雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキ二輪事業部 分離独立のニュース

2020-10-31 06:40:26 | 発想$感想


★ ほんとに突然のことだが、
    『カワサキの二輪事業の分離独立』のニュースが流れた。


 


 
   その記事にはこのように書かれている。

二輪車は、川重グループで数少ない一般消費者向けの製品。大排気量の高級車種などが強みで、明石工場(明石市)のほか、ブラジルやフィリピンなどで生産している。だがコロナ禍で新興国向けの需要が大幅に減り、生産を一時休止。回復は見通せず、2021年度にも子会社を設立して分離する。各国の需要に応じて意思決定を迅速にし、採算性を高める狙いがある。 



★ 昭和35年(1960)に当時の川﨑航空機工業が二輪の一貫生産をスタートさせてから、60年になろうとしているが、
その後、川﨑重工業との合併もあり、『二輪事業本部』として国内はもとよりアメリカ・ヨーロッパ・開発途上国など世界展開を図ってきたのだが、
今回、この事業を『分離独立』させての展開になるようである。


コロナ騒動』による影響が、このような決断をする『きっかけ』となったようだが、『これはなかなかいい決断』ではないかと思ったりもする。


 川﨑重工業の『受注生産・主体』の事業展開の中で、『民需・大量・末端消費主体』の二輪事業は間違いなく異質な存在だった。
 今回独立体となることで、やっと『競合他社と同じ経営形態』での事業展開が出来ることになるのである。

 
★昨今は川﨑重工業に限らず、多くの企業で抜本的な『企業組織の改革』が顕著である。
思いもよらない企業を取り巻く周辺情勢の変化が、そうさせるのだろうが、その対策を強いられる『当事者』はある意味大変だとは思うが、
それを『チャンス』とみて新しい対策を創造出来たところが『勝者』となるのだろう。


新しい事業経営の柱としては、今までとは違った『本社機能と資金繰り機能』が求められるのだが、『この二つの機能』は『事業経営の柱』と言えるものだと思う。





 
売上高の規模』としては川﨑重工業の中でも航空機に次ぐ2位に位置していて、十分に独立企業としてやっていける規模になっているのではなかろうか?



★ 今年はコロナ禍もあって、それを契機にこんな決断に至ったのだろうが。
 今年から川﨑重工業は新しく橋本康彦社長が就任されている。
 
 社長就任早々の『大きな決断』だったのだと思うが、


  


 
 橋本さんは二輪車と同じ明石工場にあるロボットのご出身だし、
 二輪事業のことも『よくお解り』だと思うので、
 この社長の決断が『いい方向』になるように、
 是非、『現役諸氏は頑張って欲しいな』と思っているのである。

  
 現実には、いろいろと新しくやることが多くて大変だと思うが、
 果たして、どんな形になっていくのだろうか?

 これからの数か月、具体的な推移を見守っていきたいと思っている。


 
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Juliet Neals と トモダチ になった

2020-10-30 05:51:23 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram



★ 昨日は突然、Juliet Neals さんというこんな美人のアメリカの女性から、Facebook のトモダチ申請が来た。


  
 

 Facebook のトモダチ申請は、男性の場合は殆ど断ることはないのだが、
 女性の場合は、何となく断ることが多いのだが、
 今回は、すぐに『承認した』のである。

  その理由は、不思議なことに、まだトモダチは1人もいなくて、私が最初の一人目だったことと、
 タイムラインにはこんな固い記事が並んでいて、大丈夫だと思ったからである。


  


 

 これが彼女のFacebook である。

  

  https://www.facebook.com/juliet.neals29




★ 『トモダチ承認』をしたら、直ぐ彼女から、メッセージが入った。

こんにちは、はじめまして。 友達になってくれてありがとう。』というメッセージが届いて、
 『米国海兵隊の会社で働いている海洋医療看護師』さんで
 いまオーストラリアに向かっている『船の上』だと仰るのである。

 航海中の『こんな写真』を送ってくれたし、

  
 

 
結構長いやりとりの間に『Facebook の私の写真』にこんなに沢山『いいね』を頂いたのである。


   

   
 初めての方とこんなやり取りをしたのははじめてなのだが、
 アメリカの女性だから勿論原文は英語なのだろうが、
 Facebook の翻訳機能で『日本語で』やり取りができたのである。


 それにまた、不思議なことに
 最初はトモダチは『私1人』だったのだが。
 こんなやり取りをやってる間に、『二人目のトモダチ』が出来たのである

 
 それが、いつも私のFaceboook にコメントを頂く『新井道雄さん』だったのにはビックリした。

 新井さんのところにも『トモダチ申請』が行ってたのだろうか?

 Facebook に載っている彼女の『自己紹介』と一緒にご紹介しておこう。



  

 


  非常にオモシロい繋がり方だったのだが、
 『Juliet Nealesさん』と今後、どんな展開になるのだろう?

 世の中、ひょんなことで、いろんなことになるものである。
 『いいご縁』になることを願っている。


  






































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アメリカの山火事情報

2020-10-29 06:15:59 | 発想$感想

★アメリカのカリフォルニア州では毎年大きな山火事が起こるのだが、
 今回は娘家族の住んでいる『アーヴァインの近く』で起こったらしい。

 最近の世界の情報は『なんでも解る』ようになっていて、
 『Irvineの山火事』で検索したら、こんな記事が現れて、
 16枚の写真が掲載されている。

  米カリフォルニア州で山火事、LA周辺で6万人避難
  2020年10月27日 14:57 発信地:ロサンゼルス/米国   

  これをクリックされたら、直接観ることが出来るが、


  その中の何枚か、こんな写真なのである。
  こんな住宅街の直ぐ向うの山が燃えている。









  
 そしてその煙が、ヨーロッパまで届いたというニュースもあった。





★ カリフォルニアと言っても広いので、いつもはあまり関係もないのだが、

  今回は結構近いようで、
  山火事で、いま住んでいるところが危険ということはないようだが、
  Irvine というまちの中のことのようで、

  Facebook に娘家族や、『Facebook で繋がってる人の安否情報』が送られてきた。

 

  

 
  こんなことは『はじめて』である。
  『皆さんご無事』で何よりだが、今回の山火事は二つあるようで

  エンゼルスの球場があるアナハイムの東側なのだが、
  

   


   拡大するとこんな感じで、
   下の方の山火事は、アーヴァインの直ぐ横なのである。


 

  
  
 消化活動はやっているようだが、
 広い範囲なので、なかなかすぐには消えないようである。

 毎年のことなのだが、自然発生で防ぎようがないのだろうか?

