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臥伯酖夢 ―50代男のブラジル生活記―

再びブラジルで生活を始めた50代男の日常を綴る。続・ブラジル酔夢譚

帰国狂騒曲

2022-01-29 10:34:16 | Weblog
腹は決まった。12月には航空券を入手した。出発は2021年2月11日、カーニバル休暇の直前である。祭り自体は中止になったが、休暇で人の移動が多くなり、新型コロナの感染者が急増する前にブラジルを脱出しようという算段だ。

だが、本当に混乱を避けるつもりなら、もっと早く動いた方がよい。出入国前のコロナ検査や、帰国後の2週間待機があるとはいえ、日本政府の対応は、これまでのところ帰国者に対する制限は緩やかである。だが、今後もそうであるとは限らない。国外からの変異株の侵入に敏感な世論は海外からの入国者を警戒し、政府もこれを受けて締め出しにかかるかもしれない。状況的には今後感染者数が増加するおそれがあるだけに、帰国日を遅らすことは、それだけトラブルが起こるリスクが高まるだけだ。

それでも2月を選んだ理由は、帰国までの2ヶ月を存分に楽しみたいという魂胆があったからだ。貯金は乏しいとはいえ、もはや帰国を控え、使い果たしたところで何とかなる身分となった。そして現状は、裏を返すと遊び、旅行するにはうってつけの状況であったのだ。旅行客が激減したことで、航空券は格安で手に入り、座席は空いているのでゆったり移動できる。また、政府のコロナ対策の失敗を受け、ブラジルの通貨価値は著しく下落したので、クレジットカードでの決済が大幅に割安となった。節約の呪縛から解き放たれた私にとって、これまで我慢していた旅行や飲食を堪能することは、甘美な禁断の果実を味わうが如きである。コロナに罹らない限りにおいては。

マルシアとは鍼灸コースで一緒に学んだ仲だ。いわゆる「天然」な性格で、授業の聞き取りに苦労する私に講義内容を尋ねるようなおっとりした理解力の持ち主だが、飾らない態度は親しみを誘い、もうひとりの同級生マルシオを交えてよく行動を共にした。現在は感染を避けるためにリオから約150キロ東のブージオスという町に疎開中である。海に突き出た矢じりのような地形のこの町は高級保養地として名高い。

さらに北へ進むと、リオ・ダス・オストラスという町があり、そこには年来の友人ホムロが住んでいる。彼とはブラジルに移住する前の2006年初頭、旅行でリオを訪れ、コパカバーナで宿を探していた時に声を掛けられ、彼のマンションをねぐらと決めた時からの付き合いだ。長らくリオに住んでいたが、経済的苦境から今はこの町の息子の家に身を寄せている。

マルシアとホムロに会いに、リオから海岸沿いに北東へと向かう旅を1月下旬に企画した。

パラナ州のクリチーバに住んでいた10年前、日本人のソデさんのラーメン屋で働いた時に知り合ったのが、ウエイトレスをしていたアリーニだ。金髪ですっきりとした顔立ちの彼女はその容姿を鼻に掛けることもなく、彼女の接客は、まるで中学生が一生懸命に応対しているようなあどけなさがあった。私がソデさんの店に在籍したのは3ヶ月に過ぎないが、その後もアリーニとの友人関係は続き、彼女の家族との交流も持った。2016年にブラジルへ再渡航して以来、一度もクリチーバを訪れていない。

クリチーバからさらに足を伸ばした隣州のサンタ・カタリーナには、ブルメナウというドイツ移民により発展した町がある。ドイツ風の歴史的建造物が残るこの観光都市で、地ビールとドイツ料理を味わうのが憧れであった。アリーニ一家との再会、そしてブルメナウ観光を成就しようと、リオ北東部の旅から戻って1週間後の1月28日に出発を予定した。

パラナ、サンタ・カタリーナの旅から戻って10日後にはブラジルを離れ、日本へ向かう。

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リオの友人達に帰国の旨を伝えると、皆一様に残念がり、送別会の申し出が引きも切らず届いた。ありがたく思う反面、不安もまた胸中膨らんできた。既にクリスマスと新年会のパーティに誘われている上、友人達との送別会を重ね、さらに2度の旅行を敢行した後に、日本へ向けて飛び立つのだ。何事もなく無事に帰国できると思う方が不思議である。

フランス人のミュージシャン、ミシェルとは年明け早々に互いの調整がつき、共通の友人で、前の住居の大家だったペーニャ -ヒータとの水のトラブルの際には彼女の対応の不味さに閉口したものだが- の誕生日パーティも兼ねて、彼女の家で集まることになった。

ペーニャの生き方は意表を衝いたところがある。彼女は最近まで隣州のエスピリト・サントに住み、私立学校の用務に携わっていた。個人で加入するには高額な健康保険が雇用とセットになっており、勤務を続ける限り質の高い医療を受けられる筈だった。家賃収入と合わせると生活に問題はなさそうで、事実、ときおり彼女のフェイスブックに、小洒落たレストランで食事をする自身の姿がアップされていたのだから。だが、それを捨ててリオに戻ってきた。

パーティの当日、案内された彼女の家を見て驚いた。そこはファベーラ内の5、6階立ての古アパートの最上階で、ペントハウスといえば聞こえはよいが、つまりは屋上に当初の設計外に建てられた掘っ立て小屋群のひとつが彼女の家であった。しかもこの家は賃貸ではなく、購入したという。彼女にエスピリト・サントを離れた理由を尋ねても、リオが好きだからという答えしか返ってこなかったが、いろいろ事情があるにせよ、あまりに思い切りのよい行動には一種の神秘的な力が働いているかのようだ。

貯水タンクがむき出しの玄関前にテーブルを置き、料理やワインを並べ、呑み、食べ、話しが興に入ると、もはやそこは掘っ立て小屋ではなく、こっそりパーティをするのに格好の隠れ家であった。全てのブラジル人がパンデミックの渦中構わずパーティをするわけではなく、感染を避けて年末年始を家族のみでひっそりと過ごす人々もいる。彼等とすれば、この非常時におおっぴらに宴会をする連中に対しては眉もひそめよう。サッカーの本田圭祐が年末の送別会の様子をSNSにアップしたところ、批判が殺到した。もっとも、彼がボタフォゴに入団する際の期待が並外れて高かっただけに、大した活躍もせず外国チームに移籍してしまうことへのボタフォゴファンの失望と怒りが非難の炎を煽ったことは想像に難くないが。

ともあれ、ブラジルにはコロナウイルス何するものぞと平時と変わらずパーティを楽しみ、全国の感染拡大を助長する輩がおり、私やミシェルもそんな輩に属するのだ。この後ろめたさを忘れさせてくれるのが、酔いと、笑いと、ペーニャのペントハウスであった。


マルシアとその夫セルジオはコロナの感染が騒がれ始めた早々にブージオスに移り住んだ。二人とも感染を極度に恐れるタイプ、つまりパーティを開く者に眉をひそめる側の人間であったが、私が訪問の意向を伝えると、やや腰が引けながらも承諾してくれたのだ。

ブージオス行きのバスの車内はガラガラで快適、町の空は爽やかに青く、海もまた澄んだ青だった。マルシアは私を連れて周辺を案内した後、中庭にこしらえたテーブルにマグロとサーモンの刺身で山盛りの大皿を載せ、セルジオは秘蔵のワインの栓を次々に開ける。かつて食べたことのない量の刺身が胃袋に入る。当初は不安であったに違いないふたりによる心づくしの饗膳は、この非常時に疫病神になりかねない私にすら施される、天与の徳と呼ぶべきブラジル人の寛容と友情の発現なのだ。


リオ・ダス・オストラスのホムロは日中から夕刻にかけて路上でピザを売っているらしい。バス通りからそれらしき方角に向かいながら、道行く人々にピザ売りのホムロの居場所を尋ねると、全員が彼のことを知っている。彼のピザはそれほど有名なのかと半ば感心するが、何かが引っかかる。彼等の言葉の奥にうすら笑いの影が感じ取れるのだ。

ホムロは青果店隣りの空き家に面した歩道に小卓を置き、その横に佇んでいた。卓上には調理前のピザがラップに包まれ、積み上がっていた。てっきり久しぶりの再会にがっちりと抱擁をしてくるのかと思いきや、グータッチで迎える彼は、コロナの感染に怯える常識人のひとりであった。だが、彼の言動も常識的とは限らない。道を行き交う通行人に声を掛け、関心を引こうとするが、ある者には単なる声掛けにとどまらず、腕を振りかざしたり、深々とお辞儀をしたりと、あまりに大仰なジェスチャーは慇懃無礼になりかねない。また、ある女性に声を掛け、そっけない断りの言葉が返されると、「あんたのような金持ちにはこんなピザは口に合わないだろうな」などと、皮肉をまくしたてる。道を尋ねた人達の反応にうっすらと軽侮の色が混ざっていた理由が判明する。

とはいえ、彼の奇矯な振る舞いは昔から覚えがあった。直情径行で、そつのない応対が不得手で、興奮しやすい彼の性格は、幅広い個性を包容するブラジル社会においても浮き気味であった筈である。だが、そんな彼だからこそ、私達は友情を持ち続けたのだろう。彼とはタイプが異なれど、私も日本では集団行動が苦手で、周囲から浮くことが常であった。深酒した時の奇行はホムロの比ではない。彼はそんな私の性質を察知して、息が合うと直感したのかもしれないし、互いが身に纏う孤独が共鳴し、ある種の安心を覚えるのかもしれない。

直径30センチのピザが1枚7レアル(140円)である。用意した25枚をすべて売り切っても、材料費を差し引くと儲けなど微々たるものだ。陽が傾き、通勤帰りの人の往来が増えてきたが、売れ行きは芳しくない。ホムロいわく、コロナ禍で政府は低所得者に給付金を支給していたが、最近支給が打ち切られてから、売り上げが大幅に減ったらしい。給付金を受け取る必要のない所得層は、彼の売るピザの5~6倍もの値段のピザをデリバリーで注文し、一方で収入が少ない者は、わずか7レアルのピザを買うのを躊躇する。路上で売る限り、彼の商売に未来はない。

そこで彼はデリバリーに活路を見出すつもりだ。特技であるビデオ作成能力を活かし、フェイスブックを媒体に高価格設定でデリバリー注文を始めようとしている。ただし、彼のプロモーションビデオを観て、映像と実物のピザの違いに度肝を抜かれたが、友人である私は、彼に頑張ってもらいたいと祈るのみである。

街灯が道をぼんやりと照らし、人の往来がまばらになる頃、ようやく20枚が売れた我々は帰途についた。


リオの国内線の玄関口であるサントス・デュモン空港は人影がまばらで、案内板で確認するまで、クリチーバ行きの便が運休していないかと不安になるほどであった。無事チェックインを済ませ、安心感と通貨安で心が大きくなり、ターミナル内の喫茶店でコーヒーとホットサンドを注文するが、市価の3倍の値段を聞いて、たちまち心がしぼんでしまった。搭乗の段になると、それなりに乗客は集まったが、隣席に人は居らず、1時間半のフライトをゆったりと過ごした。

アリーニとその家族が営むレストランに着いたのは午前10時過ぎ、仕込みに忙しい時間帯であった。最後に彼女達と会ったのが7年前、その間にアリーニは結婚し、姉のジゼーリは二人目の子どもをもうけていた。ユーモア溢れた父親は他界したが、母親のクレーシー、姉妹のそれぞれの夫を含む家族全員が集結し、こじんまりした間口の店を支えている。

コロナ以前は朝昼と営業していたが、コロナの蔓延に伴いクリチーバでもロックダウンが実施され、その間は弁当の販売と宅配しかできなかった。ロックダウンが解除された後はランチの営業を開始し、コロナ前ほどは売り上げていないながらも、忙しい業務の最中に私を構いに裏庭を覗くアリーニ達の顔は輝いており、逆境を乗り越えようとするエネルギーがみなぎっていた。

