遊煩悩林

住職のつぶやき

同じ根っこ

2017年06月25日 | ブログ

今年も福島のこどもたちを三重へプロジェクトが開催される。

http://booses.net/2017.html


開催に向けての実行委員会で、スタッフの事前研修会について話し合っていた時、「今や1F(福島第一原子力発電所)から2F(福島第二原子力発電所)に関心が移ってきている」と聞いた。

廃炉が決まっている1Fがまだまだ放射性物質を放出しているなかで、2Fの再稼動を目指す動きがあるという懸念です。

数日前にたまたま見かけたこんな言葉が頭をよぎりました。

恥を忘れた人間は 人間であることをやめた人です

洪成潭『週刊金曜日』

「2F」に向けられた言葉ではなく、朝鮮学校への補助金再開を求める活動のなかで生まれてきた言葉ですが、根っこのところでつながっていることを感じます。

福島第一原発の事故が起きた半月後、東日本大震災によって校舎が全壊した東北朝鮮初中級学校に宮城県は補助金の打ち切りを伝えたという。

補助金の打ち切りは何も宮城だけの話ではない。『(週間)金曜日』によれば、「ヘイトスピーチ解消法」が成立するのを先回りして文部科学大臣が各都道府県に補助金交付の再考を促す通知を出していたという。それは「朝鮮学校は人権番外地」とのメッセージだった、と。そして「植民地主義に未だ終止符を打てないこの社会の恥を射抜く言葉として、「恥を忘れた人間は人間であることをやめた人です」と。

沖縄の基地問題も同根です。

さらに『金曜日』には、「恥をそれとして認識すらできぬ者たちが跋扈する今、人間であることの条件は分かち持てるのだろうか」。私の「無関心」が「子どもを狙った恥知らずな差別を支えている」とも。


親鸞は

無慙愧は名づけて人とせず

『教行信証』

という。

http://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq0000000me1.html


罪に対して痛みを感じ、罪を犯したことを羞恥する心。「慙愧」がなければ人ではない、と。

「恥をそれとして認識すらできぬ者」が私だとすれば、私はもはや人ではない。ひとでなし。

福島のこどもたちの「放射能のないところで遊びたい」ということばによって、ようやく私の人間性が問われ、それに応えようとするみんなが人間性を回復させられている。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

永遠の微調整

2017年06月09日 | ブログ

永代経のお知らせです。

名古屋から荒山優さんにお話に来ていただきます。

うちの子どもたちが優さんに会いたくて会いたくて・・・ 

「優さんは、遊びに来るんじゃないからね。仏さまのみ教えを伝えに来るんだからね。ちゃんとお話を聞こうね」

どうなることやら・・・

ご参詣をお待ちしております。

 

さて「永代経」。

一般に求められる「永代供養」の認識とのニュアンスの違いに、自分のお伝えの行き届かなさを感じることがあります。

故人の「供養」を何らかの都合でできなくなる、といった相談が多く寄せられる時代。

「家系が絶える」「跡取りがいない」「娘が嫁いだ」、なかには「子どもに面倒をかけたくないので、お寺で全部やってほしい」という方も。

例えば、都会に出ていった息子の家族に、(法事とかの)「面倒」をかけたくないので、「お寺で全部やってほしい」というようなニュアンス。

不謹慎ながら、法事を勤めるということが面倒であるということは薄々わからなくもない。でも息子が親の法事に帰省するのは面倒なことかどうかはわからない。まして忙しくしている息子がいつまでも忙しくしていられるかどうかもわからない。

暇になったらやるかということではないですが、子に面倒をかけたくないというのは、「面倒をこなして」きた人からしか出てこないのでしょう。

「ワシに何かあったときは全部お寺に頼んで任せてあるからお前たちは何もしなくてもいい」というのを、いまどきの親心というのか。

親を亡くして何もすることがない虚脱感ほど子どもにとって辛いことはないかもしれないとも憂います。

そこで「永代経」。

その願いを確かめると「永代供養」とは似て非なるものだと思う。

確かに「永代供養」は「永代経」の願いに触れる大切なきっかけ、「ご縁」となることは間違いがない。

だけど、お寺に預けてあるから何もしなくてもよいのとはまったく違う。

「お寺で全部やってほしい」という「供養」とは何だろうか。

お寺がやることは、仏さまの教えを儀式をとおしてお伝えすることだ。儀式をやるだけでなく、お伝えするために儀式がある。誰にお伝えするか。身近な人の死を縁としてその身近な方々にお伝えするのが勤めのひとつだとすれば、伝える人がいなくなるほどお寺や僧侶が虚しいことはない。お伝えする人が誰もいない儀式、それを「修行」というのかもしれない(儀式を執行する側がそのまま教えを受け取る側でもある)。

