…∽ 地蔵橋 ∽… 昭和36年 (1961) 竣工
新宿の西部から渋谷区北部一帯を流れていた神田川支流の暗渠を、
現存する橋を中心にアップしています。
橋のたもとに地蔵尊があることからその名前が付けられた、
地蔵橋です。→Mapion
▼
昨日アップした新橋同様、
当初から使われていたと思われる具合の橋名プレートが、
作り替えられたと思われるコンクリの角柱に埋め込まれています。
橋のたもとの竣工年プレートをみると昭和36年 (1961) とあるので、
近年表面を掃除したのでしょう。真新しいコンクリでした。
画像からもわかるように、
祀られているお地蔵さんは酒呑地蔵というものですが、
妙な名前です。
入口に掲げられた由来板を読むと、
宝永5年 (1708) 年に四谷からこの地へ来た
中村瀬平という人の勤勉さをたたえた村人の招きで、
31歳の正月に生まれて初めて呑んだお酒に泥酔して、
この橋のたもとでおぼれ死んだのを供養して作られた地蔵尊のようです。
昭和の初期には子育て地蔵尊としても信仰を集め、
祭の日には夜店が出るほど賑わい、
今でも地元の人々や古くからの信者による線香の煙が絶えないというのは、
祠の周りに沢山並ぶノボリをみてもわかります。
▼
ちなみに橋名プレートが埋め込まれた、
橋らしい形をしているのは下流側だけで、
祠のある上流側は、地覆はあるものの、
その上には黄色と黒の鉄パイプが設置されています。
そして、これ以降の橋は軒並みこの状態のものが続きます。
堂内も綺麗に整備され、
両壁には寄進札や祈願札が所狭しと並んでいます。
▼
ところで祠の横に立つ由来板は渋谷区教育委員会のものなので、
同じく渋谷区編纂の『渋谷区の橋』には、
由来板とほぼ同じ内容のことが書かれていますが、
『幡ヶ谷郷土誌』を読むと、似たところはあるものの、
細かなディテールが大きく違う内容がかかれています。
同じなのは溺死した中村氏の出身地が四谷ということと、
事件が起きたのが宝永5年というだけで、
あとは中村氏の名前が瀬平ではなく満平だし、
中村満平は大酒呑みだったと書かれています。
更にいくら泥酔していたとはいえ、
ただでさえ水量が少ない上に冬枯れの時期のこの川に落ちて、
致命傷を負うことはとうてい考えられず、
また死後の供養地蔵を建てられるのは、
よほどの財産家の出でない限り困難な事から、
本来地蔵尊は、一介の職人だった中村氏のものではなく、
辻斬りにあったか行き倒れになった、
資産家の血筋を引く者に違いないと言い切ってます。
『渋谷区の川』は平成8年 (1996) 刊、
『幡ヶ谷郷土誌』は昭和53年 (1978) 刊なので、
渋谷区教育委員会がこの幡ヶ谷郷土誌を読んでないわけはないと思います。
だとすると、その後の調査によって、
地蔵尊は中村瀬平氏のものだという結論になったのでしょうか。
以前にアップした川崎の夜光町の名前の由来に、
海中に光る弘法大師の像を引き上げた平間兼乗伝説と、
漁から帰らぬ父を待ちながら死んだ娘の松明に因んだ不知火の松伝説があるように、
民間伝承は謎に満ちています。
◆東京暗渠:神田川支流◆
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新宿の西部から渋谷区北部一帯を流れていた神田川支流の暗渠を、
現存する橋を中心にアップしています。
橋のたもとに地蔵尊があることからその名前が付けられた、
地蔵橋です。→Mapion
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昨日アップした新橋同様、
当初から使われていたと思われる具合の橋名プレートが、
作り替えられたと思われるコンクリの角柱に埋め込まれています。
橋のたもとの竣工年プレートをみると昭和36年 (1961) とあるので、
近年表面を掃除したのでしょう。真新しいコンクリでした。
画像からもわかるように、
祀られているお地蔵さんは酒呑地蔵というものですが、
妙な名前です。
入口に掲げられた由来板を読むと、
宝永5年 (1708) 年に四谷からこの地へ来た
中村瀬平という人の勤勉さをたたえた村人の招きで、
31歳の正月に生まれて初めて呑んだお酒に泥酔して、
この橋のたもとでおぼれ死んだのを供養して作られた地蔵尊のようです。
昭和の初期には子育て地蔵尊としても信仰を集め、
祭の日には夜店が出るほど賑わい、
今でも地元の人々や古くからの信者による線香の煙が絶えないというのは、
祠の周りに沢山並ぶノボリをみてもわかります。
▼
ちなみに橋名プレートが埋め込まれた、
橋らしい形をしているのは下流側だけで、
祠のある上流側は、地覆はあるものの、
その上には黄色と黒の鉄パイプが設置されています。
そして、これ以降の橋は軒並みこの状態のものが続きます。
堂内も綺麗に整備され、
両壁には寄進札や祈願札が所狭しと並んでいます。
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ところで祠の横に立つ由来板は渋谷区教育委員会のものなので、
同じく渋谷区編纂の『渋谷区の橋』には、
由来板とほぼ同じ内容のことが書かれていますが、
『幡ヶ谷郷土誌』を読むと、似たところはあるものの、
細かなディテールが大きく違う内容がかかれています。
同じなのは溺死した中村氏の出身地が四谷ということと、
事件が起きたのが宝永5年というだけで、
あとは中村氏の名前が瀬平ではなく満平だし、
中村満平は大酒呑みだったと書かれています。
更にいくら泥酔していたとはいえ、
ただでさえ水量が少ない上に冬枯れの時期のこの川に落ちて、
致命傷を負うことはとうてい考えられず、
また死後の供養地蔵を建てられるのは、
よほどの財産家の出でない限り困難な事から、
本来地蔵尊は、一介の職人だった中村氏のものではなく、
辻斬りにあったか行き倒れになった、
資産家の血筋を引く者に違いないと言い切ってます。
『渋谷区の川』は平成8年 (1996) 刊、
『幡ヶ谷郷土誌』は昭和53年 (1978) 刊なので、
渋谷区教育委員会がこの幡ヶ谷郷土誌を読んでないわけはないと思います。
だとすると、その後の調査によって、
地蔵尊は中村瀬平氏のものだという結論になったのでしょうか。
以前にアップした川崎の夜光町の名前の由来に、
海中に光る弘法大師の像を引き上げた平間兼乗伝説と、
漁から帰らぬ父を待ちながら死んだ娘の松明に因んだ不知火の松伝説があるように、
民間伝承は謎に満ちています。
◆東京暗渠:神田川支流◆
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意外と早く暗渠ウォークの続きができ、本日アップしました。
一旦途切れる中幡小学校までで、さすがに中野通りの向こうにまでは行きませんでしたが。
酒呑地蔵尊の解説が詳しいこのページへリンクさせてもらいました。
どうでしょうか?暗渠さかのぼりウォークは?
お豆腐屋さんのラッパの音は聞かれましたか?
そういえば拙blogで時々アップしている、
新宿ノーザンウエストの西新宿から北新宿にかけてのエリアでも、
お豆腐屋さんのラッパ売りに出会ったことがあります。