遊煩悩林

住職のつぶやき

標準装備

2024年09月18日 | ブログ

悲しみや苦しみの意味。

それをたずねる彼岸を迎えようと。

とあるSNSに、

苦悩を標準装備するもの

それを人間という

酒井義一

の言葉をみつけた。

なるほど。

ハナから備わったものなのだ。

その装備をなくそうというのであれば、それは規格外ということになる。

ただ、人としての証のひとつがそこにあるとしても。

悲しみや苦しみを人間としての特性だとしても。

だからといってそれをよろこぶ気にはなれない。

ん。だからか。

よろこぶべきことをよろこばせざるは、と。

煩悩の所為。

煩悩もまた標準装備。

それをなくすことは救いを放棄することだ。

不断煩悩得涅槃

ともにお念仏を申しましょう。

http://jyosyoji.info

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何がのこるか

2024年09月04日 | ブログ

お彼岸のお支度。

昨年の彼岸会を思い返し。

なかなか思い出せない。

ただ、いただいた法話のメモ。

 

仏教は悲しみや苦しみをなくす教えではない

悲しみや苦しみの意味を教えるのです

荒山淳

2023秋の彼岸会

 

今月の同朋会のテーマとして、9月の掲示板に書き出しました。

私は仏にどのような態度で向かっているか。

悲しみや苦しみをなくしてくださいとの祈願か。

はたまた私の欲を満たしてくださいとの依頼か。

彼岸に還られた亡き方々の声なき声を聞く時、依頼も祈願を超えてきてくださいと。

人生から悲しみや苦しみをなくすと何がのこるか。

欲を満たし、思いどおりに生きる人生の先には何があるのか。

悲しみや苦しみに意味を見出す。

なかなか近づき難い彼岸だが、それだけに尊い。

日々、彼岸の方から近づいてきてくださる。

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やっぱり7号

2024年08月16日 | ブログ

そういえば昨年も台風7号がお盆を直撃だった。

今年の7号は関東へ。

十分な警戒を。

さて、13年目のプロジェクト。

こちらも7号の影響は免れないかと思いましたが。

朝6:00無事に福島駅を出発したバスは、道中はげしい雨に遭いながらも順調に三重に向かっていると、お迎えスタッフの報告。

17:30賢島の宿舎に到着予定です。

常照寺の長男は賢島でお迎え。

からの、福島まで同行させていただくとか。

坊守は今年もキャンプの給食当番として。

参加者の皆さま、スタッフの皆さまよろしくお願いします。

よく学び、よく遊ぼう。

それもこれもご支援いただく皆さまのおかげさまでございます。

 

