磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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続 きのこぐも

2008年08月21日 | 読書日記など
『続 きのこぐも』
  嘉屋文子・著/嘉屋文子1964年、1965年2版

検索してみると、著者はジュノー博士と救護活動されたと書かれてありました。
--いろいろな人が書かれた文章も掲載されています。



広島原爆病院長 重藤文夫が文章を寄せられています。下「」引用。

「後世のために
 嘉屋先生は、原爆当時広島県の医療関係に従事しておられた知友の方々の手記を集め、ご自身の体験記を加え、「きのこぐも」と題して、昨年自費出版せられた。そしてこれが読者に深い感銘を与えたことは、わたくしどもの記憶に新たなところである。
 このたび、さらに筆を改めて、その続編を発刊されるという。-略-
    昭和三十九年六月十五日」

弁護士 正木亮(原爆投下時、広島控訴院検事長)は書く。下「」引用。

「こう考えてくると、文化を生み出す欲よりも知恵よりも、文化を生かして、ほんとうに人間の宝とする何かが、もっともっと大事だといわざるを得ない。」

学徒動員のことも書かれてありました。下「」引用。

「当時、県学徒の保健衛生、栄養問題を心配しながら、広、呉工廠、日本製鋼所等、県下多数の軍需工場に生徒を動員した。これらの生徒は、はじめは勤労奉仕作業の名で工場で働き、戦争下の人間をつくるのが目的であったのであるが、動員になってからは、学業はおあずけとなり、軍用員となって、戦力増強のため軍の仕事をした。もとより賃金をもらったが、それはぜんぶお国のため預金した。そのころ、一般の人々の給料も現金はわずかで、ほとんど預金と報国債券でわたされた。各職域では報国大旗を作ってそれを立て、君が代を歌い、はちまき姿で働いた。
 学徒動員は、昭和十八、九年ころまでは、中学三、四、五年の高学年組であったが、敗戦の色がただよいはじめた十九年、二十年ころには、学校はぜんぶ休み、全生徒を寄宿舎に入れて働かされた。学業を捨て、将来の希望を捨て、一途に国のため、戦争に勝つため日夜働いた。こうした学徒は、悲しく原爆でぜんぶといっていいほど死亡し、戦争犠牲者となった。-略-死亡学徒は靖国神社に合祀され、冥福が祈られた。」

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都築教授のことも書かれてありました。下「」引用。

「東京大学医学部都築教授ほか二十余名は、十月十五日から十一月二十日まで、被災者の救護活動の指導をしてくださったが、その都築先生は過年、原爆症に多く発生する癌でなくなられた。まことにお気の毒なことで、いまから思うとこの研究のためではなかったかと、胸をしめつけられる思いでいっぱいである。」

物価の値上がりが今よりすごかった……。下「」引用。

「終戦前には、物価が値上がりし、牛肉百匁六十銭ぐらいのものが、密殺で分けるからと言われて十円でわけてもらい、それでも食べるものがないので、次にわけてもらった時には二十円にもなっていた。」

戦争で義足になった人。下「」引用。

「わたしは、十三年、当時二十四才で徐州攻撃に参加、両脚破片骨折をおこして病院に入院、そこで陥落を知って喜んだ。これで私の足も役に立ったと思って、うれし泣きに泣いたが、その後の調子が悪くて、母国に送られる船内で破傷風になり、高熱、食欲不振で死にかけた。-略-」

原爆の時、統計課は安芸女学校に疎開。
五日夜宿直。妻のもってきた弁当を食べている時、ピカッと光る。
--今まで身につけていた義足がなくなっていたという……。
--住み家けん統計課事務室をつくる。
にわとりが焼けた皮をペロペロ食べるので、にわとりを追ってくれと叫ぶ者がいたという。

嘉屋日米交流基金







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