 

 
 

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私と健康と好運     雑感

2020-10-28 06:14:46 | 自分史

★ 88歳の米寿まで半年を切った。
  
  とんでもなく長生きしたものである。
  今も、結構元気で毎日1時間もスロージョッギングしているし、
  50メートルダッシュ・10本も出来るし、
  毎朝やってる『ストレッチ』で『柔軟性は20歳台』が確保されてるから
  若し今年も三木市の体力測定が実施されていたら、
  間違いなく『体力年齢=50歳台』が確保されたはずである。
  
  前回、85歳の時の『体力年齢=53歳』だったのである。



  




★ 今のところホントに元気なのだが、
  今まで、人生で3度死にかけたし
  我が家のDNAは、男性は祖父も、父も、伯父も50歳台で亡くなったので
  『そんなに長くは生きられない』と思ってずっと生きてきたのである。

  『だから』というわけでもないのだが、
  『その時々を懸命に生きた』と言えるのかも知れない。
  不思議なほど『欲はなかった』し、『何になりたい』と思ったこともない。

  自分の進む道は、みんな周囲が決めてくれて、
  そんな周囲が決めてくれた道を『ただ懸命に』歩いてきたような気がする。
  唯一『自分で決めた』のは『家内との結婚』だけだと言ってもいい。
 


  

★『3度死にかけた』と言ったが、一度目は20歳の時肺浸潤になって、
 そのまま野球を続けていたら、『空洞』が出来たのだがそれでも野球を止めなかった。
 『そんなに長くは生きない』と思ったので、自分の生きざまを残そうと日記も書き出したのである。

 川﨑航空機に入社できたのだが、そこでも野球はやっていた。
 会社の診療所の先生には野球を止められていたが、それでもやっていたら、
 ある時ユニホーム姿を見つかって、『菌が出てるから』と入院させられてしまったのである。
         
  『診療所の先生に見つかったこれが好運の最初だと思う。
  若し入院していなかったら、私の人生も短く終わっていたかも知れない。
  入院したら1年足らずで空洞も消えて、
  退院したら『新しく出来た単車営業』に異動になったのである。
  そして、健康が取り戻せたので、翌年『家内と結婚した』のである。

  
★最後の勤めが札幌での『北海道川重建機』だったのだが、
 この2年目に駐車違反のことで警察の本庁で文句を言ってたら、
 アタマに血が上って『くも膜下出血』で倒れてしまったのである。

 倒れた場所が警察だったので、15分後にはこんなに立派な『中村記念病院』に入院出来たのである。
 脳外科専門医が30人もいる脳外科専門病院で、手術もせずに1ヶ月で退院できたのである。

  

  


  これが好運の2度目である
  非常にムツカシイところが切れたので、『手術をしない』ということを
  『会議で決めた』と仰るのである。
  こんな大きい脳外科の専門病院などは関西にはない。

  あとで主治医の先生に聞くと、『手術をしない』などは
  専門医が2,3人の普通の大病院では『多分ない』と言われるのである。

  こんな病院に巡り会えたのが、『好運だった』と言えるのだろう。
  そして、それまではあまり考えなかった『自分の健康』について考えるようになったと言えるのである。


  68歳の頃のことだから、それからもう20年も経っている。
  そして、今のところ『何の問題もない』のである。



★ この年の5月で現役生活を終わったのだが、このころは体力的に衰えていて、
        膝や腰が痛くて整形外科に通って電気治療などやってたのだが、
  先生に『治りますか?』と聞いたら
  『筋肉は何歳になっても付くからストレッチでもされたら』と言われて、
  私のストレッチはそこから始まったのである。

  これが『好運だった
  毎朝40分ほどのストレッチはここから始まったのである。

  そして『77歳の時の体力測定』で『柔軟性は20歳』と出て『さらに筋力をつけたら』と出たので、
  その年から『50メートルダッシュ』を始めたのである。
  不思議なもので年々早く走れるようになって、『今が一番スムースに速く』走れているのである。


★そんなことで、定年後の生活は全く順調だったのだが、
 実は昨年の7月に『ほぼ死にかけた』のである。

 足に菌が入ってちょっと熱があったのだが、
 寒かったので風呂に入ってたら『風呂の中で失神してしまった』のである。

 気が付いたら救急隊員が居たりしたのだが、自分では『全く記憶がない』
 たまたま、アメリカから娘と孫が遊びに来てたので、
 風呂からは孫が『引っ張り上げてくれた』らしい。

 若し、家内だけだったら『どうなっていたのだろう
 これが『死にかけた』3度目なのである。
 救急車が来てたので、一応は病院まで行ったのだが、
 『そのまま帰宅』したのである。

 『風呂で急に血圧でも下がったのでは』と勝手にそう思っている。


★ 今年は『コロナ問題発生』だが、
 その対応生活は『私の健康』にはいい方向で作用していると言っていい。

 午前中は公園で走ったり、ジムに行ったり非常に健康的に過ごせている。
 あと何年このまま元気で過ごせるか?
 
 こういうと『不思議に思われるかも』知れぬが、
 ストレッチを始めた『70歳の頃』から現在まで、
 『体力の衰え』は全くないような感じで推移しているのである。

 『筋力は何歳になっても付く』と言われた整形外科の先生の言葉はホントだったのである。




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三木山森林公園を歩いてきた

2020-10-27 06:36:18 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 昨日は三木総合防災公園でのスロー・ジョギングではなく、
  三木市総合体育館のジム・トレーニングに行ってきた。
  この体育館は三木市総合公園の中の
  野球場・陸上競技場、テニスコート・プールなどと共にあるのだが、

  そのすぐ隣が『三木山森林公園』である。
  この公園はほんとに山や森林が中心で、自然がそのまま残っている。
       舗装をされていない自然な道がいっぱいあるのだが、
  その中のひとつ『もみじ谷』を久しぶりに歩いてきた。


  まだ緑が多い。







  もみじ谷の入口だが、
  もみじは未だ『青々』としていて
  『青いもみじ』もまた綺麗である。






 この森林公園も開園以来25年経ったそうで、

 ところどころ、森の木を切って『森林の若返り』を図っているようだ。
 







  こんな看板にこんな説明がなされていた。


   



  結構長い上り道が続くのだが、

  11月末になると、この辺りも『真っ赤に燃えて』様変わりする。

  1ヶ月のちに、もう一度来ることにする。





★最近は、ちょっと『ご無沙汰』なのだが、
 幾つもある三木の公園の中で、『一番好きな』公園である。

 殆ど手を加えていないところがいい。

 『もみじ谷』を登りきると、芝生の広場があって
 その横の並木道は『紅葉』が始まりかけていた。


  


 あと1か月先は、まだ葉が残っているだろうか?

