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林竹二著作集5 開国をめぐって

2010年01月15日 | 読書日記など
『林竹二著作集5 開国をめぐって』
   林竹二・著/筑摩書房1984年

図書館の説明文。下「」引用。

「阿部正弘と島津斉彬、そして寺島宗則 共和政治を構想した横井小楠 幕政改革と「共和」政治運動 授業「開国」 沖縄での授業「開国」にたどりつくまで もう一つの授業「開国」 歴史教育について」



「一 阿倍正弘と開国問題」 下「」引用。

「日本と限らず近世の歴史において阿倍正弘ほど困難な課題を一身に背負って生きた政治家はなかっただろう。彼は日本が二百二十年におよぶ鎖国--しかもそれは、産業改革がおこなわれ進行した時期をふくんでいる--から抜け出すという手のつけようもない難事業の第一段階において、しかも幕府という本来徳川一家の政府にすぎない政治の組織の中で、国政の責任者としてこの仕事に取組むことを強いられたのである。-略-」

「四 医師ポンペの条約論」 下「」引用。

「医師ポンペは、オランダ政府が日本に派遣した第二次海軍教育班の一員として、安政四(一八五七)年八月に来日、長崎海軍伝習所で日本人の教育に当っていた人だ。井伊体制下の安政六年に伝習所が廃されたあと医学校を開いて、文久(一八六二)年九月まで日本に滞在した。だから彼は安政条約の調印とそれにつづいた日本の国を挙げての激動と擾乱の目撃者である。--アメリカは四隻の軍艦で日本を脅かし、つづいて無理に条約を結ばせた。だが日本の開国にたいしてそれはどういう意味をもったのか。
 条約によって名誉あることは一つも成就されなかった。--これがポンペの結論であった。「それはただ殺人、抗議、威喝を誘い出し、鹿児島と長門の砲撃事件を惹きおこした。条約は友好関係を生まなかった。しかも私は恐れる、悲劇はまだ終っていない」。彼はある一国が他国に対し、その国の法律を破壊し血なまぐさい内乱に追い込んでまで通商条約を結ばせる権利はあるのだろうかと問いかけるのである。-略-」

「六 咸臨丸の鹿児島訪問」 下「」引用。

「安政五年三月十五日、練習航海中の長崎海軍伝習所所属の幕府軍艦咸臨丸は、薩摩領の山川港に入って、たまたま指宿の別宅に滞在中の薩摩藩主島津斉彬の訪問をうけた。この寄港は、艦長役としてこの船に乗り組んでいた勝麟太郎の配慮によるもので、勿論ポンペも、カッテンディーケも乗艦していた。-略-」

目次

咸臨丸は……。下「」引用。

「オランダ人たちは、斉彬のすすめで、このあと鹿児島にゆき、砲台や工場を視察したのち、また山川港に入った(三月十七日)。斉彬は再びこれを訪れ「殆ど終日艦内に止まった」(ポンペ)。咸臨丸は斉彬が見た最初の本格的な蒸気船であった。」

「第II章 共和政治を構想した横井小楠」 下「」引用。

「-略-小楠の構想における共和政治は、列藩と幕府との、また、幕と朝との「共和」政治を意味した。そのかぎりで公武合体路線に属しているが、これはしかし、覇府並びに徳川一家の政府としての幕府の、徹底的な自己否定を前提としていた。それは将軍の政権返上を前提している点で倒幕を伴わない平和的な政体変革の思想と運動であった。天下の公議の行われる場は、また幕政の私の否定の場として機能を付与される。-略-」

もくじ

慶喜の裏切りで、小楠は諸藩連合の力にたよる道を選んだという。

実現のチャンスはあったという……。下「」引用。

「勝と西郷会談ののち、いわゆる「共和」政治のための機会は三度到来した。第一の機会は、この会談からちょうど一年後の慶應元年九月に英・米・仏・蘭四国の艦隊が実際に摂海へ進入してきた時である。第二の機会は、慶應二年七月に将軍家茂が死去し、慶喜が徳川宗家を継ぎはしたが、将軍職を継ぐことを拒否していた五カ月間である。第三の、そして最期の機会は、慶應三月五日に、兵庫開港と長州処分問題をめぐって、京都に四侯会議が成立した時であった。」







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