臥伯酖夢 ―50代男のブラジル生活記―

再びブラジルで生活を始めた50代男の日常を綴る。続・ブラジル酔夢譚

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小さな旅 ― バハ・ド・ピライ

2017-10-01 21:02:48 | Weblog
しばらく遠出をしていない。生活費を切り詰めねばならないので、余分な出費はなるべく控えたい。とはいえ、たまには旅をしたい。安上がりで、旅気分が味わえれば、場所はどこでもよい。リオ市街から100キロ離れた内陸部に、バハ・ド・ピライという町がある。19世紀から20世紀にかけて、鉄道交通の要所を担っていたが、今では足を向ける者も少なく、名勝で知られるでもないが、畜産業が盛んとの案内記に、何か美味しい肉が味わえるか、あるいは並肉でも美味しいと思わせる雰囲気が味わえればと期待して、午前8時半に家を出る。

歩きがけにちょうどバスが滑り込んできたので、駆け出した。降車ドアから、地元のスーパーで働く可憐な娘が降り立ち、目が合い、挨拶を交わす。きょう一日の扉が大きく開かれた。

バハ・ド・ピライに行く簡単な方法は、リオの長距離バスターミナルから高速バスを使えばよい。だが、それでは安く上がらない。だから一般の公共交通を使う。向かう先はセントラル・ド・ブラジル駅。セントラル・ステーションと言えば、思い当たる人も多いかもしれない。1998年に制作された同名の映画は、ブラジルの厳しい現実の中に通い合う人情を描いた名作である。この駅の開業は1858年、日本ではまだ鉄道が敷設される前に旅客営業を始めているのだ。かつてはサンパウロやベロリゾンテなど国内の主要都市に向かう乗客の出発地であったこの駅も、1990年代の長距離旅客営業の廃止により、リオの玄関口の地位を失った。

とはいえ、今でもリオ近郊都市へのアクセス機能は存分に果たしている。広壮な駅構内には売店がひしめき、多数の乗降客が往来する。13面あるプラットホームは横一線に並列し、目的地毎にホームが色分けされ、テレビモニターには種別、行先、発車までの残り時間が表示され、分かりやすい。大半の車両は冷房完備の新型車両だ。列車の出発まであと2分との表示を確認し、車両に沿ってホームを歩いていると、いきなりドアが閉まり出したので、あわてて両手でこじ開けて車内に潜り込んだ。

やれやれと思い、さあ出発と気持ちが弾んだのもつかの間、電車は駅構内から出るやいなや制動をかけて止まってしまった。そのまま3分経ち、5分経ち、ようやく電車は動き出し、ノロノロと進んでは止まり、進んでは止まって、最初の停車駅に息も絶え絶えに辿り着いた。まだこれから先、停車する駅は数珠のごとく連なるというのにである。

ふたつ目の駅、サッカー競技場で有名なマラカナンを出たあたりでようやく電車は走り方を思い出したか、快調に走り始めた、とはいえ最高速度は時速70キロ前後であろうか、日本の近郊型電車と比べると遅い。だが、リオでは高速で走る以前に、何事も無く走ることが第一であり、事故や列車妨害や信号故障、盗賊の襲撃等々に遭わないことをまず念頭に置く。まずは無事に着くこと、その次に、定刻らしき時刻に列車が目的地に着くことを願うという順序だ。列車の最高速度向上など、はるかに遠い先の話しである。

マラカナンで席はあらかた埋まるとともに、大小の荷物を担いだ物売りがどかどかと乗り込んできた。日本でいえばさしずめ車内販売といったところだが、彼等は至極賑やかに大声を張り上げながら通路を闊歩する。中には拡声器を用いて耳障りな声で売り歩く輩もいる。商品は何でもある。水、ビール、飴、スナック類、文房具、おもちゃ、たわし、化粧品等がたいてい市価よりも安い。炭火がおこった缶を車内に持ち込み、煎りたてのピーナッツを売り歩く者までいる。電車は地域の足としての機能の他に、沿線住民の買い物の場、そして生活の糧を得る職場として、人々の暮らしを日々支えている。

電車は適当に駅に停車しながら、ファヴェーラ群を抜け、住宅が密集するリオ北西部の平野を延々と走る。物売りはとっかえひっかえ乗り込み、その姿が途絶えることはない。いい加減乗りくたびれてきたあたりで、車窓に畑や荒れ地が現れ、地形に起伏が生じ、田舎の趣が色を帯びてきたところで、終点のジャペリ駅に着いた。

この駅でパラカンビ行きの電車に乗り換える。尿意を催し、トイレを探すが見当たらない。以前に使用した覚えがあるので清掃員に尋ねると、現在は使用不可で閉鎖しているとのこと。ブラジルではメンテナンスの不備か、狼藉者による破壊行為かによって、設備を導入してもやがて使えなくなるケースが多い。清掃員は私を気の毒に思ったか、線路脇に建つ小屋の裏で用を足せばよいと言う。ホームから作業員用の階段で線路に降り、小屋の裏へ回った。この国では規則外の融通が利くことによって、なんとか皆生きていられる。

ジャペリ駅で30分待ち、折り返しの電車に乗り継ぎ、15分ほど走って終着駅のパラカンビに着いた。鉄道の旅はここまでである。セントラル・ド・ブラジル駅から3時間かけて、70キロを走破し、支払った金額は4.2レアル(約150円)。この鉄道の運賃体系は、一駅乗っても全線乗り通しても同一運賃なので、貧乏旅行者にとってはまことに都合が良い。

ここからはバスの旅となる。市街地を抜けると坂道となり、バスはゆっくりと登ってゆく。山道に沿って農場の門が点在し、小集落に構える商店の母屋はこじんまりとしながらも落ち着きがある。リオ市街のせわしなさから遠く隔たったのどかさに、旅気分がこころを満たし始めた。

乗り換えのため、途中のメンデスという町で下車する。時刻は午後1時を回った頃で、腹が飯を求める時間である。ところが、平日にもかかわらず、バスターミナル周辺の店という店のシャッターが閉まっている。不思議に思い、訊ねてみると、今日はメンデスの町に由来する宗教的な記念日とかで、この町のみが祭日とのこと。旅人にとって、ラテンアメリカの小都市を祝祭日に旅することほどつまらないことはない。あらゆる店が閉まってしまうので、買い物や食事、町の雰囲気を味わうこともままならない。

所在なく、バスターミナルに佇んでいると、重厚なエンジン音の轟きと間欠的な汽笛の音が聞こえてきた。無人の道路に飛び出すと、視界の先には採土を運ぶ貨車がゆっくりと移動しており、やがて巨大なディーゼル機関車が3台連なって通過していった。ブラジルの貨物列車である。セハ・ド・マールという山脈を一気に登るため、強力な機関車の重連を必要とする。旅客列車は無い代わりに、長大な貨物列車がブラジルの鉄路の主役である。

バハ・ド・ピライに着いた時、すでに家を出てから6時間が経過していた。腹は空いていたが、時刻は2時を回り、主なレストランは閉まっているに違いない。慌てても仕方がないので、まずは市街を一回りしてみることにする。人口は10万近いだけあり、四方に広がる商店街は多くの人出で賑わっている。狭い道路に車が列を成す光景をたびたび目にするが、それは、行き違う際に顔見知りの運転手同士が長い挨拶を交わすために、後続車が先へ進めずに起こる渋滞である。ごちゃごちゃしながらも、のどかなものである。

市街地を隔てて川が流れ、川向うには山野が広がっている。ほとりに広場があり、飲食が楽しめるよう、売店とテーブルがある。ハンバーガーの類しかないが、景色が気に入ったので腰を下ろす。正面に見る橋の形に見覚えがある。中学の時分に友人と富山へ鉄道の撮影旅行に行ったが、高山本線の神通川橋梁がこの橋と同じ形状と思い至った。意図せずも細部まで妙に覚えているものだ。当時の、何でも吸収した記憶力に対し、現在の、語学や人の名前から、ご近所さんの顔かたちまでたちまち忘れてしまう記憶力との隔たりを思うに、どうやら自分がすでに過去の人間に思えてきた。

歳月人を待たず。やがては誰もが朽ち果てる定めである。それでも、生前の記憶や経験を未来に生きる子どもに伝え残せるならば、名残少なく次の時代を託すことができよう。私のような風来者に自分の歩んだ軌跡を伝える子などはいる由もない。ただ、せめて近しい他人のうちで、趣味でつながる同士同類の芽が育っていくならば、それはいくらか慰めになろう。鉄道ファンである、親友の息子の顔が思い浮かんだ。彼も鉄道の旅を通じて、いつまでも忘れ得ぬ情景を記憶の淵に積み留めるならば、それは楽しみだと思った。同類が昂じて私の生き方まで真似てしまっては困るのだが。

