腹は決まった。12月には航空券を入手した。出発は2021年2月11日、カーニバル休暇の直前である。祭り自体は中止になったが、休暇で人の移動が多くなり、新型コロナの感染者が急増する前にブラジルを脱出しようという算段だ。
だが、本当に混乱を避けるつもりなら、もっと早く動いた方がよい。出入国前のコロナ検査や、帰国後の2週間待機があるとはいえ、日本政府の対応は、これまでのところ帰国者に対する制限は緩やかである。だが、今後もそうであるとは限らない。国外からの変異株の侵入に敏感な世論は海外からの入国者を警戒し、政府もこれを受けて締め出しにかかるかもしれない。状況的には今後感染者数が増加するおそれがあるだけに、帰国日を遅らすことは、それだけトラブルが起こるリスクが高まるだけだ。
それでも2月を選んだ理由は、帰国までの2ヶ月を存分に楽しみたいという魂胆があったからだ。貯金は乏しいとはいえ、もはや帰国を控え、使い果たしたところで何とかなる身分となった。そして現状は、裏を返すと遊び、旅行するにはうってつけの状況であったのだ。旅行客が激減したことで、航空券は格安で手に入り、座席は空いているのでゆったり移動できる。また、政府のコロナ対策の失敗を受け、ブラジルの通貨価値は著しく下落したので、クレジットカードでの決済が大幅に割安となった。節約の呪縛から解き放たれた私にとって、これまで我慢していた旅行や飲食を堪能することは、甘美な禁断の果実を味わうが如きである。コロナに罹らない限りにおいては。
マルシアとは鍼灸コースで一緒に学んだ仲だ。いわゆる「天然」な性格で、授業の聞き取りに苦労する私に講義内容を尋ねるようなおっとりした理解力の持ち主だが、飾らない態度は親しみを誘い、もうひとりの同級生マルシオを交えてよく行動を共にした。現在は感染を避けるためにリオから約150キロ東のブージオスという町に疎開中である。海に突き出た矢じりのような地形のこの町は高級保養地として名高い。
さらに北へ進むと、リオ・ダス・オストラスという町があり、そこには年来の友人ホムロが住んでいる。彼とはブラジルに移住する前の2006年初頭、旅行でリオを訪れ、コパカバーナで宿を探していた時に声を掛けられ、彼のマンションをねぐらと決めた時からの付き合いだ。長らくリオに住んでいたが、経済的苦境から今はこの町の息子の家に身を寄せている。
マルシアとホムロに会いに、リオから海岸沿いに北東へと向かう旅を1月下旬に企画した。
パラナ州のクリチーバに住んでいた10年前、日本人のソデさんのラーメン屋で働いた時に知り合ったのが、ウエイトレスをしていたアリーニだ。金髪ですっきりとした顔立ちの彼女はその容姿を鼻に掛けることもなく、彼女の接客は、まるで中学生が一生懸命に応対しているようなあどけなさがあった。私がソデさんの店に在籍したのは3ヶ月に過ぎないが、その後もアリーニとの友人関係は続き、彼女の家族との交流も持った。2016年にブラジルへ再渡航して以来、一度もクリチーバを訪れていない。
クリチーバからさらに足を伸ばした隣州のサンタ・カタリーナには、ブルメナウというドイツ移民により発展した町がある。ドイツ風の歴史的建造物が残るこの観光都市で、地ビールとドイツ料理を味わうのが憧れであった。アリーニ一家との再会、そしてブルメナウ観光を成就しようと、リオ北東部の旅から戻って1週間後の1月28日に出発を予定した。
パラナ、サンタ・カタリーナの旅から戻って10日後にはブラジルを離れ、日本へ向かう。
**********
リオの友人達に帰国の旨を伝えると、皆一様に残念がり、送別会の申し出が引きも切らず届いた。ありがたく思う反面、不安もまた胸中膨らんできた。既にクリスマスと新年会のパーティに誘われている上、友人達との送別会を重ね、さらに2度の旅行を敢行した後に、日本へ向けて飛び立つのだ。何事もなく無事に帰国できると思う方が不思議である。
フランス人のミュージシャン、ミシェルとは年明け早々に互いの調整がつき、共通の友人で、前の住居の大家だったペーニャ -ヒータとの水のトラブルの際には彼女の対応の不味さに閉口したものだが- の誕生日パーティも兼ねて、彼女の家で集まることになった。
ペーニャの生き方は意表を衝いたところがある。彼女は最近まで隣州のエスピリト・サントに住み、私立学校の用務に携わっていた。個人で加入するには高額な健康保険が雇用とセットになっており、勤務を続ける限り質の高い医療を受けられる筈だった。家賃収入と合わせると生活に問題はなさそうで、事実、ときおり彼女のフェイスブックに、小洒落たレストランで食事をする自身の姿がアップされていたのだから。だが、それを捨ててリオに戻ってきた。
パーティの当日、案内された彼女の家を見て驚いた。そこはファベーラ内の5、6階立ての古アパートの最上階で、ペントハウスといえば聞こえはよいが、つまりは屋上に当初の設計外に建てられた掘っ立て小屋群のひとつが彼女の家であった。しかもこの家は賃貸ではなく、購入したという。彼女にエスピリト・サントを離れた理由を尋ねても、リオが好きだからという答えしか返ってこなかったが、いろいろ事情があるにせよ、あまりに思い切りのよい行動には一種の神秘的な力が働いているかのようだ。
