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昭和史の発掘 知識人・言論弾圧の記録

2009年03月02日 | 読書日記など
『昭和史の発掘 知識人・言論弾圧の記録』
   黒田秀俊・著/白石書店1976年

戦犯作家などと火野葦平は呼ばれていたようです……。
--火野が、広島へいったとき、非難されたのも、そのことですね……。



■目次・主なものだけ■
第一部 日中戦争下の知識人・言論弾圧の状況
 第一章 「事変」という名の戦争  7
 第二章 南京陥落と虐殺事件  39
 第三章 不羈の権力  84
 第四章 抵抗の言論  109
第二部 昭和非文学時代おぼえ書
 第五章 「事変」と国策文学の氾濫  179
 第六章 「新体制」と文壇の再編  199
 第七章 太平洋戦争下の文学と文学者  230
あとがき  269


「大本営」……。下「」引用。

「国民政府が重慶遷都の宣言をしたのは、南京攻防戦にさきだつ十一月二十日のことであった。おなじ日、日本では大本営が設置された。
 西園寺公は、「大本営は、軍人ばかりでは非常に危険だ。首相や外相の参加が前提条件だ」と秘書の原田熊雄男に念をおしたという。その直後、山本(五十六)海軍次官は、「海軍としては大本営の必要をみとめないが、狭い意味で海陸共同作戦の指導部ということなら反対しない。首相などをくわえると、それをロボットにしてファッショ政治の手段につかうことになるから絶対にいけない」と語ったそうである。
 両者の意見は、一見食いちがうようにみえるが、陸軍が大本営の名にかくれてファッショ政治を推進しようとするのではないかという危険を憂慮している点でまったくおなじである。」

「野戦郵便旗」……。下「」引用。

「南京大虐殺の歴史的事実について、同時代資料のみあたらないことを理由に、あたかもそれが「まぼろし」の事件であるかのようにいう人もあるが、さいきん、野戦郵便局長としてこの戦争に従軍した佐々木元勝氏の「野戦病院旗」が復刻された。「本書はこれまで、まったく公開されたことのない私家版『野戦郵便旗』(ガリ版印刷で、昭和十三年当時十四組作成され、現在完全な形で保存されているのは二組)を定本として、昭和十六年、日本公演通信社から発行された同題の単行本を参考にした」と著者はことわっている。まぎれもなく同時代資料である。」

調べてみれば、記録は残っていることは、他の事でもよくあることだろう……。

新聞共同会社案……。下「」引用。

「正力氏の案じたとおり、一県一紙主義はとにかく、全国の新聞を合同させて一会社とする新聞共同会社案なるものがはっきりその正体をあらわしたのである。-略-要するに、日本全国の新聞社を一株式会社に統合してしまおうという乱暴きわまる案であった。読売社史は、「端的にいえば、新聞社のとりつぶし案で、奥村と古野の合作であることは一目りょう然である」と書いている。」

自らの儲けにならないことには、抵抗したようだ!

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漫才禁止! 下「」引用。

「時局下、健全娯楽が叫ばれているさい、漫才喜劇などに内容低俗なものが横行しているとして、警視庁では、昨年技芸者に許可制度が実施されて以来発の出演禁止行政処分をおこなった。すなわち、三月、喜劇俳優高野朗、漫才東ヤジロー、キタハチ三氏に出演禁止処分をいいわたした。」

「いじめ」につながるような、理性のないお笑いは、せめて地上波からはなくしていただきたいと思うが……。

七三一部隊の石井……。下「」引用。

「ついでに付記しておくと、石井四郎は、敗戦のどさくさに、基地を破壊し、単身飛行機で内地に逃げ帰った。三千名をこえる生体実験や三たびにおよぶ細菌戦の責任者として、石井は、当然、重戦犯として処刑される資格をそなえていた。が、彼は、天才的細菌兵器の創始者として米軍の庇護のもとにおかれ、昭和二十八年(一九五三年)までペンタゴンのために細菌兵器の研究に従事した。そして昭和二十九年(一九五四年)、東京飯田町の日本医大病院において喉頭ガンのために死亡した。細菌学界の権威として、会葬者は千人にもおよんだという。昭和二十九年(一九五四年)といえば、あたかもビキニ事件の起った年で、日本国民は、この地上から原水爆のような残虐な兵器をなくすために大大的な署名運動をくりひろげた年であった。
「石井の天才性は、ペスト菌の繁殖のためにのみ、ノミを大量(数キログラムである)に利用したという点にあるのではなく、ノミの特性に着目し、ノミそのものを兵器化したことで遺憾なく発揮されている」と島村喬氏は評している。石井はたしかに天才であったかもしれぬ。しかし、その天才は、非常に残念なことに平和とか、人類の幸福とかいう方向とはまったく逆の方向に傾けられた。偏るものは進むほど偏るのである。」

--国策文学
「火野葦平氏の登場」下「」引用。

「当時、応召の伍長として中国戦線にあった火野葦平(本名、玉井勝則)氏は、十三年(一九三八年)四月下旬、現地の杭州において、文藝春秋社派遣の小林秀雄氏から、第六回(昭和十二年下半期)芥川賞を伝達された。-略-」

「南京虐殺の目撃者」
--誰が敵かわからない日本軍。かたっぱしから殺していく。
便衣隊が一般人に変装して潜んでいるからだという。
唐先生が兵隊じゃない者といった者は、殺されずにすんだという。
そして、唐先生のところに、群衆が集合したという……。

「あとがき」にこう書かれてある……。下「」引用。

「かねがねわたしは、敗戦前に総合雑誌の編集者として体験した言論弾圧の事実を、せめてメモ風にでも書きとめておきたいとおもった。平和憲法下のこんにちでは想像もできないようなひどい取締りがおこなわれたからである。-略-
 ところが、さきごろ、「南京大虐殺のまぼろし」という本を読むにおよび、この本の著者が、同時代資料のないことで、南京事件があったかどうかは疑わしい、あの事件はまぼろしではなかったかといっているのをみて、これはたいへんだとおもった。南京事件や細菌作戦のような非人道的な行為は、あのきびしい言論統制のもとで報道されようはずがない。これは著者があの当時の言論取締りの実情にくわしくないからだろうとおもった。これは何としてもあたらしい世代の人たちのために、自分の体験を書きとめておく必要があるとわたしなりに考えた。-略-」

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