持参のペットボトルのカイピリーニャを嘗めながら市街を再び徘徊する。公園前の路地で、この商売では珍しい白人系のおばさんが焼く、串焼肉の屋台を見つけた。大振りの鶏肉をベーコンで巻いた串が目に付き、肉の産地としての期待が高まった。
「この町では畜産業が盛んと聞いていたんだけど、安く肉が買える市場はあるのかい」
「安く買うんだったらあそこを曲がった先にスーパーがあるよ」
「いや、スーパーじゃなくて、食肉市場のようなものはないのかい」
「そういうものはないねえ」
「何かお土産になるような特産品ってこの町にはあるかい」
「・・・・・」
ちょっと気が利いた人間なら、おらが町自慢をペラペラ始めるところだが、このおばさんは気が利かないのか、気乗りしないのか、それとも本当にこの町は何もないのか。
「この町は都会のように賑わっているねえ。でも、治安は大丈夫なんだろうね」
「いやあ、あんまり良くないねえ」
「不況なのかい」
「良くないねえ」
もうひとつ盛り上がらない。ボリュームのある一本を平らげたところで、おばさんと別れた。地元産の新鮮な鶏肉を賞味したので所期の目的を達成した、と自分を信じ込ませるまで多少時間がかかった。

空が暗くなり始めた。安スタンドバーに入ってさらに杯を重ねるには、この町はリオからやや離れ過ぎている。帰途に就くためターミナルに戻ると、乗るべきバスには長蛇の列があった。後尾に付き、ゆっくりとした進行に身を任せていると、突然、踏切が近くでけたたましく鳴り出した。はっとして、携帯を取り出し、列を離れ、踏切の傍に寄ると、大きな機関車が汽笛を鳴らしながら、ぬうと現れた。軽いエンジン音を響かせながら、ゆっくりと目の前を横切り、数両の工事用車両を牽引し、たちまち最後尾の車両が視界を通り過ぎ、遠ざかる後ろ姿が踏切を横断する人々と車に遮られた。100年以上前から、リオ、サンパウロ、ミナス各州への交通の要衝として鉄道と共に栄えたこの町は、旅客の往来は途絶えたとはいえ、今でも鉄道が町の風景に溶け込んでいるようであった。

帰路は道筋を変え、専用軌道バスBRTの始発地であるカンポ・グランデを目指すが、直通バスはなく、途中、どことも知れぬ場所で乗り換えなければならない。真っ暗な空の下に降り立つと、一本まっすぐに伸びる幹線道路の他には、街灯にぼんやりと照らされた道路沿いの家屋と、小さな停留所と、停留所の傍で店じまいをする数名の露店商の姿しか見えない。何だか、道路に連なる家屋の裏には荒涼たる原野が広がっているような気がした。

露店の脇に突っ立っている老人にどのバスに乗るべきかを尋ねると、暇で親切な老人は、単に説明するだけではなく、停留所の前でバスを一緒に見届けてくれた。待っている間、老人に、この町はいいところかい、と水を向けると、老人は嬉しそうに、「とってもいいところだよ」と答えた。

BRTの座席に腰かけ、イヤホンで音楽を聴きながら、ペットボトルに詰めた赤ワイン ‐ カイピリーニャはとっくに無くなっていた ‐ をちびりと呑みつつ今日の旅を終えようとしていた。隣には白い肌にスカーレットの唇の可愛い娘が座っていた。停留所が近づきバスがブレーキを掛けると、隣の娘は笑顔を向け、ジェスチャーを交えながら、私の胸に抱えたバッグのポケットからペットボトルが落ちそうだと教えてくれた。赤い液体が入ったそれがちょうど落ちかけた時にさっと拾い上げ、礼を言うと、彼女は立ち上がり、背を向けると、目の前で弾けるようなお尻をゆっくりと振りながらスカートの皺を伸ばし、それからドアに向かっていった。後姿を目で追いかけながら、ブラジルで生きる歓びが湧き上がった。
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去る者ども

2017-09-08 15:35:04 | Weblog
「ふざけるな、鍵を開けろ。ペーニャと約束したじゃないか。水はふたりで管理すると」
「あんたが夜中に入ってくるからわたしゃ強盗だと思ってびっくりするんだよ」
「じゃあ、夜中には入らないと約束するから鍵を開けろ」
「真夜中にガタガタ音を立てられて迷惑なんだよ」
「そっちだって真夜中に友達を連れ込んで騒いだことがあったじゃないか」
「鍵は渡さないよ。ここは私の家だ。入ろうとしたら警察を呼ぶよ」

ヒータが錠前を取り替えるという実力行使にでた原因は、私が深夜に給水を行ったことで、彼女を不快にさせたからだろう。だが、給水設備の変更で、もはや貯水の枯渇を心配して深夜に入る必要はない。全てが解決したと思われたとたん、彼女がかような意地の悪い行為をした真因は、彼女にとっていけ好かない人物である私が、かつては自分が独占していた空間に立ち入ることが、我慢ならなかったのではないか。

ヒータとしては、失ったプライベート空間を取り戻したつもりかもしれないが、私としては、正当な権利を剥奪された思いである。さっそくペーニャに連絡し、対処を求めた。ペーニャは憤慨したが、いかんせん居住地が隣州である。彼女は電話で近所のジャシアーラに仲裁を頼み、ヒータへの説得に当たらせた。ところが、ヒータと話したジャシアーラは、なんと私に対して、ここの住人の生活に合わせるべきだとか、すべての隣人と仲良くすべきだとか、筋違いな説得を始める始末であった。ペーニャの思惑では、ヒータと仲の良いジャシアーラに忠告を頼めば、ヒータも耳を傾けると思ったようだが、結局、仲が良いだけに、ジャシアーラはヒータの意見に説得されるという、考えてみれば当然の帰結であった。ならば、私に対して親切なアドリアーナに相談するよう持ちかけると、それはだめだと言う。なぜなら、かつて水の問題で両者は訴訟騒ぎを起こしたらしく、犬猿の仲である一方の相手に頼むわけにはいかないのであった。

しからば、ペーニャ自身が直接出向いて説得に当たってもらいたいが、彼女は仕事を理由に及び腰である。せめて私の正当性をはっきりさせようと、彼女に私の権利を認める旨、SNSにしたためるよう頼んだが、それすら彼女は言葉を濁してメッセージに残そうとしない。ヒータの入居時に何か約束してしまったので、問題がこじれることを恐れたのだろうか。私はペーニャに対しても深く失望した。

こんなトラブル続きの家などさっさと出ていくべきだという思いは常に念頭にあったが、それではまるでヒータの意地悪に屈してこそこそ逃げ出したようで、腹の虫が収まらない。それに、すぐに出て行ってしまえば、入居時にペーニャに渡した敷金2ヶ月分はおそらく戻ってこない。たとえ退去の原因が私にはないと言い張ってみたところで、退去日の2ヶ月前に通知しなければならないという取り決めを盾に、敷金の返還を拒むことは火を見るより明らかであった。

もはや徹底抗戦するしかない。私はヒータと顔を合わせるたびに、「鍵を返せ!」と強く要求した。「ふん!」と彼女はあしらうが、やがて根負けしてきたのか、「そのうち時期が来たら返してやるよ」と言うようになった。

3月のある日、彼女はペーニャに連絡するので私の携帯電話を貸してほしいと頼んできた。驚喜すべきことに、彼女がここから引っ越すと言うのだ。私も傍らで彼女とペーニャとの会話を聞いた。ところが、どうも話がこじれ始めた。即刻の退去を望むヒータは敷金の返還を求め、それをペーニャは拒んでいるようだ。ペーニャが折れないとみたヒータは、「ああ、そうかい。じゃ、私は5月までここにいるよ。でも、鍵は決してあの日本人に渡さないからね!」と、私との件を質に取ってきた。なりふり構わぬ物言いを恥と思わぬ者と暮らさねばならぬ今の境遇に心底うんざりした。

ヒータはたたみかけるように攻勢をかけてきた。私の部屋にある据え置き式の物干し台を自分のものにすると言うのだ。これは前の住人の持ち物なので、自分がその者から買い取るつもりだから、話しがついたら持って行くなどと、こんな一方的な話しもあるものかとペーニャに問うと、もはや彼女は面倒事に怖気づいたらしく、あれは自分のものだが、欲しいならあげてもよいとの返事である。このままではヒータの言うなりになってしまう。 

11年前に知人の紹介で知り合ったジョアンは、当時は法学部の生徒だったが、今では出世して裁判官になっている。彼は日本への留学経験があり、今でも大の日本びいきで、日本語の勉強も続けており、私も彼の勉強を手伝ったりする仲だ。そんな彼に、ファベーラ内のつまらない揉めごとを持ち出すつもりはなかったが、私も腹に据えかねた。彼に電話をかけ、ヒータとの経緯をぶちまけた。彼は、私の貯水槽へアクセスする権利が法律的に認められると答え、物干し台についても、私の入居時の条件から、私が使用する権利を有するということを教えてくれた。

