遊煩悩林

住職のつぶやき

ご利益

2018年02月01日 | ブログ

真宗教団連合が行なった「浄土真宗に関する実態把握調査」

http://www.shin.gr.jp/activity/event/800/pdf/report2018.pdf

Q7の「宗教に求めること」について、調査がどんな方式で行われたのかわかりませんが、予め設定した項目から選択させたとすれば面白い。

先祖の供養 54.4%

心のやすらぎや癒し 43.3%

人生の充実 14.0%

正しい善悪の判断基準 10.8%

商売繁盛 祈願成就 病気平癒 10.7%

救い 9.8%

真理や真実 8.0%

世界平和 6.7%

超能力の獲得 0.9%

その他 0.8%

求めるものはない 21.2%

いちいち面倒でも掘り下げてみると何かが見えてきそうだ。

先祖の供養をしたらどうなるのか?

どうなれば心がやすらぎ、癒されるのだろう。

何をしたら人生が充実するのか。

善悪に正しい基準があるのか。

商売がうまくいって、願いが叶い、病気が治ったら何がしたいか?

どうなったら救われるのか。

どんな真理や真実なら納得いくのか。

世界平和は誰が実現するのか。

超能力を得てどうするのか。

その他ってなんだろう。

「求めることはない」けどお布施は包めるか。

など、ツッコミ方もいろいろですが掘り下げていったときに見えてくる自分は何者だろうか。

 

さて、恵方巻の季節。すっかり定着した感がある節分の恵方巻。

鬼を払い、福を求め、幸運を呼びこむのに必死な私。

今朝みかけたSNSに

人間は与えられたものによって満足するというのは不可能だ。そこには本当の救いを知らん無知がある。無明に立っておるんです。満たされれば、無いものが与えられれば満足するということは、無知に立っている。道理に立っとらん。Yasuda Rizin

という投稿があった。

鬼神さまに豆をまき散らかし、マグロやヒレを金箔で巻いた寿司を食べ散らかすからこそ無明が見えてくるのかもしれない。

2月の掲示板には

ご利益は 求めるものでなく 与えられている

と、自戒を込めて書いてみた。

 

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何それ?

2018年01月31日 | ブログ

おかげさまで常照寺の報恩講が勤まりました。

寒い中のご参詣ありがとうございました。

またお手伝いいただいた皆さまにお礼申し上げます。

翌朝、お浚いのお参りをして後片づけをしつつ、やれやれ感と同時に来年の報恩講までどないして過ごすのか、いやいや来年の報恩講に遇う保証はどこにもないなどと、例年のごとく明け暮れています。

さりとて、来年の報恩講に向けて365日のカウントダウンははじまっているわけです。

1年間、来年の報恩講に向けて何をするのか。

毎日が報恩の日々であればよいのですが・・・。

 

真宗教団連合のホームページにこんな調査結果がアップされています。

「浄土真宗に関する実態把握調査」

http://www.shin.gr.jp/activity/event/800/pdf/report2018.pdf

 

いろいろありますが、こと「報恩講」に関していえば、真宗門徒といえども「何それ?」という数字が上回ると。

果たして「報恩講」を知らずに真宗門徒といえるのか、という疑問と同時に私自身「お伝え」の至らなさを思います。

門徒を門徒でなくさせているのは誰なのか。

その正体が暴かれたような結果といってもいいのでしょう。

来年、再来年、5年後、10年後・・・100年後の報恩講に向けて坊主が汗をかかなくてはなりません。

真宗寺院と真宗門徒の果たすべき勤めは「先祖供養」なのか「報恩講」なのか。

先祖供養を否定するつもりは毛頭ありません。知らぬ間に身に染み込む先祖供養の感覚の機が、いかに一人ひとりの上に「報恩」に展開されていくのか。

自身、一人の門徒として実践する日々の積み重ねでございます。

とは言いつつ、できるだけ汗をかきたくない本性が来年、再来年、5年後・・・に、結果として現れてきます。

寺がやる。住職がやる。坊主がやる。ではアテにならないのでしょう。ご門徒として、ご門徒とともに。

また来年の報恩講まで、どうかよろしくお願い申し上げます。

 