 多分その頃には、散ってしまっているのだろう。

 約5000歩・4kmほどの散歩だった。

 


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私の 『庭仕事』

2020-10-26 06:01:32 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★朝はこの辺りは10度以下に冷えたのだが、
 『小春日和』とでも言うのか午後からは暖かくいい天気になった。
 
 秋になっても草も伸びるし、植木も伸びる。
 私の庭仕事の大半は、鋏を持っての『剪定』だが、
鋏で切る』ことが好きで、小さな『手鋏み』で切るので結構時間は掛かる。
 

 放っておくと、伸びて大きくなってしまうので、
 『こんな風に刈っていく』 息子の坊主頭の散髪をしてる心境である。
 




 小さな庭だが、綺麗に保とうと思うと大変だから、
 『自分が納得できる』レベルで止めている。




 

 昨年、何故か実が付かなかった万両だが、

 今年は大丈夫、『いっぱい実がついている』





 
少しだけだが、色づき始めたようである。

  


  万両は実がついたのに、千両は半分は今年も実がつかない。

  実のなるものは、何故か実がつかないことがある。

  昨年は成らなかったみかんが今年はいっぱい実をつけた。
  日に日に、黄色く色づいている。
  正月まで取らずに、木に付けておこうと思っている。

  



 猫は飼ったことがないのだが、
 これは隣の『ラブちゃん』である。
 何となく、我が家の庭が気に入ってやってくる。

 何もやったりはしないのだが、最近は撫でても大丈夫になった。
 『害を加えない』という信用を頂いたようである。
 午後には「、猫も日陰にうずくまるぐらい暖かくなった。






 春に咲く『あせび』だが、もうこんなになっている。





 つる薔薇の枝も、どんどん伸びている。

 今から伸びた枝に、来年の花は咲く。
 枝がどんどん『伸びる』ということは、それだけ春の『花数が多くなる
 






 秋バラは、咲いてるものもあるが、
 来週ぐらいから、咲き出すのだと楽しみにしている。


    




 大したことはしないのに、1時間ほど庭にいた。

 そんな『私の庭仕事』なのである。


 
 

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私とお金  雑感

2020-10-25 06:21:09 | 私の生き方、考え方&意見

★ 振り返ってみると、結構長い人生なのだが、
 自分自身の生活では『お金』とは、
 無縁というかあまり関係なく生きてきた。
 家内は専業主婦だったのだが・・『お金の管理』など家内に任せきりで、
 孫たちも『お金を持ってるのはおばあちゃんだ』と思っているようだ。
 
 
 月々に決まった『小遣い』など子供の頃から貰ったこともないし、
 『お年玉』も貰った記憶がないように思う。
 

 なぜ? と言われてもよく解らないが、
 多分、父がそのように躾けたのだと思う。
 『こどもは金など持つな』と言われていて、その延長が続いている。

 子どもの頃は、自分で金を払って『何かを買った』という経験もない。
 
 子供時代というか小学生時代までは、
 結構、裕福な暮らしだったと思うが、
 今でも不思議に思うのは、父は『勤めたり』はしていなくて
 家で絵を画いたり、旅行に行ったり好きなようにしていたように思う。
 生活費をどのようにしていたのか?

 
  服装などは、いつもちゃんとしていて
 背広は神戸元町の『柴田』で仕立てたというのが自慢だった。

  
    


  
  小学生の頃、自転車を買ってもらったが、
  自転車は100円ほどだったし、
  当時の勤め人の給料が70円ぐらいの頃だから、
  自転車も贅沢品だったのだと思う。


  父は伯父との二人兄弟で、
  伯父は朝鮮の南鮮合同電力のオーナー副社長で年に数回京城(今のソウル)に来ていたし
  当時の内地では明石で『錦江ホテル』という結構立派なホテル経営など
  定職があったのだが・・・

   




  
  伯父と父は仲が良くて、財産分けなどもしていなかったようだから
  伯父から金が出ていたのか? 株の配当でもあったのか?
  その辺りがよく解っていない。


  伯父と父の写真も戦災で焼けてしまって、この2枚しかないのだが、
  これは錦江ホテルの庭で写したもので、
  私など、こんなちゃんとした格好で写真など写したことはない。
  

     




★ ただ、こんな生活も小学生時代までで、
  終戦で内地に1人1000円だけ持って引き揚げてきたのだが、
  『1人1000円』は少ないようにも思うが、
  戦時中の給与が『70円』だとすると、結構な額だったのかも知れない。

  ところが戦後はインフレがどんどん進んで、
  引き揚げて戻ってきたころの『闇米』が『一升100円』ぐらいした。

  戦後は、伯父も父も多分収入はなくて、どのようにしてたのか?
  
  私が高校の頃、父は『脊髄カリエス』に罹って、
  マイシンの注射が『1本 1000円』もしたのだが、
  その金は、伯父が土地を売って都合してくれたのである。

 『1坪100万円』近くにも高騰したことのある明石上ノ丸の土地だが、
 当時は1坪2000円ぐらいだったのである。
 
 父は3年近く寝てたので、
 伯父は、結構多くの土地を売って、その金を都合してくれていたのである。

 今思うと、日本で土地に値打ちが出だしたのは、
 一般の人たちが自分の家を建てだした昭和40年(1965)ぐらいからで、
 それまでは土地など大して値打ちのあるものではなかったのかも知れない。



★ 本当に、変化にとんだ『オモシロい時代』を生きてきたと思う。

  1円が大金だった『自転車が100円』の時代、
  戦前、伯父が乗ってたアメ車『パッカード』が1万円だった。
  
  私が大学を卒業し入社した時の『初任給は12000円』だったのだが、
       『日本の高度成長期』に給料はどんどん上がって、
  退職する前は、『初任給の100倍』にもなっていたのだが、
  そんなに『余裕のある生活』でもなかったように思う。