いったんクリチーバを離れ、ブルメナウへ行き一泊。翌日クリチーバに戻るバスは事故渋滞で予定時刻を大幅に遅れて到着し、アリーニ夫妻の家で待ちぼうけを喰わされている大家族をうんざりさせたが、日本のルーを使ったカレーは一家全員の舌をとろけさせ、一瞬にして皆の機嫌をひっくり返した。ソデさんのラーメン屋の人気メニューだったこの味は、以前勤めていたアリーニと母親のクレーシーだけが知っており、カレーの美味しさが忘れ難いことを聞いた私は、家族全員に作ることを約束していたのだった。

ブルメナウに行く前に、好奇心からソデさんの店を覗いたことを話題にした。昼時にかかわらず店は閉まっていたこと、塀の中には猛犬が2匹放たれていたこと、看板や案内板はさびれてないので営業は続けていそうなこと等々。冗談めかして、強盗に入られたから大型犬を放っているのではと言って皆を笑わせたが、それがあり得るかもしれないことは、ラーメンハウス初出勤の途上で強盗に襲われた私はもちろん、この街の治安の悪化を肌で知る彼等も察しているに違いなかった。

翌日はジゼーリ夫妻の家で昼食。日当たりの良いテラスハウスに住む彼等は、私とアリーニ達が到着する間、着々と料理の準備を進めていた。夫妻は7年前と同様、絶えず体を動かしながら、料理や子どもの世話に気を回しつつも、私や妹夫婦を気遣い、大声で話し掛け、笑う。総勢8名の胃袋を満たして余りある食材が、みるみる調理されてゆく。いつも私は彼等の強靭な生命力に圧倒される。この旺盛なエネルギーと家族愛こそ、ブラジルで生き、栄えていくために不可欠な要素であり、彼等の人生における幸福の源泉である。

かつてはエステサロンの開業を目指し、美容学校を卒業してエステティシャンとして働いていたアリーニとジゼーリ。学校の教師だったジゼーリの夫。今では一丸となって、レストランを切り盛りしている。彼等が成功しないで、いったい誰が成功できるのだろう。酒の勢いを借りて私も負けずに大声で笑いながら、彼等の未来と私の未来を思い比べた。


帰国日が近づいてきた。幸いにして体調に変化はない。思い返せば、12月に帰国を決めて以来、引きも切らず友人達と会ってきた。大家のセルジオ夫妻とその家族でクリスマスを祝った後、新年会は近所の知人の招きで、それこそ「眉をひそめる様な」パーティに出席した。2度に渡って旅行をしたその後にも、今では判事となった旧友ジョアンに会い、さらに鍼灸コースの友人マルシオと送別の杯を交わした。「もう充分だろう」と神様が天罰を与えるべく頭上に降臨しているに違いない。さあ、帰国に備えなければ。

ところが我が友人達は徹底的に名残を惜しんでくれるようだ。大家のセルジオは家族や近所の友人達を呼んで送別会を開く気満々である上、ミシェルまでが送別会をしようと意気込む。さすがに私は青くなって、セルジオには身内だけの集まりにしようと懇願したので、新年会に我々を呼んだアナひとりを招待することで彼は応諾した。ミシェルとは、広く友人に声掛けをしたい彼と私との意見が折り合わず、一時は集まりを見合わせようとの心境にもなったが、結局彼の説得に私が折れ、セルジオ家の翌日にはミシェル家で連日の送別会を行なうことになった。

2月6日、最後の患者の鍼灸治療を行なった後、寿司と天ぷらを作り、2階に上がると、居間のソファにはセルジオと妻のエロイーザ、そして彼女の孫にあたる娘ふたりが腰かけていた。広いテーブルにはグラスが並び、ビールは既に栓が抜かれていた。セルジオはカジュアルな軽装だが、女性達は口紅も鮮やかな化粧を施し、その華やかな装いはパーティの盛り上がりを予感させた。

だが、盛り上がりの度合いは私の予想をはるかに超えていた。玄関前にアナが現れたのに続き、新年会で会ったメンバーが続々と入場し、部屋はたちまち人で賑わった。コロナなぞどこ吹く風と、食べ、呑み、喋り、笑い、議論し、踊り、そして呑み、食べる。起こってしまったことは仕方がない。私も一団に溶け込み今を楽しむ。ブラジルでは自分の都合でコントロールできるものなど存在しない。風の吹くまま、水の流れるまま、たゆたうのみだ。

無為にして為さざる無し。ポルトガル語の不得手なひとりの日本人が日本に帰る、ただそれだけのことだが、その男を見送るために集まり、共に楽しみ、時を分かち合う人々がいることが、5年間暮らした山間の集落マタ・マシャードの住人として認められた証しであり、この国で生きてきたことに対する最高の褒章であるに相違ない。

翌日はミシェルの家で送別会。一日置いて、9日にリオを離れ、サンパウロに向かった。

ブラジルを去るにあたって、いつこさん宅を訪問することは、このご時勢ではためらわれた。ましてや自分の行動を振り返るとなおさらである。それでも、挨拶なしに日本へ帰ってしまうのは、10年以上もの付き合いを思うと素っ気ない。玄関口で挨拶だけして辞去するつもりで連絡を取った。もっとも、それで収まるとはまず思っていなかったが。

夫の関根氏が亡くなった後、いつこさんはマンションに移り、次男と暮らしている。関根家の家族や友人達と宴に興じた邸宅の思い出は尽きないが、彼女が住むマンションはそこから歩いて行ける距離にある。緑色の外壁に囲まれた敷地内に入ると、広々とした空間に数棟の高層建築物が屹立し、レストランやジム、美容院などのサービス施設が充実している。彼女の子ども達の多くがそれぞれ家庭を持ち、離れて暮らしている現在においては、建物や庭の手入れが不要なマンション暮らしが最適なことは確かだ。

結局、意志薄弱を露呈し、家の中に上がり込んでしまった。上階からの眺望は格別で、フェイジョアーダとビールを出されてしまうと、新居の雰囲気がもたらす慎みがたちまち雲散し、我が家にいるかのような厚かましさでビールのお代わりを所望した。

一見不自由のない生活を送っているいつこさんであるが、老後の身の振り方で悩みは尽きないようだ。望郷の念と母国語の気楽さから終の棲家を日本に求める想いは強いが、もし本当に日本に渡ってしまったら・・・彼女が直接打ち明けたわけではないが、思うに、まず第一に子ども達との距離が遠ざかることの不安と寂しさがあり、次いでブラジルの水に慣れた身で、日本社会の個人に干渉的な慣習や規則、人間関係を、特に施設に入ることになればストレスなく受け入れられるかという問題、さらには半世紀もの間紡いできたブラジルの思い出や繋がりが切り離されてしまった時の喪失感、このようなものが、意識するかしないかにかかわらず、いつこさんを逡巡させているのではないだろうか。

今日に至るまで織り上げてきた人生のタペストリーは、壮麗であるが故に裁ち難い。窓下に立ついつこさんの小さな背中の彼方には、サンパウロの緑深き住宅街と遠くに霞む高層ビル群が広がり、その光景はまるで、彼女が瀟洒な文目のワンピースを着こなしている様に見えた。


サンパウロ、グアルーリョス空港に着いた時刻は、搭乗便の出発時刻のはるか前だった。新型コロナのPCR検査を空港で受ける必要があるからだ。検査で陰性が証明されてはじめて飛行機に搭乗できる。空港内で検査が受けられるようになるとは、ブラジルも気が利いていると言えるが、実は、検査会場の設置のニュースを知ってから程なく、検査受け入れ能力オーバーでサービスを停止するという記事を読みがっかりしたのだった。それが、出発も間近となった1月下旬に受け入れ態勢を大幅に強化してサービスを再開したのだ。検査を待つ人の列はごく短く、検査までの流れもスムーズで、非効率と待ちぼうけが常の官製サービスも時代とともに変わってゆくものだと感心した。もっとも、簡単にパンクして営業停止するドタバタを見せるところがブラジルらしいのだが。

待合室で自分の番号が提示されるまで待つ間、時間の経過とともに内心落ち着かなくなってきた。コロナ陽性かもしれないという不安が膨らんでくるのだ。もしコロナだった場合、今日の搭乗は認められず、ブラジルを出ることは叶わない。ここで陽性と診断された者はどうなるのだろう。隔離施設に連行されるのだろうか。それともマタ・マシャードに戻れるのだろうか。戻れたとしても、セルジオ達は陽性者を迎え入れてくれるのだろうか。いつこさんにはどのような顔で報告すればいいのだろう。なにより、彼女が感染していたら、いったいどんな責任が取れるというのだろう。今、私ができることは、検査結果を前に天に祈るしかない。神がそっぽを向いていないことを。

結果を待つこと3時間、運命の時が訪れた。検査結果の受け取り窓口に行き、番号票を見せると、担当の女性は、ちょっとここで待てと、カウンターの隅の方を指差し、彼女はその場から離れてターミナルの奥へと消えていった。じっと待ち続けるが、彼女は戻ってこない。私の不安は極限に達した。一組の中年の夫婦が後から窓口に現れ、時を待たずに別の担当者から検査結果を受け取ると、さっさと立ち去った。不安が絶望に替わろうかという時、くだんの女性が現れ、私の名を呼んだ。返事をすると、厚紙のファイルを渡された。
「はい、どうぞ」
「検査結果は?」
「陰性よ」
力が抜けた。


羽田空港のターミナルは閑にして漠であった。ぽつぽつと降り立った乗客は、ガラス窓が連なる空虚なほど明るい通路を黙々と進む。この先には新型コロナの抗原検査が待っている。既に我が身は日本の地にあり、動揺はない。羽田で陽性になる可能性も低いだろう。政府は、海外からの入国者が公共交通機関を利用しないことを要請している。了解、使わないようにしよう。だが、リムジンに乗るのはご免である。懐ろ豊かな駐在員と違い、私は裸同然で戻ってきたのだから。

検査を済ませ、ターミナルの外に出ると、陽は傾いていたが、空は明るく、ガラス張りのビルディングが西日に映えていた。2月というのにひどく暖かい。大家のセルジオが寒さを案じて私に持たせた厚手のジャンバーもトランクにしまい宅配便に預けてある。デイパックひとつを背に、身軽になった私のポケットの中には蒲田駅周辺の地図があり、自転車店の所在地に印がある。中古自転車を買って日野の実家まで漕いで帰るのも、コロナに翻弄され、狂騒する世においては一興であろう。空港から蒲田まで歩いた国際便の乗客などこれまで皆無に等しいと思われるが、歩けない距離ではない。そして外は春の陽気である。

ターミナルから伸びる歩道は磨かれた様にきれいに整備されていたが、人の気配は希薄であった。長旅の疲れもさほど気にならない。軽い高揚感が体内にみなぎる。おそらく私にとっては奇行こそが娯楽であり、奇行をもって知り得ることこそが生きがいである。。それはブラジルに渡ることも然り、ファベーラに住むことも然り、友人を前に大酒を呑み、下手なポルトガル語を聞かせるのも然り、スタンドバーの隣席の酔客と意気投合するのも然れば、泥酔して強盗に身ぐるみ剥がされるのもまた然り。道は続く。私は歩く。夕陽が私の頬を撫で、真直ぐに伸びるガードレールを黄色く照らしていた。

パンデミック下での鍼灸治療

2021-05-05 17:22:03 | Weblog
明け方のマタ・マシャード集落を包む深緑は一年中その色を変えずとも、山間の凛気は季節とともに表情を変える。すなわち、太陽が北に遠ざかる候の朝は身をすくませるような、そして太陽が頭上きらめく候の朝は冷涼さの中に熱気の卵を孕んだような、視覚の変化は僅少なれど、体感的、そして予感的に時候のうつろいを窺わせるのがリオの四季である。

2020年、新型コロナウイルスは暑さが曲がり角に来た3月に猛威を振るい始め、冬季にピークに達した。消毒液を使うとはいえ、狭い室内で接触が不可避な鍼灸業は休業を余儀なくされ、引きこもり生活を送ってきたことは既に書いた。ストレスの多い仕事や日常の雑事から解放され、かえって心のゆとりを取り戻したが、もうひとつ、パンデミックは私に贈り物を届けてくれた。それは、ブラジル人の互助精神の発露であった。

