雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

突然、歯が痛くなった

2022-02-28 06:43:22 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★歯など大丈夫だったのに、先週突然歯が痛くなった。
 不思議なもので、1か所だけでなくあちこちが痛いのである。

 そんなことで、土曜日歯医者に行ったのだが 
 当然のことだが先生は『1ヵ所づつ治療します』と仰るのである。
 そして下の歯の真ん中あたりの治療をして貰った。

 歯に穴をあけて溜まっている膿を取り出したようで、
 昨日は全部は取り出せずに『まだ残っている』と仰る。

 
  


★ 食事をしないときは、何ともないのだが、
 食事を始めて下の歯で嚙んだりすると、猛烈に痛いのである。

 こんなに歯が痛いのは、『初めての経験』かも知れない。
 今は夜の7時だが、貰っていた『頓服』を飲んだので収まっている。

 明日午後診察の予定だが、『頓服』はあと1錠しか残っていないので、
 明日朝、10時ごろに『飲もうかな』と思っているのだが、
 大丈夫、もつだろうか?

   一晩明けた。夜は大丈夫だったし、朝起きて今のところ大丈夫である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
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庭仕事   雑感

2022-02-27 07:27:08 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 寒かったのに、突然春のような陽気になった。
 このまま春になるのだろうか?
 
 日差しが春になったと思うのは気のせいかな。

  


 
  土から新芽が芽を出した。

    


  春の花『馬酔木』が1輪だけ花開こうとしている。 

 

 

  つい先日植えたも何となく春らしくなってきた。

 



 我が家のしだれ梅は、明日にも花開きそうである。





★もう2月も末、来週からは3月である。
 来週になると、80歳の最後の1年『89歳の1年』が始まる。

 こんなに長く生きれるとは本当に思わなかったのだが、
 最近は、朝は公園で走り、家ではもっぱら庭仕事に精を出している。
 自分で言うのもおかしいが、「結構、元気である
 
 でも、最近『耳が遠くなった』し、
 いまは『歯医者に通っている』そういう意味では歳相応かも知れぬが、
 春のように希望をもって、毎日が過ごせたらいいなと思っていて、
 そんな毎日に『付き合ったくれるの』は『庭仕事』かもしれない。

 今年の薔薇はどうかな? とこの季節いつも思うが、
 薔薇は今新芽が動き出したばかりである。
 今年は1月から庭に植えた『苔がどうなるか』が一番の関心事なのである。
 何事も『初めての経験』はわくわく感があっていい。

 そんな季節、春はもうそこまで来ている。

 
 
 
 



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ウクライナ どうなるのだろう?

2022-02-26 06:51:29 | 発想$感想

ウクライナのニュースが終日流れている。

 正直言って、ウクライナなど今まで知らなかった。
 地図で見ると周辺の国に比べると面積は大きい。

 北はベラルーシ、東はロシアと国境を接し、アゾフ海、黒海に面している。
 人口は4130万人で、首都はキエフ。
 第二次世界大戦後、ウクライナ西部はウクライナ・ソビエト社会主義共和国に合併され、
 国全体がソビエト連邦の一部となったが、
 その後ソビエト連邦の崩壊に伴い、
 1991年にウクライナは独立を果たしたという。



 

 その後もロシアとはいろいろとあって、
  2021 年 3 月から 4 月にかけて、軍事的緊張が高まったというから、
 突然起こったようだが、ずっといろいろあったようである。


★ 今回もNATO問題が言われているが、
 NATOは今30カ国で、ロシアを囲むようになっていて、
 ウクライナが微妙な位置にあることはよく解る。


     



 この問題に詳しい先生方や専門家の方がいろいろと解説をされてはいるのだが、
 確かに、ロシアの今回の行動は問題だとは思うが、
 すでに事件は起こってしまっているし、どんどん進みつつある。

