洞窟に閉じ込められて救出されたタイの子どもたちが9日間の出家・修行生活に入ったという。
タイではこうした出家修行は一般的だとも報道があった。
助かった子どもたちとは逆に、助けようとした潜水士が亡くなっている。
その追悼と、支援した国内外に向けた感謝の意がこの出家には込められているそうだ。
救出にあたっては、最初の4人、翌日に4人と段階的に行われ、「よし、あと5人」、そして最後に残った一人の救出を世界が固唾を飲んで見守った。
救出された子どもたちの出家報道を載せた新聞を目にしながら、この国では「残りの6人」と呼ばれる人々の死刑執行の速報が流れてきた。
「残る6人」の死刑囚のうち、最初2名の執行が報道され、時間が経つにつれ「残る6人」全員の執行が伝えられた。
オウム真理教という教団に出家した彼らが、いったい何のために出家したのかわからないまま殺されてしまった。
出家は家を出て修道し、自己の救済を目的とするものだと思う。彼らも純粋に自分の存在の意味を知ろうと教団に身を寄せたに違いない。
計り知れない被害者の苦しみと、国家によって繰り返される殺人、耳を塞ぎたくなる現実を見聞して、その世界を離れて私も一瞬「出家」してみたいと思った。
彼らによって行われた恐ろしい犯罪を生み出す社会、その彼らを殺していく社会。見殺しにしている自分。この社会に生きることに怖くなったとき「出家」ということが浮かんだ。
ただ、在家仏教徒である。在家信者を自認したときに「出家」は逃避に他ならないものになる。
逃げることの許されぬこの娑婆世界、この社会以外に身をおく場所はない。
殺されたのは「残りの6人」を生きた人ではない。一人ひとりのかけがえのない人生を生きた人間だ。私たちの社会の人と人の間に生きた人間だ。
死刑に処されることもなく生き残っている私もまた、もしかすると国家にとっては「残りの人数」の一人なのかもしれないと思った。
ちょうど昨日、「人権を考える市民の集い」でドリアン助川さんから、「生きる意味がないものはない」と聞いた。
被害者代表の方が「面会したい人(死刑囚)もいた」と、それも叶わぬことになった。
法相や政権を揶揄したり批難したいわけではない。この国家を形成する構成要員である己を憂う。
タイの少年らが追悼の意を示したことにならって、私もまたこの一連の事件で生命を絶たれた人々に憶いをいたして本堂で手を合わせた。
閉じ込められて救出される残りの一人としてか、国家に切り捨てられていく残りの一人としてか。
いずれにしても残りの一人として。
出家は叶わぬが、出世間の教えをいただいている。
http://www.higashihonganji.or.jp/news/declaration/25067/