「永代経」の願いの根底は、念仏の教えに生きる人を永代に生み出し続けることだと思う。その生み出す場となってほしいという願いが寺にかけられている。だから常照寺の場合は永代経のまとまった懇志金はすべてご門徒の「護持会」が受け取るようになっている。

どんな生きにくい時代社会であったとしても、そこにお念仏の教えが生きていてほしいという願い。お寺が護持されるという本質はここにある。

だから、「故人のご供養」として志納される懇志は、永代に寺を存続するための懇志として受け取られる。お寺が存続できなければ当然「故人のご供養」も成り立たない。

ただし、お寺がいくら存続したとしても、その願いを受け取ることがなければどうなのか。

寺を過去の「遺産」にしてはならないのだ。

合理的で効率的な供養が求められている社会の中で、時間とお金をかけて勤める法事の意味は大きい。

面倒臭さの中身は、意味を見出せないという無意識の苦悩なのかもしれない。ただ時間とお金の浪費するだけだと思っていたとしても、そこには願いがはたらいている。

あとはアンテナの調整だ。それを受けとる受信機の精度。お寺にぜんぶ預けたはずなのに毎年、永代経の案内がやってくるのはそういうことだ。

永代経は永遠の微調整なのかもしれない。

「人に迷惑をかけるな」と言われて育つと「人に面倒をかけたくない」という人が多いような気もします。

迷惑と面倒は違いますが、少しぐらい面倒がのこってないと、迷惑をかけ、面倒をみてもらった方は恩返しもできない。恩返しは「故人の供養」ではなくて、微調整され続けることといってもいいかもしれない。

ならば、この私が「願い」の方から微調整されることを「供養」といってもいいのかもしれない。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

念仏したらどうなるんだ

2017年06月02日 | ブログ

先月この「つぶやき」(2017.5.25遊煩悩林)に書いた、修学旅行の余韻の中で出遇った朝日新聞『折々のことば』の解説文中のことば。

学ぶことの意味は、じつは学んだ後でしかわからない

鷲田清一

このまま6月のお寺の掲示板に挙げてみました。

孫引きの引用の解説にあった言葉なので、ちょっとややこしいですけど。

『折々のことば』として紹介されていたのは

つまり、知らないことがあること自体を知らなかったわけだ

という戸田山和久さんのことば。

朝日デジタルhttp://digital.asahi.com/articles/DA3S12952578.html?_requesturl=articles/DA3S12952578.html

選者の鷲田さんがこのことばを引っぱってきた感覚を述べた文章のなかにある。

以下、無断転載ですが、

人は学ぶ前に、つい、こんなの勉強して何になるの、と問う。が、学ぶことの意味は、じつは学んだ後でしかわからない。世界には、自分が知らない領域が「想像をはるかに超えて広がって」いることをこれまでろくに知らなかったと思い知ること、つまり「無知の無知の知」こそ〈教養〉というものだと、哲学者は言う。エッセー「とびだせ教養」(「ちくま」4月号)から。

学生時代に読んだ『ソクラテスの弁明』を思い出した。

調べれば何でも答えがわかってしまうような錯覚のなかにいる時代社会のなかで、「学ぶ」ことの意味。

仏教は「教え」です。仏教を学ぶことの意味。

私たちは「なんまんだぶ」とお念仏をすすめる。「念仏してどうなる」という背景のなかで。

「念仏したら楽になりますよ」

「幸せになりますよ」

「病気が治りますよ」

「商売がうまくいきますよ」

「だから念仏しましょう」とは言わない。

何のためにそれを「する」のかを、予めわかっていて「やる」のであれば、どこまでも自分の分別の枠の中から出ることはできないのでしょう。

そこに自分の枠から解放されていく「救い」という世界は成立しない。

それは「学び」ではなく、「利用」だ。しかも「無病息災」「商売繁盛」という欲望に対して「やる」とすれば、それに対して何の利用価値のないものを利用しようとしているだけに過ぎない。

「何のために」と問い続けることは大事なことだと思う。だけど、その答えを握ってしまったらもう「学び」にはならない。

仏教を学ぶことの意味やお念仏することの意味は、まさしく学んだ後、称えてみることの後にしかわからないのだろう。

とわかったような気になっている自分を戒めることばとして。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

