磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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消えたペン-新聞労働者の8月6日-

2008年06月24日 | 読書日記など
『消えたペン-新聞労働者の8月6日-』
   中国新聞労働組合・編/汐文社1988年

戦争責任を本当に考えられたのでしょうか?
--ボクには疑問のまま残りました。
本当に考えてくれていたら、『原発安全神話』『原発経済神話』も誰も信じなかっただろうし、今もマスコミはいい加減な対応しているボクは思います。



碑があるという。下「」引用。

「広島の平和公園から、本川に沿って少し南に下ったとろこに、高さ一メートルほどの小さな碑が立っている。中国新聞労働組合が被爆四十周年に当たる一九八五年八月六日に建立した「不戦 原爆犠牲新聞労働者の碑」。私たちはこの碑に、無念の死を強制された先輩たちを追悼し、戦争のためには二度とペンやカメラを持たず輪転機を回さない誓いを込めた。ピース(平和)の頭文字Pをかたどった碑の形は、見ようによつては大本営発表をそのまま報道し国民に大きな惨禍をもたらした過ちを詫びて深く頭を垂れているようにも見える。」

「まず兵隊」と……。下「」引用。

「家の近くが逓信病院だったので治療を頼むと、「まず兵隊」と断られる。」

--やはり、軍部は一県一紙にし、コントロールしやすくした……。
芸備日日新聞に勤め、昭和十一年合併により中国新聞社に。
芸備新聞が廃刊になる時最期まで残ったそうだ。芸備新聞から中国新聞にはかなりの人が入ったようだが定かではないという。

その体制が今も続いてるのではないでしょうか……。

戦中は生徒のことを学徒などと呼んだそうですが、新聞社でも、工務局文選課などというのがあったようです。

アカといわれるので、軍隊へ。下「」引用。

「利さんは東大文学部新聞学科を卒業した。-略-編集部時代は古本屋に行っては山ほど買い込んでいたという。-略-「帝大を出ていて受けないのはアカだ」と言われ、仕方なく受けたという。
「試験に通り、豊橋で訓練を受けましたが、坊ちゃん育ちだったこともあってこたえたようで、『もう一度豊橋に行けと言われたら死んだ方がましだ』といっていました」

「はだしのゲン」みたいなことはあったようですね。ゲンの兄は入隊しましたね……。

〈座談会〉で語られています。下「」引用。

「G 遺族の取材はしなかったが、みんなが書いた文章を感じるのは、マスコミの戦争責任だ。当時の中国新聞でも軍人が編集局長だったように、マスコミが権力に近づきすぎ追随するようになった結果として、戦争があり、多くの犠牲者が出たことは否めない。新聞の最大の使命は、戦争を憎み、平和に貢献することだろうと思う。手前みそになるが、「不戦」という碑の名前はその意味でたいへんよかったと思う。これは世界に誇っていいんじゃないか。OBも喜んでくれている。」

「戦争責任」というのなら、きちんと誰にどのような責任があったか?
または、このようなひどい報道をしないシステムづくりをすることが、本当の責務だったのではないでしょうか?

そんなこともせず、イメージだけ感情だけ沸騰させていたとしたら……。
現状のままでしょうね……。

--「不戦」とは、権力とは闘わないということなら、戦後も続けられていますね。

「p」という文字の碑も、長い物には巻かれろというのを表現しているようにさえ思えます。


だけど、その他の新聞社よりも、平和に貢献されてきた中国新聞社というこは、誰も否定できないと思います。

でも、満足からはほど遠いのではないでしょうか?








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