 
 さらに北の方でロシアと国境を接しているフィンランドも、
 NATO加盟の権利主張というニュースがこの1月に流れているし、
 なかなか、ムツカシイ問題のようである。



 


果たしてこの後、1週間後・1か月後・1年後にはどんなことになっているのだろうか?
 ウクライナは日本からは遠く離れてはいるが、
 台湾問題は、日本にも大きな影響があるし、 
 この問題に対する中国の動きには注目しなければならないだろう。
 

 

 











 
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明石公園樹木伐採について

2022-02-25 06:54:33 | 発想$感想

★ 明石公園の樹木伐採が1700本にも上る大規模なものであることから、
 明石市民の間でもいろいろな議論が出ていると昨日の神戸新聞は報じていた。

 私自身は明石の出身で、本籍地が明石公園に隣接していることもあって、
 それなりに関心があり、1月末には現地まで見に行って、
 その時の感想をこんなブログにアップしている。


 その伐採の程度は凄まじく、よくここまで思い切ったなと思ったのだが、
 その目的であった『明石城の石垣を見せる』ことには間違いなく成功しており、これは『あり』だったのかなと思ったのである。

 
神戸新聞によると、市民グループが「過剰な伐採が見られる」と主張し、
明石公園の自然を次世代につなぐ会」と「日本野鳥の会ひょうご」が、事業中止の要望書を提出したようで、
希少な動植物や野鳥や、絶滅危惧種の昆虫30種の保護などを訴えているようである。


★ 記事の中に掲載された、樹木伐採前後の写真を見る限り、
 このような『思い切った伐採』になっているのだが、





 
明石城の石垣を見せる』という県の目標から言えば、
 それは間違いなく『実現』出来ていて、
 明石城にこんなに石垣があったのかと、びっくりしたのである。






★私自身は最初は『伐採反対』に近かったのだが、
 1月末に現場を見て『明石城の石垣』を初めて認識し、『これはありかな』と思ったのだが、
もう一度、神戸新聞の記事を読んで、再度この問題を考えてみたのである。

古来、日本でもヨーロッパなどでも『石垣』は独特の文化価値を有していて、
昔の人は重機などなかった時代に、人力でそれを築き上げたのは素晴らしいことだと思うし、
樹木も確かに貴重だが、樹木はまた100年経てば立派に成長するのである。


日本の城は一種独特で、画像検索するとこのようにいっぱいの写真が並ぶのだが、

  
 


その中に『いつかなくなる? 城の石垣は大丈夫か』というNHKの特集記事があって、


 



現在、修復を要する被害や劣化は見られますか」という問いに対して、
半数を超える城の石垣修復が必要な何らかの被害があることが分かったというのである。

その原因として最も多いのは「経年劣化」の60で、
次いで「植物の繁茂」の41となっていて、
災害よりも劣化や植物による被害のほうが多いという結果になったというのである。

名城和歌山城でもこんな状況で、対策の「予算確保は困難な状況」だというので、
その予算も取れて、何年にもわたって樹木伐採を実施している兵庫県は『正解かな』と思ったのである。


 


★ 約1700本の樹木伐採は、明石城の築城400年を前に、県が2018年度から実施し、
石垣の原則5メートル以内の木」「明石駅ホーム上や園内の芝生広場などから見て眺望を妨げる木」を伐採の対象としたという。
そして、『その長さが全国屈指という東西約380メートルに連なる石垣の全貌が見渡せるようにするのが目的』だという。

 
 これが前回のブログにアップした時の写真だが、
 確かに目的の『石垣の眺望』は素晴らしくなったし、

  

 
 今回の『樹木の伐採』は、市民の反対意見もあるようだが、
 私自身の見解は、いろいろな理由があっても、
 『兵庫県の方針』を推したいというように変わっているのである。

 2022年度も新たな伐採地区があるのだが、

 
 