飲み友達でもある大家のセルジオは、私の仕事が止まるのを知るや否や、すぐに家賃の値引きを買って出た。友人のジョゼ、そして診療所オーナーのナカムラ氏は金銭的援助を進んで申し出た。さらに、家政婦として働いているセルジオ夫人の紹介で、出張診療を行っていたコパカバーナの住人クラウジアは、パンデミック到来後も私への治療費を毎週振り込んでいるのだ。治療を全く行わないにもかかわらずだ。

クラウジアは繊維筋痛症を患っている。レディ・ガガが罹患したことで知られるこの病気は、女性に多く、全身性疼痛や疲労感、不眠、頭痛、喉の渇き、うつ症状等、様々な症状がみられ、原因は特定できていない。彼女のケースでも複数の症状がみられたが、特に足の痛みがひどく、歩くのが困難な程であった。治療を始めた頃は、私はまだ鍼灸コースを卒業すらしていなかった。試行錯誤を繰り返しながら、時間がかかりながらも足の痛みが和らいだことは、新米鍼灸師にしてはたいそう上出来の部類ではあったが、発症と心理的要因になんらかの関連性が考えられることから、治療内容はさておいても、逐次彼女の容態や状況を尋ね、一進一退する症状に煩悶し、奮戦する姿が、彼女にとって何らかの癒しになっていたのかもしれない。

私にとっても、彼女への治療を通じて、その後の患者全般に対する診療の基礎が築かれていった。いわば彼女が私を育ててくれたのである。そのクラウジアからの金銭的援助は、治療への信頼を得ている証として、ひとつの大きな自信になったとともに、彼女の底抜けに深い優しさと慈悲に触れたことで、何かと心をすり減らすことの多いブラジル社会の中で、生き抜くためのエネルギーと希望を授かったような思いであった。

寒期は非力な電熱線シャワーが温もり始めた10月には、リオにおける新型コロナの感染者数に減少傾向が見られ、マタ・マシャードの住人からたびたび鍼灸の問い合わせが入るようになった。外出制限からくる運動不足は足腰をはじめ身体の様々な箇所に痛みを生じさせる。感染リスクは未だ存在するが、患者からの要望には応えたいし、実践不足でなまった腕を早く磨きたい。斯くして自宅での診療を再開することとなった。

客足が戻るのは早く、すぐにコロナ前の水準に達した。週3日の診療日を設け、10名を超える予約が入った。平日の曜日を空けているのは、今後クラウジアのような高級住宅地に住む患者への出張診療に当てたいからだ。近隣住民の診療では施術費を高く設定できないので、生計を立てるためには出張診療の顧客を増やさなければならない。まずはクラウジアに診療再開の打診をした。

彼女は入室時の入念な消毒を条件に診療を承諾した。薬やホルモン療法で痛みを紛らわしていたが、3回目の施術で快方に向かった。時期を同じくして、クラウジアのマンションから程近くに住む70歳代の女性から膝痛の治療の要請があった。コロナ前に出張診療を行ない痛みは和らいでいたのだが、また再発したようだ。クラウジアの診療後に訪問、1回目の治療を施し、1週間後の予約を確認した。予約日当日、再び彼女のマンションを訪れた。管理人に取り次ぎを頼むが、応答がないと言う。その矢先、ガレージ脇の戸口から当の女性が現れた。外出姿の彼女に今日の予約のことを話すと、予約の覚えがないと言う。押し問答をしても仕方がないので、現在の膝の状態はどうかと聞くと、調子は良いとのこと。ならば問題はないと言い、帰りかけると、彼女は来週の予約を依頼した。だが、予約日の前日にメッセージが届いた。都合が悪くなったのでキャンセルしたいとのこと。私は察した。彼女が、いや、彼女の家族が私の訪問を危惧したのではないかと。未だコロナ禍が収まらない時期に、公共交通機関を利用する人間との接触は感染の恐れが充分にあると判断し、治療を中止するよう彼女を説得したということは充分に考えられた。

まもなく新型コロナの感染者数が増加に転じ、クラウジアへの治療も中断となった。アテンドを行なうのはマタ・マシャード集落の近隣住民のみとなったが、11月のこの地区は雨が多く、降雨時にはとたんに予約患者のキャンセルが続発する。湿気多い部屋でぽっかり空いた時間を埋め合わせるように頭に浮かぶ考えは、リオで仕事を続けるのは難しいという思いである。やがてパンデミックも終息するであろう。だが、今後、高所得者層の多い居住地区での顧客の獲得は厳しくなるのではないか。一度他地区の低、中所得者層との接触をリスクと捉えた者は、極力これらの層との接触を避けようとするだろう。そのような者にアプローチするには同じ地区に住むか、車を持つかであるが、いずれも私の財力では不可能である。では、近隣住民のみの対応で生活できるかといえば、良くてカツカツ、とても貯蓄などできるものではない。

このような状況下、実家から父親の近況が伝わった。脚力が弱っていたことは知っていたが、もはや自力で立ち上がることができなくなり、パーキンソン病的な症状を示し、入退院を繰り返しているらしい。身辺の世話は母が一身に負っているが、その負担は老齢には酷であろうし、入院やリハビリ等の医療費負担も心配である。
「いよいよ外堀も内堀も埋まったか」
日本帰国の決断が喉元まで迫ってきた。

ブラジルで生きるということ

2020-08-19 10:41:16 | Weblog
先日、日本の友人とSNSでやり取りした後、気持ちが沈んでしまった。お互いの将来について語り合ったのだが、双方とも先が見通せず、背後に迫る老後をいかに迎えるかについて、なんら展望が開けないからだ。リオで鍼灸師をしている私だが、現状といえば、ブラジルで猛威を振るう新型コロナのために休業を余儀なくされ、収入が途絶えた状態が続いている。かような状況下で、先行きの暗い老後のことや、障害を抱える事態になったことを考えてしまったので、落ち込む他にすべがなくなってしまった。

3月中旬まで新型コロナウイルスによる災禍は、ブラジルにとっては対岸の火事に過ぎなかった。中国での都市封鎖、クルーズ船内の集団感染、そして日本への伝播と、アジアでウイルスが広がっている様子は逐次うかがい知れたが、両親への感染の懸念を除くと地球の裏側の出来事であり、まさか我が身に降りかかってくるとは思いもよらなかった。

鍼灸の仕事はちょうど軌道に乗るか否かのライン上にあり、預金を崩す必要もなくなっていた。昨年の5月にリオの鍼灸コースを卒業し、幸運にも新規開業した鍼灸院のオーナーと知り合い、週に二日働き始めた。また、コパカバーナに住む顧客への出張施術を通じて、いわゆる「上顧客」獲得の広がりができつつあった。地元では、週に一度ファベーラの住民相手に自宅でアテンドを行ない、低料金ではあるが、その分多くの患者を集めることで経験を積もうと目論んだ。

一見順調そのものであった卒業後の道のりであったが、やがて心身の疲労に苛まれ始めた。1日に多くとも5名程度のアテンドで、休日も確保しているにもかかわらず、施術後は全身が虚脱感に襲われ、翌日も疲労が残り、睡眠の質も落ちていった。原因には心当たりがあった。新米鍼灸師としてのプレッシャー、そしてブラジルでの生活そのものから来る心労の蓄積を感じていた。

たかだか3年間のコース履修で一人前の鍼灸師になれる筈はない。だが、お金を取る以上、最低限「治療」と呼べる効果を示さなければならない。鍼灸院でのアテンドは特にプレッシャーを感じた。顧客は比較的上流層で、彼等は皆それなりの健康に対する知識も持ち合わせている。料金は場代を含むため、その対価にふさわしい治療への期待も高い。対する新米鍼灸師は、つたないポルトガル語で対応しながら、初めての症例に接する時の瞳は困惑の色が浮かび、ぎこちなく鍼を打ち、翌週の予約を受け付けた後、果たしてこの患者は来週現れるのだろうか、少しは良くなっているのだろうか、などと小心を波立たせながら、次の患者に対するのであった。

不思議なことに、このような対応でも6、7割の患者はマシになったと言う。偽薬でも症状が改善するプラセボ効果が認められるように、民間療法の心理的効果は存在するのだ。だが、3、4割の患者は充分な満足には至らない。施術者としては全ての患者を治したい。スキルを上げるためには更なるコースを履修するか、手にある参考書をもとに猛勉強をするしかない。だが、それらをするためのエネルギーが枯渇し始めていた。その最たる原因は、リオで庶民的生活を送ることによる精神的な消耗があった。

シンガポールで働く女友達はリオが好きで、たまに遊びに来る。ある時彼女が、この街の店員の態度はとても良いとの感想を洩らし、私を驚かせた。彼女の持つ接客サービスの印象は、私と全く異なっていた。だが、考えてみれば驚くべきことではない。彼女はガイドブックに載るようなレストランで食事し、Uberで移動し、列に並ぶことの少ない高価格帯の商品を扱う店で買物をする旅行者なのだ。彼女は決して私が通勤に使うバスを使わないし、買物客でごった返すスーパーマーケットには足を向けないし、安物を扱う雑貨屋の従業員の横柄な態度に気分を損ねることはない。すなわち、彼女が享受するサービスは、ブラジルの高所得者層が属する世界のものなのだ。私が属する低・中所得者層、いわゆる庶民の住む世界とは異なる。庶民は生活のありとあらゆる面で低レベルのサービスに甘んじる。この国では、日常の買物から交通手段、銀行や通信事業者、病院や学校におけるサービスまで所得階層によって分断されている。金銭的身分によって露骨に区別するこの社会の現実を、あたかも神が定めたしきたりであるかのようにブラジル人は受け入れている。これがブラジルの文化だとでもいうように。

昭和生まれで、良くも悪くも横並び社会ニッポンで育った私は、この差別的待遇が耐え難い。要するに、自分がブラジル社会で庶民の身分に居たくないのだ。だが、現実は私を通勤にタクシーやUberを使うことを許さない。乗客を丸太と思って疑わないバスの運転手の乱暴な運転に、他の乗客同様、私は車内の手すりにしがみつき、足を踏ん張りながら耐え続ける。嘆きつつもすがりつく姿は、日本の軌道を外れて迷走する己の人生の写しのようだ(先日、私の知人はバスの急ハンドルで降車ドアともに車外に振り落とされ、重傷を負った)。

鍼灸師として成功を収めれば、庶民階層から這い上がることができよう。幸先は良く、上出来のスタートを切った筈である。だが、がむしゃらに勉強して働いて、道を切り開こうという気力が沸いてこない。心身の疲れを怠惰の言い訳にして、本を開く代わりにビールの栓を開け、ワインの栓を抜く。私の収入ではワインは高価な飲み物だが、買えないことはない。現状にうんざりする私の背後に現状に満足する私がいる。ワインが飲めるのだから、いい身分になったではないか。肉だってたっぷり食べられるのだから、文句を言ってもキリがなかろう。二人の私のせめぎあいは後者の声が大きく、時は惰性で進み、上昇気流を呑み込む下降気流に押し流されながら、沈鬱な日々を過ごしていた。

そのような心境であった3月中旬、新型コロナのパンデミックはブラジルを侵襲した。いきなり背後からさるぐつわをかまされたように、一切の活動が中断し、唐突に何もかもが機能を停止した。

全ての顧客へのアテンドが中止となった。やんわりと追われていた時間にぽっかりと大穴が開いた。1日24時間何をしてもしなくてもよい自由な時間ができた。

意外なことに、新型コロナ騒動は私の鬱々とした心に晴れ間をもたらした。一切の経済活動ができなくなり、「お手上げ」の状況になったことで、リセットされた気分になった。庶民階層から抜け出すどころか、下手をすれば生活が立ち行かなくなる。そしてそれは私のせいではない。私の意識下にあった、「成功せねば」という強迫観念が、このコロナ禍によって霧散したようだ。おそらく大きな言い訳を得たからである。すなわち、「頑張ったんだけど、こうなっちゃしょうがないよね」だ。

世界的な経済の停滞とブラジル政府の防疫政策の失敗により、ブラジル通貨は大幅に下落した。私にとっては朗報である。日本の銀行預金を切り崩す生活に戻ってしまったが、コロナ禍前と比べて円の価値は50%上昇した。外食ができない分、酒のつまみや果物のレパートリーを充実させた。五十路となって、ブラジルでの引きこもり生活が始まった。