人はひとりでは学べない

2017年05月25日 | ブログ

晴れてよし、降ってよし、いまを生きる

『京都佛光寺の八行標語』

https://www.amazon.co.jp/晴れてよし、降ってよし、いまを生きる-佛光寺/dp/4054062970

この標語集に、

あいにくの雨

めぐみの雨

自我の思いが

ひとつの

雨を

ふたつに

分ける

という八行のことばがある。

これは、いつか「組」の研修会で同朋大学の伊東恵深先生が教えてくれた。

 

今朝、小学6年の息子が雨のなか修学旅行に出かけて行った。

本人は何とも言っていませんが、ひとつの雨をぶった切る親の「自ぃい〜我ぁぁあ」の思いに見送られて。

出発前の先生のご挨拶。「あいにくの天気だがクラス全員がそろって出発できることが何より」。そのとおりです。

我が家は今週、修学旅行ラッシュ。

坊守は昨日から「東海連区坊守研修会」という1泊2日の修学の旅に出ています。

私は昨日2泊3日の「他教区交流研修会in金沢」という修学の旅から帰ったところ。

金沢では天気に恵まれ過ぎたので、坊守はとにかく、息子らの修学旅行に半分わけてあげたいという自我の思いです。

「晴れてよし、降ってよし」なんてとても思えないからこそ修学の道が開かれています。

 

さて金沢での研修会は「仏法に学ぶ関係存在」をテーマに各地からの仲間と、宗派を超えて「八行標語」の佛光寺派の僧侶らとともに、蓮如上人ゆかりの「本泉寺」に泊まり込ませていただいた。

九州小倉からお越しいただいた講師の伊藤元先生は、このテーマについて「人はひとりでは学べない」と提言された。

ひとりで勉強はできるけど、それは知識を増やすことはできたとしてもほんとうの学びにはならない。

自分と自分の学んだことを批判するものをもたないとほんとうの学びにならない。

現代はあらゆることについて答えをつくってしまっている時代で、その答えの枠から出られない。仏法を分別の枠の中に入れようとするといくら学んでも「依止(えじ)」がわからんのだ、と。

仏教を頭で「理解」しようという学びは、自分の依りどころ(帰依所)をはっきりさせるものではないという意味で「ほんとう」の学びではないということでしょう。

あくまでも「学ぶ」のはひとりだけど、それではその学びの確かさがわからない。学びを批判するものとの関係によって学びが学びとなる、と。

だから「人はひとりでは学べない」というのは、互いの学びを批判しあえる関係の必要性を言うのだ。

その関係存在を仲間、サンガだと。

 

僧侶は僧侶となるときに「自信教人信」ということを誓う。「自信教人信のまことを尽くす」と。

「自ら信じ人に信をすすめる」ということですが、これまで何かどうも釈然としませんでした。

「『教人信』において『自信』があきらかになる」という伊藤元さんの言葉に教えられました。

「『教人信』を離れた『自信』はひとりよがり。『自信』のない『教人信』は、たんなる教化者意識だけで『聞法者』ではない」とも。

どうか「聞法者」であり続けてくださいと。

世阿弥の『花鑑』から「初心忘るべからず」を引いて、この「初心」は「未熟さ」を言う、と。

どれだけ学んでも、どれだけ歳をとっても未熟者であることを気づかせてくれる関係性を築くことによって、聞法者であり続けられるというのでしょう。

いくら学んだとしても聞法者であり続ける姿勢、「その姿勢がその人の教化の内容となるのです」と。

教化に携わるものと教化されるものが「とも」に仏弟子として出遇っていくこと、それが「仏法に学ぶ関係存在」だと聞かせていただきました。

ご門徒の皆さんとそんな間柄を築いていければと思います。

 

翌日、宿泊先のホテルにあった新聞にこんなことばを見つけました。

学ぶことの意味は、じつは学んだ後でしかわからない

鷲田清一『朝日新聞』「折々のことば」文中

修学の旅で出遇った言葉と仲間にお礼申し上げ、ほんとうの学びとなるように修学を続けていきたいと思います。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