 
自然団体などが主張する、『希少な動植物や野鳥や、絶滅危惧種の昆虫の保』などは、
城の前面よりは、むしろ城の後ろの谷間のほうに広い自然が残されているので、大丈夫だと思うのである。

いまは殆ど関係のない明石公園なのだが
子供のころから高校時代はいろいろ密接に関係もあったし、
想い出いっぱいの明石公園』だったので、何となく気になるのである。


 
 
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昭和・平成・令和の三代を生きて

2022-02-24 07:23:06 | 発想$感想

★昨日は天皇誕生日だったとか。
 天皇誕生日と言えば私などは、昭和天皇の4月28日が懐かしい。

  

 12月23日も「天皇誕生日」だったのだが、
 上皇におなりになって、平日に変わってしまった。 
 上皇は昭和8年生まれ、88歳、私と同い年なのである。
 
 平成から令和への天皇が代わられて、
 天皇誕生日が2月23日に変わったのがその理由だという。

 なかなかムツカシイものである。
 明治天皇の誕生日は「文化の日」、
 昭和天皇の誕生日は「昭和の日」として続いているので、
 平成の天皇だった上皇の誕生日は将来「平成の日」として祝日に復活するのだろうか。

 
★ 昭和・平成・令和の3代を生きてきたが、大変な時代を生きてきたなと思う。

昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、外国の元号を含めても最も長く続いた元号で、
歴史上60年以上続いた元号は、世界でも日本の昭和(64年)だけだそうである。

昭和と画像検索するといろいろな写真が現れるが、
何となく「昭和らしい1枚

 


 新しく公団住宅が生まれたし、戦後は兎に角野球が盛んだった。
  

★平成の時代は、まだ現役だった。
 いろんな変化があった時代だったなと思う。

   平成と画像検索するとこんな写真も現れた。
 確かに、松坂・藤川は 平成の時代を代表するかも知れない。


 


平成とは、1989年(平成元年)1月8日から2001年(平成13年)9月10日まで。
日本国内では、不動産や証券への投機熱でバブル景気が起き、
ベルリンの壁が崩壊し、東ヨーロッパでは共産主義政権が次々と倒され、
東アジアでは天安門事件が起きた。
米ソ首脳が冷戦終結を宣言して、44年間も続いた冷戦は終結した。
1995年(平成7年)は1月に阪神・淡路大震災が発生、
3月にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生した。

このあたりのことは現役だったのでよく覚えている。
 
現役を引退して引退生活に入ったのは2000年からだと言っていい。
アメリカでの同時多発テロが2001年である。
2008年にはリーマンショックだったが、あまり関係はなかった。
2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災はよく覚えている。
これは本当に凄まじい出来事だった。
そして2019年(平成31年)新元号「令和」が発表された。

 


★令和はまだ始まったばかりだが、
 昭和も昭和一桁生まれで戦前も経験したし、
 昭和・平成・令和と激動の時代と、
 天皇も3代の天皇のもとに生きてきたのだが、
 『天皇誕生日』にオモシロイ時代を生きれてよかったなと思っている。

 
 

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2月22日は 猫の日

2022-02-23 07:19:48 | 発想$感想

★ 昨日はテレビに猫がいっぱい出てくるなと思っていたら、
 『2月22日は猫の日』なんだそうである。

  


 実は私は全く知らなかったのだが、いろんな日があるものだと思った。

 1987年に制定した歴史ある記念日だというから、もう旧いのだが、
 同じ年に犬の日(11月1日)も制定されたのだとか。
 
 猫の日は世界各国で制定されており、
 ヨーロッパの多くの国がWorld Cat Dayとしてる日は2月17日、
 ロシアは3月1日
 アメリカ合衆国は10月29日だという。


★ こんなことは『常識だ』と言われたら、
 私は『常識はない』のかも知れないが、
 どれくらいの人が知っているのか調べてみたら、

 半分近くの人は『知らなかった』ので一安心だったのである。


 