**********

かくして、蟄居生活は現在まで続いているが、正直、8月まで続くとは思っていなかった。ブラジルでは感染者数、死亡者数ともに未だ高いレベルにあり、終息の兆しが見えない。にもかかわらず、商業施設は営業を再開し、鍼灸業も制限を解除されたようだ。たまに近所から治療の問い合わせがあるが、まだ再開できる状況ではない。私が罹患するのも困るし、健康を目的として来る患者に伝染させては申し訳がない。だが、引きこもりもいい加減に飽きてきた。資金も底が見えてきた。このような時に、冒頭に書いた友人とのやりとりによって、不安が黒雲のように心に覆いかぶさった。こんな気分で一日家に居るのはたまらない。久し振りに小旅行に出かけることにする。

マンガラチーバは海沿いにある静かな町だ。すでに数回訪れているが、今回も選んだ理由は、距離が自宅から80km強と、適度な旅行気分になれる位置にあることと、バスの乗り継ぎを必要とするものの、行程の大半をフレスカン(Frescão=特別料金で運行するリクライニング座席のバス)で移動できるので、車内の混雑による感染リスクを減らせるからである。金属製の携行用ボトルにワインを詰め、午前8時前に家を出た。

フレスカンの車内は案の定5、6人程の乗客しかしかいなかった。バハ・ダ・チジューカ地区の幹線道路を快走する。平行してBRTと呼ばれる専用道を走る連接バスが運行されているが、こちらは超満員である。同区間での両者の料金差は3倍以上、とはいえ、日本円に換算するとその差は200円と少々である。この時期、混雑した車両に乗りたい者はいない。だが、多くの通勤客は交通費にこの程度の料金を追加することができない。そして、フレスカンに乗るべき階層の人々は皆、車を持っている。従って、フレスカンはいつでもガラガラである。

車窓を眺めていると、異様な光景が目に入った。BRTは専用道を走り、プラットホームのある駅に停車する。バスが到着するとホームに仕切られたガラス戸が開き、客の乗降が始まる。その駅のひとつが無残にも壊され、打ち捨てられていた。いや、その駅だけではなかった。次の駅も同じく壊され、客扱いがされていなかった。ならず者による破壊行為があったようだ。これまでも破壊行為はたびたび起こっていたが、その度に施設を修復し、客扱いを再開させていた。今回は様子が違う。壊れたまま完全に放置されている。それが一駅や二駅どころではない。ネットで調べて啞然とした。28、30、34・・・驚愕の数字が、配信日付の異なるニュース毎に示されている。すなわち、壊され、閉鎖された駅の数である。コロナの影響で街の人気が失われたせいで襲撃が多発したのだろうか。襲撃の目的のひとつは、ホームの内外を仕切るガラス戸を壊すことで無賃乗車を行なうことであろうが、中には火を付けられた駅もある。狂気そのものだ。壊された駅を利用していた一般の乗客にとっては悲劇である。何の落ち度の無い彼等は、この常軌を逸した行ないによって、客扱いのある駅まで数十分も余計に歩かされる不条理を味わうのだ。私は胸が塞がった。狂気と隣り合わせのリオの庶民とは、なんと惨めなのだろう。

イタグアイという町でバスを乗り換える。幸いに今度のバスも適度な空席があった。市街の中心部は人で賑わっている。皆マスクはしているが、購買欲が防衛本能に勝っているのだろう、店内に客が群がっている。とりわけ人気があるのは宝くじ売場で、歩道に人が長蛇の列をなしている。つい、くじに当たるよりもウイルスを引き当てる方がよっぽど確率が高いのではと思ってしまう。

マンガラチーバには正午前に到着した。これまでは市内に着いたらすぐ食事を始めていたが、久しく家にこもっていたので、たっぷり歩いてみたかった。街の外には周囲が6km程の岬が突き出し内海を形成しており、その岬を周回する小道伝いに歩き始めた。坂が多く起伏はあるが、車はごくたまに通る程度で、静かな一本道である。空は晴れ、日差しは柔らかく、格好の散策日和である。沿道には家並みが現れては消え、木々の隙間からは群青の海が覗く。歩いては立ち止まり写真を撮り、また歩いては立ち止まる。陽は高く、時を数える必要もなく、誰と相談する気遣いもなく、自由気ままに道を歩く。

途中、眺望の良さげなレストランを数件見かけたが、どれに入ろうか迷いながら先延ばししているうちに、前回入ったレストランを再訪する結果となった。以前来たのは確かであるが、店の印象をなにひとつ思い出せない。それでも、店内のレイアウトを眺めながら、店主がおもむろに注文を取りに来るにつれ、ゆっくりと脳が記憶の復元の作業を開始し、料理が登場し、目に飛び込んだ白身魚のフライの大きさに感動した時、以前の感動の記憶と同期し、ここに復元が完了した。老化現象は娯楽となりうるらしい。

私は窓側の展望席にひとり陣取り、ビールを呑み、魚フライを食べた。店内は3組ほどのテーブルが埋まっていたが、窓側の席は直射日光が差し込むせいか、私の席以外は空いていた。若干暑いが、景色というご馳走を遠慮する手はない。音楽を聴きながら、海を眺め、杯を傾け、料理を口に運ぶ。

やがて私のグラスはビールの黄金色からカイピリーニャを満たした浅葱色へと変わる。陽が若干傾き、水面のさざ波が銀の鱗のように反射している。ブラームス作曲の合唱がひときわ高く歌い上げる。ドイツレクイエムの一節だ。胸の奥深くへと熱い気が流れていった。私は今、生きているのだ。道を歩き、風景を愛で、音楽を聴き、飯を味わい、酒を呑んでいるひとりの生ある人間なのだ。

所詮考えても分からないのであれば、先のことを心配して悩んでいても仕方がない。この世の生と喜びを実感するこの瞬間に立ち会えたのだ。たとえ先に何が待ち受けようと、これ以上何を求めようか。

一瞬、自分の体内にはブラジル人の血潮が流れているような気がしたが、深くは考えず、静かなる興奮に包まれながら銀色の海を眺め続けた。

関根さん

2019-11-03 17:30:20 | Weblog
ブラジルで生まれ、あるいは長く住み続けている人にとって、私はどこの馬の骨とも知れない輩である。名の通った大企業に属するわけでもなければ、親類縁者や知人を頼ってきたわけでもない。学もなければ、肩書きがあるわけでも、高度な専門知識を有しているわけでもない。ブラジル人にとっても、日系人にとっても、私は他所者であり、軽んじられうる存在である。2016年よりリオに住み続けているが、ときおり不快な気分になる。それは、単に挨拶を返されなかったり、中国人呼ばわりされたり、ややたちの悪い冗談を仕掛けられたり、あからさまに意見を遮られたりと、ささいなことではあるが、積日とともに心に塵芥が溜まり、それを払拭する手立てが乏しい故に、神経もだんだん尖ってくる。元来、休日には海岸や郊外のひなびた町に出かけて一杯呑むのが好きなタチなのだが、最近はややおっくうになり、鬱々としがちである。

そんな私でも、年に一回、胸につかえる鬱憤が軽くなる時節がある。二度目の渡伯以来、毎年年末にはサンパウロの関根家を訪ね、正月を迎えている。三日から四日の滞在だが、その後リオに戻ると、心なしか胸のつかえが軽くなっている。否、正確に言うと、別件で煩悶する日々がしばらく続くのだが、その件とは、呑むしか能のない私が関根家で犯した粗相であったり、蒙昧な言で無知をさらけ出したり、酒の勢いで厚顔無恥な振る舞いをしでかすなどの、おのれの愚かさによる罪の反響に苦しんでいるわけだが、幸か不幸か、こういう類の苦しみはたいてい一過性で、やがて忘却の海へと沈んでゆく。すると、関根家訪問前まで心に抱えていた重たい塊が、ふっと軽くなっていることに気付く。その理由は、年に一度の遠出により旅気分を味わい、心境の変化を得たからかもしれない。だが、一番の理由は、こんな私でも、関根家はひとりの大切な客人として迎え、あるいは家族の一員であるかのような親しみを込めてもてなしてくれるからであろう。つまりは、私は馬の骨ではなく、ひとりの尊厳ある人間として扱われることで、充足感を得、心が浄化されるのである。

関根家との付き合いは、今から10年以上前、サンパウロで日系人向けのフリー雑誌「ピンドラーマ」の広告営業の仕事をしていた頃にさかのぼる。奥さんのイツコさんは旅行会社の社長で、私は毎月、広告内容の打ち合わせや雑誌の配布のため、よく事務所に通っていた。当時の私は就労ビザもなく、不法滞在者であることが明白であるにもかかわらず、イツコさんは私を敬遠するどころか、仕事上の関係を超えて親しく接していただいた。私を含む出版社のメンバーを自宅に招き、夕食会を催すこともしばしばであった。

関根邸の門の前で笑顔とともに我々を迎えるのは、白髪の老紳士だ。彼がイツコさんの夫である関根隆範さんである。関根さんもイツコさん同様、我々に対して気さくで、親密で、心から楽しそうに応対し、セラーから秘蔵のワインを開けてくれるのが常であった。物腰はいつも穏やかで、尊大な態度や荒ぶる素振りなどは一切見せたこともなく、かといって自分を上品に飾ろうとする意識のかけらもなく、温厚な性格がそのまま自然体となり、態度に表れる、そのような人であった。

関根さんは私やピンドラーマ社長より二回りほど年長ではあるが、我々の話しに真摯に耳を傾け、決して意見を押し付けるような事をしなかった。社長と私は、イデオロギー的にはリベラルで、関根さんは保守的な傾向があるのだが、若年者の意見に対し、頭ごなしの反論は決して行わず、むしろ感心、納得してしまう人であった。京大卒の社長は押しが強い上に、たいてい一理ある論理を展開するので、納得するのもやむなしの感があるが、私の意見に対しても、時には素直に認めたり、感心さえすることもあった。慶応サンパウロ三田会の重鎮である関根さんが、何の社会的裏づけも持たない私の言葉を正面から受け止め、咀嚼し、時には吸収するという姿勢から、その広い度量に感銘するとともに、彼のしなやかな感性と、公平で誠実な人間性が伺われた。

私が出版社を辞めてサンパウロを離れた後も、関根家は快く私を迎え入れてくれた。正月には関根家の家族とともに、関根家の書生か居候のような顔をして新年を迎えるのが恒例となった。私が調子に乗り、勝手に関根家のワインの栓をどんどん開けたり、したり顔でワインの批評をしても、関根さんはニコニコしながら、相槌を打ったり、豊富な知識から私の話しに色を添えてくれるのであった。

イツコさんは日本への望郷の思いが強く、「日本へ戻りたい、帰りたい」とボヤくことしきりであるが、関根さんからそのような言葉を聞いたことがない。むしろ、ブラジル生活を堪能している風である。ブラジルの治安の悪さ、庶民の教育レベルの低さ、物事がなかなか進まないルーズな国民性は認めつつも、行動を起こす者に対する風当たりの少なさ、寛容な社会、ダイナミックに構築できる人間関係など、常に肯定的にこの国を眺め、そしてその利点を人生の成功に活かしてきた。彼にとってブラジルの大地は、まるで故郷である日本以上に離れがたい絆で結ばれているかのようだ。私にとって「人間至る処青山あり」は座右の銘として刻みたい寸言だが、実際にはなかなかそのように達観できない。この言葉はブラジルを愛し、ブラジルを知り、ブラジルに生きる関根さんこそふさわしいように思えた。

***

先日、関根さんの姪のまりこさんが私の誕生日を祝い、日本からメッセージを寄せてくれた。写真が添付されており、それには関根さんの姿が映っていた。来日しているとのことである。高齢でありながら、機中での長時間の拘束を強いる旅に、彼の体調への懸念が胸をよぎったが、写真にはいつもの温厚な笑顔があることから、「お見受けしたところ、平気の平左という感じ」と返信した。その、たった三日後、まりこさんから訃報が届いた。

