遊煩悩林

住職のつぶやき

出仕証明

2010年11月25日 | ブログ

・・・といわけで京都へ。
東本願寺の報恩講にお参りしました。新調された鐘の音色も聞かせていただいてきました。
いつもなら御影堂門をくぐって正面からの一般参拝ですが、今回はじめて袈裟と衣をつけて、御影堂裏の式務所から後堂、そして後門からという、後ろから後ろからの「出仕」をさせていただきました。
たった一座のみの出仕でしたが、毎年一座は参拝ならぬ「参勤」したいというのが興奮冷めやらぬ今の心境です。
式務所では、ちゃんと「出仕証明」と初参勤記念の菓子をもらってきました。
「出仕証明」とは、ご門徒には聞き慣れない名称ですが「報恩講に参勤しましたよ」という証明書です。
何でそんな証明書があるのか。コメントは差し控えておきたいところですが、たとえば約9000ヶ寺といわれる派内の寺院から一人ずつ参勤した場合、9000人の僧侶の座る順番を決めなくてはならないということがあります。年功序列でいいじゃないかということもありますが、そうじゃないところがミソなんです・・・。

真宗本廟 報恩講 http://www.higashihonganji.or.jp/
報恩講 映像配信 http://www.higashihonganji.or.jp/
(下の画像は東本願寺ライブカメラより http://higashihonganji.or.jp/about/broadcast/

Goeidoさてさて、同じ日の夕刻。
梶原敬一氏の「教行信証に学ぶ会」がありました。

「難度海」と「無明の闇」を明らかにする学びによって「救われざるもの」としての自己を発見していくのが浄土真宗である

と、おっしゃっておられたように了解しました。
その後は、木屋町へ、花見小路へと・・・。

それでも翌日は、何とか日中の法要に一般参拝し、その後、大谷大学に足を向けました。
新発見された親鸞聖人ご真筆の断簡が出陳中http://www.otani.ac.jp/news)という大谷大学博物館の「親鸞 その人と生涯」特別展が開催されています。
懐かしのキャンパスを歩き(随分、様変わりしていましたが・・・)、若い学生の姿に自分の「おじさん」加減を知らされつつ、ここに在籍した4年6ヶ月(「6ヶ月」は卒業保留による)は何だったのだろうと感慨にふけってみました。

大谷大学博物館 「親鸞 その人と生涯」特別展
http://www.otani.ac.jp/kyo_kikan/museum/

Photo_2 さて、帰りは京都市中心部を避けて北大路から東に向かい白川通をまわって京都西インターに向かったところ大誤算。(二日酔いのせいか?)
東山は言わずと知れた紅葉のメッカ。
報恩講中の本願寺もさることながら「ここにこそ!」人と車が集中しているのでした。
それでも、車中から垣間見る東山の紅葉と人の群れに、どうして紅葉は人の心と身体を動かすのだろうと思いながら京都をあとにしたのでした。

「秋」の「心」で「愁」といいますが、気になるのは、紅や黄の絨毯の如し落ち葉は一見に値するのでしょうが、黄紅の落葉の運命です。掃き捨てられるのか、現場よろしくエアーで吹き飛ばされるのか、「葉っぱのフレディ」のごとく、次のまたその次のいのちに資していくのか・・・。

報恩講は28日、御満座を迎えます。

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真実の音

2010年11月21日 | ブログ

京都、真宗本廟(東本願寺)の梵鐘が吊り替えられ、その撞初式(ツキハジメシキ)が、執り行われたそうです。(東本願寺写真日記http://www.higashihonganji.or.jp/
東本願寺が江戸時代に4度の火災で焼失していることを考えると、吊り替えられる前の梵鐘は400年も前から使われていたというから驚きです。
その驚きとは裏腹に、それだけの歴史をもった梵鐘の吊り替えがやけに地味に、ひっそりと行なわれたような気がします。私が知らなかっただけなのかもしれませんが・・・。
一末寺の感覚としては、梵鐘を吊り替えるとなると大騒動になるような気がするのですが、ご本山ではそうでもないのでしょうか。
もちろん、それなりに大変だったでしょうが・・・。
新しい鐘は鋳造会社を営むご門徒の御寄進によるといいますが、これまでの梵鐘はどんなイワレがあったのか、今まで関心を寄せたこともなかったのですが気になるところです。
常照寺には鐘楼と山門を兼ねた鐘楼門が建っていますが、その梵鐘も同じ鋳造屋さんの製作によるものです。
完成したのは、まだ15年も経たない前のことですから、ご本山の400年の響きなどとは比べようもありません。
ただ、伊勢の地にあって