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何を買うのか

2018年01月21日 | ブログ

昨夕の夕刊。

辺野古 反対さえしなければ交付金

という見出しの記事に目が止まりました。

28日に告示される沖縄の名護市長選挙において、当選者が普天間基地の辺野古への移設に反対を示さなければ(米軍再編)交付金を辺野古のある名護市に支給する方針を政府は固めたという。

沖縄の人々の何を買おうとしているのかという疑問と同時に、誤解を恐れずに言えば、それでもまだ沖縄の人々に何を売れというのか。

 

さて、常照寺の報恩講のお知らせです。

報恩講は宗祖のご命日を偲ぶ最も大切な法要です。

宗祖である親鸞聖人の90年のご生涯は苦難に満ちたものでした。

当時の体制権力によって流罪に遭われてなお屈することなく、今日に伝えられた精神はいかなるものだったのでしょうか。

私たちがほんとうに大切にしなければならないものは何なのか。

親鸞聖人の生き方を学ぶことを通してともに確かめたいと思います。

 

沖縄の問題。

それは売る側の問題ではありません。買う側の問題です。

それは、侵略する側を末端で支えていることを自覚できない私の問題です。

 

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じぶん宛ての賀状

2018年01月06日 | ブログ

大晦日と元日に相次いでご門徒の訃報。

無常の嵐は 時をえらばず 処をさだめず

と、毎時ご葬儀執行の現場で表白しているにも関わらず、それをしみじみ実感するのでもなく、いかに口先だけの事柄にしてしまっているのかと教えられます。

人の生き死にさえも自分の都合に合わせてしまいたがるような根性を否応なく知らされます。

年始の予定をやりくりしながら、誰か代わってくれるものはおらぬものかとさえ思ってしまう。

ちょうど、年末に投函した年賀状が一通、転居先不明で返ってきました。

自分で出した年賀状ですが、そこに

身自当之 無有代者

仏説無量寿経

「身 みずから これをうけ かわるものあることなし」と。

あぁこの経説は誰のためにあったのか。どこまでも自分の都合でしか生きられない自分のためだったと。

教えをいただきもせず、他人に宛てて発信している自分を指摘されたような気がします。

生まれけり

死ぬるまで

生くるなり

武者小路実篤

1月の掲示板に書しました。

だれにも代わることのできないこの生を、娑婆の縁が尽きるまで生ききっていく覚悟が問われた年初です。

 

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無有代者

2018年01月01日 | ブログ

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空言戯言

2017年12月30日 | ブログ

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

宮沢賢治

年の瀬です。

1年を振り返る余裕もなく過ごしていますが、1年の計を占う初詣のコマーシャルを見ながら宮沢賢治の言葉が浮かびました。

「後厄」という脅迫に「南無阿弥陀仏」と返してきた1年。

どこまでも個人の幸福を健康に置き換えてきただけです。

しかし、いくら個人の満足だけを追求しても空しいものが残ります。

結局「オレさえよければ」で今年も生きてきた。

さて、年末に東本願寺のホームページにいくつかの声明が発表されています。

http://www.higashihonganji.or.jp

東本願寺におきた火災についてのお知らせもさることながら、

12月19日は「死刑執行の停止、死刑廃止を求める声明」が、

http://www.higashihonganji.or.jp/news/important-info/22066/

28日は「米軍機飛行への抗議」が、それぞれ発信されました。

http://www.higashihonganji.or.jp/news/important-info/22354/

江戸期に4度も火災で堂宇を焼失し、そのつど莫大な労力と犠牲を払って建て替えてきた東本願寺、親鸞さまの750回御遠忌を縁に莫大な懇志を募って修復されたばかりの両堂。