  子どもたち二人が大学を卒業して、自分で給料をもらうようになるまで、
  『貯金』などするにもできない時代が続いた。
  
  その間の一番高い買い物は『土地と家』なのだが(1970年頃)
  いま住んでいる三木の土地は70坪で280万だったし
  家も400万円ぐらいで建ったから、  
  周囲や庭を入れても1000万円は掛からなかった時代なのである。

  ただ、給料が15万円ぐらいの頃だから苦しかったのだが、
  給料が最高に上がった時期で、毎年20%も上がったりしたのである。
  お蔭様で、ちょうど家を建てだした時期から
  4年後には給料は2倍の30万円ぐらいになっていた。
  今では考えられない『ウソみたいなホントの話』である。


★こんな時代を生きてきたのだが、
 不思議なほど『金には頓着しなかった』し、
 『金を貯めよう』などと思ったこともない。

 子どもの頃に、いろいろ可愛がってくれた伯父の派手な生活ぶりを見て、
 何となく『お金はないほうがいい』とそんなことを思ったりしたのが
 影響しているのかも知れない。

 川﨑航空機にはその伯父のコネで入れて貰ったのだが、
 現役時代、『給料が安い』などと文句を言う人は周囲にはいたが、
 私は、そんなこと思ったこともないのである。


★ただ、現役時代『会社の利益確保』には至極関心があって、
 『会社のお金の額』については、二輪事業全体の管理をしていた企画室時代には
 売上高ではなく『利益のレベル』で、『百億円』の『単位での貢献』が出来たと思っている。
  
 これは初めて営業第1線に出て、当時の自前の代理店が、
 実力以上に販売し『資金繰りが悪化し倒産する』様を見て
 『赤字は罪悪』だと身に染みて思ったからである。

 このような『事業経営でのお金』については、
 間違いなく『人並以上の関心』があって、
 結構『ダイナミックな金の使い方』もしたのだが、
 事業経営は結果が毎年明確に出るので、それに興味があったのだと思う。


 現役最後の10年間に国内販社を担当したが、

 年間400億円の売上高だったが、無借金経営で、
 総資産100億円だったから、4回転していて、
 資本金1億円の会社の純資産が35億にもなったから、
 間違いなく『超優良会社』だったのである。
 
 でも、個人の給与はちょっとボーナスがいいぐらいで、
 同期の人たちと変わらなかったのだが、何の不満もなかったのである。
 

★ 退職後の今は全くの『年金生活』だが、
 80歳代にもなると、殆ど金も使わない。
 今更、欲しいものもあまりない。
 1万円札を使うことが『まずない』ような生活で、
 全然不満もないから不思議である。

 振り返ってみて、
 『裕福だった時代
 『貧しかった時代
 『会社経営で潤沢なお金があった時代
 『普通の生活をしている老後の時代
  を経験できて大満足なのである。
 
 多分これからも『お金が増えたり』することはないし、
お金が欲しい』と思うようなこともなく、私の一生は終わるのだと思う。
 
 
  

   
   
        
 
 

 

 

 
 
 
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久しぶりの ジム・トレーニング

2020-10-24 06:32:37 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 昨日は雨だった。
 防災公園でのトレーニングができないので、
 久しぶりに、三木総合体育館に『ジム・トレーニング』に行ってきた。


 



 今年の3月まで、『コロナ騒ぎ』が始まるまでは、
 約2年間ずっと通っていたジムなのだが、
 『コロナ』で休館になってしまったので、
 三木総合防災公園でのトレーニングに変更したのである。

 
    こんなスポーツ公園の中をスロー・ジョッギングしていると
 自然の中で、それはまた気分もいいものだから、
 3月以降は、ジムには雨の日に一度行っただけで、今回が2度目だった。

   
       



★ 何ヶ月ぶりかの『ジム・トレーニング』で感じたことは、
 『ちょっとやらないと体がなまっている』と感じたことである。
 特に上半身の腕がダメだったし、
 足も以前簡単に出来たものが『キツク感じる』のである。

 ジムは筋力トレーニングが中心だから、毎日でなくてもいいのだが、
 やはり『継続』が大事だなと感じたのである。

 そんなこともあって、来週から天気に関係なく
月曜と金曜』の2回は『ジム・トレーニングを再開』することにした。


★ 来ているメンバーも一緒で、久しぶりに『人と話も出来た
 この半年、殆ど人とは話をする機会がなかったので、
 『話をする』ことが新鮮に感じたりもしたし、
 ジムのメンバーたちが『元気そうでよかった』と暖かく迎えてくれたことも
 『ジム再開』の判断に繋がったと言っていい。

 以前と変わっているところは、やはり『コロナ対策』で、
 器械の間が広げられていたり、1回ごとに係の方が消毒などをやっている。
 こんな『コロナ対策』はいつまで続くのだろう?

 少なくとも『コロナ対策』がなくなるまでは続けたい。
 防災公園でのランニングとの併用でさらに身体が締まることを期待したい。



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門野真也のゴルフ

2020-10-23 06:33:54 | スポーツ

★ 『何を思ったのか』 孫・門野真也がゴルフを始めたらしい。

 そして『何を思ったのか』その練習中のビデオを
 Facebook のメッセージで私のところに送ってきた。


     


  

 そのビデオがコレである。
 まだ、始めたばかりでコースには出ていないらしいが、
 一見して、これは『見込みあり』だと思った。

 


 
  ゴルフは、止まったボールを打つ。
  だから、打つだけはそんなに『ムツカシクはない
  だから、大勢の人がやり出すが、『なかなか上達』はしない。

  上手くなるためには『反復練習』がMUSTだし、
  それが『継続できる』ことが条件だと思う。



★ 私自身は42歳でゴルフをやりかけた

  めちゃ一生懸命やったし、会員権も買ったし、
  月例競技にも欠かさず出ていたら、
  1年ちょっとで『ハンデイ10』になったが、
  それで満足して、『ハンデイをさらにあげる』ことはやめにした。
  
  仮にそれ以上やってみても『片手シングル』はなかなかムツカシイし、
  プロになる訳でもないから、『実力シングル』ならそれでいいと思った。

  そういう意味では『私の生き方』は『ハンデイ10の人生』で、
  何をやっても、『人並みちょっと上』までは行くが、
  それ以上は決して追求しない。
  それ以上は、苦しいだけで『楽しさがない』と思ってしまうのである。