正覚の大音 響き 十方に流る

南無阿弥陀仏
まさか まさか 伊勢の地のまんなかで
梵鐘(かね)の音(ね)が聴けるとは
おお嬉しや もったいなや
夢のまた夢と聞かされていただけに
なおのこと 嬉しくて ありがたくて
南無阿弥陀仏

とのご門徒の手紙のごとく「伊勢」という神都など、梵鐘を構える寺がなかった土地もあります。
何もそれは強制的に鐘を撞くことが許されなかったわけではないのでしょう。
「カミサマ」への遠慮とよくいいます。
伊勢の「神領民」には「神さまのお側で『不吉』な鐘を鳴らすのはけしからん」ようなことをいう人が今でもいらっしゃいますが、私たちにとって鐘の音は

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり

です。
「無常」、何ごとも「常でない」という真実をいただくのですから、何も「不吉」な「穢れ」を知らせているのではありません。
それは「真実の鐘の音」です。
伊勢の寺に梵鐘がないのは、戦時中の供出でもなく、廃仏的な強制でもなく、鐘が知らせる真実から目を背けてきた結果なのかもしれません。
だとすれば、自分にとって不都合なことをすべて不吉や穢れなどとして排除しようとする心を打ち響かせてくれるのが梵鐘の響きでしょう。
東本願寺で400年響き続けた鐘の音は、ただ時を知らせるだけの鐘ではなかったはずです。
さて、宗祖親鸞聖人の749回目のご命日を数える報恩講が28日までの7昼夜、今年もお勤まりになります。
せめて一座だけでも出仕して、新たな鐘の音も聴いてきたいと思います。

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夢から覚める夢

2010年11月13日 | ブログ

10日よる、常照寺で組の推進員(宗派の運動を推進されるご門徒)の集いがありました。
宗教について、「夢を叶える宗教」と「夢から覚ます宗教」という2つの視点で問題が提起されました。
「夢を叶える宗教」というのは、夢の数だけつくられてきた神仏です。つまり欲望の数だけ「神」や「仏」がつくられてきたということです。国家安泰からはじまって家内安全・商売繁盛から近現代では合格祈願や交通安全などの神仏です。
「お祈りをして願いを叶えてもらおう」というニーズに対して応える宗教です。
それに対して仏教、とくに浄土真宗はどうかというと「夢を叶える」にはほど遠い教えです。
講師の片山寛隆氏は、「夢から覚めよ」という声が「ナムアミダブツ」なのだといわれました。
ただ、私たちはいくら「覚めよ!」といわれても夢を見続ける存在です。その自覚のあるなしがポイントです。
片山氏の表現を借りれば、私という存在はいくら仏法を聞いても「夢から覚める夢を見たという夢から覚める夢を見たという夢から覚める夢・・・」と永遠にくり返すような性質でしかないのです。
どこまで夢から覚めたと思っていても、実はそれがまだ夢の中であったとの気づき、これが浄土真宗の人間像といってもいいのでしょう。
「夢を叶える宗教」は、言い換えれば夢を売るわけです。「宝くじが当たりますように」と、夢を見させます。
「夢から覚ます宗教」に対していえば、それは人を「眠らせていく宗教」といってもいいのかもしれません。
「拝んだらいいことがありますよ」は、逆にいえば「拝まないと悪いことがありますよ」という脅しにつながっていきます。
いくら拝んでも「病気が治らない」「子どもが授からない」のは、拝み方が悪いんだとか、ご祈祷料が少ないからだ・・・とか、世間というところに出ると「夢を叶える」という甘い謳い文句の裏側でいろいろという人が出てきます。
人間を「眠らせていく」というのは、欲を満たすことでしか生きていないことをいうのです。
夢が叶ったやら、叶わないやら、思いどおりにいったとか、思いどおりにいかないとか、そんなことばかりで日が暮れていくのです。
「夢を叶える宗教」は人間を眠らせ「愚民」をつくりあげます。
かつてそれが政治的に「戦争」と「差別」に利用されてきたことを考えれば、私たちは「目を覚まさせる教え」を聞くことがなければ、いつまでも愚民として眠り込んでいくしかありません。
ただ「夢から覚める宗教」の「夢から覚まさせる教え」を聞いて、私という愚民が目を覚ますかというとそうではなく、いつまでたっても「夢を見続けている」ことを知らされるばかりです。
「夢から覚める」というのは、すなわち「浄土に生まれる」こと、つまり「成仏」ということがなければいつまでも夢の中なのです。
寺が存在し、仏教を伝えるのは、それを聞き続けなければならない私のためなのでした。