ジョアンは訴訟に至る手続きまで説明してくれた。無論私は訴訟を起こすつもりはなかったが、ヒータの横暴を許さないためには、法律知識とある程度の本気度を見せつける必要があった。ジョアンは滔々と私に説明する。私は内容を覚えるために、訴訟書類の名前を電話口で繰り返した。次に顔を合わせた時には、彼女の傲慢な鼻っ柱をポキリと折ってやるつもりであった。

翌日、ヒータが私を呼ぶ声がするので、ドアを開けると、玄関前に立つ彼女は、指につまんだ鍵をちらつかせながら、「これを渡すからコピーしな」と言い、鍵を私に手渡した。思いがけない彼女の行動に、「ありがとう」以外にヒータに声を掛ける言葉が思い付かなかった。2ヶ月半にも及んだ不毛な争いは、憑き物がぽろりと落ちたがごとく、唐突に終戦を迎えた。

ヒータは5月に去って行った。去り際に物干し台をねだったので、渡してやった。今では屋上の物干し場を使えるので、据え置き式のそれは必要がなくなったからだ。後になって顧みるに、ヒータが鍵を渡した理由は、私がジョアンと連絡を取ったあの時、私たちの会話が彼女に聞こえていたのかもしれない。そして、私が訴訟書類の名を連呼していたのを聞くに及び、これはまずいと思ったのかもしれない。厚顔無恥で強引な手段を取る手合いであっても、金銭的損失が身辺に及ぶとなると、とたんに尻込みするものである。ジョアンとの声高な会話が、図らずもヒータの急所を突いていたのかもしれない。

ヒータの後、まもなく若夫婦が越してきた。彼等の入居の際には、貯水槽の取り扱いについて了承を得ているので、夫婦とは良好な関係を保つことができた。しかし、ヒータとの一件の後、私はペーニャに対してわだかまりが残っていた。かつては友人であったが、もはや彼女を信用できなくなっていた。

ある日停電が起こり、その原因は建物と屋外の電柱を繋ぐケーブルの破損にあった。彼女がその修理費を私に求めたことで、この老朽化した建物ではこの先何が起こるか分からず、その際に生じるであろう彼女との揉めごとを懸念した。私は彼女にこの家を出ることを伝えた。

8月13日、よく晴れた日曜日に新居に移った。同じ地区のファベーラながら、川の上流に面した緑の中の家で、小川のせせらぎが聞こえる他は人の声もまばらな閑静な環境である。山峡の清水から引かれた水道は飲用に適し、ベランダから眺める川面には魚影が映え、水鳥が遊び、まるで山荘のたたずまいだ。上階には大家である老夫婦が住み、新たな居住者となった私を温かく歓迎してくれる。徒歩6分の移動で別世界に移ったようだ。

今では、ヒータとの確執は過ぎ去った奇禍として風化の過程を辿っている。ペーニャには、今後問題が起こることのないよう、私が壊したいくつかの食器を弁償し、また、「立つ鳥跡を濁さず」で、ブラジルでは習慣のない部屋の大掃除を行ってから退去した。それは、『ペーニャへの礼』というよりは、ペーニャに『日本人の振る舞い』を見せつけようという意地からである。ヒータのような行状の輩とは一線を画す意味を込めてである。そしてそれは、ペーニャに分かってもらおうというよりは、自分自身に、ヒータ達と同じ生活環境にあっても、精神までは断じて同じではない、同じようにはならないという自尊心を想い出させるためだったかもしれない。
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ヒータ

2017-07-03 05:01:58 | Weblog
日本に住んでいると、電気、ガス、水道といった生活インフラは整備されているのが当たり前で、空気の如き存在なので気に留めることはない。ところがファベーラではこの常識が覆される。

夜間、突然目の前が暗くなる。「ああ~」という嘆息が周囲八方から合唱となって集落の空を包む。恒例の停電である。いつ復旧するのかは神のみぞ知る。1分で戻ることもあれば、2時間後になることもあり、半日かかることもありうる。大雨が降る日は、落雷などで停電の確率はさらに高くなる。日本では落雷により送電回路が遮断されても、バイパスが整備されているので停電が回避されることが多いが、インフラが弱いこの国では被害が住民に直接降りかかる。リオは亜熱帯地域なので落雷の頻度は高い。ある大雨の日に起こった停電は復旧にまる一日かかった。原因は、集落内の電柱が落雷でへし折られてしまい、電柱ごと取り替える作業が生じたからだ。自然の猛威にリオの住民は防戦一方だ。

もちろんファベーラには都市ガスなどという便利な代物は無く、小型のプロパンガスを住民は利用する。マタ・マシャードにはプロパンガス屋があるので、無くなればそこで購入すればよい。そうではあるが、調理中にガスが切れたら厄介である。夜遅くに調理していたらなおさらだ。予備タンクを用意しておけば良いのだが、ここの貸家に予備は無く、自腹を切ってタンクを購入するには5千円の出費は痛い。そのため、ガスの残量が少なくなると、使用前にタンクを揺らしてガスを確認してから調理を始める生活を送っている。

しかし、我が生活上での一番の問題は水である。水が止まると、まずシャワーが使えない。そのため同じ集落に住むスエリーの家へシャワーを浴びに行くことになる。そしてその他の生活水は、近所のアドリアーナに請うて汲ませてもらう。近所の助け無くして生活することができなくなるとは、今日の日本であれば大規模災害以外に経験することなど、そうはないであろう。ここでの暮らしは、近所付き合いの重要さを再認識できる良い機会である、と、そう思いたいところだが、やっぱり近所に頼らず生きていければそれに越したことはない。

「ヒータ、頼むから貯水槽の水を切らさないでくれよ。こっちは一旦水が切れたら数日は復旧しないのだから」
「私も忙しいんだよ。つい忘れてしまうのだから仕方ないじゃないか」
「こっちの身になって考えてくれよ」
「シャワーと流しの水を同時に流しておけば元に戻るよ」
「それが戻らないから頼んでいるんじゃないか」
「昨日は遅くまで働いていたし、今朝も片付け物が多くて気が回らないよ」
ヒータはこともなげに言い訳を並べ立てたのち、ポンプの電源を入れに奥へ引っ込んた。私はこみ上げる苦い思いとともに風霜の日々を過ごさねばならない。さらなる不条理な現象が顕在化する。建物内は一本の経路で配管されているはずの水道が、上階では圧力がすぐ戻り、私のところは一向に戻らないのだ。彼女にとっては、貯水槽の水が無くなっても、ポンプの電源を入れればそれで済む話しとなる。したがって、彼女にとっては、常に貯水槽の水を保ち続けるという動機づけは希薄で、それが度々の断水につながる。

されども私にとってはたまったものではない。もしシャワーを浴びている最中に水が止まったとしたら、そして洗濯や洗い物をしている最中に水が止まり、彼女は出かけているとしたら、いったいどうするのだ。しかもその後数日は不便な生活を強いられるのだ。

水に対する不安は私の神経をすり減らした。しかも鍵を握るヒータは私の事情などお構いなしである。状況は甚だ望ましくないことになっている。私は生殺与奪を彼女に握られているに等しい。こういう場合、この状況を利用しようとしないブラジル人は少数派だ。

「貯水槽の中が汚れているんだよ。掃除しておくれ」
「なんで俺がやらなければならないんだ」
「こういうのは男の仕事だよ」
「男とか女とか関係ないだろう。男女平等のご時世に時代遅れだぞ」
私の弁明に、ヒータは高笑いし、
「あんたが来る前には、わたしが掃除したんだよ。今度はあんたの番だよ。女は他にやることがあるんだからね」
本当に彼女が以前掃除したかなど知る由もない。だが、結局私は引き受けた。きっぱり拒絶するにはどうにも私の立場は弱い。弱気は不毛な希望的観測を呼ぶ。いわく、これでヒータは、多少は私のことを考えてくれるのだろう、と。

無論ヒータはそのような殊勝な考えなど抱くはずもなく、さらには生ごみを私のドアの前に置くようになった。いちいち丘の下まで捨てに降りるのが面倒に思っていたのだろう。さすがにそのような行為まで認めるわけにはいかず、彼女の扉の前に突き返したが、ヒータに対する不快な感情は日に日に募っていった。

本格的な暑さがしばしば訪れるようになった11月の下旬、数度目に当たる断水とその度に抗議する私に対して、ヒータは望外な提案を申し出た。2階への入口の鍵をコピーして私が貯水管理を行えと言うのだ。彼女が出入りする扉の中の空間は彼女が占有するのもやむなし、と思い込んでいた。だが、2階の小さな踊り場は簡素なガラス戸により居間と仕切られており、彼女の部屋に立ち入ることなく屋上の貯水槽に辿り着くことができるのだ。

