雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

私の定年後の生活のスタート 66歳

2018-01-18 06:41:28 | 自分史

★勤めを終わってからを『定年後』と言う。

そんな生活ももう20年にもなろうとしているので、今年はそんな私の定年後はどんなことだったのかを『自分史』のカテゴリーで纏めてみようかと思っているのだが、

 今回はどんな状況でそのスタートを切ったのか纏めてみたい。

 

私は1999年5月末を持って、最後の勤めであった北海道川重建機の社長を退任して会社生活を終わった。66歳の年である。

 『北海道川重建機』と言う名前からは川崎重工業の子会社のように思われるかも知れぬが、この会社は川重の資本も入ってはいるが、自前資本の優良会社なのである。

私の営業生活は、東北6県の自前代理店の管理営業に始まって、同じく自前企業の北海道川重建機で終わっているのである。

 世の中の販売網の殆どが大資本の系列子会社になってしまっているのだが、自前資本の代理店と言う企業は独特の存在で、その経営は一種独特で、なかなかオモシロいものである。

 現在は建機事業そのものが川重から日立に移ったので社名も 北海道川崎建機 と変わり、支店数もちょっと減ったようだが、北海道全道をその管轄としているのである。   http://www.hkwj.co.jp/company.php

 

    

      

 

 カワサキでの二輪事業一筋に担当してきたが、この最後の2年間の自前代理店での社長業は、大会社の系列販社とはちょっと違った独特なものがあって、まさにサラリーマンをしていた私としてはサラリーマンを卒業して、この2年間もまた『定年後の生活』のようなところもあったのである。

所謂、出資者・株主の発言力も強かったし、その取締役会などは独特の雰囲気だった。

二輪から建機と言う商品に変わったしその営業などのやり方も、二輪とは全く異なるものだったので、私は担当した2年間は、今更商品や営業知識を覚えてみても仕方がないので、一切そのような分野には目を向けずに、その経営のトータル・システムなどを従来の方式からは全く異なった新しいものに創り上げることだけに専念したのである。

運転手をつけましょうか」と言う申し出を断って、『4輪駆動のクラウン』で当時は15箇所もあった支店営業所を自分で運転して訪ねることなどばかりやってたので、お蔭様で北海道は殆ど隅々まで走ったことがあるのである。 若い頃4年間東北の雪道も経験しているのだが、タイヤもよくなったし、『4輪駆動のクラウン』は冬の雪道のドライブも快適だったのである。

 特に、従業員の方たちが、メーカーの社員とは全く異なる独特の個性の方が殆どで、それは最初の営業経験であった東北代理店の従業員とよく似たところがあって、私自身はどちらかと言うとそんな方たちとの方が、元来『トーンが合う』のである。

そんな、最後のお勤めも終わって、定年後の生活が始まって20年になろうとしているのだが、その間出会った方たちとの間でまた新しい繋がりが出来ているのだが、そんな方たちもみんな『サラリーマンの優等生』ではない方の方が圧倒的に多いのである。

いまはFacebook などで新しいトモダチも増えているのだが、その殆どの方が大小は兎も角『オーナー的』な方たちばかりなのである。そういう意味では、私のサラリーマン生活は、全くサラリーマンらしくなかったし、元々『サラリーマンの優等生』になる素質は有していないのだと思っている。

 

★それは兎も角、私の定年後のスタートは、札幌から大阪までの家内と二人の2日間の汽車の旅から始まった。

 札幌駅で川重建機のホントに沢山の方たちに見送って頂いたのである。駅や空港でこんな見送りをして頂いたのは、最初の営業だった仙台から帰る時の仙台駅と、この札幌のお見送りだけで、こんなに大勢の方のお見送りを受けたのは札幌が初めてだったのである。

6月からは2年振りに三木に戻ってきたのだが、これから2年間は北海道川重建機から顧問料も頂いていたし、その前年私は突如『クモ膜下出血』で札幌の中村記念病院と言う脳外科専門の大きな病院に約1ヶ月入院したのだが、その事後処置の定期検査などあって、この2年程は何ヶ月毎に札幌に行くことが多かったし、その都度北海道川重建機の方たちにお世話になっていたのである。

そういう意味でこの年1999年の後半の半年は何となくまだ『会社生活が続いている』ような状況で、私の『定年後の生活』は2000年度からスタートしたと言った方がいいのだろう。

 

★私は既に今年で85年も生きていることになるのだが、その人生は『幸運に恵まれて』いまがある。

 そういう意味で、自分では『非常に運がいい』と思っている。

 この川重建機の勤めもひょんなことで、こうなったのである。建機など全く関係はなかったのだが、大学の野球部の後輩が建機事業を担当することになり、そのトップを当時は川重副社長になっておられた髙橋鐵郎さんの管轄で、この会社の社長を川重建機の方から川重に依頼があったようなのだが、その時髙橋鐵郎さんから突然の指名が私にあったのである。 

前述したように自前のムツカシイ会社だったから、私のようなのが向いていたのだと思うし、それなりに川重にも北海川重建機にとっても上手くマネージ出来た2年間で、上への報告など全く皆無で、最後の勤めがこんなにオモシロかったのもまさに幸運だったと思っている。

 前述した『クモ膜下出血』での入院も幸運の最たるもので、或ることがあって、札幌の警察本署で『怒りまくっていたら』アタマに血が登って警察署で突然倒れてしまったのである。警察だったからすぐ救急車が来て、普通ではなかなか入れない中村記念病院と言う脳外科の専門病院に15分後には運び込まれたのである。

 非常に難しいところが切れていて、手術をしてもいいのだが、失敗する可能性も高いので何もせずにそのまま回復を待ったのである。後で主治医の先生に聞いたら、『普通の病院なら必ず手術しただろう。手術をしないのは治療をしないことにもなりかねない』のでそんな判断はムツカシイそうである。この病院には30人近くの専門医がおられるので『手術をしない』と言うのは会議で検討して決めたと仰るのである。

そんなことで私はこの病院に1ヶ月ほど寝ていただけで、何もせずに元に戻っているのである。

それとこのような脳の病気は早く入院することがMUSTだそうである。田中角栄さんも小渕さんも、長嶋さんも入院するまでに時間が掛り過ぎているのである。

その点私は『倒れて15分後には病院』に、それもちょっと他では例のないような中村記念病院と言う脳外科専門病院に入院できたのである。

 

        

  

この建物の全てが脳外科だけの専門病院なのである。

この病院の集中治療室で10日間、最上階の個室で20日間 寝ていただけなのである。

これは幸運であったと言っていい

その運は、その後も続いているし、今年も間違いなく『いい運が巡ってくる』と信じているのである。

 

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