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我が身の行く末

2024年08月12日 | ブログ

豪雨に地震、また台風の被害に遭われた皆さまには何と申し上げてよいのか。

お見舞いを申し上げるよりございません。

常照寺においては、連日の酷暑、そしてコロナ、また南海トラフの地震警戒と。

生命の危機を脅かされて生きた心地のないまま。

いや逆に生命の危機にあって、生きた心地を確かめながらか。

それでもご門徒の皆さまには、仏間を冷やしてお盆のお参りを受け入れていただいております。

今年から長男が単独でのお参り巡回。

お育てに感謝です。

数日前に見事な金髪で帰宅し、さっそく髪を黒く。

レンタルバイクで巡回させていただいております。

どのお宅ももっぱら「墓じまい」が話題。

どうもメディアの報道に煽られてご心配の方が多く見受けられます。

どうかお盆に帰省されるご家族と家族会議を開いて、話し合っていただければ。

住職の主観としては、今すぐどうにかしなくても、どうにかしなくてはいけない状況になってからでも手遅れではない、と。

免許を返納し、足腰が弱くなり、気力も低下して、墓参りに行けない心苦しさは否めませんが、ご自身のお骨の行き先を失うことほど覚束無きことは避けたいと。

そんなことを申しあて歩いております。

され、15日は常照寺の盂蘭盆会。

我が身の行く末を、諸仏に聞かせていただきたいと思います。

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たすかる

2024年08月01日 | ブログ

お世話になった叔父の葬儀に出向いた。

曹洞宗の葬儀式だった。

導師が儀式をガイダンスしながら進行された。

「剃髪の儀を行います」

「戒を授けます」

「血脈授与」

「引導法語」

など。

他にもいろいろあったが覚えがあるのはそのくらい。

僧侶が儀式中に何をしているのかということの説明は、馴染みのない参列者にとっては儀式の意味を訊ねるうえで丁寧な工夫だと思った。

専門用語は各々が学ぶ必要があると思いますが。

仏道をならうとは 自己をならうなり

「正法眼蔵」道元禅師

儀式に凝縮されている仏道の学びは自己を発見していく学びだ。

ガイダンスでは、「死後、釈迦の仏弟子となるために」というフレーズがあった。

真宗は「釈迦の仏弟子としてこの世を生きる」と教わる。

いずれも「仏弟子」となる。

亡き方々を仏弟子といただくか、仏弟子として生きた亡き人を諸仏といただくか。

禅の教えと念仏の教えには隔たりもあるが、仏弟子の自覚と自己の発見という意味で一致する。

禅師は

自己をならうとは 自己をわするるなり

とも。

都合のいい思い込みのじぶんでなく、仏智に照らされたまことのじぶん。

8月の常照寺の掲示板。

念仏申したら助かるのではない

念仏申さなければ助からない私なのです

曽我量深

厳しい禅の修行も戒律を受くることもままならない私。

念仏を救いの道具とするのでない。

救いようのない自己がお念仏によって発見させられるのだ。

「たすかる」ということの内実をたずねる「おぼん」を迎えます。

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ミライ

2024年07月22日 | ブログ

いとこのユキちゃんが講演をするというので県文(三重県総合文化センター)へ。

私は勝手に「県文」と呼んでいたのですが、どうやら「総文」(そうぶん)と略すようだ。

"そうぶん30th" https://www.center-mie.or.jp/

開館30周年を迎えるそうだ。

センターの広場にあるオブジェの存在はずっと知っていた。

「真宗公開講座」の会場でもある”フレンテみえ”の前にある女性像。

この大きなオブジェが「ナナ」と呼ばれるということを知ったのは最近のことだ。

そしてそれがニキ・ド・サンファルというアーティストの作品だということも。

どうしてそれが「そうぶん」のシンボルとして開館時に設置されることになったのか。

「ナナ」は何を象徴しているのか。

そして何より、いとこのユキちゃんがどうしてニキ美術館の館長だったのか、と。

「そうぶん」のニキ・ド・サンファル展の担当者とユキちゃんの対談を聞いて、

ようやく、いろいろわかった。

点と点がつながってきた。

ただ点と点はただ直線で結んではイカンと思った。

ニキは直線がキライだったそうだ。

直線が”ナナ"を殺す、と。

そこに「わたしはテロリストになる代わりに、アーティストになった」というニキの、

「射撃絵画」で名を馳せたニキが曲線を描くまでの過程にニキ・ド・サンファルという人を感じました。

点と点を立体的に曲線で結ぶというイメージを膨らませたとき、

人の系譜を示す家系図は直線的だが、その縁と縁は複合的に立体的に現実を象っていることを思った。

 

ココロがうごく。

ミライをえがく。

をテーマに、8月31日から9月23日まで開催されるニキ・ド・サンファル展。

期間中の9月14日に企画されている、ニキのファンという上野千鶴子さんの講演も聞いてみたい。

 

ニキは晩年、ブッダという作品を遺したと。

仏陀の平等覚にミライがえがかれているとおもった。

ニキのブッダはどこにいるのか。

こんどユキちゃんに聞いてみよう。

 

ニキ・ド・サンファル展の割引券を常照寺で預かっています。

ご門徒や有縁の皆さまどうぞ気軽に声をかけてください。

 

 

ニキ美術館 https://niki-museum.jp/

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虚仮

2024年07月01日 | ブログ

世間虚仮 唯仏是真

聖徳太子

先月の「つぶやき」の流れで、今月の掲示板に記しました。

が。

親鸞聖人はどうも「世間」を「虚仮だ」と歎いておられるのではなさそうだ。

浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし

虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし

『愚禿悲歎述懐』

虚仮は「私」だと和讃される。

世間を相手にして虚仮だというのでなく、「私」そのものを世間の中に置いておられるといったほうがいいか。

さらにその述懐は、

悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり

修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる

と。

悪いことだと分かっていてもやめられないのも私。

善なることをして満足を得ようとするのも私。

虚仮不実の我が身。

無慙無愧のこの身。

小慈小悲もなき身。

徹底的な自己批判、自己否定にも聞こえる。

「私とは何か」と問い、私がこれらの述懐をじぶんに当てはめようとするのもまた虚仮の行となろう。

それは宗祖の述懐を利用して自分を装飾する道具にしているだけだ。

虚仮不実、無慙無愧、小慈小悲もないお恥ずかしい私です、などと謙っているつもり。

親鸞を宗祖とするのは、徹底的な自己分析によって、ただ自己を否定するのではない。

虚仮不実の身であるからこそ、大慈大悲がたのもしい、と。

自己の救済の根拠を明らかにして、

唯仏是真

阿弥陀仏の本願力の真実性を証明されたということだ。

悲嘆はつづく。

 

かなしきかなやこのごろの 和国の道俗みなともに

仏教の威儀をもととして 天地の鬼神を尊敬す

 