初期消火によって鎮火されたとの報告に、これまで両堂の再建に尽くしてこられた諸仏が何より安堵されているのかと。2度と焼いてはならないと4度焼いた歴史です。

それはとにかく。

死刑制度についての声明は執行のつど出されていますが、論議が進んでいるのか後退しているのか、未だに人殺しを合法化している私。

そして沖縄の声。黙殺する私。

国家じゃないんでしょう。その国家を許し、認めている私。

追従するひとりの人間として、個人の幸福など空ごとでしかない。

それでも、それでも、です。

「オレさえよければ」の芽は摘み去ることができない。

自覚すらできない、救いようのない深い煩悩を教えられに・・・

救いようのない者を救うという仏さまに出会いに・・・

除夜の鐘と修正会のご案内を申し上げて今年のつぶやきを閉じようと思います。

 

 

 

 

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Exhibition

2017年12月14日 | ブログ

「福島のこどもたちを三重へ」プロジェクト(http://booses.net)にイラストを提供してくれているKamano Makiの個展が開催されます。

14日から19日まで、三重県津市栄町1丁目888 四天王会館1のVOLVOXが会場です。

期間中プロジェクトの募金箱を置いていただきます。

お時間ございましたら是非足を運んでみてください。

https://makikawano.amebaownd.com

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善人面を剥ぐ

2017年12月08日 | ブログ

ご本山の報恩講にお参りさせていただいた翌々日、しんらん交流館でインド出身の天台宗のお坊さまの講演会がありました。

何とか行きたいと思いつつも参加できませんでしたが、当日のYouTubeのアドレスを大先輩が送ってくれました。

非常に重たいお話ではありますが、目を背けてはならない事実を認識して、心ある方々と共有したいと思います。

https://youtu.be/F5NefkZIC0g

 


 

また、「真宗大谷派・九条の会」から来年2月8日に開催される集会のご案内をいただきました。

「差別する心 向き合っていますか?」というテーマで、

「殺」をためらう人も差別を触媒にすることで、簡単に「殺」へ導かれることは歴史が証明しています。戦争という「殺」の推進には差別が必要です。今の現状、次の世代、その先の世代が差別を触媒としての「殺」に導かれないために何ができるか。釈尊から「殺」を戒められた者として、人を「殺」に導く「差別」について考えます。

と開催趣旨に述べられていました。

世界中で繰り返されてきた差別と排除の歴史。そしていまエルサレムを巡る問題。平昌冬季五輪から東京五輪に向かう背景にある問題。

集会の開催テーマから、テレビや新聞の「向こう側」の問題にしてませんか、と問われてきます。

また、趣旨文には

差別の当事者でないものは善人に収まり眉をひそめながらも傍観者という加害者になっていないか。

とも。

善人面を被って傍観する加害者は一体誰のことなのか。

京都の「しんらん交流館 http://jodo-shinshu.info 」で13:30から。

少し先のことですが、スケジュールに書き込んだ次第です。

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めでたしめでたし

2017年12月01日 | ブログ

「まぁいっかい参ってみぃ」ということで、ご本山の報恩講にお参りさせていただきました。

毎年「まぁいっかい」は足を運んでおりますが、お寺に生まれて42年、住職になって18年、まこと怠慢ではございますがはじめて27日の結願逮夜、そして28日の結願日中の法要に遇わせていただきました。

住職になって以降は、自坊の「28日さま」がございますのでなかなか本山に出向くことができなかったにしても、それまでの24年間は一体何をしておったのだろうと考えさせられました。