貯水タンクがむき出しの玄関前にテーブルを置き、料理やワインを並べ、呑み、食べ、話しが興に入ると、もはやそこは掘っ立て小屋ではなく、こっそりパーティをするのに格好の隠れ家であった。全てのブラジル人がパンデミックの渦中構わずパーティをするわけではなく、感染を避けて年末年始を家族のみでひっそりと過ごす人々もいる。彼等とすれば、この非常時におおっぴらに宴会をする連中に対しては眉もひそめよう。サッカーの本田圭祐が年末の送別会の様子をSNSにアップしたところ、批判が殺到した。もっとも、彼がボタフォゴに入団する際の期待が並外れて高かっただけに、大した活躍もせず外国チームに移籍してしまうことへのボタフォゴファンの失望と怒りが非難の炎を煽ったことは想像に難くないが。
ともあれ、ブラジルにはコロナウイルス何するものぞと平時と変わらずパーティを楽しみ、全国の感染拡大を助長する輩がおり、私やミシェルもそんな輩に属するのだ。この後ろめたさを忘れさせてくれるのが、酔いと、笑いと、ペーニャのペントハウスであった。
マルシアとその夫セルジオはコロナの感染が騒がれ始めた早々にブージオスに移り住んだ。二人とも感染を極度に恐れるタイプ、つまりパーティを開く者に眉をひそめる側の人間であったが、私が訪問の意向を伝えると、やや腰が引けながらも承諾してくれたのだ。
ブージオス行きのバスの車内はガラガラで快適、町の空は爽やかに青く、海もまた澄んだ青だった。マルシアは私を連れて周辺を案内した後、中庭にこしらえたテーブルにマグロとサーモンの刺身で山盛りの大皿を載せ、セルジオは秘蔵のワインの栓を次々に開ける。かつて食べたことのない量の刺身が胃袋に入る。当初は不安であったに違いないふたりによる心づくしの饗膳は、この非常時に疫病神になりかねない私にすら施される、天与の徳と呼ぶべきブラジル人の寛容と友情の発現なのだ。
リオ・ダス・オストラスのホムロは日中から夕刻にかけて路上でピザを売っているらしい。バス通りからそれらしき方角に向かいながら、道行く人々にピザ売りのホムロの居場所を尋ねると、全員が彼のことを知っている。彼のピザはそれほど有名なのかと半ば感心するが、何かが引っかかる。彼等の言葉の奥にうすら笑いの影が感じ取れるのだ。
ホムロは青果店隣りの空き家に面した歩道に小卓を置き、その横に佇んでいた。卓上には調理前のピザがラップに包まれ、積み上がっていた。てっきり久しぶりの再会にがっちりと抱擁をしてくるのかと思いきや、グータッチで迎える彼は、コロナの感染に怯える常識人のひとりであった。だが、彼の言動も常識的とは限らない。道を行き交う通行人に声を掛け、関心を引こうとするが、ある者には単なる声掛けにとどまらず、腕を振りかざしたり、深々とお辞儀をしたりと、あまりに大仰なジェスチャーは慇懃無礼になりかねない。また、ある女性に声を掛け、そっけない断りの言葉が返されると、「あんたのような金持ちにはこんなピザは口に合わないだろうな」などと、皮肉をまくしたてる。道を尋ねた人達の反応にうっすらと軽侮の色が混ざっていた理由が判明する。
とはいえ、彼の奇矯な振る舞いは昔から覚えがあった。直情径行で、そつのない応対が不得手で、興奮しやすい彼の性格は、幅広い個性を包容するブラジル社会においても浮き気味であった筈である。だが、そんな彼だからこそ、私達は友情を持ち続けたのだろう。彼とはタイプが異なれど、私も日本では集団行動が苦手で、周囲から浮くことが常であった。深酒した時の奇行はホムロの比ではない。彼はそんな私の性質を察知して、息が合うと直感したのかもしれないし、互いが身に纏う孤独が共鳴し、ある種の安心を覚えるのかもしれない。
直径30センチのピザが1枚7レアル(140円)である。用意した25枚をすべて売り切っても、材料費を差し引くと儲けなど微々たるものだ。陽が傾き、通勤帰りの人の往来が増えてきたが、売れ行きは芳しくない。ホムロいわく、コロナ禍で政府は低所得者に給付金を支給していたが、最近支給が打ち切られてから、売り上げが大幅に減ったらしい。給付金を受け取る必要のない所得層は、彼の売るピザの5~6倍もの値段のピザをデリバリーで注文し、一方で収入が少ない者は、わずか7レアルのピザを買うのを躊躇する。路上で売る限り、彼の商売に未来はない。
そこで彼はデリバリーに活路を見出すつもりだ。特技であるビデオ作成能力を活かし、フェイスブックを媒体に高価格設定でデリバリー注文を始めようとしている。ただし、彼のプロモーションビデオを観て、映像と実物のピザの違いに度肝を抜かれたが、友人である私は、彼に頑張ってもらいたいと祈るのみである。
街灯が道をぼんやりと照らし、人の往来がまばらになる頃、ようやく20枚が売れた我々は帰途についた。
リオの国内線の玄関口であるサントス・デュモン空港は人影がまばらで、案内板で確認するまで、クリチーバ行きの便が運休していないかと不安になるほどであった。無事チェックインを済ませ、安心感と通貨安で心が大きくなり、ターミナル内の喫茶店でコーヒーとホットサンドを注文するが、市価の3倍の値段を聞いて、たちまち心がしぼんでしまった。搭乗の段になると、それなりに乗客は集まったが、隣席に人は居らず、1時間半のフライトをゆったりと過ごした。
アリーニとその家族が営むレストランに着いたのは午前10時過ぎ、仕込みに忙しい時間帯であった。最後に彼女達と会ったのが7年前、その間にアリーニは結婚し、姉のジゼーリは二人目の子どもをもうけていた。ユーモア溢れた父親は他界したが、母親のクレーシー、姉妹のそれぞれの夫を含む家族全員が集結し、こじんまりした間口の店を支えている。