★ そんな『私のゴルフ』だが、門野真也の性格は『ゴルフ向き』だと思う。
  何事にも取り組んだら熱心だし、『継続性』もある。
  私が42歳で始めたのとは違って、まだまだ若いし『可能性がある
  と思ったので、ちょっと批評して返事したら、
  翌日も別のビデオを送ってきたし、
  それにさらに論評したら3日目も送ってきた。

  
  そのビデオがコレである


     



  たった3日だが、コメントしたところが修正されて、
  非常によくなっている。

  見てやってください。
  始めたばかりのゴルフではないことは間違いない。

  


 
   これらの写真は、このビデオの中から写したものである。



        


        


        

        

        

        



  3日前とは安定度が全然違う。
  サッカーで体が出来ているからだと思うが、
  柔軟性も安定度も抜群だし、全体に力が入って力んでいないのがいい。

  あとトップの貯め一瞬出来て、
  左手首の折れが真っ直ぐになったら、ほぼいいと思う。
  ボールは真っ直ぐ飛んでいるようだし、
  このまま身体が覚えたら、ショートコースに出ても、
  何とかなるのではと思うが、


★  こんなことをブログにアップしたら『熱心になり過ぎて』しまうかも。
       娘も、娘婿も一応はゴルフをやるので、
  3人で、ショートコースを廻ればいい。

  アメリカはゴルフをやるには絶好の環境なのである。



  
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Tetsuya Kadono が20歳になった

2020-10-22 05:55:03 | 発想$感想

★ アメリカは日本より1日遅れなので、
 今日が10月20日、孫・門野哲也の誕生日である。
 
    まだ、日本語もちゃんと話せないような時期に、アメリカに渡ったので
 Tetsuya Kadonoの方が似合っているかも知れない。


 Facebook で 『おめでとう』と言ったら
 『ありがとう。20歳になったよ』と返事が来た。
 早いもので、今は大学2回生である。


   

 
 

★ 男の子ばかり4人いる孫の中で、
        子ども時代と『一番変わった』のが哲也だろう。

 何が気に入ったのか?
 樋渡啓祐さんに頂いた『がばいばあちゃんのシャツ』を
 こんなになるまで着続けて、さらに壁に飾っていた。
 
 ひょっとしたら、そこに書かれた言葉が気に入ったのかも知れない。


人は死ぬまで夢を持て!
たとえその夢が叶わなくとても、しょせん夢だから




 


 
 アメリカですくすく育って、こんなデブの短足のキーパー
 

   



  こんなに変身した。





 
 アメリカ人の中に入っても、一番背が高くて、

 将来は『プロを目指してる







 若し、日本にいたら『こうはなっていない』ような気がする。

 『人を育てる仕組み』がちゃんとあるアメリカで、

 子どもの頃から一貫して、
 メキシコ代表のキーパーだった方の指導を受けて育った。
 アメリカはお金は掛るが、希望すればこんな方が教えてくれるのである。
 

  


  
 
 周囲の環境もよかったようで
    子どもの頃から、ベッカムとも、
 
    
       


 
  こちらは 前アメリカ代表監督クリンスマンさん、


     


    
 そしてご存じ、本田圭祐さんと
 高校時代だが、ちょっとだけだが背は高い。
 
           
     
 

  
  
 一番最近の写真が、大学の寮で娘と一緒に

   
   



 
 少しづつだが、大人の顔に近づいてきた。


 ところで、これは次男のプロサッカー選手・門野真也
 哲也をモデルに、毎日アップしている『毎日てっちゃん』だが、



 なかなか 『雰囲気出てる』と思う。

 

  


  
  
  不思議なほど何事にも『泰然自若』、『満々の自信家』なのである。

  あと2年、22歳には『プロ選手』になってるのかな?

  そんな Tetsuya Kadono が見れるように
  私も精一杯、精進して90歳を迎えたいなと思っている。
  
 
 
  

  
 
 
 

   

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私の車の運転      雑感

2020-10-21 05:54:23 | 自分史

★ 私が免許を取ったのは昭和40年6月17日である。
  1965年だからもう55年も前のことである。
  32歳の時で、娘が生まれる年、
  家内が里に帰っていた時に学校に行って取得したのである。

  そんなことで始まった運転だが、以来 スピード違反はあるが、
  『事故は皆無の優良運転手』で、今は勿論『ゴールド免許』なのである。

  

  免許を取ったころは、ちょうどファクトリーチームに関係していて、
  私の運転の先生は『山本隆』くんである。
  星野一義もいたが、彼は未だ未成年で運転免許は持っていなかった。


ヒール&トウや、ブレーキ・ターンなどのレーステクニックも覚えたし、
カーブを曲がるときの『スローイン・ファーストアウト』や
ブレーキを踏むときはバックミラーを見て後方を確認』など、
アクセルを開けてる時が一番車は安定していて、
ブレーキを踏む時が『不安定』だという特性などもその時に覚えたのである。

当時の未舗装のデコボコ道や砂利道は適度にアクセルを踏んで、
その頭の上を走れば車は安定する』ことなども教えて貰ったので、
その後の東北での実走行に大いに役に立ったのである。



★高齢者の運転事故が言われていて『免許返還』する方などもいるが、
 多分、私はまだまだ車は運転するだろう。
 今は、朝走りに行く三木総合防災公園までの往復と、
 家内の買い物の付き合いだけだが、常に『安全運転』なのである。

 今はそんな運転だが、現役時代は日本では本州の全県を自分で運転したし、
 海外出張時は『海外免許』を取得しで空港でレンタカーを借りて、
 自分で運転してその地を廻るというスタイルだったので、
 ホントに世界各国を走っているのである。


★一番よく走っているのはアメリカで、出張回数も多かったから、
ロス近郊は道もよく解っているし、リンカーン工場のあったネバタ州も走っている。

最近は娘家族がアメリカにいるので、
遊びに行って、サンフランシスコまでの600キロは何回も乗せて貰ったし、
自分でハンドルを握ったこともある。


  

  


★ 東南アジアの開拓も担当して、
タイには何ヶ月も滞在し社用車を購入してたので、バンコック以外もよく知っているし、
フィリッピン・マレーシア・インドネシアの道もよく知っている。


  




★ オーストラリアは、ちょっとあとの時代になるが
 シドニーから販売店廻りをして、内陸地域も知っているし、
 
 個人旅行では北のケアンズから周辺の国立公園など
 1日かけて走ったし、


   

