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帰郷-満州建国大学朝鮮人学徒青春と戦争-

2010年10月04日 | 読書日記など
『帰郷-満州建国大学朝鮮人学徒青春と戦争-』
   前川惠司・著/三一書房2008年

帯に書かれてあります。下「」引用。

「「五族協和」「王道楽土」の満州国とは何だったのか?
歴史と国際政治に翻弄された朝鮮人学徒の生涯」



本書は……。下「」引用。

「本書は、今はなき傀儡国家、満州国に作られた最高学府、満州建国大学の朝鮮人学徒兵、呉昌禄(オチャンノク)さんが大日本帝国の崩壊とともにサハリン(日本時代は樺太)に置き去りにされ、半世紀を超えてようやく、祖国韓国への帰郷が実現するまでの物語である。-略-」

「満州建国大学」六十五万坪……。下「」引用。

「一九三二(昭七)年、中国東北部に出現した大日本帝国の傀儡国家(-略-)、満州帝国大学のスローガンは「王道楽土、五族(日本、満州、漢、朝鮮、ロシア)協和」だった。建国大学は、それを具現する最高唯一の帝国大学として、当時の満州帝国の首都新京(長春)郊外、約六十五万坪の広大な敷地に建学された。盛大な地鎮祭が行なわれたのは、開校から一年前の、一九三七(昭和十二)年五月だった。-略-」

難関校。下「」引用。

「建国大学を研究した宮沢理恵子さんの『建国大学と民族協和』(風間書房刊)によると、満州国国務総理を総長としたこの大学は、日本国内の応募生徒だけで二万人を超え、
「帝国軍関係校や旧制高校と同程度の難関校とみなされ、新聞の地方欄には合格者が掲載され、合格者を出すことは中学の名誉にれさた」
 と述べている。
 崇高な「理想」を掲げ、無惨な終焉で消えた建国大学の敷地には、農場はもちろんグライダー操縦訓練場までつくられていた。-略-」

成績表も期末試験もなく、討論が毎日あったという。

--「日本人だけが帰国の理由」国交がない……。

今も日本に外交なし……。下「」引用。

「エリート外交官の多くが、いまも鹿鳴館もどきの振る舞いを続けているに過ぎないことが良く分かったのは、田中真紀子元外相の「功績」だろうが、外交といえる外交がないことは、「日本国」となった今も変わらない気がする。」

日本軍の放火など「大正八年四月、英国大使館から本国への電報」。下「」引用。

「事件の直後に、英国総領事代理や米国の宣教師などがいち早く現場を訪れ、生々しい写真を撮り、村人からの聞き取りを済ましていた。
 英国大使館から本国への電報や欧米宣教師の聞き取り調査書などをまとめると、事件の概要はこうなる。
「この地域の市場で、市の立った日に何人かが独立を求める万歳を叫んだ。しばらくして中尉が率いた部隊がいきなり村にやってきた。訓戒をするからと、キリスト教、天道教の男子信者二十三人を教会に集めたのち、窓から一斉射撃した。息が残っている村人に銃剣でとどめを刺してた。灯油を死体にかけ火をつけ、周囲の民家にも放火した。教会から二人が逃げたが、一人は逃げきれず射殺された。また村の女性二人が射殺された。近隣の村でもキリスト教徒六人が殺された」」

--残虐なのは日本軍だけでない。下「」引用。

「ただし、こうしたグロステクさは、ただ大日本帝国とその軍隊だけが残した特異な事柄ではない。『朝鮮終戦の記録』に書き残されたソ連軍の行為。そして、朝鮮戦争。ベトナム戦争で米軍が解放村を焼き払った焦土作戦。そして、ベトナムの韓国軍、中近東……枚挙に尽きない。」

慰安婦は学校教育をほとんど受けていなかったが……。韓国の事情。下「」引用。

「彼女たち自身が隠してなかった。おばあちゃんたちの世代には学校教育を受けていなかった人が少なくなく、文字が読めない人が珍しくないのも事実だ。とはいえ、すでに指摘したように、「知」を重んずる韓国社会で、文章が読めないことをテレビカメラの前でさらすことによって受ける。嘲りを含んだ視線は日本社会の比ではない。極端にいえば、韓国社会は、貧しいことは「罪」であり、貧しさは教養のないこと、人間としての尊厳がないことと同じ意味合いまでひそんでいる社会だった。主催者から渡されていた「決議文」のコピーを目で追いながら、「おばあちゃん、辛いだろうな」と、暗い気分になった。」

韓国社会が腹をたてた反日感情……。下「」引用。

「韓国の普通の人々が従軍慰安婦問題で日本に腹をたてたのは、韓国社会にある「反日の情緒」が刺激されたからで、「過去を反省しない日本」という文脈のなかの反発だった。元従軍慰安婦だったと名乗るおばあちゃんたちへの同情は集まったが、人間としての怒りから共感した「反日」や韓国ナショナリズムの高揚とは縁遠かった気がする。終始、どこか冷たかった。韓国社会の伝統的な価値観の方が勝ったからだったろう、と思う。」

訴訟……。下「」引用。

「一九七五(昭和五十)年の暮れには、朴魯学(バクノハク)さんたちの帰還運動から、東京地裁での「樺太残留者帰還請求訴訟」が始まった。」









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