コロナ以前は朝昼と営業していたが、コロナの蔓延に伴いクリチーバでもロックダウンが実施され、その間は弁当の販売と宅配しかできなかった。ロックダウンが解除された後はランチの営業を開始し、コロナ前ほどは売り上げていないながらも、忙しい業務の最中に私を構いに裏庭を覗くアリーニ達の顔は輝いており、逆境を乗り越えようとするエネルギーがみなぎっていた。
いったんクリチーバを離れ、ブルメナウへ行き一泊。翌日クリチーバに戻るバスは事故渋滞で予定時刻を大幅に遅れて到着し、アリーニ夫妻の家で待ちぼうけを喰わされている大家族をうんざりさせたが、日本のルーを使ったカレーは一家全員の舌をとろけさせ、一瞬にして皆の機嫌をひっくり返した。ソデさんのラーメン屋の人気メニューだったこの味は、以前勤めていたアリーニと母親のクレーシーだけが知っており、カレーの美味しさが忘れ難いことを聞いた私は、家族全員に作ることを約束していたのだった。
ブルメナウに行く前に、好奇心からソデさんの店を覗いたことを話題にした。昼時にかかわらず店は閉まっていたこと、塀の中には猛犬が2匹放たれていたこと、看板や案内板はさびれてないので営業は続けていそうなこと等々。冗談めかして、強盗に入られたから大型犬を放っているのではと言って皆を笑わせたが、それがあり得るかもしれないことは、ラーメンハウス初出勤の途上で強盗に襲われた私はもちろん、この街の治安の悪化を肌で知る彼等も察しているに違いなかった。
翌日はジゼーリ夫妻の家で昼食。日当たりの良いテラスハウスに住む彼等は、私とアリーニ達が到着する間、着々と料理の準備を進めていた。夫妻は7年前と同様、絶えず体を動かしながら、料理や子どもの世話に気を回しつつも、私や妹夫婦を気遣い、大声で話し掛け、笑う。総勢8名の胃袋を満たして余りある食材が、みるみる調理されてゆく。いつも私は彼等の強靭な生命力に圧倒される。この旺盛なエネルギーと家族愛こそ、ブラジルで生き、栄えていくために不可欠な要素であり、彼等の人生における幸福の源泉である。
かつてはエステサロンの開業を目指し、美容学校を卒業してエステティシャンとして働いていたアリーニとジゼーリ。学校の教師だったジゼーリの夫。今では一丸となって、レストランを切り盛りしている。彼等が成功しないで、いったい誰が成功できるのだろう。酒の勢いを借りて私も負けずに大声で笑いながら、彼等の未来と私の未来を思い比べた。
帰国日が近づいてきた。幸いにして体調に変化はない。思い返せば、12月に帰国を決めて以来、引きも切らず友人達と会ってきた。大家のセルジオ夫妻とその家族でクリスマスを祝った後、新年会は近所の知人の招きで、それこそ「眉をひそめる様な」パーティに出席した。2度に渡って旅行をしたその後にも、今では判事となった旧友ジョアンに会い、さらに鍼灸コースの友人マルシオと送別の杯を交わした。「もう充分だろう」と神様が天罰を与えるべく頭上に降臨しているに違いない。さあ、帰国に備えなければ。
ところが我が友人達は徹底的に名残を惜しんでくれるようだ。大家のセルジオは家族や近所の友人達を呼んで送別会を開く気満々である上、ミシェルまでが送別会をしようと意気込む。さすがに私は青くなって、セルジオには身内だけの集まりにしようと懇願したので、新年会に我々を呼んだアナひとりを招待することで彼は応諾した。ミシェルとは、広く友人に声掛けをしたい彼と私との意見が折り合わず、一時は集まりを見合わせようとの心境にもなったが、結局彼の説得に私が折れ、セルジオ家の翌日にはミシェル家で連日の送別会を行なうことになった。
2月6日、最後の患者の鍼灸治療を行なった後、寿司と天ぷらを作り、2階に上がると、居間のソファにはセルジオと妻のエロイーザ、そして彼女の孫にあたる娘ふたりが腰かけていた。広いテーブルにはグラスが並び、ビールは既に栓が抜かれていた。セルジオはカジュアルな軽装だが、女性達は口紅も鮮やかな化粧を施し、その華やかな装いはパーティの盛り上がりを予感させた。
だが、盛り上がりの度合いは私の予想をはるかに超えていた。玄関前にアナが現れたのに続き、新年会で会ったメンバーが続々と入場し、部屋はたちまち人で賑わった。コロナなぞどこ吹く風と、食べ、呑み、喋り、笑い、議論し、踊り、そして呑み、食べる。起こってしまったことは仕方がない。私も一団に溶け込み今を楽しむ。ブラジルでは自分の都合でコントロールできるものなど存在しない。風の吹くまま、水の流れるまま、たゆたうのみだ。
無為にして為さざる無し。ポルトガル語の不得手なひとりの日本人が日本に帰る、ただそれだけのことだが、その男を見送るために集まり、共に楽しみ、時を分かち合う人々がいることが、5年間暮らした山間の集落マタ・マシャードの住人として認められた証しであり、この国で生きてきたことに対する最高の褒章であるに相違ない。
翌日はミシェルの家で送別会。一日置いて、9日にリオを離れ、サンパウロに向かった。
ブラジルを去るにあたって、いつこさん宅を訪問することは、このご時勢ではためらわれた。ましてや自分の行動を振り返るとなおさらである。それでも、挨拶なしに日本へ帰ってしまうのは、10年以上もの付き合いを思うと素っ気ない。玄関口で挨拶だけして辞去するつもりで連絡を取った。もっとも、それで収まるとはまず思っていなかったが。
夫の関根氏が亡くなった後、いつこさんはマンションに移り、次男と暮らしている。関根家の家族や友人達と宴に興じた邸宅の思い出は尽きないが、彼女が住むマンションはそこから歩いて行ける距離にある。緑色の外壁に囲まれた敷地内に入ると、広々とした空間に数棟の高層建築物が屹立し、レストランやジム、美容院などのサービス施設が充実している。彼女の子ども達の多くがそれぞれ家庭を持ち、離れて暮らしている現在においては、建物や庭の手入れが不要なマンション暮らしが最適なことは確かだ。