春眠暁を覚えず

2017年05月01日 | ブログ

NHK朝の連続テレビ小説を観るために、眠い目をこすりながら起きてくるのは私だけではないはずです。

そうは言っても、頑張って起きてくるようになったのが「とと姉ちゃん」以降。

「あさが来た」の頃は夢の中にいたのでしょうか。

カラオケに行かない私は、主題歌の『365日の紙飛行機』すら知らずに生きていたのですね。

それでも、時に渋滞中の車内で子どもたちがyou tubeで「♪さんびゃくろくじゅうごにち〜♪」とやっていると耳に入ってくるわけです。

そのうち、自ずと歌詞を口ずさんでしまうことになったわけです。

人生は紙飛行機 願い乗せて飛んで行くよ

風の中を力の限り ただ進むだけ

その距離を競うより どう飛んだか どこをどう飛んだのか

それが一番大切なんだ さあ心のままに 365日

AKB48『365日の紙飛行機』/作詞 秋元 康

オギャーと生まれて、その人が何を大切にして生きていくか、これが宗教的課題でなければ他に何が宗教だというのかという問題です。

人生で「何が一番に大切」なのかは「ご本尊」の問題ですから、信仰課題としてみるならばこの詞を書いた人、または歌う人の信仰表明。

3月にも書いたことですが、あくまでもその人の信仰告白であって、それを絶対化して人に押し付けるものではないのでしょう。

http://blog.goo.ne.jp/ryoten-jyosyoji/e/bbaa62f869e5d8443305f307e8cfe96d

だから歌のとおりに「それを一番大切にしなさい」ではなくて、私はこのことを大切に生きています。あなたは何を大切に生きていますか?という問題提起としてこの歌を口ずさみつつ。

金子大栄先生の

人生は長さじゃない 深さです 幅です

の言の葉と重ねながら、

その距離を競うより どう飛んだか どこをどう飛んだのか

5月の掲示板に記してみました。

「長さ」が大切なんだという人もいるかもしれない。「深さ」や「幅」や「広さ」を大切にする人も。

「大往生」という表現がありますが、命を長さで見る尺度が支配的な「この世」を「いかに」深く広く生きるか。

「どこをどう飛んだのか」は過去形ではないと思う。どんな時代にどんな国にあなたはどう生きているのか。

戦後「ゴールデンウィーク」と名づけられたその1日1日に、海外からのミサイルの脅威を煽られつつ、はたして私はどんな1日を過ごすのか。

夜明けとともに仏前に身を据えるべきなのだろうが。春眠。連続テレビ小説を待つのである。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

つながるつながる

2017年04月22日 | ブログ

「つながるつながる」といっても、wifiのことでも携帯電話の宣伝でもありません。

先週15日、松阪で開催された映画『太陽の蓋』http://taiyounofuta.com上映会に、「福島のこどもたちを三重へプロジェクト」http://booses.netのブースを設置させていただき、募金のほかチャリティグッズのご支援をいただきました。

そのつながりで「いせ映画を観る会」主催の上映会『標的の島 風かたか』http://hyotekinoshima.comを昨日、伊勢の進富座http://shintomiza.whitesnow.jpに観に行ってきました。

映画館に着くなり声をかけてくれたのは『太陽の蓋』上映会を主催された方。つながるつながる感を感じつつ。

「風かたか」は「風よけ」「防波堤」といった意味だそう。

アメリカの「エアシーバトル構想」といわれる東アジア戦略上、その「防波堤」となる日本列島と南西の島々。

その島々のミサイル基地建設などの最前線でそれを阻止しようと闘う人々を描いたドキュメンタリー。

過去から今まで紡がれてきた伝統や文化、これから未来への「いのち」を守ろうとする人々を、いのちの「防波堤」、いのちの「風よけ」とするコントラストが印象的でした。

上映後に込み上げてくるものがありました。

「いのち」の防波堤と、「国家」の防波堤。現場における地域の住民をはじめとする人々に対する機動隊の描き方に感情がかき立てられ、否が応にも「お前はどっちにいるのか」という問いを痛切に投げかけられました。

ただ「どっち」は対立構造の格好の餌食だと思った。

そういえば19日に姫路別院で開かれた「武内了温師50回忌の集い」で聞いた「差別を栄養源に成り立っている日本社会の構造」という提言とつながった。

だけど「どっちでもない」ということはないのだ、誰しも。

過去の戦争をとおして学んだ失敗を繰り返さないための「いのちの防波堤」として生きるのか、中国の太平洋進出を防ぐという役割を担わされた国家の物理的な防波堤として生きるのかという生き方の問題。

戦後を生きたいのか。戦前・戦中を生きたいのか。

黙って他の犠牲を見て見ぬ振りをするのか。見て見ぬ振りできないことを知らせてくれるドキュメントでした。

 

