黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

十条逍遙 射撃場跡

2006-08-19 17:44:01 | ・軍都十条逍遙


かつて「一造」「二造」と呼ばれた、
大規模な兵器製造工場があった北区十条と、
それに隣接する板橋区の加賀をぶらぶらした時のリポート。

一造と二造はそれぞれ
「東京第一陸軍造兵廠」「東京第二陸軍造兵廠」の略称で、
一造は主に弾薬、二造は主に火薬の製造工場、
周辺の関連施設を合わせると、
東京23区では最大規模の軍事施設でした。

いまでこそ殆どの施設は解体撤去されていますが、
平成元年(1989)の航空写真を見ると、
まだその時点では相当数の施設が残存していたことがわかります。


「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より引用

前回アップした一造の外塀からJR埼京線沿いに南下すると、
左手に東京家政大学の大きなキャンパスが見えてきます。
以前アップした軍都 戸山ヶ原にも学習院女子大があり、
その敷地内に陸軍の遺構が残存するのと同様に、
ここ十条でも、嘗ての陸軍の敷地の一部は女子大に転用され、
しかも敷地内に当時の遺構が残存しています。
家政大学の敷地内の遺構の話は後日するとして、
埼京線を更に南下するとやがて石神井川へ突き当たります。

完全に護岸された開渠河川になっている石神井川ですが、
両岸に植え込まれた桜が大きく成長していて、
昼尚暗めの、夏だと涼しい緑地帯が広がっています。



そしてその川岸にある加賀公園は、
嘗て江戸時代には加賀前田家下屋敷だった敷地の一部です。



明治九年 (1876) に加賀屋敷の敷地を転用して作られた
火薬製造所がベースになった広大な二造は、
いわば東京の弾薬庫とでも言うべき場所でした。

鬱蒼と生い茂る公園の中央には小高い丘がありますが、
かつて前田家の屋敷だったときの築山跡だそうです。
軍都戸山ヶ原の中には、尾張徳川家の下屋敷があり、
庭の築山「箱根山」がありましたが、
ここ十条でも築山をもつ武家屋敷跡が軍用地に転用され、
やがて公園として再利用されるという、まったく同じケースです。

公園の一角に、なんの説明もつけられず、
ひっそりと軍時代の射撃練習用の的跡が眠っています。→Mapion



二造で開発された火薬の試し打ちが行われた場所でしょうか。
今ではそう言われてもまったく当時を偲ぶことはできません。

◆軍都 十条逍遙◆
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2 Comments

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帝京大学構内の遺構 (たにかぜ)
2006-08-22 12:05:11
はじめまして。近隣の住人です。

帝京大学の中にも「かつては軍の弾薬庫だったのでは?」と想わせる、やたら分厚い煉瓦壁に覆われたドーム状の倉庫が残っています。

60歳以上の人たちに話を聞くと、あのあたりは戦後米軍に接収され、朝鮮戦争の折には、半島へ赴く米軍戦車隊が道路をキャタピラで砕きながら行進する(厚木基地から空母で半島に輸送されたのだとか)壮景が見られたとか。

出勤途中に、朝っぱらから開いてる築50年以上の大衆酒場を見ますが、これも日米工廠労働者の多かった当時の生活の記憶(生きた化石とも言う)なのかな、と思います。
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▼たにかぜさんへ (廃墟徒然草)
2006-08-22 20:41:35
はじめまして。コメントありがとうございます!



帝京大学の構内にかつての遺構があるのは知りませんでした。

貴重な情報をありがとうございますm(_ _)m



戦車がアスファルトを砕きながら行進する壮景。

さぞ凄かったんでしょうね。



朝っぱらから開いている大衆酒場で思い出しましたが、

撮影に行ったときに昼飯で入った定食屋さんでは、

15人位のお客さんの8割位の人が呑んでました。

日曜というのもあったのかもしれませんが、

「十条は昼酒の街」という印象もついてしまいました(笑



これから少しずつアップしていきますので、

また遊びにいらしてください。

 

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