磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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『閃光は消えず 被爆者聞き書き』&『続 閃光は消えず 被爆者聞き書き』

2007年12月27日 | 読書日記など
複数の被爆者からの聞き書きです。

『閃光は消えず 被爆者聞き書き』
   松岡克昌・編/勁草出版サービスセンター1990年


主婦たちの活動からはじまった原水禁の署名は三千二百万も集まったという。下「」引用。

「昭和二十九年三月一日、アメリカは南太平洋のビキニ環礁で水爆実験を強行しました。これによって日本の漁船福竜丸が被爆し、広島、長崎に続く三度目の被爆でした。
 これを契機として東京杉並区の主婦たちによる原水爆禁止の署名が始まり、被爆へのうっ積した怒りの声は燎原の火のように全国へ拡がります。約一年間で三千二百万もの署名が集まり、この民衆の声は昭和三十年の第一回原水爆禁止世界大会へと盛り上がります。」

原爆二世の死。下「」引用。 

「原爆二世という問題は、どうしても私の頭へひっかかっていますねえ。息子が昭和五十六年に1週間ほど入院しとってねえ、急に原因がわからんまま死んだ。医者も病名をつけにくいよう、小首をかしげるような病気でねえ。-略-医者は研究してみると云うて、内臓物なんかを岡大へ送ったんですがねえ。結局うやむやです。」

検査で衝撃を受けたという。下「」引用。

「福山で被爆者の定期検診があった。たいぎがる彼を無理やり行かせた。白血球が四千ほど、その他には異状はないと云われた。しかしそのとき一緒に検診を受けて、白血球がほぼ同じ位だった人が間もなく死んだ。彼の受けた衝撃は強かった。」

大病したことのある人は、少しは気持ちがわかるでしょう……。
ボクもわかります。

上の妹は名取りで、小網町で自前の店をもった芸妓だったという。
手伝うことになる姉。しかし、それも戦争で終わる。下「」引用。

「戦争がひどくなって、もうお酒もなんもない配給制になってな、それに芸妓は廃止になるしこれじゃあ商売はできん 、ここへおってもしょうがないむけえ云うて、いちおう私は戻って来たんです。」

海田市国民学校の全教室から廊下から土間、校舎の軒下まで被爆者でいっぱいだったそうです。



『続 閃光は消えず 被爆者聞き書き』
   松岡克昌・編/勁草出版サービスセンター1991年

横川駅で勤務していた女性。下「」引用。

「当時は横川駅で勤務していたんです。女性も運転できるというのでどうせ徴用で軍需工場へ行くよりもと思ってね。学校を卒業して同級生と一緒に就職したんですよ。
 あの日ちょうど点呼中だった。毎日八時から点呼だったんです。ピカッと光って、誰かが悲鳴をうあげたのを聞いてそのまま意識不明になった。どのくらい経ったか分からない、気がついたときには駅舎がペシャンコになっていた。下敷きになっとった。幸い火災にはならず、火傷もしなかった。」

雷が怖いと、『父と暮らせば』の主人公のような方もおられるようです。下「」引用。

「いまでも雷が怖いんですよ。
 光っとたんにね、押し入れへ入って布団を被るんです。家族の者は笑うんですよ。
 でも光が怖いんです。」

でも、もちろんお笑い話ではありませんよね。
--苦しいPTSDですよね……。
家族も理解してあげてほしいものです。

若い軍医はこまっていたという。下「」引用。

「軍医は若かったし火傷の手当の仕方が分らん、三名もいたのにどうしてええのか分らんから患者の衛生兵に教えてもろう始末です。」

「あとがき」では当時の湾岸戦争のことが書かれてありました。下「」引用。
「特筆すべきことは、この湾岸戦争中に米国指導部内で、イラクが化学兵器を使用した場合には、核兵器使用もあり得ることを示唆したことでした。
 そして更に、米国による広島への原爆投下決定は正しかったと、広島、長崎の原爆投下を正当化する発言さえしました。」

きちんと聞かれたら、アメリカにとってもよかっただろうにとボクは思います……。

--一部の金もうけをしている人たちを除いてですが……。








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