報恩講のご案内を申し上げます。
恩に報いる講は、恩を知ることからはじまります。それは報いるような恩に出遇わなければ、報いる歩みがはじまらないということです。
損か得か人間のものさし うそかまことか佛さまのものさし
?みつお
とあいだみつをさんが表現されるように、私の日ごろの価値基準、選択基準をはなれたところの、真偽の眼差しを報恩講に聞かせていただきたいと思います。
佛さまの「ものさし」をいただくことによって、私が常日頃、損か得かでしか生きていないことを知らされるといってもいいのでしょう。
「何のために寺に参るん?」「お寺に参ったらどうなるの?」「念仏するとどうなるの?」という問いがあります。この問いの質そのものが、現代の闇のひとつといってもいいのではないかと思うのですが、それはやはり損得感情が基準になっているということではないでしょうか。
何かいいことあるのか、極端な話「お得感」を感じれば参る。何も得ることがなければ念仏してもしょうがないじゃんという発想が現代を覆っているのではないでしょうか。?
また、報恩講にはじめてお参りする、お寺にお参りになったことがない方にとっては、どんな格好をしていけばいいのか、どんな顔して座っていればいいのか、どんな雰囲気なのか、場違いなんじゃないか、いくらか包んだ方がいいのか・・・さまざまな疑問や不安もあると思います。
お連れがあれば少しは気が楽なのですが、「おひとりさま」ということも大事だと思います。親子、夫婦で連れ添ってというのも尊いですが、どれだけ連れ添った老夫婦でも一緒に逝くことも、一緒の棺に入ることもなかなか叶うことではありませんし、たとえ連れがあったとしても仏に対しては一対一。ここは思い切ってです。まずその時間をつくってみるところから、腰を上げてみる、足を運んでみる、門をくぐってみる。そこから何を感じるかは参った人それぞれです。
「お念珠を持って、まあいっぺん参ってみてちょ」と。できれば、わずかなお賽銭(寺ではあまり「賽銭」とは言いませんが・・・)を持って。
もしかすると、山門の前まで来て断念することもあるかもしれません。車を止めるところがないといってお帰りになっても、それでいいんです。なかなか恩に出遇う一歩が踏み出せない私だと気づかされれば・・・。
せめて本堂に向かって手を合わせてみる。お帰りになって?おないぶつ(お仏壇)にお線香を供えてみる、お仏壇がなければ、おじいちゃんやおばあちゃんのところに菓子を持って行って仏壇に供えてみる。また、ひとりではよう参らんけど連れがいて参れたのであれば、連れの存在そのものが恩ですから、たとえそれが子であっても妻であっても「有り難う」と頭を下げてみる。
だけど、それができない。そんなことが展開されれば報恩講の意味があるんだと思います。こんなこと言っては元も子もありませんが、寺に参るだけが報恩講ではないのでしょう。ネンガラネンジュウ報恩講なんです。だけどそれをウッカリして、損か得かだけで走り回っている私だからこそ報恩講が伝統されているのでしょう。
参ったらどうなる、念仏すればどうなる、それなりの結果が想定できないと「おっくう」なのが私です。でも、やってみることからしかはじまらんと、ここは腹をくくって・・・、損得ではない「ものさし」をもらいにくると思って、是非ご参詣をお待ちしています。
土曜の夜は、本堂のプロジェクターで映画を放映する予定でしたが、今年は東本願寺で行われた「原子力問題に関する公開研修」から福島県南相馬市の原町別院で被災された真宗大谷派現地復興支援センターの木ノ下秀俊氏による「福島でいま何がおこっているのか」という報告のDVDを観たいと思います。?どなたもどうぞお気軽にお越し下さい。