結局、意志薄弱を露呈し、家の中に上がり込んでしまった。上階からの眺望は格別で、フェイジョアーダとビールを出されてしまうと、新居の雰囲気がもたらす慎みがたちまち雲散し、我が家にいるかのような厚かましさでビールのお代わりを所望した。
一見不自由のない生活を送っているいつこさんであるが、老後の身の振り方で悩みは尽きないようだ。望郷の念と母国語の気楽さから終の棲家を日本に求める想いは強いが、もし本当に日本に渡ってしまったら・・・彼女が直接打ち明けたわけではないが、思うに、まず第一に子ども達との距離が遠ざかることの不安と寂しさがあり、次いでブラジルの水に慣れた身で、日本社会の個人に干渉的な慣習や規則、人間関係を、特に施設に入ることになればストレスなく受け入れられるかという問題、さらには半世紀もの間紡いできたブラジルの思い出や繋がりが切り離されてしまった時の喪失感、このようなものが、意識するかしないかにかかわらず、いつこさんを逡巡させているのではないだろうか。
今日に至るまで織り上げてきた人生のタペストリーは、壮麗であるが故に裁ち難い。窓下に立ついつこさんの小さな背中の彼方には、サンパウロの緑深き住宅街と遠くに霞む高層ビル群が広がり、その光景はまるで、彼女が瀟洒な文目のワンピースを着こなしている様に見えた。
サンパウロ、グアルーリョス空港に着いた時刻は、搭乗便の出発時刻のはるか前だった。新型コロナのPCR検査を空港で受ける必要があるからだ。検査で陰性が証明されてはじめて飛行機に搭乗できる。空港内で検査が受けられるようになるとは、ブラジルも気が利いていると言えるが、実は、検査会場の設置のニュースを知ってから程なく、検査受け入れ能力オーバーでサービスを停止するという記事を読みがっかりしたのだった。それが、出発も間近となった1月下旬に受け入れ態勢を大幅に強化してサービスを再開したのだ。検査を待つ人の列はごく短く、検査までの流れもスムーズで、非効率と待ちぼうけが常の官製サービスも時代とともに変わってゆくものだと感心した。もっとも、簡単にパンクして営業停止するドタバタを見せるところがブラジルらしいのだが。
待合室で自分の番号が提示されるまで待つ間、時間の経過とともに内心落ち着かなくなってきた。コロナ陽性かもしれないという不安が膨らんでくるのだ。もしコロナだった場合、今日の搭乗は認められず、ブラジルを出ることは叶わない。ここで陽性と診断された者はどうなるのだろう。隔離施設に連行されるのだろうか。それともマタ・マシャードに戻れるのだろうか。戻れたとしても、セルジオ達は陽性者を迎え入れてくれるのだろうか。いつこさんにはどのような顔で報告すればいいのだろう。なにより、彼女が感染していたら、いったいどんな責任が取れるというのだろう。今、私ができることは、検査結果を前に天に祈るしかない。神がそっぽを向いていないことを。
結果を待つこと3時間、運命の時が訪れた。検査結果の受け取り窓口に行き、番号票を見せると、担当の女性は、ちょっとここで待てと、カウンターの隅の方を指差し、彼女はその場から離れてターミナルの奥へと消えていった。じっと待ち続けるが、彼女は戻ってこない。私の不安は極限に達した。一組の中年の夫婦が後から窓口に現れ、時を待たずに別の担当者から検査結果を受け取ると、さっさと立ち去った。不安が絶望に替わろうかという時、くだんの女性が現れ、私の名を呼んだ。返事をすると、厚紙のファイルを渡された。
「はい、どうぞ」
「検査結果は?」
「陰性よ」
力が抜けた。
羽田空港のターミナルは閑にして漠であった。ぽつぽつと降り立った乗客は、ガラス窓が連なる空虚なほど明るい通路を黙々と進む。この先には新型コロナの抗原検査が待っている。既に我が身は日本の地にあり、動揺はない。羽田で陽性になる可能性も低いだろう。政府は、海外からの入国者が公共交通機関を利用しないことを要請している。了解、使わないようにしよう。だが、リムジンに乗るのはご免である。懐ろ豊かな駐在員と違い、私は裸同然で戻ってきたのだから。
検査を済ませ、ターミナルの外に出ると、陽は傾いていたが、空は明るく、ガラス張りのビルディングが西日に映えていた。2月というのにひどく暖かい。大家のセルジオが寒さを案じて私に持たせた厚手のジャンバーもトランクにしまい宅配便に預けてある。デイパックひとつを背に、身軽になった私のポケットの中には蒲田駅周辺の地図があり、自転車店の所在地に印がある。中古自転車を買って日野の実家まで漕いで帰るのも、コロナに翻弄され、狂騒する世においては一興であろう。空港から蒲田まで歩いた国際便の乗客などこれまで皆無に等しいと思われるが、歩けない距離ではない。そして外は春の陽気である。
ターミナルから伸びる歩道は磨かれた様にきれいに整備されていたが、人の気配は希薄であった。長旅の疲れもさほど気にならない。軽い高揚感が体内にみなぎる。おそらく私にとっては奇行こそが娯楽であり、奇行をもって知り得ることこそが生きがいである。。それはブラジルに渡ることも然り、ファベーラに住むことも然り、友人を前に大酒を呑み、下手なポルトガル語を聞かせるのも然り、スタンドバーの隣席の酔客と意気投合するのも然れば、泥酔して強盗に身ぐるみ剥がされるのもまた然り。道は続く。私は歩く。夕陽が私の頬を撫で、真直ぐに伸びるガードレールを黄色く照らしていた。
