磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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新潮文庫 憂鬱なる党派

2009年03月20日 | 読書日記など
この小説はややこしい……。下「」引用。
「長編小説『憂鬱なる党派』は一九六五年(昭和四十年)、河出書房新社より書き下ろし長篇小説叢書の第一回として刊行されたが、その原型は一九五九年(昭和三十四年)から翌一九六○年(昭和三十五年)にかけて、関西の同人誌「VIKING」に断続的に連載され、中断している。主人公西村が原爆の死者たちの記録をたずさえて広島から大阪に姿を現わすのは、ほぼ一九六○年(昭和三十五年)前後であり、かつその現在の時間のなかへ、彼が京都とおぼしき町で送った一九五○年(昭和二十五年)から一九五四年(昭和十九年)にかけての学生生活への回想が交錯している。そして、この学生生活の時期は、作者の学生生活とほぼ重なり、またハンガーストライキその他の事件も作者の直接的体験をある程度反映しているらしい。-略-またこの一九五五年(昭和三十年)には軍事路線を捨て「愛される共産党」への方針転換を決めた共産党の六全協、左派社会党と右派社会党の統一、更に保守合同による自民党の発足が続き五五年体制と呼ばれる現在の政治の枠組(わくぐ)みが成立した。-略-」

『新潮文庫 憂鬱なる党派 上』
   高橋和巳・著/新潮社1980年

ヒロシマに対するもの……。 下「」引用。

「なぜ、戦闘にみずから身を挺した兵士たちのことを考えず、真先に原爆の被害に目をつけたのかね。それを聴きたい。原爆が人類史の中でいまだかつてない残虐な兵器であり、その被爆体験がこの国だけのものとして世界の注目をあびているからか。それとも、何か君個人のやむにやまれぬ理由あってのことか。君は文筆によってでも記録を残さねば、すべては忘れられると言ったが、すでに少なからぬ記録や手記が公刊されているように思う。それは多く、完全なる被害者の立場から、つまりは、みずからをその戦闘全体にかかわりなく無垢(むく)の者とみなす架空の立場からかかれたと思うが、君はまさかその二番煎じをしたわけではなかろう。-略-」

そんな簡単に理解できるものではないのに、理解しているかのようだ。

それよりも、党利党派の効果的な運動なのか?


『新潮文庫 憂鬱なる党派 下』
   高橋和巳・著/新潮社1980年

被爆者のことかが書かれてある……。下「」引用。

「……僕は昔、原爆にやられて、頭が禿げたり、唇が二倍も腫れあがったり、頬にケロイドができたり、肌全体が鮫肌になったりした人々の文集を募(あつ)めてまわったことがありましたね。そうした人々の大半は胸に十字架もかけ、宗教に救いを求めて生きいましたけれども、やはり神はないのだといことをはっきり知っていました。少女のころに原爆にやられて、それ以来、いつも母の背中に顔をあてて町を歩いている女の人がいました。-略-小説を読んでいても美男美女が出てくると、それ以上つづきは読めなくなり、そして洗礼を受けたのだそうです。私は二時間ほど、目を伏せて話を聞いていましたけれど、私の感じでは、その人は神を結局信じていなかったようでした。ただ神があるかのように思いなおして、過去の悲しみや傷痕(きずあと)を、人類の善意を信ずることにすりかえようと努力していることが解りました。生涯、結婚できない、平凡な主婦の座ももつことのできない怨みを、社会への奉仕の観念でまぎらわしているのだと、自分でもはっきりと言っていました。神はないんですけどね、あるように思わねば、人にはやり切れないこともあるわけです」」

神を信仰している人たちも、全体主義の思想でみていく……。

科学のように信仰があるわけではないだろうに……。

その科学が何をもたらしたかも考えなていない著者……。

人間性よりもゲームが大切な感じがする……。

そして、そのゲームはますます、非人間的なものになっていく……。

宗教ですら、非人間的なものになっていく……。






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