磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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夏雲(改訂版)広島女学院原爆被災誌

2008年02月14日 | 読書日記など
『夏雲(改訂版)広島女学院原爆被災誌』
   広島女学院教職員組合平和教育委員会・編/
     広島女学院教職員組合1973年、1980年改訂第二版

学校の関係者でつくられたようです。
学生さんだけでなく、父兄の方も文章をよせられています。



戦時下の国民として、靖国神社に詣でた、孤児・八巻春夫君の写真が掲載されていました。

戦時中は生徒も勤労奉仕や学徒動員にかり出されたことが書かれてありました。

奉安殿のことが書かれてありました。下「」引用。

「ミッション・スクールにも、御真影(天皇の写真)が安置されねばならないようになったのが、昭和十一年秋で、最初は、階下玄関応接室にコンクリートの土台を設けて安置されてあったが、間もなくある方面から文句が出た。靴で踏む階上会議室の下では、不敬であろうぞという批難である。そこで、階上会議室を出入り禁止としてそこに柵をめぐらして奉安したが、それでもあれこれデマが飛ぶので、父兄会は拠金をして玄関正面の庭に数万円を投じ、奉安庫を新設した。それからこの騒動も幕となった。」


学校での被爆状況や、動員先での被爆が書かれてありました。

それぞれの思い出、体験談が書かれてありました。下「」引用。

「私の前にお友達の一人が茫(ぼう)然と立っていて、あとの二人の姿はなく、オカッパの髪の毛は一本一本逆立ちをして上を向いていました。着ているブラウス、もんぺのうしろはボロボロ、肩にかけた防空頭巾(きん)の綿入れに火がついてくすぶっていました。」

校章は竹製だったという。金属は兵器をつくるために、拠出された時代ですから、それにかわるものとして、竹が使用されたのでしょうね。

生徒の母がかかれているところでは、合掌して念仏と書かれてありました。

まるで、ドラマの一シーンのようなことが書かれてありました。下「」引用。

「近くの赤十字病院に赴き、その一室に共に横臥した。泣きむせぶ生徒たちを制して、かねて学院の礼拝で歌い慣れたさんびかを、次々に合唱した。歌うほどに、ひとりふたりと次々に息が絶えて行き、終には、合唱がぱったりと絶えてしまった。いわば、彼らは歌唱しつつ天つ御国へ召されて行ったのであった。その次第を終始見守っていた他被爆者たちが、ああ、さすがに女学院の生徒さん方は、ちがいますね。美しい最期でした、と口々に言い合っていた。」

当時はクリスチャンは「非国民だ」「スパイだ」「女学院はスパイの巣だ」と官憲たちににらまれていたそうです。

会費も会則もない「折鶴の会」と書かれてありましたが、河本夫妻の努力によって成立していたと他の本では書かれてありました。冬の日に、ビラをつくるための紙代を工面するために、質屋に布団を入れたことが書かれてありました。その後、河本さんは、女学院の用務員として勤務されたというのも何かの文献で読みました。


この本を原作に劇がつくられたそうです。

夏雲は忘れない 上演 朗読サークル「ブルースカイ」









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