だが、本当に混乱を避けるつもりなら、もっと早く動いた方がよい。出入国前のコロナ検査や、帰国後の2週間待機があるとはいえ、日本政府の対応は、これまでのところ帰国者に対する制限は緩やかである。だが、今後もそうであるとは限らない。国外からの変異株の侵入に敏感な世論は海外からの入国者を警戒し、政府もこれを受けて締め出しにかかるかもしれない。状況的には今後感染者数が増加するおそれがあるだけに、帰国日を遅らすことは、それだけトラブルが起こるリスクが高まるだけだ。
それでも2月を選んだ理由は、帰国までの2ヶ月を存分に楽しみたいという魂胆があったからだ。貯金は乏しいとはいえ、もはや帰国を控え、使い果たしたところで何とかなる身分となった。そして現状は、裏を返すと遊び、旅行するにはうってつけの状況であったのだ。旅行客が激減したことで、航空券は格安で手に入り、座席は空いているのでゆったり移動できる。また、政府のコロナ対策の失敗を受け、ブラジルの通貨価値は著しく下落したので、クレジットカードでの決済が大幅に割安となった。節約の呪縛から解き放たれた私にとって、これまで我慢していた旅行や飲食を堪能することは、甘美な禁断の果実を味わうが如きである。コロナに罹らない限りにおいては。
マルシアとは鍼灸コースで一緒に学んだ仲だ。いわゆる「天然」な性格で、授業の聞き取りに苦労する私に講義内容を尋ねるようなおっとりした理解力の持ち主だが、飾らない態度は親しみを誘い、もうひとりの同級生マルシオを交えてよく行動を共にした。現在は感染を避けるためにリオから約150キロ東のブージオスという町に疎開中である。海に突き出た矢じりのような地形のこの町は高級保養地として名高い。
さらに北へ進むと、リオ・ダス・オストラスという町があり、そこには年来の友人ホムロが住んでいる。彼とはブラジルに移住する前の2006年初頭、旅行でリオを訪れ、コパカバーナで宿を探していた時に声を掛けられ、彼のマンションをねぐらと決めた時からの付き合いだ。長らくリオに住んでいたが、経済的苦境から今はこの町の息子の家に身を寄せている。
マルシアとホムロに会いに、リオから海岸沿いに北東へと向かう旅を1月下旬に企画した。
パラナ州のクリチーバに住んでいた10年前、日本人のソデさんのラーメン屋で働いた時に知り合ったのが、ウエイトレスをしていたアリーニだ。金髪ですっきりとした顔立ちの彼女はその容姿を鼻に掛けることもなく、彼女の接客は、まるで中学生が一生懸命に応対しているようなあどけなさがあった。私がソデさんの店に在籍したのは3ヶ月に過ぎないが、その後もアリーニとの友人関係は続き、彼女の家族との交流も持った。2016年にブラジルへ再渡航して以来、一度もクリチーバを訪れていない。
クリチーバからさらに足を伸ばした隣州のサンタ・カタリーナには、ブルメナウというドイツ移民により発展した町がある。ドイツ風の歴史的建造物が残るこの観光都市で、地ビールとドイツ料理を味わうのが憧れであった。アリーニ一家との再会、そしてブルメナウ観光を成就しようと、リオ北東部の旅から戻って1週間後の1月28日に出発を予定した。
パラナ、サンタ・カタリーナの旅から戻って10日後にはブラジルを離れ、日本へ向かう。
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リオの友人達に帰国の旨を伝えると、皆一様に残念がり、送別会の申し出が引きも切らず届いた。ありがたく思う反面、不安もまた胸中膨らんできた。既にクリスマスと新年会のパーティに誘われている上、友人達との送別会を重ね、さらに2度の旅行を敢行した後に、日本へ向けて飛び立つのだ。何事もなく無事に帰国できると思う方が不思議である。
フランス人のミュージシャン、ミシェルとは年明け早々に互いの調整がつき、共通の友人で、前の住居の大家だったペーニャ -ヒータとの水のトラブルの際には彼女の対応の不味さに閉口したものだが- の誕生日パーティも兼ねて、彼女の家で集まることになった。
ペーニャの生き方は意表を衝いたところがある。彼女は最近まで隣州のエスピリト・サントに住み、私立学校の用務に携わっていた。個人で加入するには高額な健康保険が雇用とセットになっており、勤務を続ける限り質の高い医療を受けられる筈だった。家賃収入と合わせると生活に問題はなさそうで、事実、ときおり彼女のフェイスブックに、小洒落たレストランで食事をする自身の姿がアップされていたのだから。だが、それを捨ててリオに戻ってきた。
パーティの当日、案内された彼女の家を見て驚いた。そこはファベーラ内の5、6階立ての古アパートの最上階で、ペントハウスといえば聞こえはよいが、つまりは屋上に当初の設計外に建てられた掘っ立て小屋群のひとつが彼女の家であった。しかもこの家は賃貸ではなく、購入したという。彼女にエスピリト・サントを離れた理由を尋ねても、リオが好きだからという答えしか返ってこなかったが、いろいろ事情があるにせよ、あまりに思い切りのよい行動には一種の神秘的な力が働いているかのようだ。