イツコさんがしばしば日本に帰郷することは知っていたし、現に日本でも会ったことがある。だが、関根さんが帰郷するのは果たして何年ぶりだったのだろう。ブラジルに溶け込んでいた関根さんが日本で亡くなるとは、これも運命なのかとしか言いようがない。だがあまりにも唐突であった。まりこさんの心境、そしてイツコさんの心境を慮る以前に、私自身が呆然とした。ほら穴のような喪失感が体の一部にぽっかりと空いた。昨年もこの感覚を味わった。歳を重ねるということは、自分の存在の一部がだんだん失われていくことかと思い至った。関根さんの親しげな声が耳にこだまする。今度の正月にはこの声を聞くことができないのだ。そして、私の言葉に耳を傾けてくれる数少ない人に、私は話し掛けることができないのだ。

3年前だっただろうか、関根さんの買物に同行した時だ。かつては膝の状態が悪く、やや足を引きずりながら、おっくうそうに歩いていたのだが、その後手術をし、すっかり良くなっていた。駐車場で車を降りて、店へと向かう関根さんの足は、まるでフラミンゴが水面を滑走するかの如く軽やかに、高速に運動した。齢七十の半ばにならんとする人が、いったん脚力の回復を得たとたん、かような速歩を実践するそのバイタリティに驚嘆するとともに、ブラジルで生き抜くためには、これほどの気力を常に維持し続けなければならないのだと、その真偽はともかく、前を行く彼の背中を見ながら、感じ入ったことを思い出す。

彼のその意志は、確固たる足跡をこの地に残した。ブラジル講道館会長を任じ、柔道の普及と発展に尽くした。かつてはブラジル日本文化福祉協会の要職を務め、日伯の友好と文化交流に長年貢献した。今、ウェブで彼の逝去を悼む、様々な日本のニュースサイトの記事を目にし、彼の功績の大きさに正直面食らっている。そのような偉大な側面をおくびにも出さず、無為無能な私の訪問を喜びとともに迎え、粗忽でお調子乗りの態度に、まるで肉親のような寛大さと愛情で受け止め、そして帰宅時には門前まで丁寧に見送る関根さんの人柄に、彼の人生がいかに豊穣であり、優美であったかが投影されている。彼の生き様は、生きることに価値を見出したいと願う人々にとって、指針であり、希望ではないだろうか。

小さな旅 ― バハ・ド・ピライ

2017-10-01 21:02:48 | Weblog
しばらく遠出をしていない。生活費を切り詰めねばならないので、余分な出費はなるべく控えたい。とはいえ、たまには旅をしたい。安上がりで、旅気分が味わえれば、場所はどこでもよい。リオ市街から100キロ離れた内陸部に、バハ・ド・ピライという町がある。19世紀から20世紀にかけて、鉄道交通の要所を担っていたが、今では足を向ける者も少なく、名勝で知られるでもないが、畜産業が盛んとの案内記に、何か美味しい肉が味わえるか、あるいは並肉でも美味しいと思わせる雰囲気が味わえればと期待して、午前8時半に家を出る。

歩きがけにちょうどバスが滑り込んできたので、駆け出した。降車ドアから、地元のスーパーで働く可憐な娘が降り立ち、目が合い、挨拶を交わす。きょう一日の扉が大きく開かれた。

バハ・ド・ピライに行く簡単な方法は、リオの長距離バスターミナルから高速バスを使えばよい。だが、それでは安く上がらない。だから一般の公共交通を使う。向かう先はセントラル・ド・ブラジル駅。セントラル・ステーションと言えば、思い当たる人も多いかもしれない。1998年に制作された同名の映画は、ブラジルの厳しい現実の中に通い合う人情を描いた名作である。この駅の開業は1858年、日本ではまだ鉄道が敷設される前に旅客営業を始めているのだ。かつてはサンパウロやベロリゾンテなど国内の主要都市に向かう乗客の出発地であったこの駅も、1990年代の長距離旅客営業の廃止により、リオの玄関口の地位を失った。

とはいえ、今でもリオ近郊都市へのアクセス機能は存分に果たしている。広壮な駅構内には売店がひしめき、多数の乗降客が往来する。13面あるプラットホームは横一線に並列し、目的地毎にホームが色分けされ、テレビモニターには種別、行先、発車までの残り時間が表示され、分かりやすい。大半の車両は冷房完備の新型車両だ。列車の出発まであと2分との表示を確認し、車両に沿ってホームを歩いていると、いきなりドアが閉まり出したので、あわてて両手でこじ開けて車内に潜り込んだ。

やれやれと思い、さあ出発と気持ちが弾んだのもつかの間、電車は駅構内から出るやいなや制動をかけて止まってしまった。そのまま3分経ち、5分経ち、ようやく電車は動き出し、ノロノロと進んでは止まり、進んでは止まって、最初の停車駅に息も絶え絶えに辿り着いた。まだこれから先、停車する駅は数珠のごとく連なるというのにである。

ふたつ目の駅、サッカー競技場で有名なマラカナンを出たあたりでようやく電車は走り方を思い出したか、快調に走り始めた、とはいえ最高速度は時速70キロ前後であろうか、日本の近郊型電車と比べると遅い。だが、リオでは高速で走る以前に、何事も無く走ることが第一であり、事故や列車妨害や信号故障、盗賊の襲撃等々に遭わないことをまず念頭に置く。まずは無事に着くこと、その次に、定刻らしき時刻に列車が目的地に着くことを願うという順序だ。列車の最高速度向上など、はるかに遠い先の話しである。

マラカナンで席はあらかた埋まるとともに、大小の荷物を担いだ物売りがどかどかと乗り込んできた。日本でいえばさしずめ車内販売といったところだが、彼等は至極賑やかに大声を張り上げながら通路を闊歩する。中には拡声器を用いて耳障りな声で売り歩く輩もいる。商品は何でもある。水、ビール、飴、スナック類、文房具、おもちゃ、たわし、化粧品等がたいてい市価よりも安い。炭火がおこった缶を車内に持ち込み、煎りたてのピーナッツを売り歩く者までいる。電車は地域の足としての機能の他に、沿線住民の買い物の場、そして生活の糧を得る職場として、人々の暮らしを日々支えている。

電車は適当に駅に停車しながら、ファヴェーラ群を抜け、住宅が密集するリオ北西部の平野を延々と走る。物売りはとっかえひっかえ乗り込み、その姿が途絶えることはない。いい加減乗りくたびれてきたあたりで、車窓に畑や荒れ地が現れ、地形に起伏が生じ、田舎の趣が色を帯びてきたところで、終点のジャペリ駅に着いた。

この駅でパラカンビ行きの電車に乗り換える。尿意を催し、トイレを探すが見当たらない。以前に使用した覚えがあるので清掃員に尋ねると、現在は使用不可で閉鎖しているとのこと。ブラジルではメンテナンスの不備か、狼藉者による破壊行為かによって、設備を導入してもやがて使えなくなるケースが多い。清掃員は私を気の毒に思ったか、線路脇に建つ小屋の裏で用を足せばよいと言う。ホームから作業員用の階段で線路に降り、小屋の裏へ回った。この国では規則外の融通が利くことによって、なんとか皆生きていられる。

ジャペリ駅で30分待ち、折り返しの電車に乗り継ぎ、15分ほど走って終着駅のパラカンビに着いた。鉄道の旅はここまでである。セントラル・ド・ブラジル駅から3時間かけて、70キロを走破し、支払った金額は4.2レアル(約150円)。この鉄道の運賃体系は、一駅乗っても全線乗り通しても同一運賃なので、貧乏旅行者にとってはまことに都合が良い。

ここからはバスの旅となる。市街地を抜けると坂道となり、バスはゆっくりと登ってゆく。山道に沿って農場の門が点在し、小集落に構える商店の母屋はこじんまりとしながらも落ち着きがある。リオ市街のせわしなさから遠く隔たったのどかさに、旅気分がこころを満たし始めた。

乗り換えのため、途中のメンデスという町で下車する。時刻は午後1時を回った頃で、腹が飯を求める時間である。ところが、平日にもかかわらず、バスターミナル周辺の店という店のシャッターが閉まっている。不思議に思い、訊ねてみると、今日はメンデスの町に由来する宗教的な記念日とかで、この町のみが祭日とのこと。旅人にとって、ラテンアメリカの小都市を祝祭日に旅することほどつまらないことはない。あらゆる店が閉まってしまうので、買い物や食事、町の雰囲気を味わうこともままならない。

所在なく、バスターミナルに佇んでいると、重厚なエンジン音の轟きと間欠的な汽笛の音が聞こえてきた。無人の道路に飛び出すと、視界の先には採土を運ぶ貨車がゆっくりと移動しており、やがて巨大なディーゼル機関車が3台連なって通過していった。ブラジルの貨物列車である。セハ・ド・マールという山脈を一気に登るため、強力な機関車の重連を必要とする。旅客列車は無い代わりに、長大な貨物列車がブラジルの鉄路の主役である。

バハ・ド・ピライに着いた時、すでに家を出てから6時間が経過していた。腹は空いていたが、時刻は2時を回り、主なレストランは閉まっているに違いない。慌てても仕方がないので、まずは市街を一回りしてみることにする。人口は10万近いだけあり、四方に広がる商店街は多くの人出で賑わっている。狭い道路に車が列を成す光景をたびたび目にするが、それは、行き違う際に顔見知りの運転手同士が長い挨拶を交わすために、後続車が先へ進めずに起こる渋滞である。ごちゃごちゃしながらも、のどかなものである。

市街地を隔てて川が流れ、川向うには山野が広がっている。ほとりに広場があり、飲食が楽しめるよう、売店とテーブルがある。ハンバーガーの類しかないが、景色が気に入ったので腰を下ろす。正面に見る橋の形に見覚えがある。中学の時分に友人と富山へ鉄道の撮影旅行に行ったが、高山本線の神通川橋梁がこの橋と同じ形状と思い至った。意図せずも細部まで妙に覚えているものだ。当時の、何でも吸収した記憶力に対し、現在の、語学や人の名前から、ご近所さんの顔かたちまでたちまち忘れてしまう記憶力との隔たりを思うに、どうやら自分がすでに過去の人間に思えてきた。

歳月人を待たず。やがては誰もが朽ち果てる定めである。それでも、生前の記憶や経験を未来に生きる子どもに伝え残せるならば、名残少なく次の時代を託すことができよう。私のような風来者に自分の歩んだ軌跡を伝える子などはいる由もない。ただ、せめて近しい他人のうちで、趣味でつながる同士同類の芽が育っていくならば、それはいくらか慰めになろう。鉄道ファンである、親友の息子の顔が思い浮かんだ。彼も鉄道の旅を通じて、いつまでも忘れ得ぬ情景を記憶の淵に積み留めるならば、それは楽しみだと思った。同類が昂じて私の生き方まで真似てしまっては困るのだが。

持参のペットボトルのカイピリーニャを嘗めながら市街を再び徘徊する。公園前の路地で、この商売では珍しい白人系のおばさんが焼く、串焼肉の屋台を見つけた。大振りの鶏肉をベーコンで巻いた串が目に付き、肉の産地としての期待が高まった。
「この町では畜産業が盛んと聞いていたんだけど、安く肉が買える市場はあるのかい」
「安く買うんだったらあそこを曲がった先にスーパーがあるよ」
「いや、スーパーじゃなくて、食肉市場のようなものはないのかい」
「そういうものはないねえ」
「何かお土産になるような特産品ってこの町にはあるかい」
「・・・・・」
ちょっと気が利いた人間なら、おらが町自慢をペラペラ始めるところだが、このおばさんは気が利かないのか、気乗りしないのか、それとも本当にこの町は何もないのか。
「この町は都会のように賑わっているねえ。でも、治安は大丈夫なんだろうね」
「いやあ、あんまり良くないねえ」
「不況なのかい」
「良くないねえ」
もうひとつ盛り上がらない。ボリュームのある一本を平らげたところで、おばさんと別れた。地元産の新鮮な鶏肉を賞味したので所期の目的を達成した、と自分を信じ込ませるまで多少時間がかかった。