 
  それにしても『いろんな日』を創るものである。

  犬は飼ったことがあるのだが、
  猫は飼ったことがないので、よく解らないことも多いのだが、
  犬のように『喜びを』体で表すことは少ないが、
  飼ってみれば『可愛い』のかなと思っている。

今年は2022年で2がさらに並ぶため、“スーパー猫の日” なんだそうである。





  
 
 
 
 
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地球温暖化だというのにこの寒さは

2022-02-22 06:57:13 | 発想$感想

★ 地球温暖化だというのにこの寒さはどうなったのだろう?
 まだ何日かは大雪も降ると、テレビで特番もやっていた。
 北海道~北陸で防風雪で事故も多発だという。

 札幌には2年、東北には4年、住んだこともあるのだが、
 こんなには雪は降らなかったように思う。

 札幌の町でこんな雪の風景など見たこともない。

 


 
 北海道から日本海側はこんな状態で、すっぽり雪の中にある。
 あと数日続くというのだが、
 週後半には春めくというので、あと少しの辛抱である。







 いまはこんなにすっぽりと日本列島は寒気の中にあって、
 日本海側やオホーツク海側では、今夜遅くまで猛吹雪となる予想だという。
 
 22日昼までの予想降雪量は、留萌地方と根室北部で、最大40センチ。
 札幌は北部ほど多く、20センチ前後の予想だとか。 
  
 最大瞬間風速は35mの予想で、非常に強い風が雪雲をどんどん運び、
 22日昼までの予想降雪量は、留萌地方や根室北部で、最大40センチ。
 札幌は北部ほど多く、20センチ前後の予想だという。  






★ところで、地球温暖化だというのに、なぜこんなにも寒いのか?
 調べてみたら、いろいろ解説は載っているが、一様ではない。
 中にはこんな解説記事があった。
 ちょっと長いが、そのままご紹介する。

 ●ニュースではよく「地球温暖化」と耳にするのに、なぜこんなにも冬が寒くなるのかと疑問に思ったことはありませんか。
その寒さの理由はなんと、日本から遠く離れた北極海にあったのです。
寒さの大きな原因は、地球温暖化による北極海の氷の減少といわれています。
地球温暖化により、溶けた氷が北極付近の気圧を高くさせ、北極と中緯度地方の温度差は小さくなり、極寒の北極の寒気日本に流れ込みやすくなるというのです。
海氷には、地球の温度をコントロールしてくれる「断熱材」のような働きを持っています。それが地球温暖化の影響により、海氷の量が年々減少することで、せっかく吸収した熱をキープすることができず、どんどん大気へ熱を放出してしまうのです。このような現象が、冬の寒さに拍車をかけているというのです。「冬が寒くなる」という異常な現象も、地球温暖化現象の一環なのです。このままどんどん地球温暖化が進むと、「日本の冬は今よりも寒くなる」という逆説的な現象が、これから頻繁に起こり得る未来が来るのかもしれません。


★このほかに、雪で車の事故が多発のようである。

   

 
 『ホワイトアウト』による、交通障害にも警戒が必要とあって、
 『ホワイトアウト』とはこんな感じで、
 
 


 ひどくなるとこのように全く見えなくなってしまうのだとか。




 雪国で車を運転した経験はあるが、
 『ホワイトアウト』は経験したことはない。
 大吹雪では『車が空に舞い上がっていく』ような錯覚を覚えたりするので、
 雪が降っている時の運転は危ないことが多いのである。
 
 あと、数日でこの寒さも収まるというのだから、
 この数日、車など乗らないようにされるのがいいと思ったりする。


 3月に入るとこのように、春らしくなるようである。





  やはり春は待ち遠しい。
  ほんとに『寒さも』もう少しの辛抱かな。


 

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カーリング・チーム「ロコ・ソラーレ」

2022-02-21 06:51:08 | スポーツ

北京オリンピックは昨日でその大会を終了したのだが、

 