貯水タンクがむき出しの玄関前にテーブルを置き、料理やワインを並べ、呑み、食べ、話しが興に入ると、もはやそこは掘っ立て小屋ではなく、こっそりパーティをするのに格好の隠れ家であった。全てのブラジル人がパンデミックの渦中構わずパーティをするわけではなく、感染を避けて年末年始を家族のみでひっそりと過ごす人々もいる。彼等とすれば、この非常時におおっぴらに宴会をする連中に対しては眉もひそめよう。サッカーの本田圭祐が年末の送別会の様子をSNSにアップしたところ、批判が殺到した。もっとも、彼がボタフォゴに入団する際の期待が並外れて高かっただけに、大した活躍もせず外国チームに移籍してしまうことへのボタフォゴファンの失望と怒りが非難の炎を煽ったことは想像に難くないが。
ともあれ、ブラジルにはコロナウイルス何するものぞと平時と変わらずパーティを楽しみ、全国の感染拡大を助長する輩がおり、私やミシェルもそんな輩に属するのだ。この後ろめたさを忘れさせてくれるのが、酔いと、笑いと、ペーニャのペントハウスであった。
マルシアとその夫セルジオはコロナの感染が騒がれ始めた早々にブージオスに移り住んだ。二人とも感染を極度に恐れるタイプ、つまりパーティを開く者に眉をひそめる側の人間であったが、私が訪問の意向を伝えると、やや腰が引けながらも承諾してくれたのだ。
ブージオス行きのバスの車内はガラガラで快適、町の空は爽やかに青く、海もまた澄んだ青だった。マルシアは私を連れて周辺を案内した後、中庭にこしらえたテーブルにマグロとサーモンの刺身で山盛りの大皿を載せ、セルジオは秘蔵のワインの栓を次々に開ける。かつて食べたことのない量の刺身が胃袋に入る。当初は不安であったに違いないふたりによる心づくしの饗膳は、この非常時に疫病神になりかねない私にすら施される、天与の徳と呼ぶべきブラジル人の寛容と友情の発現なのだ。
リオ・ダス・オストラスのホムロは日中から夕刻にかけて路上でピザを売っているらしい。バス通りからそれらしき方角に向かいながら、道行く人々にピザ売りのホムロの居場所を尋ねると、全員が彼のことを知っている。彼のピザはそれほど有名なのかと半ば感心するが、何かが引っかかる。彼等の言葉の奥にうすら笑いの影が感じ取れるのだ。
ホムロは青果店隣りの空き家に面した歩道に小卓を置き、その横に佇んでいた。卓上には調理前のピザがラップに包まれ、積み上がっていた。てっきり久しぶりの再会にがっちりと抱擁をしてくるのかと思いきや、グータッチで迎える彼は、コロナの感染に怯える常識人のひとりであった。だが、彼の言動も常識的とは限らない。道を行き交う通行人に声を掛け、関心を引こうとするが、ある者には単なる声掛けにとどまらず、腕を振りかざしたり、深々とお辞儀をしたりと、あまりに大仰なジェスチャーは慇懃無礼になりかねない。また、ある女性に声を掛け、そっけない断りの言葉が返されると、「あんたのような金持ちにはこんなピザは口に合わないだろうな」などと、皮肉をまくしたてる。道を尋ねた人達の反応にうっすらと軽侮の色が混ざっていた理由が判明する。
とはいえ、彼の奇矯な振る舞いは昔から覚えがあった。直情径行で、そつのない応対が不得手で、興奮しやすい彼の性格は、幅広い個性を包容するブラジル社会においても浮き気味であった筈である。だが、そんな彼だからこそ、私達は友情を持ち続けたのだろう。彼とはタイプが異なれど、私も日本では集団行動が苦手で、周囲から浮くことが常であった。深酒した時の奇行はホムロの比ではない。彼はそんな私の性質を察知して、息が合うと直感したのかもしれないし、互いが身に纏う孤独が共鳴し、ある種の安心を覚えるのかもしれない。
直径30センチのピザが1枚7レアル(140円)である。用意した25枚をすべて売り切っても、材料費を差し引くと儲けなど微々たるものだ。陽が傾き、通勤帰りの人の往来が増えてきたが、売れ行きは芳しくない。ホムロいわく、コロナ禍で政府は低所得者に給付金を支給していたが、最近支給が打ち切られてから、売り上げが大幅に減ったらしい。給付金を受け取る必要のない所得層は、彼の売るピザの5~6倍もの値段のピザをデリバリーで注文し、一方で収入が少ない者は、わずか7レアルのピザを買うのを躊躇する。路上で売る限り、彼の商売に未来はない。
そこで彼はデリバリーに活路を見出すつもりだ。特技であるビデオ作成能力を活かし、フェイスブックを媒体に高価格設定でデリバリー注文を始めようとしている。ただし、彼のプロモーションビデオを観て、映像と実物のピザの違いに度肝を抜かれたが、友人である私は、彼に頑張ってもらいたいと祈るのみである。
街灯が道をぼんやりと照らし、人の往来がまばらになる頃、ようやく20枚が売れた我々は帰途についた。
リオの国内線の玄関口であるサントス・デュモン空港は人影がまばらで、案内板で確認するまで、クリチーバ行きの便が運休していないかと不安になるほどであった。無事チェックインを済ませ、安心感と通貨安で心が大きくなり、ターミナル内の喫茶店でコーヒーとホットサンドを注文するが、市価の3倍の値段を聞いて、たちまち心がしぼんでしまった。搭乗の段になると、それなりに乗客は集まったが、隣席に人は居らず、1時間半のフライトをゆったりと過ごした。
アリーニとその家族が営むレストランに着いたのは午前10時過ぎ、仕込みに忙しい時間帯であった。最後に彼女達と会ったのが7年前、その間にアリーニは結婚し、姉のジゼーリは二人目の子どもをもうけていた。ユーモア溢れた父親は他界したが、母親のクレーシー、姉妹のそれぞれの夫を含む家族全員が集結し、こじんまりした間口の店を支えている。
コロナ以前は朝昼と営業していたが、コロナの蔓延に伴いクリチーバでもロックダウンが実施され、その間は弁当の販売と宅配しかできなかった。ロックダウンが解除された後はランチの営業を開始し、コロナ前ほどは売り上げていないながらも、忙しい業務の最中に私を構いに裏庭を覗くアリーニ達の顔は輝いており、逆境を乗り越えようとするエネルギーがみなぎっていた。