かなしきかなや道俗の良時吉日えらばしめ

天神地祇をあがめつつ卜占祭祀つとめとす

 

https://shinshuseiten.higashihonganji.or.jp/

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ほんとうのおしごと

2024年06月06日 | ブログ

意外に思われる坊主のおしごと。

定額減税に伴う税務。

5月までの源泉はこれまで同様に徴収。

6月分から限度額に達するまで差し引いていく。

常照寺の場合、5月までに収めた税も年末調整ですべて返ってくるだろう。

たとえ超過払いになることがわかっていたとしても減税措置は6月からだ。

あそこで帳尻が合うはずだから、ではダメか。

税務は宗教法人の必要な事務作業だが、坊主の「おしごと」の中で虚しさを覚える業務のひとつだ。

ああでもないこうでもないと、老眼鏡を掛けたり外したりしている暇にも境内の草が伸びてくる。

草はむしってもまたすぐ伸びてくる。

だけどそんな虚しさよりも作業を終えた後の充実感が勝る。

草を抜く作業は損得ぬきだ。

損得でいえば、従来納めてきた税負担が軽くなるのだからありがたくワクワクすればいいものだが。

この虚しさ。何が虚しいのだろう。

損得勘定に一喜一憂する感情を揺さぶられる虚しさだろうか。

世間虚仮 

のフレーズがよぎった。

世間のあらゆる事物は空虚な仮のものだ、と。

親鸞聖人が「和国の教主」と讃える聖徳太子の言葉として伝わる。

世間が虚仮なるものとの認識は、虚仮なる世間からは生まれない。

唯仏是真

この信知から獲得せられたのだ。

真の実によって虚の実態が判明する、と。

連想の果てに

本当のものがわからないと

本当でないものを本当にする

安田理深

6月の掲示板に貼り出しました。

この言葉だけだと、いかにも本当のものを知っているような言い回しに聞こえるかもしれません。

ただしこれはそんな驕りではない。

この法語に「私は」という主語を補えば。

本当でないものを本当にして生きている私が知らされた、ということだ。

仏の智慧を知らないと、そうでないものを仏の智慧としてしまう。

ほとけさまのお仕事を知らないと そうでないものをほとけさまの仕事としてしまう。

だからと言って税務から逃れるのではない。

信心の生活は、日常のありとあらゆる事柄がお念仏となることだとすれば。

好き嫌い。得手不得手。

ただ仕事を選んでいるだけだった。

ほとけさまのおしごとは、この私がおねんぶつをすることだ。

それが坊主のおしごとでもあり、人間のおしごとだ。

世間虚仮 唯仏是真

聖徳太子

新しいお札は聖徳太子がやっぱりいいんじゃないか。

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ボージーズ2024

2024年06月03日 | ブログ

http://booses.net/

13回目のプロジェクト。

今年の開催が決定し、実動部が動き出しております。

当初この活動はいつまでやるのか。

時間的な区切りをどこに設定するのかという話し合いの中で、

「震災の年に生まれた子どもたちが成人するまで」

という目標を掲げました。

具体的には2031年まで活動していこう、と。

その間にも、列島各所で災害が発生し、自らが被災し支援の継続が難しいところも。

状況下、支援活動が困難になった他県の団体から、三重のプロジェクトに対してご支援をいただいたと報告がありました。

時の流れの中で、支援を「する」「される」という関係でなく、ともに支え合っていることを思います。

ご門徒の皆さまには、引き続きよろしくお願い申し上げます。

http://booses.net/shien.html

 

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しっかり うっかり

2024年05月24日 | ブログ

 

うっかりするところでした。

常照寺永代経のご案内です。

永代、つまり未来永劫に釈尊の教え(経)が伝えられますようにとの願い。

うっかりするとは何事か。

いや、ブログアップをうっかりしていただけで準備は整っております。

ご門徒各位におかれましては、すでにご案内のとおりご参詣のほどお待ち申しております。

 

「うっかり」は「浮かり」からきた語だとか。

浮かれておるつもりはございませんが。

「御文」にも、

人界の生はわづかに一旦の浮生なり。後生は永生の楽果なり

(第2帖第7通)

https://shinshuseiten.higashihonganji.or.jp/contents.html?id=2&page=947

夫れ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり

(第5帖第16通)

https://shinshuseiten.higashihonganji.or.jp/contents.html?id=2&page=1010

しばしば「浮生」と。

人間の「生」、つまり私そのものが「うっかり」しておる、と。

「しっかり」しているつもりでも浮世なのだ。

浮世に対して「常世」。

御文では「永生の楽果」と。

私のほんとうの所在をそこに発見していく。

「後生」は死後のことではない。

未来永劫に南無阿弥陀仏を伝えていってほしいという願いはそこだ。

弥陀成仏のこのかたは

いまに十劫をへたまえり

「十劫」の時を超えて「浮かる」ことなく

世の盲冥をてらすなり

亡き人の成仏を祈るのではない。

私の成仏を課題とする永代経を「しっかり」お勤めしたいと存じます。

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