 日本は、金・3 銀・7 銅・9 の合計18のメダルを獲って
 大活躍だったと言っていい。
 
 メダル数18は、世界第6位の成績なのである。
 




     
 いろんな競技があったが、基本的には個人競技が多いオリンピックで
カーリング団体競技で、決勝戦まで進み、
惜しくもイギリスに敗れはしたが、よく頑張ってのだった。




 

★このチームは団体チームだが、全日本のような寄せ集めチームではなくて、
 北海道北見市常呂町活動拠点とし、
 そのチーム名は「ロコ・ソラーレ」という単独チームなのである。

 選手も地元出身者がその中心で、「常呂っ子」にひっかけた「ロコ」という造語と、
 イタリア語で太陽を意味する「ソラーレ」を組み合わせて、
 太陽のように輝きを持ったチームになるよう「ロコ・ソラーレ」と名付けられているのである。

 これは素晴らしいことである。


★ 北海道北見市はそんなに大きな町でもないし、
 私自身、北海道を担当した時に『北見カワサキ』もあったし、
 北海道川重建機では『北見営業所』もあって、
 何度か訪ねたことのある町なので、何となく馴染みがあって、
 『カーリング』については全くの素人なのだが、応援していたのである。

 
 北見市は北海道のこんなところに位置し、 
  



 その海岸線のすぐ近くに、その施設はあって、

 



 それはこんなに立派な『カーリング場』なのである。

 



 今回は前回大会に続いてのメダルで、
 それも『銀メダル』だから
 








 北見市挙げての大ヒーバーになるだろうし、
 『カーリングの町北見』として、
 北海道北見市の知名度も上がるのだろう。

 こんな北海道の小さな町のチームが『銀メダル』なのである。
 個人受賞ではなく『チーム受賞』であることが素晴らしい。
 まさに『太陽のように輝く』チーム『ロコ・ソラーレ』である。


 
 

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新入社員時代の想い出     その4

2022-02-20 06:53:32 | 自分史

★新入社員時代の仕事の想い出を3回に亘って書いてきたように仕事のほうも熱心に取り組んでいたのだが
この間個人的には家内との出会いがあって、こちらの方も日記の中には数多く登場するのである。

川崎航空機に昭和32年(1957)4月に入社して、新人教育が2週間ほどあって、4月15日に業務部財産課への配属が決まるのだが、
その業務部には庶務課・会計課・財産課・勤労課があって、その職制順に課が並んでいて、財産課の隣が勤労課で、その給与係はすべてが女性なのである。

日記を読み返してみると、配属された4日後の4月19日の日記
勤労課にいる女の子にちょっと惹かれる」という記述があって、それが家内なのである。

そして6月5日には高校・大学での野球部の友人の小野田から電話があるのだが、それがなぜか勤労課に繋がって、
小野田さんと言う方から電話です」とわざわざ私の席まで伝えに来てくれたのが家内なのだが、そのことを日記に記しているのである。

それはそれで終わってしまったのだが、
この年の11月に朝明石駅で一緒になって初めて口をきいたのだが、
当時会社に勤めていた女性は明石より西からくる人が殆どで、
東からの人は珍しかったのだが、彼女は東からやってくるのである。
何となく神戸高校タイプだなと思っていたのだが、聞いてみると神戸高校なのである。
私は旧制神戸一中なので後輩にあたるのだが、その時もそれだけで終わってしまったのである。

★そして年が変わって翌年の5月末にたまたま神戸まで出たら、
同じ電車で三宮で一緒になったので、
映画に誘ったら即OKで、映画を見て御茶を飲んだのだが、これが初めてのデートだったのである。
その時の感触がよかったので、6月7日に改めて誘って、
その時は三宮にあった本格的なダンスホール新世紀に踊りに行ったのである。
私はダンスには大学時代に凝っていて得意分野だったし、
新世紀ではいい時間が過ごせたのである。
この時新世紀には会社の人が来ていたようで、その週のうちに会社では話題になったようなのである。