「もしポンプが焼けたりしたらあんたが弁償するんだよ!」
と、責任転嫁を忘れないヒータの物言いに苛立ちはすれども、これでものぐさな神に頼る必要は無くなったのだ。目の上の大きなたんこぶが剥がれ落ちたように気分が軽くなった。

ところが、不条理な現象がさらに襲った。私が水の管理をするようになって以来、ポンプの電源を入れる回数は、せいぜい2日から3日に1回で充分であった。10日目あたりに、突然貯水槽の水が空になった。前日に貯水槽を満水にしたのにもかかわらずだ。最初、私はヒータを疑ったが、彼女に問いただしても、水の使い方はこれまでと変わらないと言う。トイレなどの水回りに漏れがあるかと訊ねたが、ないと答える。だが、その後も貯水槽の水の減り方は尋常でないほど早く、1日に2回水を補給しないと追いつかなくなっている。私は確かめることにした。ヒータがいない間、貯水槽内の水の減り具合を記録するのだ。すると、6時間の間に目算で180リットルの水が失われている。私が使用した量はせいぜい30リットル程度である。明らかに建物内のどこかで水漏れが起こっているのだ。

大家のペーニャに訴えても、彼女は隣州のエスピリト・サントに居るのですぐに駆けつけてはくれない。ヒータに至っては、水漏れの事実を認めようとしない。いったん貯水槽内が空になれば、私だけが数日間シャワー無しの生活を余儀なくされる。1日に2回の給水が義務付けられ、私は再び水に対して神経質になっていった。

水のためにいつも家に縛り付けられているわけにはいかない。たまには外出し、帰宅が遅くなる時もある。ある日の外出時、帰宅が午前2時を過ぎ、水が心配になり給水するため隣の扉を開錠した。鉄枠の扉は太い鎖で繋がれているので、鎖を解く際に大きな音がする。はしごで屋上に登る際、ヒータが文句をがなり立てた。こんな時間に入って来られれば強盗かと思ってびっくりするじゃないかと。非常識な時間ではあるが、彼女が勤務先より帰宅する時間はいつも午前1時であるし、なにより断水は避けねばならぬ。私は彼女の不平に耳を貸さず、屋上へと上がっていった。

水との格闘が続く中、やがて2017年を迎えた。

ペーニャの来訪は私にとってうれしいお年玉になるはずであった。彼女は屋上にもうひとつの貯水槽を設置し、配管を独立させて、各人が自分の貯水槽を管理するように提案した。新しい貯水槽は1階に直結するよう配管を変更したので、これでたとえ一時的に断水しても、すぐに水圧が戻るようになった。さらに、建物下の貯水槽を掃除し、上部をビニールシートですっぽり覆い、外部からの不純物の混入を遮断したので、水は見違えるようにきれいになった。

全ての状況はこれで好転するはずであった。ヒータが利用する従来の貯水槽からの管の水漏れについては原因が特定できなかったが、少なくとも、私にとってはもはや切り離された問題であり、彼女が一日一度給水すれば事足りる話しとなった。

配管を変更した数日後、私は2日に一度の給水をするため、鎖を施錠する南京錠に鍵を差し込み、開けようとした。だが、鍵は回らず、開錠しない。面食らってヒータを呼ぶと、2階から不敵なまなざしを湛えた彼女が顔を覗かせ、「ここは私の家だ。あんたには入らせないよ。あんたにはここに入る権利なんて無いんだからね」と、勝ち誇ったようなだみ声が降り注いだ。私は臓腑が焼けるような怒りに包まれた。
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水騒動

2017-05-17 14:53:11 | Weblog
「ヒータ!」
「ヒータ!」
階下から何度か大声で叫ぶと、上階の大きな窓から化粧の厚い、とうの立った黒人女性が顔を突き出した。
「なんだい」
「水が無くなった。ポンプのスイッチを入れてくれないか」
ヒータは大儀なそぶりでゆっくりと頭を引っ込め、やがて奥の方から、
「付けたよ!」
と、低いがよく通るだみ声が届いた。

かねてからペーニャより説明を受けていたが、この建物は1階と2階の入口が別になっており、各階に配する水は屋上にある共通の貯水槽から供給される。屋上へは2階の入口より通じるが、入口には南京錠が掛かっており、鍵は2階の住人ヒータしか持っていない。貯水槽の水が無くなると手動でポンプの電源を入れ、満水になれば手動で切る必要があるが、私は屋内に入れないので、彼女にそれをしてもらわなければならない。

やれやれこれで水が使えると思い、流し台の水道の蛇口をひねると、水は細糸のように流れるだけで一向に圧力が戻らない。ペーニャの説明を思い出した。圧力が戻らない場合は、流し台と浴室のシャワーの蛇口を同時に開けてしばらく放置すればやがて戻るという。水道管への空気の混入が圧力低下の原因であり、空気を水とともに外に逃がせばよいとの説明であった。

ところが、両方の蛇口を開け放って置いても圧力は一向に回復しない。圧力が弱すぎてシャワーから水が流れて来ず、かろうじて流し台の蛇口からちょろちょろと垂れ落ちる程度だ。諦めて蛇口の栓を閉めた。

翌朝、シャワーの栓をひねるとボトボトと水がしたたり落ちてきた。回復過程にあるようだが、以前の状態には程遠い。流れる水はひどく冷たい。シャワーには電気温水器が付いているが、これは一定の水圧がかからないと作動しない。時は7月、ブラジルは冬季に当たり、しかもこの地区は標高が高く昼間でも肌寒い。やむを得ず、鍋に水を入れてガスで沸かし、たらいに溜めたお湯を倹約しながら体を洗った。

結局、シャワーの圧力が回復するのに4日を要し、その間、入浴ひとつ行うにも、ひどく時間を浪費する羽目となった。再びかような事態を招きたくない。だが、私には何もできない。ただヒータに貯水槽の水を切らさないでくれと祈るほかはない。空頼みの切なさが心を塞ぐ。

ある日、大雨がこの一帯に降りしきった。すると、蛇口から出る水がうっすらと濁っているではないか。コップに溜めた水には不純物が混じっている。原因は、家屋の裏に設置されている、水源からの水を貯める貯水槽が密閉されておらず、降雨により周囲の泥土を跳ね上げ、貯水槽内が汚染されることにあった。貯水槽を覆う蓋は複数の建築廃材を半端に重ね合わせただけで、これでは外部から水が容易に侵入してしまう。ペーニャに改善を求めたが、彼女は隣州のエスピリト・サントに住んでいるので、リオに来るまで待っててほしいの一点張りである。だが、彼女がいつ現れるのか、確とした約束はない。

翌月、再び蛇口の水が出なくなった。またヒータがポンプの作動を忘れたのかと思い、彼女を呼ぶと、なんと水源から水が流れて来なくなったという。昨晩は大風が吹き荒れたので、夾雑物が管を詰まらせたのではないかと、平然とのたまう。私は動転した。
「じゃあいったいどうするのさ」
「どうしょうもないね」
「なんとかならないのか」
「待つしかないね」
「待つって・・・ 待っても仕方がないじゃないか」
「前にもそんなことがあったよ。待っていればそのうち水は戻るよ」
「そんな馬鹿な!」
「しばらくは近所に頼んで水を使わせてもらいな」
彼女は面倒くさそうに大きなお腹を翻すと扉の奥に引っ込んでしまった。

隣家の水源は我々の建物の水源と異なるおかげで使用可能であり、家主のアドリアーナは私の水の拝借を快く了承してくれた。たらいに水を溜め、部屋に運び込み、チビチビと洗い物やトイレに使用し、無くなるとまた数間先の洗い場にたらいを持って行き、水を溜める。一日の限られた時間がその繰り返しでいたずらに経過しながら、文明生活から無縁となった自分が何となくみじめに思えてきた。

ペーニャに不平不満を連ねたメッセージを書き送り、不毛な返答を受け取る2日間が過ぎたのち、突然水が元に戻った。安堵と混乱と不安が交錯し私の頭に充満した。いったいなぜ復旧したのだろうか。ヒータに聞いても満足いく答えは得られない。私は度々訪れる不幸に対し、ただ天を仰ぎ、祈るほかに道はないという、奇怪で不条理な環境に悪寒を感じた。
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ファベーラ再住

2017-02-07 19:55:58 | Weblog
エスタシオのミシェルのアパートから、ホムロとホッサーナが住む、リオ市郊外のイラジャに移ってはみたが、自室を隔てる薄い間仕切り一枚の外はバグンサだった。

彼等とは、10年前にコパカバーナのアパートメントで同居したことがあり、このイラジャには2年前のビザ更新時に数日間滞在している。その時には全く気にならなかった生活音が、今では気に障る。テレビの音、時々始まる夫婦喧嘩、電話の話し声、果ては笑い声まで神経を刺激する。

