は此葬儀を以て国民亢奮を極度に高調に達せしめ、以て将来の工作に資せんと考へ、桜会員、其所に集まり血書を持て「忠義魂を弔ふ」の大弔旗を記す。葬儀に於ける異彩たり。」

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