空が暗くなり始めた。安スタンドバーに入ってさらに杯を重ねるには、この町はリオからやや離れ過ぎている。帰途に就くためターミナルに戻ると、乗るべきバスには長蛇の列があった。後尾に付き、ゆっくりとした進行に身を任せていると、突然、踏切が近くでけたたましく鳴り出した。はっとして、携帯を取り出し、列を離れ、踏切の傍に寄ると、大きな機関車が汽笛を鳴らしながら、ぬうと現れた。軽いエンジン音を響かせながら、ゆっくりと目の前を横切り、数両の工事用車両を牽引し、たちまち最後尾の車両が視界を通り過ぎ、遠ざかる後ろ姿が踏切を横断する人々と車に遮られた。100年以上前から、リオ、サンパウロ、ミナス各州への交通の要衝として鉄道と共に栄えたこの町は、旅客の往来は途絶えたとはいえ、今でも鉄道が町の風景に溶け込んでいるようであった。

帰路は道筋を変え、専用軌道バスBRTの始発地であるカンポ・グランデを目指すが、直通バスはなく、途中、どことも知れぬ場所で乗り換えなければならない。真っ暗な空の下に降り立つと、一本まっすぐに伸びる幹線道路の他には、街灯にぼんやりと照らされた道路沿いの家屋と、小さな停留所と、停留所の傍で店じまいをする数名の露店商の姿しか見えない。何だか、道路に連なる家屋の裏には荒涼たる原野が広がっているような気がした。

露店の脇に突っ立っている老人にどのバスに乗るべきかを尋ねると、暇で親切な老人は、単に説明するだけではなく、停留所の前でバスを一緒に見届けてくれた。待っている間、老人に、この町はいいところかい、と水を向けると、老人は嬉しそうに、「とってもいいところだよ」と答えた。

BRTの座席に腰かけ、イヤホンで音楽を聴きながら、ペットボトルに詰めた赤ワイン ‐ カイピリーニャはとっくに無くなっていた ‐ をちびりと呑みつつ今日の旅を終えようとしていた。隣には白い肌にスカーレットの唇の可愛い娘が座っていた。停留所が近づきバスがブレーキを掛けると、隣の娘は笑顔を向け、ジェスチャーを交えながら、私の胸に抱えたバッグのポケットからペットボトルが落ちそうだと教えてくれた。赤い液体が入ったそれがちょうど落ちかけた時にさっと拾い上げ、礼を言うと、彼女は立ち上がり、背を向けると、目の前で弾けるようなお尻をゆっくりと振りながらスカートの皺を伸ばし、それからドアに向かっていった。後姿を目で追いかけながら、ブラジルで生きる歓びが湧き上がった。

去る者ども

2017-09-08 15:35:04 | Weblog
「ふざけるな、鍵を開けろ。ペーニャと約束したじゃないか。水はふたりで管理すると」
「あんたが夜中に入ってくるからわたしゃ強盗だと思ってびっくりするんだよ」
「じゃあ、夜中には入らないと約束するから鍵を開けろ」
「真夜中にガタガタ音を立てられて迷惑なんだよ」
「そっちだって真夜中に友達を連れ込んで騒いだことがあったじゃないか」
「鍵は渡さないよ。ここは私の家だ。入ろうとしたら警察を呼ぶよ」

ヒータが錠前を取り替えるという実力行使にでた原因は、私が深夜に給水を行ったことで、彼女を不快にさせたからだろう。だが、給水設備の変更で、もはや貯水の枯渇を心配して深夜に入る必要はない。全てが解決したと思われたとたん、彼女がかような意地の悪い行為をした真因は、彼女にとっていけ好かない人物である私が、かつては自分が独占していた空間に立ち入ることが、我慢ならなかったのではないか。

ヒータとしては、失ったプライベート空間を取り戻したつもりかもしれないが、私としては、正当な権利を剥奪された思いである。さっそくペーニャに連絡し、対処を求めた。ペーニャは憤慨したが、いかんせん居住地が隣州である。彼女は電話で近所のジャシアーラに仲裁を頼み、ヒータへの説得に当たらせた。ところが、ヒータと話したジャシアーラは、なんと私に対して、ここの住人の生活に合わせるべきだとか、すべての隣人と仲良くすべきだとか、筋違いな説得を始める始末であった。ペーニャの思惑では、ヒータと仲の良いジャシアーラに忠告を頼めば、ヒータも耳を傾けると思ったようだが、結局、仲が良いだけに、ジャシアーラはヒータの意見に説得されるという、考えてみれば当然の帰結であった。ならば、私に対して親切なアドリアーナに相談するよう持ちかけると、それはだめだと言う。なぜなら、かつて水の問題で両者は訴訟騒ぎを起こしたらしく、犬猿の仲である一方の相手に頼むわけにはいかないのであった。

しからば、ペーニャ自身が直接出向いて説得に当たってもらいたいが、彼女は仕事を理由に及び腰である。せめて私の正当性をはっきりさせようと、彼女に私の権利を認める旨、SNSにしたためるよう頼んだが、それすら彼女は言葉を濁してメッセージに残そうとしない。ヒータの入居時に何か約束してしまったので、問題がこじれることを恐れたのだろうか。私はペーニャに対しても深く失望した。

こんなトラブル続きの家などさっさと出ていくべきだという思いは常に念頭にあったが、それではまるでヒータの意地悪に屈してこそこそ逃げ出したようで、腹の虫が収まらない。それに、すぐに出て行ってしまえば、入居時にペーニャに渡した敷金2ヶ月分はおそらく戻ってこない。たとえ退去の原因が私にはないと言い張ってみたところで、退去日の2ヶ月前に通知しなければならないという取り決めを盾に、敷金の返還を拒むことは火を見るより明らかであった。

もはや徹底抗戦するしかない。私はヒータと顔を合わせるたびに、「鍵を返せ!」と強く要求した。「ふん!」と彼女はあしらうが、やがて根負けしてきたのか、「そのうち時期が来たら返してやるよ」と言うようになった。

3月のある日、彼女はペーニャに連絡するので私の携帯電話を貸してほしいと頼んできた。驚喜すべきことに、彼女がここから引っ越すと言うのだ。私も傍らで彼女とペーニャとの会話を聞いた。ところが、どうも話がこじれ始めた。即刻の退去を望むヒータは敷金の返還を求め、それをペーニャは拒んでいるようだ。ペーニャが折れないとみたヒータは、「ああ、そうかい。じゃ、私は5月までここにいるよ。でも、鍵は決してあの日本人に渡さないからね!」と、私との件を質に取ってきた。なりふり構わぬ物言いを恥と思わぬ者と暮らさねばならぬ今の境遇に心底うんざりした。

ヒータはたたみかけるように攻勢をかけてきた。私の部屋にある据え置き式の物干し台を自分のものにすると言うのだ。これは前の住人の持ち物なので、自分がその者から買い取るつもりだから、話しがついたら持って行くなどと、こんな一方的な話しもあるものかとペーニャに問うと、もはや彼女は面倒事に怖気づいたらしく、あれは自分のものだが、欲しいならあげてもよいとの返事である。このままではヒータの言うなりになってしまう。 

11年前に知人の紹介で知り合ったジョアンは、当時は法学部の生徒だったが、今では出世して裁判官になっている。彼は日本への留学経験があり、今でも大の日本びいきで、日本語の勉強も続けており、私も彼の勉強を手伝ったりする仲だ。そんな彼に、ファベーラ内のつまらない揉めごとを持ち出すつもりはなかったが、私も腹に据えかねた。彼に電話をかけ、ヒータとの経緯をぶちまけた。彼は、私の貯水槽へアクセスする権利が法律的に認められると答え、物干し台についても、私の入居時の条件から、私が使用する権利を有するということを教えてくれた。

ジョアンは訴訟に至る手続きまで説明してくれた。無論私は訴訟を起こすつもりはなかったが、ヒータの横暴を許さないためには、法律知識とある程度の本気度を見せつける必要があった。ジョアンは滔々と私に説明する。私は内容を覚えるために、訴訟書類の名前を電話口で繰り返した。次に顔を合わせた時には、彼女の傲慢な鼻っ柱をポキリと折ってやるつもりであった。

翌日、ヒータが私を呼ぶ声がするので、ドアを開けると、玄関前に立つ彼女は、指につまんだ鍵をちらつかせながら、「これを渡すからコピーしな」と言い、鍵を私に手渡した。思いがけない彼女の行動に、「ありがとう」以外にヒータに声を掛ける言葉が思い付かなかった。2ヶ月半にも及んだ不毛な争いは、憑き物がぽろりと落ちたがごとく、唐突に終戦を迎えた。

ヒータは5月に去って行った。去り際に物干し台をねだったので、渡してやった。今では屋上の物干し場を使えるので、据え置き式のそれは必要がなくなったからだ。後になって顧みるに、ヒータが鍵を渡した理由は、私がジョアンと連絡を取ったあの時、私たちの会話が彼女に聞こえていたのかもしれない。そして、私が訴訟書類の名を連呼していたのを聞くに及び、これはまずいと思ったのかもしれない。厚顔無恥で強引な手段を取る手合いであっても、金銭的損失が身辺に及ぶとなると、とたんに尻込みするものである。ジョアンとの声高な会話が、図らずもヒータの急所を突いていたのかもしれない。

ヒータの後、まもなく若夫婦が越してきた。彼等の入居の際には、貯水槽の取り扱いについて了承を得ているので、夫婦とは良好な関係を保つことができた。しかし、ヒータとの一件の後、私はペーニャに対してわだかまりが残っていた。かつては友人であったが、もはや彼女を信用できなくなっていた。

ある日停電が起こり、その原因は建物と屋外の電柱を繋ぐケーブルの破損にあった。彼女がその修理費を私に求めたことで、この老朽化した建物ではこの先何が起こるか分からず、その際に生じるであろう彼女との揉めごとを懸念した。私は彼女にこの家を出ることを伝えた。

8月13日、よく晴れた日曜日に新居に移った。同じ地区のファベーラながら、川の上流に面した緑の中の家で、小川のせせらぎが聞こえる他は人の声もまばらな閑静な環境である。山峡の清水から引かれた水道は飲用に適し、ベランダから眺める川面には魚影が映え、水鳥が遊び、まるで山荘のたたずまいだ。上階には大家である老夫婦が住み、新たな居住者となった私を温かく歓迎してくれる。徒歩6分の移動で別世界に移ったようだ。

今では、ヒータとの確執は過ぎ去った奇禍として風化の過程を辿っている。ペーニャには、今後問題が起こることのないよう、私が壊したいくつかの食器を弁償し、また、「立つ鳥跡を濁さず」で、ブラジルでは習慣のない部屋の大掃除を行ってから退去した。それは、『ペーニャへの礼』というよりは、ペーニャに『日本人の振る舞い』を見せつけようという意地からである。ヒータのような行状の輩とは一線を画す意味を込めてである。そしてそれは、ペーニャに分かってもらおうというよりは、自分自身に、ヒータ達と同じ生活環境にあっても、精神までは断じて同じではない、同じようにはならないという自尊心を想い出させるためだったかもしれない。

ヒータ

2017-07-03 05:01:58 | Weblog
日本に住んでいると、電気、ガス、水道といった生活インフラは整備されているのが当たり前で、空気の如き存在なので気に留めることはない。ところがファベーラではこの常識が覆される。

夜間、突然目の前が暗くなる。「ああ~」という嘆息が周囲八方から合唱となって集落の空を包む。恒例の停電である。いつ復旧するのかは神のみぞ知る。1分で戻ることもあれば、2時間後になることもあり、半日かかることもありうる。大雨が降る日は、落雷などで停電の確率はさらに高くなる。日本では落雷により送電回路が遮断されても、バイパスが整備されているので停電が回避されることが多いが、インフラが弱いこの国では被害が住民に直接降りかかる。リオは亜熱帯地域なので落雷の頻度は高い。ある大雨の日に起こった停電は復旧にまる一日かかった。原因は、集落内の電柱が落雷でへし折られてしまい、電柱ごと取り替える作業が生じたからだ。自然の猛威にリオの住民は防戦一方だ。

