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満州開拓民悲史-碑が、土塊が、語りかける-

2010年10月06日 | 読書日記など
『満州開拓民悲史-碑が、土塊が、語りかける-』
   高橋健男・著/批評社2008年

満州読書村と天白台中腹の慰霊碑。下「」引用。

「-略-読書村をはじめ近隣の村々では養蚕が唯一の収入源であった。それが、昭和初期の世界的な経済恐慌によって大きな痛手を受け、吾妻村は経済厚生村に、読書村は経済厚生規準村に指定された。農村経済厚生政策とは、一九三二(昭和七)年に始まった昭和恐慌下の農村の窮乏に対処する官主導、自力更生奨励型の経済政策であった。その特別助成事業の条件のひとつが満州移民の選出であった。
 読書村では「村の厚生は満州移民に依る」との村民の決議で、満州移民に踏み切った。一九三八(昭和一三)年七月に先遣隊が渡満し、翌年には本隊が旧三江省依蘭(いらん)県(後に樺川県)公心集に入植した。昭和一六年までに、当時六○○余戸の村から二二○戸、八五○余名が入植、近隣町村からの参加も得て満州読書分村が出来た。」

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秩父の谷奥に建つ二つの慰霊碑。
・荒川町清雲寺に拓霊芳魂塔が建つ。
・荒川村浅間神社脇の満州開拓殉難碑。

方正友好交流の会。下「」引用。

「広く知られているとはいえないが、日本国内に方正日本人公墓の維持支援をしてきた人たちがいる。「方正地区支援交流の会」がそれであり、現在は新たな再編された「方正友好交流の会」が帰国二世・三世も加わって、国内への周知、方正県人民政府への支援と交流などの活動を行なっている。
 「方正地区支援交流の会」会長・石井貫一(一九○八-二○○二)は新潟県佐渡市(旧佐渡郡佐和田町)出身、元自民党正調会調査役を務めていたが、二○○二年一○月、九四歳で死去した。石井貫一が主になってまとめた『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」』は彼の死後、二○○三年に「方正友好交流の会」が編集して出版した。また、石井貫一が中華人民共和国国家友誼奨受賞に輝いた記念誌『日本と中国 その底辺を翔けた70年』(二○○三)には石井貫一の業績とともに手記六篇が収められている。」

中国養父母に感謝の碑。

集団自決……(哈達河開拓団)。下「」引用。

「中央集団の約四○○人が麻山谷に到着したころ、先頭集団は行く手をソ連軍に阻まれ、圧倒的な火力の前に死者を多数出していた。混乱した情報の中で中央集団は自決を決意、実行された。男子約三七人で組織された「斬込決死隊」が、女・子供を“介錯”した。」

阿智村長岳寺境内、哈達河水子地蔵尊。

終戦後、日本人のソ連兵攻撃。下「」引用。

「八月二三日、ソ連機がビラをまいた。「戦争を終結した。日本人は外へ出なさい」という内容だった。翌二四日夕、ソ連軍偵察機一機が佐渡開拓団の近く、集落を囲む外壁から約五○○メートル離れた麦畑に不時着した。血気盛んな開拓団員一○余名が現場に駆けつけ、搭乗兵と撃ち合いとなった。団員一人が射殺された。激昂した団員が機体を焼き払った。このときはまだ誰も日本の敗戦を知らず、ソ連とまだ交戦中だと思っていたからだった。ソ連の飛行機を炎上させ、搭乗員を射殺したが、何人かを逃してしまった。
 ソ連機焼き打ち事件で、逃げた兵の通報によってソ連側の報復が必至とみた各開拓団代表は、会議を開いて対策を話し合った。「最後まで戦う」「いや潔く自決しよう」「すぐ逃げ出し、一人でも多く生きて」と議論は未明まで続いたが、結論は出なかった。ひとつの団の中でも意見が分かれた。その結果、選択した道の違いによってその後の運命に大きな違いが出た。」