ところで『太陽の蓋』上映会では、常照寺のご門徒のお孫さんともつながりました。

劇団員の彼は今日と明日、伊勢で開催される演劇に出演する。

「東京ハンバーグ」の『KUDAN』という作品です。http://tokyohamburg.com/next/

被爆した牛たちを描いたお芝居、「原発事故を動物目線で描いたファンタジー」という。

「どう生きるか」という生き方を課題にするとき、いま原発事故を経験し、核兵器が使われたはずのこの国の現状を把握しておかなくてはならない。

それは「じぶん」が、どんな場所に生きるのかという前提条件だから。

それはときに海外からの目線であったり、ときに動物からの目線であったり、そして人間を超えた如来の目線であったり。

その視線から相対化されたじぶんと、じぶんが存在するフィールドを確かめなくては「どう生きるか」は見えてこないのかと。

 

「お坊さんって暇なんやな」という声なき声を聞きながら・・・つながるよろこびをむねに行ってきまーす。

菓子博http://www.kashihaku-mie.jpもいいけど、お時間つくって是非お芝居にも。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

出会いと別れ

2017年04月01日 | ブログ

先月の彼岸、終業式を終えた息子が目に涙を浮かべながら帰ってきた。

よっぽどひどい通信簿の内容だったのか?いやそんなことでクヨクヨする人ではない。

心あたりはあった。

担任こそこの一年だけでしたが、入学以来ずっと息子を見続けてくださった先生が転任される。

朝、ちゃんとお別れして来いと送り出したばかりだ。

世話になった先生とのお別れに涙する人間に息子が育った。通信簿の評価はもうどうでもいい。

 

そんな別れと出会いの季節、お寺の掲示板に

会うは別れの始め

別れは会うの始め

と書いてみました。

仏教は「会者定離」の道理を説きますから、会うは別れの始め。

で、この「別れは会うの始め」について。

これをどう受けとめるか。

息子にとっては、もしかすると新しい先生との出会いを果たしていかなければならないと読むのかもしれないし、進学や就職で故郷を離れる若者には後ろ髪を引かれる思い、カノジョにふられたカレシにとっては新しいカノジョとの出会いを期することばに聞こえるかもしれません。

ただ、お寺の掲示板に書してあるニュアンスから汲み取っていただけるならば、この「別れ」は「死別」をイメージする感覚が一番近いかな、と。

この世の無常をいう「会者定離」も習いなら、「倶会一処(ともにひとところにあう)」のも仏教です。

別れてふたたび出会っていく世界が保証されているのです。

「愛別離苦」、大好きな人と別れなければならないという四苦八苦の習いにおいては、この仏さまの保証は希望であり光なのでしょう。

ただ、四苦八苦には「怨憎会苦」の苦が説かれてあります。怨み憎しみ合う人と出会っていかなければならないこの世の苦しみに立たされると、またあいつに出会っていかなければならないのかという絶望にも聞こえることもあるのかもしれません。

いずれにしても、この世での別れを縁として「ひとところ」に出会いなおしをしていかなければならないのです。

愛とか憎しみの「此岸」の営みを超えて「彼岸」に出会いなおしていく。

出会いなおしの場が「浄土」。浄土は死後の世界ではない。いま愛憎を超えて出会いなおすことができる場を浄土といい、そのはたらきを「なんまんだぶ」というのだろう。

息子の純粋な涙から飛躍して感じたこと。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「この」問題

2017年03月13日 | ブログ

結果的に、月に一度の同朋会をサボることになってしまった月はじめの博多出張。

出張のテーマは「お経」に記述された差別的表現について。

戦前・戦後を通してこの問題をお寺に問い続けられた井元麟之さんの地元を訪ねました。

井元さんの没後も問題提起は続いています。それはお寺が問われたまま応えてこなかったからでしょう。

寺に対するこの問いかけを、寺に従事する僧侶が一人ひとりの課題にしてこなかったというのが、問われ続けていることの内実です。

「寺が」問われているという他人行儀的な姿勢、僧侶の当事者意識の低さが問題を放置し続けてきた。

僧侶がどのようなつもりで法事でお経を読誦しているのか。そのことが問われてきたのです。

ようやくこの問題を自分たちの課題として受け止めようとする寺の姿勢は評価されるのですが、それを読誦する僧侶の一人ひとりのこの問題に取り組む姿勢はまだまだ評価に値するものにはなっていないのでしょう。