  
 
 海岸線のゴールドコースと周辺や
 シドニーからブルーマウンテン国立公園など、
 レンタカーで2000キロ以上走ったりしている。

 

 
       




★ ヨーロッパフランクフルトを中心に、オランダ・ベルギーにも行ったし、
 南へ下ってボーデン湖から、その湖をフェリーで渡ってスイスへも行った
 りした。

 一番豪華だったのはジェットスキーの市場調査で、
 ジブラルタル海峡からスペインの海岸線を走った時で、
 ここは全くの『避暑地』の連続だから、ホントに華やかだったのである。

  
 

 
 アフリカのナイジェリアにも、市場開拓で駐在者がいたこともあって
 首都ラゴスから、イバダンまで走ったことがある。

 首都と地方の差が『歴然』だったし、地図で見るとほんの一部だから
 ナイジェリアが解かったというレベルではないが、
 現地に行ったものでないと感じることのできないことはあるものなのである。

 




★これは開発途上国でのCKDの調査チームの時だが、
 まだ『王政時代のイラン』のこんな地区を飛行機と車で訪れたことがある。


     
 


そのイランの砂漠の中の長い道、世界には『あんな道』もあるのだと実感した。
そんな砂漠の中に、突如立派な都市が現れるのである。
人間が自然の中で、生きている様子がよく解った。

 

★そういう世界に比べて、日本の道は狭くて、曲がって、混雑して大変だが、逆に言うと本当によく整備されているとも言えるのである。

 いま走ってる『三木の辺り』は、ホントに道もよくて広いし
 混雑もないこんな道路を走っているのである。

 コレ、高速道路ではない一般道で、
 この道を走って毎朝三木防災公園まで車を運転しているのである。

  

 
  こんな私の運転歴だが、
  いつまで『車を運転できる』のだろうか?

  車が運転できなくなったら、私の人生も終わりかも知れない。


 
 



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世論とは何かな?     雑感

2020-10-20 06:22:55 | 発想$感想

★『世論調査とは何だろうか (岩波新書)』という本も出ているようだが、
 『世論』とは一体何なのだろう?』

 このような解説もあったりした。
 
世論調査の数字は不思議だ。同じような質問なのに、結果はしばしば各社各様。どれが本当の数字なのか? どの数字が信頼できるのか?
結果次第では内閣の命運も左右するといわれる世論調査。それは国民の意思や意見のありかを伝え、権力を監視する強力な手段でもある。』

 などと言われたりしているが、
 昨日読売新聞にこんな世論調査の結果が出ていた。


  

 

 最近ずっと毎日マスコミが報道する『新型コロナウイルス』に対する
 『政府の対応姿勢に対する評価』だが、
 9月になって突如逆転して、8月の27%から倍増56%になったという。

 『コロナ対策』は単に国の対応姿勢だけではなくて、
 むしろ、『日本国民の対応姿勢』に追うところが多いのだとも思うが。
 『日本の対応実績』は、世界でも群を抜いて大成功だと言っていい。

そのベースにもなっている『国の対応姿勢』は『評価されて当然』だと思う。

それが先月までは27%の評価ということは不思議で仕方がないのである。
でも、なぜ1ヶ月でこんなにも変わたのだろう?

私自身は『日本のコロナ対策』に対しては一貫して『大成功』と思っていたが
確かにそれが『=国の対応姿勢』かと言えばそうでもないかも知れぬが、
国の対応姿勢』もその実数数値を諸外国と比較すると
間違いなく『成功の部類』に入れない方が不思議だなと思っていた。


★現在の日本のコロナ患者の『実数推移』は下図の通り
 『約6000人で横ばい』なのである。
  
 


 

1日当たりの患者発生数も『500人レベル』で安定していて、


  


 
アメリカの『6万人の100分の1』なのである。



  


 このところ急激な増加で話題になっているフランスは、
 1日3万人のレベルだから、どちらも桁が違うのである。






こんな国別の『対応評価』なのだが、
不思議なことに日本はダントツの『最低』なのである。

 



この表で最高の評価のドイツの毎日の発生実数は、日本の10倍なのである。







★こんな数値を見る限り、
日本が最低』などとは『あり得ない評価』だと思うのだが、
 一体、どんな基準でこのような評価がなされているのだろうか?

 どうも、日本のマスコミというか、
 日本人の国民性も、
 『自国に厳しく当たること』をモットーにしているのか?
 『日本人の謙遜なのか?』

 私は『56%でも評価が低すぎる』と思ったりするのだが、
 まだ、ワクチンもない状態なのに
ゼロ』にでもならぬと『高評価』にはならぬのだろうか?


 
● こんな意見もネットの中にはあったのでその抜粋である。

なぜ日本はこんなに新型コロナウイルの感染者数や死者数が少ないのだろうか?」。
日本政府は英国などと比較し、大規模な検査や施策を打ち出していないにもかかわらず、感染対策は比較的うまくいっている印象がある。
海外のメディアは今回の日本のCOVID-19対策はやや皮肉が漂う「日本の奇跡」「日本の謎」と呼んでいるようだ。

日本の人口当たりの死者数は欧米諸国と比較して低く、早い段階からの「3密」を回避するよう呼びかけたことなど、もっと海外から評価されてもおかしくはない。
しかし、日本の講じた対策は「世界のモデル」として称賛されることはほとんどない。それどころか、日本のCOVID-19対策は、たまたまうまくいった「結果オーライ」とみなされていることも多いように感じる。
 
実際、日本国内における政府へのCOVID-19対策における評価は他先進国と比較し高いとは言えない。
日本、アメリカ、英国、スペインに限ってはほぼ半数がコロナ対策は良くなかったと答えており、比較的ネガティブな国民の評価が多い。
一方、日本だけがこの4カ国の中で、死亡数はけた違いに低い。
つまり日本は「結果が良好にもかかわらず、政府への国民の評価が過度に低い」ことを示している。
日本のCOVID-19対策の評価が海外のメディアから高くない問題の根底には、日本の医療政策決定のプロセスにおける「透明性」や「信頼性」の課題があり、「全校一斉休校」や「アベノマスク」の決断が、専門家の助言に基づかない首相の独断だったことが次々に報道されたことはまだ記憶に新しい。


★ 今回の対策そのものが『日本的』なのである。
 それはそうかも知れぬが、
 今回の調査では、なぜ一転して『評価をする人』が倍増したのだろう?