勉強に集中したいという思いが強すぎ、音を徹底的に排除することに囚われてしまっているのであろうか。歳を重ねるとともに周囲に対していっそう不寛容になってしまったのであろうか。福島の除染現場ではプレハブ小屋で寝泊まりしていたので、薄いベニヤ板を通じて話し声や廊下を歩く音、階上の足音に悩まされ続けた結果、神経をすり減らしてしまったのであろうか。

いずれにせよ居心地が定まらない。ホムロとホッサーナは普段通りに生活しているに過ぎず、彼らに注文を付けるわけにはいかない。手頃な一軒家が見つかったと伝え、1ヶ月で彼等の家を辞した。

ペーニャという40代の黒人女性とは、ホムロ達同様10年来の知り合いである。私はかつてファベーラに住んでいたが、そのときの家主であるスエリーとは今でも懇意にしており、ペーニャはスエリーの従姉妹にあたる。ペーニャも同じファベーラに別の建物を所有しており、賃借人を探していることはエスタシオに住んでいた時分から知っていた。その、マタ・マシャードというファベーラが安全であることは承知しているし、山間の中腹に位置するので夏の暑さが和らぐのが魅力だ。部屋はワンルームで、室内にはベッドや食器類が揃い、キッチン、トイレ付きの完全個室でプライバシーは保たれ、家賃もエスタシオの半額であった。

だが、私はあえてイラジャに移った。一見申し分のなさそうなペーニャの家を借りなかった理由は、彼女が私に結婚をほのめかしているからだ。

彼女はリオに住んでおらず、隣州のエスピリト・サントで学校の事務局に勤めている。ひとあたりはブラジル女性の中では若干おっとりした感じで、悪いわけではない。だが、四十路を過ぎたブラジル女性で魅力的な人物に出会えたとすれば、それは僥倖であると見受けられるが、私はどうもそのような星の下に生まれては来なかったようだ。

ある日、エスタシオのアパートに彼女が訪れ、そのとき、エスピリト・サントで一緒に住んで欲しいという申し出を受けた。彼女はこう付け加えた。彼女の職場は任意の健康保険に加入しており、彼女とその家族は病気やけがの際、無料で私立の病院を利用することができるのだと。つまり、ブラジルは誰でも無料で公立病院を利用することができるが、設備は劣悪で、途方もなく長い時間待たされることも始終である。誰しも設備の整った私立病院を利用したいが、適用される任意保険の保険料は高額で、平均的なブラジル人の所得では維持することが難しい。その点、彼女は職場の福利厚生に恵まれている。その恩恵を私にも施してくれるというのだ。いわば、彼女が用意した持参金であった。

平均所得以下の稼ぎしかないブラジル人であれば、ペーニャの『持参金』に心を動かされるかもしれない。だが、私はストレートな物言いの彼女に対して内心苦笑こそすれ、それ以上の感情は起きなかった。東洋医学のコースを道半ばで放り出すわけにはいかないし、それはあたかも、戦前生まれの日本男児が女子にプロポーズする際、「仕事を辞めて家を守ってほしい」というセリフを現代の日本男児が言われているようで、私としては心を動かすわけにはいかない。なにより、安住とはいかぬまでも、最低限の衣食は確保できる日本を離れてブラジルに移住したのである。結婚という一種の「束縛」と引き換えにするのであれば、せめて心惹きつけられる女性と添い遂げたいものである。まあ、高望みが過ぎるようでは結婚は一生無理であろうが。

と、イラジャに来るまではペーニャの家に住むつもりはさらさら無かったのであるが、静かな環境と、プライバシーが保てる場所を求めずにはいられなくなった。しばらく後、ペーニャのフェイスブックのプロフィール写真に見知らぬ男の顔が並んで写っている。さては新しい恋人ができたと察せられる。これで、もし彼女が自分の家だからという理由で滞在をねだったとしても、断る口実ができたわけだ。

7月の中旬、エスピリト・サントからペーニャが来る。朝9時に現地で待ち合わせする手筈であったが、ホムロ達との送別会で二日酔いの身体をどうにか起してやっては来たものの、彼女は時間通りには現れず、なぜか電話もつながらず、しばらくぼんやりと待った後、さてはスエリーの家に寄っているのかと思い、訪ねてみるが姿はなく、とぼとぼと待ち合わせ場所に戻っていく途中でスーツケースを抱えたペーニャに出くわした。

人ふたりがすれ違える幅の、ところどころ階段となっている細い通路を延々と登った先に、彼女の建物がある。2階建ての1階が私の住む家だ。2階への扉は独立しているので、私の部屋に他人が侵入することはない。上階にはヒータという女性が住んでいるが、彼女はとっても良い人で、決して騒がしいことはないから心配するなとペーニャは言う。室内は大小の品物が散らかっており、埃で全体が薄汚れてはいるが、床は大判のタイルが敷き詰められており、掃除をすれば光沢を取り戻せそうだ。

建物に瑕疵はないかと尋ね、流し台の水漏れと壊れた冷蔵庫‐8000円の修理費を自費負担すれば冷蔵庫は修理可能とのこと‐以外に問題はないと言いながら、彼女はシャワーの栓をひねった。湯気立つお湯が勢い良く噴き出した。
「温水器もちゃんと機能するでしょ。あなたはきっとここが好きになるわ」
「でも、水は節約してね。水資源は貴重だから」
「・・・水道代は?」
「水道代は払う必要ないわ。電気代は払わないといけないけど」
「・・・分かった」
スエリーの家も同じ事情であったし、そもそもファベーラはボンベを購入するガス以外は、水道や電気を無断で引っ張るのが常習であったので、深く考えることはなかった。

ペーニャは近所の知人を呼んで水漏れする流し台を修理し、私が外出している間、部屋の掃除と不要な物品の処分を行ったので、室内は見違えるように片付いていた。窓を開けると、青々とした木々の茂れる森が向かいの丘へと広がり、静寂が周囲を包んでいる。騒音から逃れるために居場所を転々としてきたが、ようやく探し求めてきた場所に辿り着いたような気がした。

一晩泊めてほしいというペーニャの頼みに内心身構えた。フェイスブックの写真もいつの間にか男が消えていたので突っ込みどころを失ったが、よく働いてくれたので無碍に断るのも悪いと思い、ソファで寝るというので滞在を許した。夕食を共にしながらビールを呑み、話題を探しては間を繋ぎ、彼女の話しに耳を傾けるが、現実と空想が入り混じったとりとめのない願望を話す彼女に少々辟易しつつ、明日になれば悠々自適の生活が始まるのだとひとりごちた。

翌日ペーニャはエスピリト・サントへ去っていった。私はいっそう清潔で快適な部屋を目指して壁を拭き、床を磨き、日本の家屋のように裸足で暮らせる部屋とした。その次の日、流しで食器を洗っていると、蛇口の水が徐々に細り、ついには出なくなった。私は表に出て、上階の住人を呼んだ。

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バグンソ

2016-11-04 22:38:29 | Weblog
日本からリオに到着し、住み始めたエスタシオのアパートメントを紹介してくれたフランス人のミシェルはミュージシャンである。2m近い長身がサクソフォンを吹く。彼のバンドが奏でる音楽のジャンルは当人もはっきりとしない様子だが、スカの無い東京スカパラダイスのようなレトロっぽい感じだ。結構忙しいようで、毎日のように演奏に出かけるが、勤め人のように定時に出勤し、定時に戻るということはなく、その日その時によって居たり居なかったり、居間でアコーディオンの練習をしていたり、パソコンを一心に打ち込んでいたりしている。何かをしている時の彼は、外界の一切が存在しないかのように、返事を求めても反応がない。だから朝の挨拶はたいてい二度おこなうことになる。

彼にはバーバラという混血のガールフレンドがいる。売れない画家である彼女の絵は白黒を基調とした、重厚な筆致の人物画を描く。部屋に飾るには存在感が強すぎて向かないのだが、強烈な個性を発散する絵からは彼女の才能の豊かさを思わせる。画風とはうらはらに、性格はブラジル人女性には珍しく内にこもるタイプで、アニメオタクである。日本語も多少習得している。

フェルナンド。ドレッドヘアーの彼は常に居間を占拠している。ミシェルの親友であり、家賃は払っていない。ソファで寝起きし、料理を作るか、たまにふらりと外出する他は、部屋の片隅のパソコンの前に居座り、ゲームをしているか、競馬サイトを見ながらメモ帳に細かい数字を書き込んでいるか、あるいはユーチューブの音楽を聴いているか、ほぼそれらで彼の人生の一マスにあたる一日が閉じる。

30歳代後半のミギェルは高校の社会科の教師である。財政危機下のリオ州は教師の給料が遅配し、それに対してストライキが起こり、従ってミギェルは学校に行く代わりに恋人のマリーナと一緒に過ごすか、バンド仲間と集いドラムを叩いている。ブラジルでは起こってしまっている事に対して深刻になる必要などないことは、彼のスト中の時間の過ごし方から学ぶことができる。