結願逮夜の法要は袈裟・衣をつけてのお参り、結願日中は参詣席から(といっても満堂で入れませんでしたが)お参りさせていただきました。

8日間、七昼夜の報恩講ですが、そのわずか1時間40分の逮夜法要に「いっかい」お参りしているだけなのに、「あぁつかれた」と。

翌日の日中法要のクライマックス、勤行が終わり僧侶が一人一人退出をして行かれますが、おそらく8日間の朝昼夜のすべての法要にお参りされたであろう90を超えられたご老体が、隣の僧の肩を借りて履物を履いて後堂に消えて行かれたその姿に感銘と、我が身の羞恥を感じました。

自分が90を超えて袈裟をつけてご本山にお参りすることは、きっと叶わぬことと想像しますが、「来年参ろう」「明日参ろう」では叶わぬ、「明日はないのだ」と、「今しかない」という姿の実践をいただいて帰ってきました。

そうは言っても、帰れば帰ったで「あぁつかれた」と日常生活に埋没しつつ、報恩講の余韻とともに

齢はとりたくないが

長生きしたい

暮れてめでたし

明けてめでたし

と師走のお寺の掲示板にしたためました。

前半の「齢はとりたくないが長生きしたい」は、どこかで見かけて記憶にあったことばです。

絶対的矛盾を孕んだこの願望。ピンピン生きてポックリ逝くというピンコロ信仰に通ずるこころではないでしょうか。

誕生日も命日も選ぶことができない宿命を生きる人間の、それを放棄しようという究極の欲望、煩悩といってもいいのでしょう。

だけど、この煩悩を抱えているからこそ往生できる、という聖人のことばをいただいたときに

「暮れてめでたし 明けてめでたし」、実に「おめでたい」私のあり方を教えられます。

嘆異抄のこのことばを憶念しつつ

念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。 よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。 また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。 いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと云々

 南無阿弥陀仏

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まぁいっかい参ってみぃ

2017年11月05日 | ブログ

さて報恩講のシーズンです。

といっても常照寺のご門徒のなかには、「報恩講」と書いても「なんて読むの?」という感じの方もいらっしゃるのでないかと思います。

決してお手次の住職として威張れることではないですし、真宗僧侶としての怠慢でございましょう。

ご本山の方針によると「帰敬式受式と報恩講の勤修と参拝に帰結する寺院活動における重点的な取り組み」として「帰敬式法座」の展開をはかるといいます。

さて、ご門徒にはまた謎のキーワード。「帰敬式」

「ききょうしき」と読みます。

ちなみに「報恩講」は「ほうおんこう」です。

帰敬式と報恩講は、真宗門徒を自覚する上において非常に重たいことがらです。

ただしかし、私の身のまわりの現状を冷静に見ますると、その「真宗門徒」ということが「わからない」状況にあると思います。

「お前は分かっとるんか」と言われると・・・ですが。

世間さまの信仰感覚は、あいかわらず「ウチはホトケさん」という認識がもっぱらなような気がします。

「ウチはホトケさん」というのは、決して仏教徒の自覚を立ててではなく、「ウチはカミ(神)さん」という方に対してのことばです。

そこでです。

そろそろ年末に発行する「寺報」の原稿にとりかかろうと思うとき、ご本山(宗派)の方針に置いてきぼりにならないように、まず「帰敬式」を知っていただける、そして少しでも関心を寄せていだだけるよう、「帰敬式- おかみそり -」にテーマを絞ってみようかと。。

仏教徒であるということの自覚。真宗門徒であるということの自覚。

この自覚をいかに促すことができるか。それはいかに私自身がその自覚に立っているかのことだと思います。

 

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし

宗祖のご命日である報恩講の月に際して、この恩徳讃の

骨を砕きても謝すべし

とお寺の掲示板に挙げました。

骨を砕くことも、謝すこともままならぬ我が身です。

 

「ウチはホトケさん」から一歩ずつ歩みを進めていきたいと思います。

「報恩講って何ですか」という問いに、怯むことなく「まぁいっかい参ってみぃ」と。

真宗本廟(東本願寺)2018「報恩講」http://www.higashihonganji.or.jp/houonkou/

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