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勤行中は静粛に

2010年11月11日 | ブログ

東本願寺の研修道場で9日から1泊2日の日程で「若坊守研修」が開催され、坊守(*「若」ではない)が2人の子どもとともに参加しました。
子育てに追われる「若坊守」世代のために託児室が設けられてあったおかげで、子どもたちはご満悦の表情で帰ってきました。
他の参加者の子どもたちと一緒にお風呂に入ったり、同じ部屋で寝たりするというのは、彼らにとってはたまらない経験だったようです
一方の坊守はお疲れの様子でしたが、参加できてよかったと。
さて、東本願寺では毎朝「おあさじ」という晨朝勤行がつとまります。
宿泊者は必ずお参りすることになっているのですが、「子どもたちは?」と、ちゃんと座っておれたのかと心配になって尋ねたところ・・・。
「それが・・・」
そこにお参りされていたご婦人に、2度のお叱りをいただいたそうです。
勤行中に「もう終わったの?まだなの?」と話かける2歳の長女に対して「うるさい!静かにしなさい!」と。
外に連れ出そうかと迷いつつも、その場を子どもと共有したかった妻は子どもに「シィーッ!」と示して座っていました。
やがて、再びモジモジしだしたところ・・・2度目のお叱りに妻はいたたまれずに子どもを外に連れ出したのでした。
ご婦人にはそのような意味で二重の不快な思いをさせました。
静かにお参りをしたいというお気持ちと、叱りたくもないのに叱るという。
叱るという行為は勇気のいることだったと思います。言いたいけど言わずに辛抱しておられた方もいらっしゃったと思います。
その中でたまたまそのご婦人が勇気を出してお叱りを下さった。
たまたまそれが一番近くに座っていた長女に向けられたにすぎませんが、それによって決して意図的ではないにしても数組かの親子がその場を離れたとすれば、仏前からどれだけかの参拝者を排除させる言葉をご婦人に吐かせてしまったのです。
読経を妨げる行為は場合によっては軽犯罪にあたるともいいますが、この場合どうなのでしょう。
儀式を中断させるほどの度を過ぎた長女の雑音であったのか、逆に度を過ぎたお叱りであったのか、誰にも判断はできません。
今月21日からは報恩講が、また来年には御遠忌法要が勤まり、全国から何十万人もの参詣の方が東本願寺にどのようにお参りするのか、その態度は参詣する一人一人に問われていることです。ただ、その中の一人がその行儀作法について「このようにお参りしなければならない」という制限をつけるとすれば、それは同時にだれかを排除していくことにもなります。
「マナー」はそれをまもる人と人の人間関係を成立させる条件として「人間」間で結ばれる暗黙の契約ですが、同時にそれは「違反者」をつくり「排除」する手段でもあります。
「勤行中は静粛に」は常識です。それは常識が通じる人間(ジンカン)においてです。? 仏さまのお救いは常識・非常識を超えています。「人間」と「仏」の関係を阻害する条件はありません。
子どもはうるさいし、どうせ意味がわからないのだからお参りさせないのか、それとも、たとえうるさくて意味がわからなくてもお参りさせるのか。
みんながいっしょににお参りするってことがいかに難しいことかを考えさせられると同時に、だからみんなでお参りすることが尊いのだと思いました。

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般若湯は339度で

2010年11月02日 | ブログ

20101031_091331 10月最後の日曜日。
常照寺の本堂で仏前結婚式が執り行われました。
住職の2度目の結婚式というわけではありません。
私が導師として司婚者をつとめ、坊守が式事と司会をするという「あり得ない」設定でしたが、「仏式」にこだわる両親と、それを自分たちの決断として選んだ新郎新婦の二人の熱意に、頼まれればお断わりする術もなく司婚をお引き受けしたのでした。
式次第の作成から準備、そして執行するなかで、結婚式は一体「誰が」「誰の」ために、そして「何のため」にやるのかと、6年前の自分たちの結婚式のときよりも考えさせられたような気がします。