3LDKの間取りに6人が暮らすだけでも賑やかであろうことは容易に想像しうると思われるが、まともに勤めていない者だらけが住まうアパートメントの騒々しさはすさまじい。ミシェルのアコーデオンの練習に始まり、フェルナンドのロックからクラシックまでの幅広いジャンルを網羅する大音量の音楽がパソコンの増設スピーカーから建物中に響き渡る。フェルナンドが外出しホッとするのもつかの間、さらなる大音響が勃発し、さてはもう戻ってきたかと思ったら、音の洪水の中でバーバラが涼しい顔をしてスケッチしている。深夜に酔っぱらったミギェルとマリーナが帰宅し、歌手志望のマリーナは、ドラッグがキマリ過ぎて失神寸前のエイミー・ワインハウスのような声を張り上げてR&Bを歌う。ひとり私は自室に引きこもり、東洋医学の勉強に励もうとするが、脳内には音楽ばかりが沁み込んでくる。

どんちゃん騒ぎのことをポルトガル語でバグンサというが、ミシェルの属するバンドはそれをもじってバグンソと称す。彼は私を招く際、賑やかだが構わないかと尋ねたのではあるが、彼の取り巻く環境は正にバグンソであった。

我慢を重ね2ヶ月が経ったが、必死に授業に付いていかざるを得ないなかで、この環境はまことに厳しい。私は引っ越しを決意した。ミシェルには金銭的理由で安い場所に移ると説明した。察しの良い彼は真の理由を知っており、賑やかな環境を詫びた。幸いに告知してから引っ越すまでの1ヶ月の間に新入居者も見つかった。

出発前に世話になったお礼と友誼を深める意を兼ねて、同居人達に簡単な和食を振る舞った。一杯やりながら彼等と座を囲んでいると、彼等の人の良さがしみじみと伝わる。フェルナンドが彼得意の造語で皆を笑わす。彼は未明まで音楽を聴いているので、その音漏れに対し苦情を言ったことも度々であるが、音楽は彼の人生にとってかけがえの無いものであり、私の苦情は彼にとってストレスであったかも知れない。もちろん一座の中で一杯やる際の音楽は心地良い。このアパートメントは人生を楽しむ場であり、苦学の場は別に探すのがやはり正解であったかと思う。

6月上旬、私は持てるだけの荷物を持ち、地下鉄に乗ってイラジャへ向かった。
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オリンピック観戦

2016-10-02 02:49:27 | Weblog
何かとてつもないことが起こるのではないかと懸念されていたリオのオリンピック・パラリンピックも大事なく終了した。「つつがなく」終了とは言い切れないが、テロ、暴動のような大規模な騒乱はなく、リオでは日常茶飯事である散発的な強盗事件に邦人を含む観光客が遭遇した程度で、国を挙げての治安対策が功を奏したのか、それとも単に運が良かっただけなのかは定かではないが、ともあれ、大会は終了し、リオは再びカリオカ達の生活で満たされた。

開幕前のしらけムードに影響されてか、当初は私も競技に対してあまり興味を持たず、入場券を買ってまで観戦しようとは思っていなかったが、フタを開けたとたんの盛り上がりにあっさりと触発され、いそいそとネットで前売券を探した。日本人出場でメダルが有力視される競技をと目論んだ結果、オリンピック4連覇を目指す伊調馨の出場する女子レスリングに決めた。このときに伊調を含む3名の日本人選手が金メダルを独占することになるとは思いもよらないどころか、会場に入るまで、登坂、土性両選手の存在すら知らなかった。

8月17日の試合当日、入場券に記された番号に従い着席しようと席を探すが、今ひとつはっきりしない。周囲の席は7分方埋まっており、大半が日本人だ。位置を確認しようと体育教師を匂わせる年配の日本人女性に「今座ってらっしゃる席は何番に当たりますか」と尋ねると、「知人に案内されただけなので分かりません」と突き放すように言う。連れとおぼしき周囲の日本人も知らん顔である。話す手がかりを失い立ち去ろうとすると、目の前に座っていた日本人男性が席を立ち、自分は別の場所があるからと席を譲ってくれた。どうやらここにいる多くは決められた番号に着席していないようだ。

隣り合わせた30代前半の男性に状況を尋ね、初めて伊調の他にも日本人選手が出場し、しかも皆決勝進出を決めたことを知った。もう少しいろいろ聞きたかったが、その男性の事務的な応答に、あまり馴れ馴れしく質問を続けるのを憚られるような壁を感じた。仲間同士の会話から醸し出される空気との違いに、ブラジルに住んで以来久しく味わうことのなかった疎外感を覚えたのは、他者との垣根が低いブラジル人との生活に染まっている証であろうか。

空気が違うといえば、この付近一帯を陣取っている日本人応援団の雰囲気がどうにも近寄りがたい。応援団の中に赤いトレーナー姿が目に付くが、そこには「至学館」と書かれている。調べてみると、出場選手は全員この大学の在学生か卒業生ではないか。となると、この一団は選手達の関係者ということになりそうだ。体育会系独特の精神性を帯びた一体感が会場の1ブロックを占拠している。試合前の選手入場時に、出場選手とは関係のないインドの国旗を持ったグループが手すり越しに旗をなびかせると、くだんの年配の女性が厳しい声で、そういうことをしてはいけない、下がりなさい、と叱り付ける。他人を叱るという習慣の薄いブラジルでは、ときにはもっと社会の目が厳しくてもいいのではないかと思うことも度々だが、試合前のちょっとした観客のパフォーマンスくらい大目に見なさいよ、ここはブラジルなんだから、と思ったりする。

登坂選手が勝利し、金メダルを獲得した。歓声とともに、「おめでとうございます」の声が次々と上がる。登坂選手の両親が応援団の一員として観戦していたようだ。たちまち報道陣による円陣ができた。

その他の結果は、ご承知の通り伊調、土性両選手も逆転勝ちを収め、おかげで歴史的な勝利に立ち会うことができた。

試合結果には最高の満足を得られた反面、心に一抹の淋しさが引っ掛かっている。会場には祖国の同胞がたくさん居たにもかかわらず、疎外感を味わった。家には友人が待っているが、彼等と喜びを分かち合うことはできない。祝杯を共にする家族や友人は隣に居らず、ひとりでしみじみと喜びを咀嚼するよりない ―

と、この日はやや複雑な胸中となったが、実はこれに先立ち、ブラジル人の友人ジョゼに誘われバレーボール観戦を行っていた。日本‐アルゼンチンとブラジル‐ロシアの二本立てで、入場券は彼が私の分まで用意してくれた。試合は日本とブラジルが共に勝ち、購入の際に長蛇の列を忍ばざるを得なかったとはいえ、ビールをたらふく呑みながらの陽気な観戦であった。試合後は彼のアパートメントへ行き、ワインで祝杯を挙げた。何のことはない、日本人にこだわらなければ、日本に居る時と同じ振る舞いである。

パラリンピックが閉会し、祭りは終わった。日常が街を包み、私のそれは祭り同様、酒を呑むことである。一杯引っ掛けた後の帰りのバスはひどく混んでいて、なかなか車内の奥に進めない。後続の乗客が前に進めと私を促す。とっさに「ちょっと待った!」と英語で叫んでしまった。ブラジル人よ、オリンピックで外国人観光客をもてなした「こころ」をもう一度私に、というビジター願望が酔いの勢いも手伝い迸った。すると、席に座っていた男性から、バッグを持ちましょうと声が掛かる。効果てきめん、もう成りきるしかない。返事は全部英語で返す。目的地が近づき、男性に英語で礼を言いバッグを受け取り、降車ドアに近づく。すぐ後ろの女性が、「あなたも降りるの?」と尋ねる。「YES」。すると、どこかで会った気がする別の女性が、「彼はここに住んでいるのよ。この前のフェスタでサンバを踊っていたわ」「・・・」「SIM・・・」。
もはや日本人に戻ることは諦めた方がよさそうだ。
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ブラジル流おもてなし

2016-08-09 22:47:26 | Weblog
リオ・オリンピックが開幕した。

開幕日が刻々と近づく中、インフラの遅れや設備の不備が連日のように報道されていたが、ふたを開けてみるとまるで手品のように帳尻を合わせていた。とりわけ懸念されていた、メイン会場のあるバハ・ダ・チジューカ地区への地下鉄延伸工事、重要な五輪会場のひとつデオドーロ地区へのバス高速輸送システム(BRT)整備工事、自転車競技会場建設工事も完了し、どうやら開催に支障のない状態に漕ぎつけたようだ。

とはいえ、大いに心配である。遅れに遅れていた大工事の数々が、直前になって揃いも揃って間に合わせられるものなのだろうか。地下鉄工事など、一時はリオ市長が「もはや五輪に間に合わない」と発言した程だ。安全第一が使命の公共交通機関である。充分に試運転は行ったのだろうか。ちゃんと線路は固定されているのだろうか。