ソ連軍の女性連行と報復戦2000名の住民が殺された。下「」引用。

「八月二六日、ソ連軍のトラック三台が白旗を掲げて進んできた。ソ連兵は女性を連行するときこうしたらしい。何回も同様の被害に遭っていた避難民は、だからそう判断した。決死を決めた開拓団側は、近づいてきたトラックめがけて軽機関銃を乱射、さらに手に手に鍬や銃を持って突っ込み、ソ連兵二○名を殺害した。これに激怒したソ連軍は、一二○○人の兵で一挙に開拓団を包囲、猛烈な砲撃を加えた。この惨事の模様を、元朝日新聞記者の菅原幸助(一九九九 : 二三二-二三三)が次のように伝える。-略-」

「斬り込み、その後自決した開拓団(高社郷開拓団)」

東京・浅草寺の「まんしゅう地蔵」。

東京・西多摩霊園の「中国帰国者之墓」。

道北に新潟県送出開拓団の慰霊碑。下「」引用。

「新潟県送出の第七次清和(せいわ)開拓団の「殉難者供養之碑」が道北の上川郡下川町に建つ。満州からの帰国後にこの地に入植した清和開拓団出身者たちが、満州の地に没した肉親・同胞の霊を慰めようと、一九七七(昭和五二)年、下川町渓和地区の高台に高さ約二メートル、幅約三・五メートルの供養碑が建立した。」

引揚港・葫蘆島。下「」引用。

「多くの満州開拓民、旧満州開拓民、旧満州在留邦人にとって忘れることのできない引揚げ出発の地、葫蘆(ころ)島は旧満州最南部、錦州(きんしゅう)省(現・遼寧省)錦西(きんせい)市の南に位置する。」

九州大学と京城大医学部チーム。下「」引用。

「敗戦からまだ三週間しか経っていない昭和二○年九月、厚生省から九州大学をはじめ国立大学医学部の産婦人科医師に内密の通知が出された。各引揚港ではこの極秘の指示により、引揚婦人に対するある“処置”、つまり胎児摘出がなされた。多いときには一日一○回も手術がなされたという。それは、今後発生することへの大きな懸念に対する国の“水際作戦”であった。
「満州でも北朝鮮でも、ソ連兵が日本の婦女子に暴行を加えている。ソ連兵だけではない。現地の満州人や朝鮮人の暴行事件も続発しているようだ」--国はこの情報を得ていた。これから急増する引揚者の中には暴行によって性病をうつされたり妊娠させられたりした女性が相当数いるに違いない。-略-」

九州大医学部。下「」引用。

「そこで「引揚女性については、老若を問わず、性病および妊娠の検診、性病患者は隔離治療、妊娠も隔離、極秘裏に中絶すべしとの密命がその他所在の大学産婦人科教室の代表者に下った」(「引揚港・博多を考える集い」編集委員会、一九九八 : 二六)という。これは九州大学医学部卒の天児都医師が九州大学の関与について調べた結果を一九九七年度の同窓会誌に掲載したものである。九州大学医学部では国立福岡療養所と国立佐賀療養所を手術の場とした。福岡療養所の性病・妊娠を含む患者五九四人は博多港から送られたが、佐賀療養所にはすべて佐世保港経由の人たちだった。それぞれ三○○から五○○症例ほどの手術が行われたという。
 九州大医学部からの担当医師たちには「人工中絶をしても法的に問題になることはない。厚生省の暗黙の了解があるので心配は要らない」と口頭で伝えられていた。-略-二日市保養所は昭和二二年秋に閉鎖されたが、「開所依頼一年半の間に堕胎手術を受けた女性は四、五○○人とも、それ以上ともいわれいてる」(飯山、一九七九 : 一)という。」

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元柏崎村開拓団家族。下「」引用。

「新潟県送出の元柏崎開拓団家族であった巻口シズは二○○六年六月、九二歳で亡くなった。子供たちを守るために中国人と結婚していたシズが帰国したのは一九七五(昭和五○)年、渡満から数えて三三年ぶり帰郷であった。-略-」








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