もちろんファベーラには都市ガスなどという便利な代物は無く、小型のプロパンガスを住民は利用する。マタ・マシャードにはプロパンガス屋があるので、無くなればそこで購入すればよい。そうではあるが、調理中にガスが切れたら厄介である。夜遅くに調理していたらなおさらだ。予備タンクを用意しておけば良いのだが、ここの貸家に予備は無く、自腹を切ってタンクを購入するには5千円の出費は痛い。そのため、ガスの残量が少なくなると、使用前にタンクを揺らしてガスを確認してから調理を始める生活を送っている。

しかし、我が生活上での一番の問題は水である。水が止まると、まずシャワーが使えない。そのため同じ集落に住むスエリーの家へシャワーを浴びに行くことになる。そしてその他の生活水は、近所のアドリアーナに請うて汲ませてもらう。近所の助け無くして生活することができなくなるとは、今日の日本であれば大規模災害以外に経験することなど、そうはないであろう。ここでの暮らしは、近所付き合いの重要さを再認識できる良い機会である、と、そう思いたいところだが、やっぱり近所に頼らず生きていければそれに越したことはない。

「ヒータ、頼むから貯水槽の水を切らさないでくれよ。こっちは一旦水が切れたら数日は復旧しないのだから」
「私も忙しいんだよ。つい忘れてしまうのだから仕方ないじゃないか」
「こっちの身になって考えてくれよ」
「シャワーと流しの水を同時に流しておけば元に戻るよ」
「それが戻らないから頼んでいるんじゃないか」
「昨日は遅くまで働いていたし、今朝も片付け物が多くて気が回らないよ」
ヒータはこともなげに言い訳を並べ立てたのち、ポンプの電源を入れに奥へ引っ込んた。私はこみ上げる苦い思いとともに風霜の日々を過ごさねばならない。さらなる不条理な現象が顕在化する。建物内は一本の経路で配管されているはずの水道が、上階では圧力がすぐ戻り、私のところは一向に戻らないのだ。彼女にとっては、貯水槽の水が無くなっても、ポンプの電源を入れればそれで済む話しとなる。したがって、彼女にとっては、常に貯水槽の水を保ち続けるという動機づけは希薄で、それが度々の断水につながる。

されども私にとってはたまったものではない。もしシャワーを浴びている最中に水が止まったとしたら、そして洗濯や洗い物をしている最中に水が止まり、彼女は出かけているとしたら、いったいどうするのだ。しかもその後数日は不便な生活を強いられるのだ。

水に対する不安は私の神経をすり減らした。しかも鍵を握るヒータは私の事情などお構いなしである。状況は甚だ望ましくないことになっている。私は生殺与奪を彼女に握られているに等しい。こういう場合、この状況を利用しようとしないブラジル人は少数派だ。

「貯水槽の中が汚れているんだよ。掃除しておくれ」
「なんで俺がやらなければならないんだ」
「こういうのは男の仕事だよ」
「男とか女とか関係ないだろう。男女平等のご時世に時代遅れだぞ」
私の弁明に、ヒータは高笑いし、
「あんたが来る前には、わたしが掃除したんだよ。今度はあんたの番だよ。女は他にやることがあるんだからね」
本当に彼女が以前掃除したかなど知る由もない。だが、結局私は引き受けた。きっぱり拒絶するにはどうにも私の立場は弱い。弱気は不毛な希望的観測を呼ぶ。いわく、これでヒータは、多少は私のことを考えてくれるのだろう、と。

無論ヒータはそのような殊勝な考えなど抱くはずもなく、さらには生ごみを私のドアの前に置くようになった。いちいち丘の下まで捨てに降りるのが面倒に思っていたのだろう。さすがにそのような行為まで認めるわけにはいかず、彼女の扉の前に突き返したが、ヒータに対する不快な感情は日に日に募っていった。

本格的な暑さがしばしば訪れるようになった11月の下旬、数度目に当たる断水とその度に抗議する私に対して、ヒータは望外な提案を申し出た。2階への入口の鍵をコピーして私が貯水管理を行えと言うのだ。彼女が出入りする扉の中の空間は彼女が占有するのもやむなし、と思い込んでいた。だが、2階の小さな踊り場は簡素なガラス戸により居間と仕切られており、彼女の部屋に立ち入ることなく屋上の貯水槽に辿り着くことができるのだ。

「もしポンプが焼けたりしたらあんたが弁償するんだよ!」
と、責任転嫁を忘れないヒータの物言いに苛立ちはすれども、これでものぐさな神に頼る必要は無くなったのだ。目の上の大きなたんこぶが剥がれ落ちたように気分が軽くなった。

ところが、不条理な現象がさらに襲った。私が水の管理をするようになって以来、ポンプの電源を入れる回数は、せいぜい2日から3日に1回で充分であった。10日目あたりに、突然貯水槽の水が空になった。前日に貯水槽を満水にしたのにもかかわらずだ。最初、私はヒータを疑ったが、彼女に問いただしても、水の使い方はこれまでと変わらないと言う。トイレなどの水回りに漏れがあるかと訊ねたが、ないと答える。だが、その後も貯水槽の水の減り方は尋常でないほど早く、1日に2回水を補給しないと追いつかなくなっている。私は確かめることにした。ヒータがいない間、貯水槽内の水の減り具合を記録するのだ。すると、6時間の間に目算で180リットルの水が失われている。私が使用した量はせいぜい30リットル程度である。明らかに建物内のどこかで水漏れが起こっているのだ。

大家のペーニャに訴えても、彼女は隣州のエスピリト・サントに居るのですぐに駆けつけてはくれない。ヒータに至っては、水漏れの事実を認めようとしない。いったん貯水槽内が空になれば、私だけが数日間シャワー無しの生活を余儀なくされる。1日に2回の給水が義務付けられ、私は再び水に対して神経質になっていった。

水のためにいつも家に縛り付けられているわけにはいかない。たまには外出し、帰宅が遅くなる時もある。ある日の外出時、帰宅が午前2時を過ぎ、水が心配になり給水するため隣の扉を開錠した。鉄枠の扉は太い鎖で繋がれているので、鎖を解く際に大きな音がする。はしごで屋上に登る際、ヒータが文句をがなり立てた。こんな時間に入って来られれば強盗かと思ってびっくりするじゃないかと。非常識な時間ではあるが、彼女が勤務先より帰宅する時間はいつも午前1時であるし、なにより断水は避けねばならぬ。私は彼女の不平に耳を貸さず、屋上へと上がっていった。

水との格闘が続く中、やがて2017年を迎えた。

ペーニャの来訪は私にとってうれしいお年玉になるはずであった。彼女は屋上にもうひとつの貯水槽を設置し、配管を独立させて、各人が自分の貯水槽を管理するように提案した。新しい貯水槽は1階に直結するよう配管を変更したので、これでたとえ一時的に断水しても、すぐに水圧が戻るようになった。さらに、建物下の貯水槽を掃除し、上部をビニールシートですっぽり覆い、外部からの不純物の混入を遮断したので、水は見違えるようにきれいになった。

全ての状況はこれで好転するはずであった。ヒータが利用する従来の貯水槽からの管の水漏れについては原因が特定できなかったが、少なくとも、私にとってはもはや切り離された問題であり、彼女が一日一度給水すれば事足りる話しとなった。

配管を変更した数日後、私は2日に一度の給水をするため、鎖を施錠する南京錠に鍵を差し込み、開けようとした。だが、鍵は回らず、開錠しない。面食らってヒータを呼ぶと、2階から不敵なまなざしを湛えた彼女が顔を覗かせ、「ここは私の家だ。あんたには入らせないよ。あんたにはここに入る権利なんて無いんだからね」と、勝ち誇ったようなだみ声が降り注いだ。私は臓腑が焼けるような怒りに包まれた。

水騒動

2017-05-17 14:53:11 | Weblog
「ヒータ!」
「ヒータ!」
階下から何度か大声で叫ぶと、上階の大きな窓から化粧の厚い、とうの立った黒人女性が顔を突き出した。
「なんだい」
「水が無くなった。ポンプのスイッチを入れてくれないか」
ヒータは大儀なそぶりでゆっくりと頭を引っ込め、やがて奥の方から、
「付けたよ!」
と、低いがよく通るだみ声が届いた。

かねてからペーニャより説明を受けていたが、この建物は1階と2階の入口が別になっており、各階に配する水は屋上にある共通の貯水槽から供給される。屋上へは2階の入口より通じるが、入口には南京錠が掛かっており、鍵は2階の住人ヒータしか持っていない。貯水槽の水が無くなると手動でポンプの電源を入れ、満水になれば手動で切る必要があるが、私は屋内に入れないので、彼女にそれをしてもらわなければならない。

やれやれこれで水が使えると思い、流し台の水道の蛇口をひねると、水は細糸のように流れるだけで一向に圧力が戻らない。ペーニャの説明を思い出した。圧力が戻らない場合は、流し台と浴室のシャワーの蛇口を同時に開けてしばらく放置すればやがて戻るという。水道管への空気の混入が圧力低下の原因であり、空気を水とともに外に逃がせばよいとの説明であった。

ところが、両方の蛇口を開け放って置いても圧力は一向に回復しない。圧力が弱すぎてシャワーから水が流れて来ず、かろうじて流し台の蛇口からちょろちょろと垂れ落ちる程度だ。諦めて蛇口の栓を閉めた。

翌朝、シャワーの栓をひねるとボトボトと水がしたたり落ちてきた。回復過程にあるようだが、以前の状態には程遠い。流れる水はひどく冷たい。シャワーには電気温水器が付いているが、これは一定の水圧がかからないと作動しない。時は7月、ブラジルは冬季に当たり、しかもこの地区は標高が高く昼間でも肌寒い。やむを得ず、鍋に水を入れてガスで沸かし、たらいに溜めたお湯を倹約しながら体を洗った。

結局、シャワーの圧力が回復するのに4日を要し、その間、入浴ひとつ行うにも、ひどく時間を浪費する羽目となった。再びかような事態を招きたくない。だが、私には何もできない。ただヒータに貯水槽の水を切らさないでくれと祈るほかはない。空頼みの切なさが心を塞ぐ。

ある日、大雨がこの一帯に降りしきった。すると、蛇口から出る水がうっすらと濁っているではないか。コップに溜めた水には不純物が混じっている。原因は、家屋の裏に設置されている、水源からの水を貯める貯水槽が密閉されておらず、降雨により周囲の泥土を跳ね上げ、貯水槽内が汚染されることにあった。貯水槽を覆う蓋は複数の建築廃材を半端に重ね合わせただけで、これでは外部から水が容易に侵入してしまう。ペーニャに改善を求めたが、彼女は隣州のエスピリト・サントに住んでいるので、リオに来るまで待っててほしいの一点張りである。だが、彼女がいつ現れるのか、確とした約束はない。

翌月、再び蛇口の水が出なくなった。またヒータがポンプの作動を忘れたのかと思い、彼女を呼ぶと、なんと水源から水が流れて来なくなったという。昨晩は大風が吹き荒れたので、夾雑物が管を詰まらせたのではないかと、平然とのたまう。私は動転した。
「じゃあいったいどうするのさ」
「どうしょうもないね」
「なんとかならないのか」
「待つしかないね」
「待つって・・・ 待っても仕方がないじゃないか」
「前にもそんなことがあったよ。待っていればそのうち水は戻るよ」
「そんな馬鹿な!」
「しばらくは近所に頼んで水を使わせてもらいな」
彼女は面倒くさそうに大きなお腹を翻すと扉の奥に引っ込んでしまった。

隣家の水源は我々の建物の水源と異なるおかげで使用可能であり、家主のアドリアーナは私の水の拝借を快く了承してくれた。たらいに水を溜め、部屋に運び込み、チビチビと洗い物やトイレに使用し、無くなるとまた数間先の洗い場にたらいを持って行き、水を溜める。一日の限られた時間がその繰り返しでいたずらに経過しながら、文明生活から無縁となった自分が何となくみじめに思えてきた。