ブラジルの流儀を表す言葉として、「ケブラ・ガーリョ」というのがある。直訳すると「枝を折る」という意味だが、これは問題を解決する際に、暫定的、即興的、不確実的に対処するさまを言い、要するにその場しのぎの解決法である。ブラジル社会では物事を計画通り行うのは難しい。ヒト・モノ・カネのいずれも何らかの不足をきたす中で仕事を終わらせるには、どこかで不足分を埋め合わせるか隠すかしないと先へ進めない。生活の至るところでブラジル人が行き当たる困難の対処法が「ケブラ・ガーリョ」であり、いわば生活の知恵ともいえる。

だが、主柱を組むのに手近な枝を折って添え木をする感覚で五輪会場が設営されては大変だ。選手村の宿舎の整備が未完のままに引き渡したので、オーストラリア選手団が宿泊を拒んだ話しは記憶に新しい。もしも選手村宿舎のようなずさんな工事が五輪関連施設の至るところで行われ、そして人目に付かないまま放置されているとしたら、それは考えるだに恐ろしい。

そんなスリル満点のリオの街だが、一方で着実に利便性は向上している。バス専用道路を持つBRTのネットワークは確実にリオ郊外における輸送力の増強と移動時間の短縮を実現し、市街中心部では排気ガス、架線フリーの次世代型路面電車(LRT)がリオ中心街に新たな彩りを添える。財政難で連邦政府に泣きついているリオ州だが、ベソをかきつつも着々と未来を見据えた観光・生活都市に変容しているのだ。

五輪開幕の数日前にBRTを利用する機会があった。とある郊外の小さな駅で公共交通専用カードのチャージをするため窓口にカードとお金を渡すと、外に設置されたチャージ機を利用しろという。それではと向かおうとすると、年配のおばさん係員は、お金の入れ方を懇切丁寧に説明した挙句、心もとないと思ったのか、外に待機している男性係員に私のカードとお金を渡し、今度はこの係員が私を機械に案内した。

どうやら彼等は私が五輪観戦に来た観光客と思っているようである。男性係員はチャージ画面の表示を順々に説明しながらお金を私の代わりに挿入し、機械の反応の遅さを謝罪し、無事チャージが完了したことを宣告し、にこやかにカードを私に手渡した。普段の不愛想な地下鉄やバスの職員の対応に慣れている私は、この、やたら親切な応対にびっくりし、親友と別れるが如くに右手を差し出し握手を求めた後、改札口を通った。BRTの職員には、外国人観光客に対し丁寧に接すべしという教育が施されているのだろうか。ともあれ、思いがけない親切な対応に気持ちは弾んだ。

五輪が開催されてまもなく、閑中亡を探しに五輪会場のひとつデオドーロを目ざして歩いた。変哲のない住宅街を歩いていると、広場から「オーイ」と声をかける者がいる。山腹に密集するファベーラと麓の街を結ぶバイクタクシーの運転手だ。若い兄さんは、「オリンピックを観に来たのかい、どうだい、乗っていくかい?」と、からかい気味に言うが、彼の笑顔に悪意はない。私は首を振りつつも笑顔で親指を立てて返事をする。さらに歩き進むうち、ぴちぴちした10代半ばの褐色の娘3人とすれ違うが、すると背中越しにヒューヒューと口笛がする。振り向くと娘たちが好奇の目を輝かせながら、「オリンピックを観に来たんでしょう?」と尋ねる。「いやあ、私は向こうの街に住んでいるんだよ」と言うと、娘たちは「なーんだ」とがっかりしながら、「チャーオ」と言って去っていった。

五輪会場まで歩くつもりであったが、日が暮れたので近隣地区のマレシャル・エルメスの駅前で一杯やることにした。会場まで3キロばかりであるが、周囲に外国人の姿はなく、地元住民がハンバーガーやフライドポテトの屋台で思い思いに空腹を満たしている。串焼肉の屋台も数軒あり、そのうちの一軒で足を止め、牛串肉を注文した。合わせてビールを注文、値段が書いていないので尋ねると、眉尻に傷を持ついかつい顔の親父は、しかし柔和な目で「5レアル」と、片手の指を広げながら言う。指で数を示されたことなどついぞなかったので、親父も私を五輪観光客だと思っているのであろうか。肉が焼き上がると、親父は順次串肉をトレーに置くが、それが一段落しても私に渡そうとしない。訝しんでいると、じきに親父はとりわけ大きな塊が刺さった串肉を網から取り上げ、私の方に向けて「ファローファ?」と、やや当惑げな表情で尋ねる。マンジョッカ芋の粉を肉にまぶすかどうか聞いているのだ。うんと言ってうなずくと、やれやれ、意味が通じたかといわんばかりに相好を崩した。

呑み食いを終え、私は立ち上がり、ありがとうと言って20レアル札を差し出した。親父は動きかけた大柄な体を止め、ゆっくりと、「10レアル」と言った後、おもむろに紙幣を受け取り、釣りを取りに行くと、温厚な目を向けながら私に渡した。その目は、「この店は信用が売りなのさ。観光客でも同じだよ」と話しかけているようであった。

日本のネット記事を読むと連日のようにリオ五輪に関する不祥事や、治安の悪さが紹介される。ブラジルはとんでもない国だと思われているに違いない。まあ、実際ゴタゴタの多い、油断のならない国ではあるのだが、ニュースでは知り得ない、ブラジル人なりの歓待のこころに世界からの来訪者が触れることがあればと願う。
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ブラジルで東洋医学を勉強する

2016-05-21 13:21:00 | Weblog
ノッサ・セニョーラ・コパカバーナ大通りに建つ変哲のないビル群の一棟に入り、3階へ登る。廊下には漢字がこれみよがしに書かれた置物が陳列されている。部屋のドアを開けると、数名のブラジル人が小さなテーブル付きの椅子に座っていた。皆にこやかに「ボア・タルジ(こんにちは)」と挨拶を寄こす。今日は鍼灸、指圧コースの初授業の日だ。全員が初日であるにもかかわらず堅苦しい空気は一切ない。席に着くとすぐに隣の男が声をかけてくる。ふと、5年ほど前に働いたクリチーバの日本料理店に初出勤したときの光景が思い出された。あの時も、私の緊張は同僚たちの明るい挨拶と気さくな会話ですぐにほぐれていった。楽しくなりそうな予感がした。

ブラジルで東洋医学の勉強をすると言うと、日本人であれブラジル人であれ皆一様に怪訝な表情を浮かべる。
『なぜ日本で学ばないのだろう』
という顔だ。ブラジルで治療院を開業するための資格を取りたいからだと答えると、一応納得した様子を見せるが、なにか定石とは違う、腑に落ちない思いが表情に残っている。

サンパウロで東洋医学に携わる知人によると、日本で鍼灸師の資格をを取得した者は、直ちにブラジルの鍼灸専門学校で教える資格が与えられると聞いた。日本で取得した資格にはそれだけの箔が付いているようだ。だが、そうしない理由があった。主に金と時間の問題である。

日本で鍼灸師や柔道整復師の資格を取るには専門学校や大学に通わなければならない。専門学校での資格取得には3年間の受講が必須条件で、費用は400~500万円といわれている。私のような特殊技能を持たない者が学校に通いながら高給を稼げるはずもなく、授業料に加えてブラジル再渡航の費用を調達するまで、どれほどの年月がかかるか計り知れない。資格を取り資金を得た時には、ブラジルへ行く気力も語学力もすっかり衰えていた、なんてことになりかねない。実際、東京に住み続けていても貯金が難しいので、やがてアパートを引き払い、福島で除染作業に従事することになる。

週2回の授業に10名と少々の生徒が集まった。おおむね30代から40代で、男性は私を含めて4人、すなわち女性が過半数を占める。定刻をやや過ぎた頃、学者然とした初老手前の白人男性が白板の前に立った。最初の授業は鍼と指圧の歴史である。先生は白板にすらすらと書き込みながら説明を加えるが、案の定というか、そのポルトガル語による説明が理解できない。だが、歴史の授業なので、白板への記述とスライドで映された内容をノートに控え、後に意味を追いさえすれば、さほどの問題はなさそうだ。生徒のひとりがスマートフォンを取り出し写真に収めた。その手があったかと思う。時代の変遷は世界のどこに住もうと感じてしまう。