いったんクリチーバを離れ、ブルメナウへ行き一泊。翌日クリチーバに戻るバスは事故渋滞で予定時刻を大幅に遅れて到着し、アリーニ夫妻の家で待ちぼうけを喰わされている大家族をうんざりさせたが、日本のルーを使ったカレーは一家全員の舌をとろけさせ、一瞬にして皆の機嫌をひっくり返した。ソデさんのラーメン屋の人気メニューだったこの味は、以前勤めていたアリーニと母親のクレーシーだけが知っており、カレーの美味しさが忘れ難いことを聞いた私は、家族全員に作ることを約束していたのだった。
ブルメナウに行く前に、好奇心からソデさんの店を覗いたことを話題にした。昼時にかかわらず店は閉まっていたこと、塀の中には猛犬が2匹放たれていたこと、看板や案内板はさびれてないので営業は続けていそうなこと等々。冗談めかして、強盗に入られたから大型犬を放っているのではと言って皆を笑わせたが、それがあり得るかもしれないことは、ラーメンハウス初出勤の途上で強盗に襲われた私はもちろん、この街の治安の悪化を肌で知る彼等も察しているに違いなかった。
翌日はジゼーリ夫妻の家で昼食。日当たりの良いテラスハウスに住む彼等は、私とアリーニ達が到着する間、着々と料理の準備を進めていた。夫妻は7年前と同様、絶えず体を動かしながら、料理や子どもの世話に気を回しつつも、私や妹夫婦を気遣い、大声で話し掛け、笑う。総勢8名の胃袋を満たして余りある食材が、みるみる調理されてゆく。いつも私は彼等の強靭な生命力に圧倒される。この旺盛なエネルギーと家族愛こそ、ブラジルで生き、栄えていくために不可欠な要素であり、彼等の人生における幸福の源泉である。
かつてはエステサロンの開業を目指し、美容学校を卒業してエステティシャンとして働いていたアリーニとジゼーリ。学校の教師だったジゼーリの夫。今では一丸となって、レストランを切り盛りしている。彼等が成功しないで、いったい誰が成功できるのだろう。酒の勢いを借りて私も負けずに大声で笑いながら、彼等の未来と私の未来を思い比べた。
帰国日が近づいてきた。幸いにして体調に変化はない。思い返せば、12月に帰国を決めて以来、引きも切らず友人達と会ってきた。大家のセルジオ夫妻とその家族でクリスマスを祝った後、新年会は近所の知人の招きで、それこそ「眉をひそめる様な」パーティに出席した。2度に渡って旅行をしたその後にも、今では判事となった旧友ジョアンに会い、さらに鍼灸コースの友人マルシオと送別の杯を交わした。「もう充分だろう」と神様が天罰を与えるべく頭上に降臨しているに違いない。さあ、帰国に備えなければ。
ところが我が友人達は徹底的に名残を惜しんでくれるようだ。大家のセルジオは家族や近所の友人達を呼んで送別会を開く気満々である上、ミシェルまでが送別会をしようと意気込む。さすがに私は青くなって、セルジオには身内だけの集まりにしようと懇願したので、新年会に我々を呼んだアナひとりを招待することで彼は応諾した。ミシェルとは、広く友人に声掛けをしたい彼と私との意見が折り合わず、一時は集まりを見合わせようとの心境にもなったが、結局彼の説得に私が折れ、セルジオ家の翌日にはミシェル家で連日の送別会を行なうことになった。
2月6日、最後の患者の鍼灸治療を行なった後、寿司と天ぷらを作り、2階に上がると、居間のソファにはセルジオと妻のエロイーザ、そして彼女の孫にあたる娘ふたりが腰かけていた。広いテーブルにはグラスが並び、ビールは既に栓が抜かれていた。セルジオはカジュアルな軽装だが、女性達は口紅も鮮やかな化粧を施し、その華やかな装いはパーティの盛り上がりを予感させた。
だが、盛り上がりの度合いは私の予想をはるかに超えていた。玄関前にアナが現れたのに続き、新年会で会ったメンバーが続々と入場し、部屋はたちまち人で賑わった。コロナなぞどこ吹く風と、食べ、呑み、喋り、笑い、議論し、踊り、そして呑み、食べる。起こってしまったことは仕方がない。私も一団に溶け込み今を楽しむ。ブラジルでは自分の都合でコントロールできるものなど存在しない。風の吹くまま、水の流れるまま、たゆたうのみだ。
無為にして為さざる無し。ポルトガル語の不得手なひとりの日本人が日本に帰る、ただそれだけのことだが、その男を見送るために集まり、共に楽しみ、時を分かち合う人々がいることが、5年間暮らした山間の集落マタ・マシャードの住人として認められた証しであり、この国で生きてきたことに対する最高の褒章であるに相違ない。
翌日はミシェルの家で送別会。一日置いて、9日にリオを離れ、サンパウロに向かった。
ブラジルを去るにあたって、いつこさん宅を訪問することは、このご時勢ではためらわれた。ましてや自分の行動を振り返るとなおさらである。それでも、挨拶なしに日本へ帰ってしまうのは、10年以上もの付き合いを思うと素っ気ない。玄関口で挨拶だけして辞去するつもりで連絡を取った。もっとも、それで収まるとはまず思っていなかったが。
夫の関根氏が亡くなった後、いつこさんはマンションに移り、次男と暮らしている。関根家の家族や友人達と宴に興じた邸宅の思い出は尽きないが、彼女が住むマンションはそこから歩いて行ける距離にある。緑色の外壁に囲まれた敷地内に入ると、広々とした空間に数棟の高層建築物が屹立し、レストランやジム、美容院などのサービス施設が充実している。彼女の子ども達の多くがそれぞれ家庭を持ち、離れて暮らしている現在においては、建物や庭の手入れが不要なマンション暮らしが最適なことは確かだ。