 この辺りが、所謂『世論調査』がもうひとつ解らない点なのである。
 
 
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戦後の中学生の時の記憶 

2020-10-19 05:51:04 | 自分史

★ 昨日は小学生時代の記憶について記したのだが、
 終戦になってその年の12月に日本に引き揚げてきた。
 
 この年の4月に中学生になっていたのだが、
 翌年にもう一度中学1年生に再入学したのである。
 英才教育で名高い旧制神戸一中に入学したのだが、
 なぜか『無試験』で入学できたのである。

 小学校の時も、勉強はしていて小学校卒業の際には『知事賞』に当たる
京城府伊賞』なども頂いていたので、試験を受けても入れたかも知れぬが、
 
 父から『無試験で入れたのだから勉強はちゃんとするように』と言われて、
 神戸一中時代は本当によく勉強はしたのである。
 その結果、中学2年までは結構『いいところ』にいたのである。

 京城の桜ケ丘国民学校もなかなかレベルの高い学校だったが、
 神戸一中は、これは優秀な生徒が揃っていたし、
 授業のレベルが高いというか、進み方が早かったのである。

 入学した時は旧制中学の最後の学年で男子ばかりだったのだが、
 3年になるときに、男女共学になって県一女と一緒になったのだが、
 一緒になってからは、女子のレベルに合わせたので、特に英語・数学辺りは
 『1年間逆戻り』したようなことになったのである。

 

★どんなレベルだったかというと、
 英語などもスタートは、This is a pen.から始まったのだろうが、
 1年の夏休みの宿題に『「舌きり雀」の物語の英文』があって、
 それはこんな英文から始まるのである。
 
Once upon a time, there lived an old man and his wife. They treated the bird tenderly as if it were their child. ・・・・・


as if it were』と言う表現は、 初めての方もおられるかも知れぬが、
 ホントに『it』の後ろが『 were 』で合ってるのか、確かめてみたのだが、
 こんな例題が出ていて


 
 
 

これは『まるで』という意味で『まるで自分の子供のように可愛がった
ということなのである。

こんな英文を何故か80年経った今も鮮明に覚えているのである。
数学は『対数』辺りまで中学2年生で進んでいたので、
対数』については、中学生の頃に2度習ったし、
高校は学区制になって、明石高校に移ったので3度教えて貰ったのである。


★そんな小学校・中学校での学習だったのだが、
 逆に言うと、そこで私の学校での勉強は終わってしまって、
 高校時代も、大学でも『新しい知識の取得は皆無』だと言ってもいい状態で
 『私の記憶のレベル』は神戸一中の2年生までなのである。

 だから私の学歴は『中学卒業』だと思っている。
 それ以降は学校には行っていたが、一生懸命やってたのは野球なのである。

 
 そんなこともあって、学校時代のことで覚えていることと言えば
 『野球のルール』と『神戸一中の校歌』ぐらいである。
  小学校の校歌も、高校の校歌も全然想い出さないのだが、
 『神戸一中の校歌』はなぜか覚えている。

 昔の言葉が並んでムツカシイのだが、2番までは今でも歌える。

 
  
 
 
 
 この校歌を、大勢の人の前で歌ったことがある。
 それは私の結婚式の披露宴でのことだが、
 高校・大学の野球部の連中がいっぱいいて、
 結構、賑やかな『披露宴』だったのだが、
 
 仲人さんが、突然『君も歌え』と仰るのである。
 突然のことだったのだが、
 たまたま、家内も神戸高校の卒業だったこともあって

 神戸一中の校歌の一番を歌ったのである。

群巒色(ぐんらんいろ)は紫に  金波さ揺らぐ茅渟(ちぬ)の浦
 東大野を瞳々と   朝日子昇る曙や
 希望の光輝ける 我が世の春に似たるかな 

  の歌詞もいいなと思ったのである。

これは秀逸』と褒めて頂いたのを想い出すのである。
 

 ★ 小学校・中学校での記憶のことをアップしてきたが、
 高校・大学と殆ど何も覚えなかったのだが、
 会社に入ってからの現役時代はからは『結構勉強した』と言えるのである。

 以前にも書いたが、会社の入社試験の面接は、
 『君は成績悪いね』から始まったのである。
 『臆することなく、会社の仕事なら他人に負けずにやれます』などと
 答えたものだから、積極的にいろいろ覚えたし、

 入社早々『IBM での償却計算・機械化』など会社で誰もやらなかったことに
 取り組んだし、『広告宣伝課』で本格的なマーケッテングを覚えたし、
 営業では大学時代取らなかった簿記について、
 特に資金繰り関連での勉強などに取り組んだのである。

 
★ 学生時代に勉強をしなかっただけで、
 『知識の取得』には興味がある方だと思う。

 定年後はネットをいろいろ覚えたし、今でもいろいろ『新しいこと』を
 覚えるのだが、どんどん忘れてしまうのである。

 小学生・中学生の頃に覚えたことは、なぜ忘れないのか?
 
 ホントに不思議に思って、こんなことを書いてみたのである。



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戦時中の 小学生の頃の記憶

2020-10-18 06:43:27 | 自分史

★ 人間の記憶は、何かつまらぬことは、何年経っても忘れないのだろうか?

 そんな記憶の話なのだが、

 大東亜戦争時代、私は小学生だった。
 小学校とは言わずに『国民学校』と言われていたが
 当時は『間違いなく日本だった朝鮮京城今のソウルにいて、
 京城府城東区新堂町桜ケ丘に家があり、桜ケ丘国民学校に通っていた。
 
 番地までは流石に忘れてしまったが、
 当時の本籍兵庫県明石市細工町20は番地までよく覚えている。


 戦前のソウルはなかなか立派な街に創られていて
 市電も当時内地と呼ばれていた内地の市電よりは立派だったし、
 三越も当時の神戸元町の三越よりは立派だったのを覚えている。

 これは戦後ソウルオリンピックの時にソウルに行く機会があって、

 母校京城桜ケ丘国民学校の写真を撮ってきたのだが、
 戦前の建物とは思えない、なかなか立派な建物だった。
 教室は冬対策で『スチーム』が通っていたのである。



    


 京城は日本人が創り上げたいわば新興都市だったから、
 住んでいた住宅なども、内地の家などに比べるとモダンで広かった。
 住んでいた桜ケ丘は、殆どの家が300坪以上はあった新興住宅街だった。