ペーニャに不平不満を連ねたメッセージを書き送り、不毛な返答を受け取る2日間が過ぎたのち、突然水が元に戻った。安堵と混乱と不安が交錯し私の頭に充満した。いったいなぜ復旧したのだろうか。ヒータに聞いても満足いく答えは得られない。私は度々訪れる不幸に対し、ただ天を仰ぎ、祈るほかに道はないという、奇怪で不条理な環境に悪寒を感じた。

ファベーラ再住

2017-02-07 19:55:58 | Weblog
エスタシオのミシェルのアパートから、ホムロとホッサーナが住む、リオ市郊外のイラジャに移ってはみたが、自室を隔てる薄い間仕切り一枚の外はバグンサだった。

彼等とは、10年前にコパカバーナのアパートメントで同居したことがあり、このイラジャには2年前のビザ更新時に数日間滞在している。その時には全く気にならなかった生活音が、今では気に障る。テレビの音、時々始まる夫婦喧嘩、電話の話し声、果ては笑い声まで神経を刺激する。

勉強に集中したいという思いが強すぎ、音を徹底的に排除することに囚われてしまっているのであろうか。歳を重ねるとともに周囲に対していっそう不寛容になってしまったのであろうか。福島の除染現場ではプレハブ小屋で寝泊まりしていたので、薄いベニヤ板を通じて話し声や廊下を歩く音、階上の足音に悩まされ続けた結果、神経をすり減らしてしまったのであろうか。

いずれにせよ居心地が定まらない。ホムロとホッサーナは普段通りに生活しているに過ぎず、彼らに注文を付けるわけにはいかない。手頃な一軒家が見つかったと伝え、1ヶ月で彼等の家を辞した。

ペーニャという40代の黒人女性とは、ホムロ達同様10年来の知り合いである。私はかつてファベーラに住んでいたが、そのときの家主であるスエリーとは今でも懇意にしており、ペーニャはスエリーの従姉妹にあたる。ペーニャも同じファベーラに別の建物を所有しており、賃借人を探していることはエスタシオに住んでいた時分から知っていた。その、マタ・マシャードというファベーラが安全であることは承知しているし、山間の中腹に位置するので夏の暑さが和らぐのが魅力だ。部屋はワンルームで、室内にはベッドや食器類が揃い、キッチン、トイレ付きの完全個室でプライバシーは保たれ、家賃もエスタシオの半額であった。

だが、私はあえてイラジャに移った。一見申し分のなさそうなペーニャの家を借りなかった理由は、彼女が私に結婚をほのめかしているからだ。

彼女はリオに住んでおらず、隣州のエスピリト・サントで学校の事務局に勤めている。ひとあたりはブラジル女性の中では若干おっとりした感じで、悪いわけではない。だが、四十路を過ぎたブラジル女性で魅力的な人物に出会えたとすれば、それは僥倖であると見受けられるが、私はどうもそのような星の下に生まれては来なかったようだ。

ある日、エスタシオのアパートに彼女が訪れ、そのとき、エスピリト・サントで一緒に住んで欲しいという申し出を受けた。彼女はこう付け加えた。彼女の職場は任意の健康保険に加入しており、彼女とその家族は病気やけがの際、無料で私立の病院を利用することができるのだと。つまり、ブラジルは誰でも無料で公立病院を利用することができるが、設備は劣悪で、途方もなく長い時間待たされることも始終である。誰しも設備の整った私立病院を利用したいが、適用される任意保険の保険料は高額で、平均的なブラジル人の所得では維持することが難しい。その点、彼女は職場の福利厚生に恵まれている。その恩恵を私にも施してくれるというのだ。いわば、彼女が用意した持参金であった。

平均所得以下の稼ぎしかないブラジル人であれば、ペーニャの『持参金』に心を動かされるかもしれない。だが、私はストレートな物言いの彼女に対して内心苦笑こそすれ、それ以上の感情は起きなかった。東洋医学のコースを道半ばで放り出すわけにはいかないし、それはあたかも、戦前生まれの日本男児が女子にプロポーズする際、「仕事を辞めて家を守ってほしい」というセリフを現代の日本男児が言われているようで、私としては心を動かすわけにはいかない。なにより、安住とはいかぬまでも、最低限の衣食は確保できる日本を離れてブラジルに移住したのである。結婚という一種の「束縛」と引き換えにするのであれば、せめて心惹きつけられる女性と添い遂げたいものである。まあ、高望みが過ぎるようでは結婚は一生無理であろうが。

と、イラジャに来るまではペーニャの家に住むつもりはさらさら無かったのであるが、静かな環境と、プライバシーが保てる場所を求めずにはいられなくなった。しばらく後、ペーニャのフェイスブックのプロフィール写真に見知らぬ男の顔が並んで写っている。さては新しい恋人ができたと察せられる。これで、もし彼女が自分の家だからという理由で滞在をねだったとしても、断る口実ができたわけだ。

7月の中旬、エスピリト・サントからペーニャが来る。朝9時に現地で待ち合わせする手筈であったが、ホムロ達との送別会で二日酔いの身体をどうにか起してやっては来たものの、彼女は時間通りには現れず、なぜか電話もつながらず、しばらくぼんやりと待った後、さてはスエリーの家に寄っているのかと思い、訪ねてみるが姿はなく、とぼとぼと待ち合わせ場所に戻っていく途中でスーツケースを抱えたペーニャに出くわした。

人ふたりがすれ違える幅の、ところどころ階段となっている細い通路を延々と登った先に、彼女の建物がある。2階建ての1階が私の住む家だ。2階への扉は独立しているので、私の部屋に他人が侵入することはない。上階にはヒータという女性が住んでいるが、彼女はとっても良い人で、決して騒がしいことはないから心配するなとペーニャは言う。室内は大小の品物が散らかっており、埃で全体が薄汚れてはいるが、床は大判のタイルが敷き詰められており、掃除をすれば光沢を取り戻せそうだ。

建物に瑕疵はないかと尋ね、流し台の水漏れと壊れた冷蔵庫‐8000円の修理費を自費負担すれば冷蔵庫は修理可能とのこと‐以外に問題はないと言いながら、彼女はシャワーの栓をひねった。湯気立つお湯が勢い良く噴き出した。
「温水器もちゃんと機能するでしょ。あなたはきっとここが好きになるわ」
「でも、水は節約してね。水資源は貴重だから」
「・・・水道代は?」
「水道代は払う必要ないわ。電気代は払わないといけないけど」
「・・・分かった」
スエリーの家も同じ事情であったし、そもそもファベーラはボンベを購入するガス以外は、水道や電気を無断で引っ張るのが常習であったので、深く考えることはなかった。

ペーニャは近所の知人を呼んで水漏れする流し台を修理し、私が外出している間、部屋の掃除と不要な物品の処分を行ったので、室内は見違えるように片付いていた。窓を開けると、青々とした木々の茂れる森が向かいの丘へと広がり、静寂が周囲を包んでいる。騒音から逃れるために居場所を転々としてきたが、ようやく探し求めてきた場所に辿り着いたような気がした。

一晩泊めてほしいというペーニャの頼みに内心身構えた。フェイスブックの写真もいつの間にか男が消えていたので突っ込みどころを失ったが、よく働いてくれたので無碍に断るのも悪いと思い、ソファで寝るというので滞在を許した。夕食を共にしながらビールを呑み、話題を探しては間を繋ぎ、彼女の話しに耳を傾けるが、現実と空想が入り混じったとりとめのない願望を話す彼女に少々辟易しつつ、明日になれば悠々自適の生活が始まるのだとひとりごちた。

翌日ペーニャはエスピリト・サントへ去っていった。私はいっそう清潔で快適な部屋を目指して壁を拭き、床を磨き、日本の家屋のように裸足で暮らせる部屋とした。その次の日、流しで食器を洗っていると、蛇口の水が徐々に細り、ついには出なくなった。私は表に出て、上階の住人を呼んだ。


バグンソ

2016-11-04 22:38:29 | Weblog
日本からリオに到着し、住み始めたエスタシオのアパートメントを紹介してくれたフランス人のミシェルはミュージシャンである。2m近い長身がサクソフォンを吹く。彼のバンドが奏でる音楽のジャンルは当人もはっきりとしない様子だが、スカの無い東京スカパラダイスのようなレトロっぽい感じだ。結構忙しいようで、毎日のように演奏に出かけるが、勤め人のように定時に出勤し、定時に戻るということはなく、その日その時によって居たり居なかったり、居間でアコーディオンの練習をしていたり、パソコンを一心に打ち込んでいたりしている。何かをしている時の彼は、外界の一切が存在しないかのように、返事を求めても反応がない。だから朝の挨拶はたいてい二度おこなうことになる。

彼にはバーバラという混血のガールフレンドがいる。売れない画家である彼女の絵は白黒を基調とした、重厚な筆致の人物画を描く。部屋に飾るには存在感が強すぎて向かないのだが、強烈な個性を発散する絵からは彼女の才能の豊かさを思わせる。画風とはうらはらに、性格はブラジル人女性には珍しく内にこもるタイプで、アニメオタクである。日本語も多少習得している。

フェルナンド。ドレッドヘアーの彼は常に居間を占拠している。ミシェルの親友であり、家賃は払っていない。ソファで寝起きし、料理を作るか、たまにふらりと外出する他は、部屋の片隅のパソコンの前に居座り、ゲームをしているか、競馬サイトを見ながらメモ帳に細かい数字を書き込んでいるか、あるいはユーチューブの音楽を聴いているか、ほぼそれらで彼の人生の一マスにあたる一日が閉じる。

30歳代後半のミギェルは高校の社会科の教師である。財政危機下のリオ州は教師の給料が遅配し、それに対してストライキが起こり、従ってミギェルは学校に行く代わりに恋人のマリーナと一緒に過ごすか、バンド仲間と集いドラムを叩いている。ブラジルでは起こってしまっている事に対して深刻になる必要などないことは、彼のスト中の時間の過ごし方から学ぶことができる。

3LDKの間取りに6人が暮らすだけでも賑やかであろうことは容易に想像しうると思われるが、まともに勤めていない者だらけが住まうアパートメントの騒々しさはすさまじい。ミシェルのアコーデオンの練習に始まり、フェルナンドのロックからクラシックまでの幅広いジャンルを網羅する大音量の音楽がパソコンの増設スピーカーから建物中に響き渡る。フェルナンドが外出しホッとするのもつかの間、さらなる大音響が勃発し、さてはもう戻ってきたかと思ったら、音の洪水の中でバーバラが涼しい顔をしてスケッチしている。深夜に酔っぱらったミギェルとマリーナが帰宅し、歌手志望のマリーナは、ドラッグがキマリ過ぎて失神寸前のエイミー・ワインハウスのような声を張り上げてR&Bを歌う。ひとり私は自室に引きこもり、東洋医学の勉強に励もうとするが、脳内には音楽ばかりが沁み込んでくる。

どんちゃん騒ぎのことをポルトガル語でバグンサというが、ミシェルの属するバンドはそれをもじってバグンソと称す。彼は私を招く際、賑やかだが構わないかと尋ねたのではあるが、彼の取り巻く環境は正にバグンソであった。

我慢を重ね2ヶ月が経ったが、必死に授業に付いていかざるを得ないなかで、この環境はまことに厳しい。私は引っ越しを決意した。ミシェルには金銭的理由で安い場所に移ると説明した。察しの良い彼は真の理由を知っており、賑やかな環境を詫びた。幸いに告知してから引っ越すまでの1ヶ月の間に新入居者も見つかった。

出発前に世話になったお礼と友誼を深める意を兼ねて、同居人達に簡単な和食を振る舞った。一杯やりながら彼等と座を囲んでいると、彼等の人の良さがしみじみと伝わる。フェルナンドが彼得意の造語で皆を笑わす。彼は未明まで音楽を聴いているので、その音漏れに対し苦情を言ったことも度々であるが、音楽は彼の人生にとってかけがえの無いものであり、私の苦情は彼にとってストレスであったかも知れない。もちろん一座の中で一杯やる際の音楽は心地良い。このアパートメントは人生を楽しむ場であり、苦学の場は別に探すのがやはり正解であったかと思う。

6月上旬、私は持てるだけの荷物を持ち、地下鉄に乗ってイラジャへ向かった。