結局、意志薄弱を露呈し、家の中に上がり込んでしまった。上階からの眺望は格別で、フェイジョアーダとビールを出されてしまうと、新居の雰囲気がもたらす慎みがたちまち雲散し、我が家にいるかのような厚かましさでビールのお代わりを所望した。
一見不自由のない生活を送っているいつこさんであるが、老後の身の振り方で悩みは尽きないようだ。望郷の念と母国語の気楽さから終の棲家を日本に求める想いは強いが、もし本当に日本に渡ってしまったら・・・彼女が直接打ち明けたわけではないが、思うに、まず第一に子ども達との距離が遠ざかることの不安と寂しさがあり、次いでブラジルの水に慣れた身で、日本社会の個人に干渉的な慣習や規則、人間関係を、特に施設に入ることになればストレスなく受け入れられるかという問題、さらには半世紀もの間紡いできたブラジルの思い出や繋がりが切り離されてしまった時の喪失感、このようなものが、意識するかしないかにかかわらず、いつこさんを逡巡させているのではないだろうか。
今日に至るまで織り上げてきた人生のタペストリーは、壮麗であるが故に裁ち難い。窓下に立ついつこさんの小さな背中の彼方には、サンパウロの緑深き住宅街と遠くに霞む高層ビル群が広がり、その光景はまるで、彼女が瀟洒な文目のワンピースを着こなしている様に見えた。
サンパウロ、グアルーリョス空港に着いた時刻は、搭乗便の出発時刻のはるか前だった。新型コロナのPCR検査を空港で受ける必要があるからだ。検査で陰性が証明されてはじめて飛行機に搭乗できる。空港内で検査が受けられるようになるとは、ブラジルも気が利いていると言えるが、実は、検査会場の設置のニュースを知ってから程なく、検査受け入れ能力オーバーでサービスを停止するという記事を読みがっかりしたのだった。それが、出発も間近となった1月下旬に受け入れ態勢を大幅に強化してサービスを再開したのだ。検査を待つ人の列はごく短く、検査までの流れもスムーズで、非効率と待ちぼうけが常の官製サービスも時代とともに変わってゆくものだと感心した。もっとも、簡単にパンクして営業停止するドタバタを見せるところがブラジルらしいのだが。
待合室で自分の番号が提示されるまで待つ間、時間の経過とともに内心落ち着かなくなってきた。コロナ陽性かもしれないという不安が膨らんでくるのだ。もしコロナだった場合、今日の搭乗は認められず、ブラジルを出ることは叶わない。ここで陽性と診断された者はどうなるのだろう。隔離施設に連行されるのだろうか。それともマタ・マシャードに戻れるのだろうか。戻れたとしても、セルジオ達は陽性者を迎え入れてくれるのだろうか。いつこさんにはどのような顔で報告すればいいのだろう。なにより、彼女が感染していたら、いったいどんな責任が取れるというのだろう。今、私ができることは、検査結果を前に天に祈るしかない。神がそっぽを向いていないことを。
結果を待つこと3時間、運命の時が訪れた。検査結果の受け取り窓口に行き、番号票を見せると、担当の女性は、ちょっとここで待てと、カウンターの隅の方を指差し、彼女はその場から離れてターミナルの奥へと消えていった。じっと待ち続けるが、彼女は戻ってこない。私の不安は極限に達した。一組の中年の夫婦が後から窓口に現れ、時を待たずに別の担当者から検査結果を受け取ると、さっさと立ち去った。不安が絶望に替わろうかという時、くだんの女性が現れ、私の名を呼んだ。返事をすると、厚紙のファイルを渡された。
「はい、どうぞ」
「検査結果は?」
「陰性よ」
力が抜けた。
羽田空港のターミナルは閑にして漠であった。ぽつぽつと降り立った乗客は、ガラス窓が連なる空虚なほど明るい通路を黙々と進む。この先には新型コロナの抗原検査が待っている。既に我が身は日本の地にあり、動揺はない。羽田で陽性になる可能性も低いだろう。政府は、海外からの入国者が公共交通機関を利用しないことを要請している。了解、使わないようにしよう。だが、リムジンに乗るのはご免である。懐ろ豊かな駐在員と違い、私は裸同然で戻ってきたのだから。
検査を済ませ、ターミナルの外に出ると、陽は傾いていたが、空は明るく、ガラス張りのビルディングが西日に映えていた。2月というのにひどく暖かい。大家のセルジオが寒さを案じて私に持たせた厚手のジャンバーもトランクにしまい宅配便に預けてある。デイパックひとつを背に、身軽になった私のポケットの中には蒲田駅周辺の地図があり、自転車店の所在地に印がある。中古自転車を買って日野の実家まで漕いで帰るのも、コロナに翻弄され、狂騒する世においては一興であろう。空港から蒲田まで歩いた国際便の乗客などこれまで皆無に等しいと思われるが、歩けない距離ではない。そして外は春の陽気である。
ターミナルから伸びる歩道は磨かれた様にきれいに整備されていたが、人の気配は希薄であった。長旅の疲れもさほど気にならない。軽い高揚感が体内にみなぎる。おそらく私にとっては奇行こそが娯楽であり、奇行をもって知り得ることこそが生きがいである。。それはブラジルに渡ることも然り、ファベーラに住むことも然り、友人を前に大酒を呑み、下手なポルトガル語を聞かせるのも然り、スタンドバーの隣席の酔客と意気投合するのも然れば、泥酔して強盗に身ぐるみ剥がされるのもまた然り。道は続く。私は歩く。夕陽が私の頬を撫で、真直ぐに伸びるガードレールを黄色く照らしていた。