聞き取れないポルトガル語の授業でもスマホがあればなんとかなるだろうという私の希望は、翌々日の陰陽五行の講義であっさり断たれた。筋肉質で、前頭部から頂頭部にかけて禿げ上がったクラウジオという講師の授業は、白板とスライドを使用する以上に、言葉での説明による情報量が文字をはるかに上回っていた。決して早口で話しているわけではないが、やっぱり私には理解できない。活発に質問を飛ばす隣席のマルシオが、「どうだ、分かるか?」と尋ねる。「さっぱり分からん」と返すと、「先生にもっとゆっくり話すように注文したらどうだ」と言う。ブラジルでは講義の途中であっても、自分が分かるまで繰り返し説明を求めたり、質問を適宜行うことが認められているようだ。だが、私の語学力に合わせるよう注文を付けたら授業がストップしてしまうだろう。「いや、いいんだ」と言うと、「後で分からないところを教えてやるよ」と助け舟を出してくれる。彼は講義の中で、重要な点と重要でない点を選り分けて説明するので、要点が浮かび上がってくる。なかなかの切れ者であるマルシオの説明により、破裂寸前だった私の頭からすうと疑問符が流れ出していった。

翌週の授業は歴史に代わって解剖学となる。近眼メガネの白人女性講師アンドレアによる授業は、骸骨の模型を操りながら骨格の各部位の説明を行い、ときおり我々生徒にこれまで学んだ名称を質問し、反復させるという進め方である。ところが、皆はきはきと答える中、私ひとりが答えられない。馴染みのないラテン語系の名称が覚えきれないのだ。そして、スライドに図示されず、言葉で教えられる名称に至っては、私には何度聞いても正確に聞き取ることができない。だんまりうつむく私に愛嬌おばさんのマルシアが、「この授業はテストがない分、授業に参加する態度で評価されるから、黙っていちゃだめよ」と忠告を受ける。仕方がないので、口をパクパクして周囲に同調する。自分が落ちこぼれであることを痛感する。かつて味わったことのある、置いてけぼりを食わされた情けない惨めな気持ちが、遠い時と空を超えて蘇った。

講義の中休みに、クラスの中では最も若い日系人男性のホドリーゴが「リュウイチ、大丈夫か?」と声をかけてくる。「さっき、この箇所はなんて言ったんだい?」「ここはTíbia、ここはFíbula」「この動きのことは?」「Aduçãoはこう、Abduçãoはこう。Flexãoはこう、こう、こういう動きのことをいうんだ」とジェスチャーを交えて説明する。アンドレアの説明になかった細かな動きまで分かりやすく教えてくれるので、聞いていた私もマルシアも瞠目する。彼はかつて理学療法のコースを学んだことがあるらしい。「あの先生よりも分かりやすいよ。君が教壇に立ったらどうだい」と彼を茶化すことができるほど、気持ちは再び晴れ上がってきた。

授業が終わり、ビルを後にしてノッサ・セニョーラ・コパカバーナ大通りを歩いていると、後ろからマルシアが肩を叩いた。「ちょっとコーヒーでも飲みながらさっきの復習をしない?」と私を誘う。彼女の勉強熱心さに驚きつつ、ふたつ返事でカフェテリアに入り、テキストを見ながらここはこうだったああだったと思い返していると、横から、「よろしければ説明させてください」と年配の紳士が話しかけてきた。聞けば医師であるとのことで、私とマルシアは見知らぬ紳士による即興の講義をカフェテリアで拝聴した。

店を出て、たまたま医者の隣に座った偶然に笑いがこぼれつつ、陽も落ちて涼しげな風が通り抜けるコパカバーナの街を歩き、地下鉄の駅へと向かった。彼女はこの街に住み、この街にあるホテルのマッサージの仕事に就いている。「私の友達に日系人がいるのよ。彼女は画家なの。今度会わせてあげるわね」と朗らかに話す。人とのつながりが広がっていく予感は、この国で生きていく上で大きな自信を与えてくれる。シケイラ・カンポス通りの交差点で別れの言葉とともに、この国の習慣である抱擁を交わし、頬にキスをする。ブラジルの大地のぬくもりのような温かさが伝わってきた。
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リオ生活再び

2016-04-23 18:07:40 | Weblog
リオ・デ・ジャネイロに着いた。エスタシオという地区にあるアパートメントの一室が私の棲み家となる。ノックをするとドアが開き、強い体臭が鼻腔を貫いたその先に、長い白髪を何条もの束に巻き付けた黒人の男が出迎えた。フェルナンドである。今日からこの体臭と共に生活するわけだ。彼は笑顔を私に向けながら、低く響く声でアパート内を案内し、私の部屋に導いた。簡素な、古ぼけた一室であった。ねっとりとした熱い空気が室内にこもっていた。

日本を発つ前から、この部屋を確保していた。10年前にリオで出会って以来の友人であるフランス人のミシェルから、ちょうど一部屋空きができたから一緒に住まないかという申し出を受けていたのだ。朗報であった。ブラジルで部屋探しをするという難儀から解放されたのだ。

朗報は他にもあり、収入面でも二つのオファーを受けていた。ひとつはサンパウロで旅行代理店を経営するイツコさんから、会社のブログの更新を引き受けてくれないかと頼まれていた。もうひとつはリオ近郊の都市ニテロイで大和魂を護持しつつ半世紀を生き抜く山下将軍から、リオ五輪の選手やスタッフのアテンド業務を運送会社から打診されており、通訳を確保したいのでどうかということであった。簡単な会話すらろくにできない私に通訳など務まるはずもないが、リオに住んだ経験を生かして、山下将軍の補佐役としてなんらかの任務に係われればということで、話しを進めることになっていた。

前途は洋々である。サンパウロの安宿で、自分はツイていると気持ちを奮い立たせることができたのも、一応の根拠はあったのである。さらには為替においても、昨今のブラジル経済危機を反映して通貨レアルの価値は下落しており、円預金で食いつなぐ私にとっては、一般のブラジル人と違って追い風になっていた。日本に4年もの間、いわば「出稼ぎ」をしていたにもかかわらず満足いく資金を貯めることができなかったのだが、それでも申し分のない順風を受けての出帆は、贅沢は望めぬとも、多少のゆとりを持ちつつリオの魅力を享受できる生活を送れるのではという期待も運んでいた。

風向きが変わり始めたのが、サンパウロに着いた翌日からである。イツコさんを訪ねて昼食を共にしたのだが、ブログの件について水を向けると、やや申し訳なさげに「あれはねえ、うちの社員にやってもらっているのよ」との返事である。ブログの対象がサンパウロ在住の顧客なので、畢竟、ブログに載せる情報もサンパウロ中心となり、リオ在住となる私の出る幕ではなかったのである。

リオに着くと、さっそく山下将軍に電話をかけた。日本を発つ前に受け取ったメールでは、早急に通訳の人員を確保し、依頼者からの要請に対応していくという文面であったので、打ち合わせの日時を決めるために電話をしたのだが、どうも言葉の歯切れが悪い。なんでも大手企業がリオでの受け入れ業務に関与することになり、どうやら将軍の出る幕がなくなってしまったようだ。もっともよくよく考えてみると、リオ五輪の選手受け入れという極めて責任重大な任務に、元三菱の商社マンとはいえ、今では一匹狼の山下老将軍にその采配を委ねるという大博打を打ったまま依頼者が安閑とするはずもないのであった。

当てにしていた収入の柱が相次いで倒れてしまったので、生活費を抑えることに腐心せざるを得ない。ところが想像以上にリオの物価が高くなっている。もともとインフレ体質のこの国は、近年の自国通貨価値の下落で輸入品の物価が跳ね上がり、それが様々な物品に波及していた。スーパーで売られている身近な食料品や生活必需品の値段は、ブラジルを去る直前の4年前と比べても、1.5倍から2倍になっている。これでは円の価値が上がっても物価高で相殺されてしまう。

さらに追い打ちをかけるかのように通貨レアルの価値が上がり始めた。ブラジルでは経済の混乱に加え、政治の混乱も甚だしいが、ここにきてジウマ・ルセフ大統領の弾劾裁判が発動される運びになってきたのだ。現在の政権党である労働党は社会主義色が強いので、財界には受けが悪い。それが弾劾裁判によって政権が倒れるという予測が強まり、経済への好影響を予感してレアルが買われ始めた。レアル高になれば相対的にドルや円の価値は下がる。ジウマ負けるなと心の中で応援しているのだが、日毎に彼女を取り巻く状況は悪くなり、私を取り巻く物価状況も彼女と運命を共にする。

期待のいくつかは早々に潰えてしまったが、まだ始まったばかりである。扇風機を買いに行った帰り道、暗い空の下、ぼんやりと明かりが灯る路上に白い煙が立ち上っている。串焼肉(シュラスキーニョ)を焼く煙だ。かつては街のいたるところで見られた串焼肉の屋台だが、近年取り締まりが強化され、街から消えていった。だが、絶滅したわけではなかった。私は足早にアパートに戻り、扇風機を部屋に置くとそそくさと再び路上に出た。屋台のコンロに並べられた大ぶりの串肉から牛肉を指さし、プラスチック製の小さな腰掛に座り、缶ビールをあおる。炭火焼の香ばしい匂いが、蒸し暑かった街を撫でる夜風とともに運ばれる。かつての私が再びここにいる。リオに戻ってきたのだ。
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