20101031_091408 前日まで台風の行方にやきもきしながら、新郎新婦やご両親らと、お寺のお掃除から立花まで諸々の支度を整えました。
お寺は、空間的には何でもできるような「箱」的な設えにはなっていますが、かといって結婚式をやるとなると日頃の仏事に使うこともないようなものが必要になってきます。
今回の結婚式の次第を、新郎新婦とつくっていく中で論議となったのが「固めの盃」。
東本願寺発行の仏前結婚式次第には「式杯」として「三三九度」の杯事が記されています。
やるならやるで、酒と肴を用意しなくてはなりません。私が日ごろ飲んでいる二級酒とつまみでは間に合わんことです。
付随して「オチョーメチョー(雄蝶・雌蝶)」の酒器から「結び昆布」や「寿留女(スルメ)」などの肴。それを載せる折敷や「カワラケ(土器)」の杯・・・。式場はすべて椅子席ですから、酒肴をならべる台やテーブル・・・などなど、乾杯するだけでもそれなりにオオガカリになります。雄蝶、雌蝶を持って酌して廻ってもらう係役も配置しなくてはなりません。
そんなこんなでいろいろ相談した結果、どうせ披露宴で乾杯するんだし、ということで「339度」は省略!となりました。
ただ、新婦の父親の提案で、式の中で両家の親族全員が焼香をしました。それが何だかとてもしっくりきたように思いました。
そもそも「お神酒(ミキ)」というのは聞いたことがありますが「仏酒(ブッシュ?)」なんて聞いたこともありません。
仏教では古く「不飲酒戒」という戒律さえあるのですから「般若湯」などと呼んだわけで・・・、だいたいスルメを寿留女とあてる語呂合わせ的な発想自体がどうも馴染まないような気がするのです。
浄土真宗はそのような戒律をまもれない人の教えだからといって、式中にわざわざ「交杯」をするってわけでもないでしょう。
お祓いや、清めと称しても、ますます浄土から遠ざかるだけです。

そもそも「女犯を禁ずる」ような戒律をもつ古い仏教教団には「仏前結婚式」なんて「あり得ない」発想だったかもしれません。当然、現在のような「仏前結婚式次第」ようなカタチはなかなか作れなかったのでしょう。
神前の結婚式は、大正天皇の婚儀を模して明治時代にはじまったといいます。それまでの結婚式は自宅の仏間でやるというのが普通だったと聞きます。
それ以前から、在家では一般的に、結納を交わして婚約を整え、そして固めの盃を交わすことで婚儀を整えてきたのだとすれば、そこで行なわれてきた三三九度は「世事」であって「神事」でも「仏事」でもなかったのだと思います。ましてや「339」という数が陰陽道から来るのだとすれば、「仏式」には「世事」は持ち込まない方が相応しいような気がします。とはいっても実際は「婚姻届の署名」や「指輪の交換」などを組み込んだ仏前式なども自由に企画されています。
寺の住職だからではなく、客観的に「仏前結婚式」正直なかなかいいと思います。とくに神都と呼ばれる伊勢人の選択肢に仏前結婚式があるのは非常に重い意味があります。実際にやるのは大変ですが、選択肢のひとつとして、また寺のひとつの責任を果たす意味でもアリです。

結婚式があると知って事前に仏具を磨いて下さっていたご門徒、式後、雨にもかかわらず幕を降ろしに来てくれたご門徒、土日の両日、我が家のチビ助たちを預かってくれた妻の両親にも感謝です。彼らにも見ていてほしい現場ではありましたが、居れば準備もままならず、本番も台無しにしてしまう恐れさえ・・・事実、前日に届いたお飾り用の餅は知らぬ間にモシャモシャと・・・。

・・・いろいろな意味で、寺での結婚式は「知恩」に尽きると思いました。
「恩を知る」ということ。そして「恩を知らせる」ということ。
それまでは「当たりまえ」で「恩」などとも思わなかった事柄が、「当たりまえ」でなくかけがえのない「ご恩」だと気づかされるとすれば、そこから「報恩」の生活がはじまることになります。
自分たちの6年間が問われます。まだ、間に合うか?

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