★ 終戦の年が中学1年生だったから、それまでの小学生時代は
 『まさに戦時中』だったのである。

 『学徒動員』などもあって、中学の上級生は兵役に動員された時代だから、
 小学生時代も、高学年になると何となく大人と同じように扱われて、
 小学5・6年では兵隊さんが来て教練があったりした。

 毎月8日は『大詔奉戴日』でこんなムツカシイ詔書を全校生徒の前で、
 校長先生が読まれて、それを直立不動の姿勢で聞いていた。

 


冒頭の部分の

天佑を保全し、万世一系の皇祚(こうそ)を践(ふ)める大日本帝国天皇はは、忠実勇武なる汝有衆(ゆうしゅう)に示す。
 の部分は今でもよく覚えている。

人間の記憶は、小学校時代に覚えた軍歌の歌詞なども、
80年経った今もよく覚えているから不思議である。

 この愛馬新軍歌など今でも3番ぐらいまでは覚えていて、
 自然に歌詞が出てくるから、ホントに自分でも不思議なのである。


   




こんな歌もあったのだが、

  

青いバナナも黄色く熟れた男所帯は気ままなものよ
 と歌っていたら、父に『こどもはそんな歌を歌うな』と怒られたりして、
 その時は何故そんなことを言うのかと思ったのだが

今思うとどうやら『青いバナナ』も
男・所帯』『男・女体』とカン違いしたのではないかと思ったりする。
そんなツマラヌことをよく覚えている。


★ 終戦の年昭和20年は、中学生になった年なのだが、

 その夏休みに『軍人勅諭』を覚えてくる『宿題』が出ていて、
 ぼちぼち覚えなければと思っていた時に『終戦』になったので、
 これは全然覚えてはいないのだが、

 こんなにムツカシク長い勅諭なのである。

  


 もうひと月、終戦が後になっていたら、
 この『軍人勅諭』も暗記して覚えているかも知れない。

覚えられませんでした』などの言い訳は通用しない世の中だったのである。

 
 長い人生を振り返ってみて『いろんな記憶』があるのだが、
 それらはみんな中学生時代までで。
 高校以上では新しいことは『殆ど何も覚えていない』のである。
 野球ばかりやっていた。

 そんな戦後の中学生時代に覚えていることを
 次回、続けて纏めてみたい。






 
 
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都道府県人気度ランキング  雑感

2020-10-17 06:41:23 | 発想$感想
             
★ 『都道府県人気度ランキング』という情報に出会った。
 
 全国の各県を得点で評価しているのだが、

 トップは北海道で60.8点
 私の住んでる 兵庫県は23.7点で12位
 最下位は11.4点で栃木県だという。

 現役時代の40年の内半分の20年を
 カワサキの二輪事業の国内市場を担当したので、
 国内の各県については結構よく解っている。
 
 二輪の営業は地方の販売店を訪問する機会が多いので、
 県内をあちこち走り回るので、自然にどんな様子か解るのである。

 私の場合は沖縄を除いて、
 日本の全県を自分で車を運転して走った経験があるし、
 担当した地域は、ホントに何度も走っているのでよく解っている。

 自分で運転するのと『乗せて貰う』のでは認識の仕方が全然違うと思う。
 

 1990年代の最後の10年は全国担当だったが、
 一番最初が東北・北海道担当だった。
 所謂東北6県と北海道についてはほんとによく走り回ったので、
 ひょっとしたら地元の人より道などは詳しいかも知れない。
 
 その後、大阪を拠点に近畿2府4県、
 更には東京・名古屋・大阪の周辺地区と北陸3県と長野を担当したので、

 東京から兵庫までの日本の中枢と言える地域のことは
 何となく『解っている』と言っていい。

 


 
★何をもってその県の魅力というのかはなかなかムツカシイのだが、

 上位13県をみると、
 それぞれいろんな特徴があって、
 『なるほど』と納得できるものを持っているように思う。



   
    
    

 
 
 この中で、石川県は担当もしたのでよく知ってるのだが、
 こんな上位にいるのは意外な気もするが、
 金沢知里浜海岸などを有する能登半島などが魅力なのかなと思う。



 中盤に位置する県は、大体『無難なところ』が入っている。
 

 
   


  
  そして最後の方に並んでいるのがこんな県である。

   論評にもこのように書かれているのだが、

   『茨城県は42位となり、ついに最下位を脱出した。
   代わってワースト3となったのは、
   45位佐賀県、46位徳島県、47位栃木県だった。



   埼玉・群馬・茨木・栃木・山梨・群馬
   東京を囲んでいる関東の各県が
   最下位グループに近いというのは何故なのだろう?

   東京に隣接する神奈川を除いて千葉もそんなに上位にはいない。


  
    




 確かに埼玉・千葉はともかかく茨木・栃木・群馬は、
 その立地が何となく覚えにくい県ではある。


 7年連続で最下位だった茨城県がついに最下位を脱出して42位に浮上。
   代わって前年は43位だったお隣の栃木県が最下位となったのだという。

 
 
 ★その栃木県は名物、観光地ともに結構豊富で、
 世界遺産の日光東照宮鬼怒川温泉は全国的に有名で
 那須御用邸がある上、その周辺の温泉や高原も人気、
 尾瀬国立公園も福島、群馬、栃木の3県にまたがっている。

  最下位になったのはショックなようで
 『日光県』にしようかという案もあるらしい。


 

  

 
 思うに、全国各県の立地は殆どの県が『何となく解る』のだが、
 茨木・栃木・群馬が一番その立地や境界線が解り難い県なのだろう。

   
  


  
 改めて見ても、なかなか解り難い県ではある。

 私自身も、一番地理が解り難いのは『栃木県』かも知れない。
 群馬は、松井田町にサーキット関係でよく通ったので結構解っているし、
 茨城も仙台から東京まで海岸線をよく走ったものである。


★北海道がダントツでトップだが、
 北海道は二輪でも担当したし、
 現役の最後は『北海道川重建機』を担当して2年程札幌に駐在し、
 道内に15もあった支店訪問を自分で運転して走り回ったので、
 大袈裟に言えば『北海道の道はみんな知っている

 やはり『北海道の魅力』は最高だと思う。
 1位になるのはよく理解できる。
 
 
  
  
 
 
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