「その(差別的表現)部分」は飛ばして読んでいるとか、「そのお経」は読まないとかでは話になりません。

お寺は2023年に宗祖である親鸞の生誕850年を数えようとしています。親鸞を聖人と呼んできたことの意味、その誕生の意味を確かめていく大事な時間です。

宗祖の生誕850年はまた「立教開宗800年」ともいわれます。浄土真宗が開かれたことの意味を重ね合わせながら、私はいったい何を学んでいくのか。

そして宗祖親鸞聖人生誕850年・立教開宗800年を迎える2023年の前年は、他でもない「この問題」を問い続けてきた全国水平社の創立100年。

その前々年に開催される東京オリンピック。開催の最低条件としてすすめられる国際人権規約を採択するオリンピック憲章に則った諸整備。

すでに施行された「部落差別解消法」や「障害者差別解消法」、また「LGBT差別解消」に向けた法整備、「アイヌ文化博物館」建設や開会式でのアイヌ古式舞踊など、これらが実質的にオリンピックを契機に果たす効果は何なのか。

開催のための口先だけの法律であれば、それは差別を口実化して煽っていくだけのことになる。

オリンピックを経て、水平社創立100年を経て迎える宗祖親鸞聖人生誕850年・立教開宗800年に向けて、盛り上げるべきはお祭りムードではなく「この問題」に一人の僧侶としてどう向き合っていくかだと思う。

そんな目指すべき姿勢を明確化したとき、問いかけられつづけているこの問題に、常に蓋をして逃げ惑っている自分を発見させられます。

数日前、靖国神社を訪問して、まだまだ向き合わなくてはならない大きな課題を再認識させられました。

同時に、三重の仏教青年会の仲間たちに紛れて、東京の若い僧侶たちと交流して、逃げ回っていても渦中だと刺激を受けました。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

わすれなのかね2017

2017年03月11日 | ブログ

先週の博多出張につづいて、今週は東京出張で、『遊煩悩林』ブログ上でのご案内がギリギリになってしまいましたが、「勿忘の鐘2017」とお彼岸のご案内です。

3月11日の震災発生時刻に鐘をつきます。

14時46分から鐘を鳴らしたのち、15時から本堂でお勤めとお焼香、その後NHKの『証言記録 東日本大震災 「岩手県陸前高田市」』のDVDを堂内のプロジェクターで観たいと思います。

どなたでもご参加いただけますので、お出かけください。

ご参加いただいた方の中からご希望の方に、4月15日(土)に松阪市の農業屋コミュニティ文化センターで上映される映画『太陽の蓋』のチケットを差し上げます。

http://taiyounofuta.com

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ん?

2017年03月07日 | ブログ

第一金曜日の同朋会。

毎月書き換えるお寺の「掲示板のことば」について説明責任を果たす場でもあります。

今月は、博多出張の帰着が遅れて説明責任を果たす場を逃してしまいました。

常照寺の同朋会メンバーは住職不在でも成り立っていく頼もしい聞法者で構成されております。住職不在の方が盛り上がるかどうかはわかりませんが・・・

 

世話にならんと威張る人 お世話になりますと頭が下がる人

 

今月の掲示板の言葉ですが、この言葉に果たさなくてはならない説明責任は何もありません。

お感じいただくまでのことですが、あえて申し上げるとするならば、「どちらがいい」というのではないということです。

威張る人がダメで、頭が下がる人がいいと言いたいのではないということです。

威張る人には驕りが、頭を下げるには打算がはたらいたりするものです。

この言葉のヒントになったことばがあります。

スマホに残っていたどこかの掲示板のことばの写メ。

そこには

世話になりたくないと気づかうより

お世話になりますと頭の下がる方が大切ではありませんか

と書かれてありました。

こちらの方がメッセージがはっきりしていますね。

でも、このままだと何かしっくりこない。

だってこのままだと僕のメッセージじゃないですし、僕にはこのような問題提起はできないなと思ったのです。

まあ、「世話」の程度にもよるのでしょうが、この「気づかい」にも尊いことがあるんじゃないかなと感じるのでございます。

いつも申し上げることですが、常照寺の掲示板は明確なメッセージを発信するというのでなく、「ん?」と立ち止まっていただくことを念頭にしておりますので・・・

とにかく。そのうち誰かに世話にならざるをえない老病死が待ち構えているわけです。

誰かの世話にならざるをえない状況を認識したときに果たして自分はどのような姿でおるのか。

世話になっているという実感があれば、頭を「下げる」のではなく、自ずと下がっているのでしょう。

いま「あなたどうなの?」と問われています。

日頃いろいろな方の世話になりっぱなしですが、なかなかその世話になっていることさえも気づかぬような恩知らずが私です。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加