そんなこともあって、それ以降は逆におおぴらにお付き合いが始まって、
7月10日は彼女の誕生日なのだが、彼女のほうから誘われて、
21歳の誕生日を一緒に過ごすことになったのである。


★交際が始まってから2年間ほど密接なお付き合いが続いたのだが、
昭和35年の9月末に、砂野副社長に呼ばれて、
尼崎の医者の娘さんで・・・」という結婚の紹介話があって、
 その場は「いい加減な返事」でごまかしたのだが、
結婚』ということを考え始めたのはこの時からだと思う。

そして、翌月の10月末には、私が肺結核三田の療養所に入院してしまうのである。
ちょうど1年余りの入院期間だったのだが、その間手紙のやり取りもあったし、見舞いにも来てくれたりしていたのだが、
 その時に手紙と一緒に送ってくれた写真である。





 結構長かったお付き合いなのだが、その期間中にある彼女の写真はこの2枚だけで、ほかには1枚の写真もないのである。

 この1年間の療養期間のお陰で肺結核の空洞も消えたし、
 その後の人生で、健康的な不安がなくなったので、
 積極的に「結婚を考える」ようになれた有意義な1年だったのだと思っている。
 


★ そして、退院後は新しくスタートした『単車営業課』に異動になって、
 新しい二輪事業の最初の営業担当として復職したのである。
 これまでが療養生活を含めての『私の新入社員時代』かなと思っていて、
 ちょうど5年間なのである。

 そして、その1年後の昭和37年12月に結婚することになったのだが、
 この6年間が私の青春時代だったのかなと思っていて、
 今でも『いい出会い』だったなと思っているのである。


 
 
 



  
 
 

 
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新入社員時代の想い出     その3

2022-02-19 07:05:31 | 自分史

★新入社員時代の所属は業務部財産課だったのだが、
 毎年2回、上期と下期に財産物件の減価償却計算という作業がある。
 個々の財産物件に償却率を掛けてその償却額を減価してゆくという単純な計算だが、
 1件1件単純な計算をやるだけだが、当時のタイガー計算機を使っての単純作業の繰り返しで、
 根気と時間が要る単純作業なのである。

 こんな単純作業の繰り返しそのものは私は意外に得意分野で、
 別に嫌いでもなっかたのだが、
 入社2年目の10月に事務機械化の会計機のショーがあって、
 世の中『事務機械化』なるものがスタートしだしたのである。

 それを見て「減価償却の機械化」なるものに興味を持ったのだが、
 当時川崎航空機には米軍のジェットエンジンオーバーホール工場があって、
 IBM室なる組織もあり、IBMの機械があったのである。
 まだ、日本にはIBMなどどこにもなくて、
 日本にIBMが普及するのは東京オリンピックの頃だから、
 それよりは約10年も前の話なのである。

 ジェットエンジン部門以外ではIBMを利用している部門などまだなかった時代なのだが、
 財産物件の減価計算を『IBMによる機械化』でやろうと決めて、
 昭和34年11月から「減価償却のIBM機械化」に取り組んだのである。
 
 IBMの機械そのものはあるので、その機械に償却計算を乗せればいいのだが、
 社内でも初めてのことで、教えてくれる人は誰もいなかったのだが、
 IBM室の久森君が手伝ってくれて、
 それから約1年、その機械化のために没頭したのである。

 IBM と言ってもまだこのようなパンチカードシステムの時代で

 
  

 このようなパンチカードに必要項目をコード化し打ち込むシステムなのである。
 そう言ってしまえば簡単なようだが、
 カードシステムなのでコード化した内容を打ち込むにしても
 その桁数に制限があるため、コード化そのものもなかなかムツカシイのである。
 
 ちょっと説明すると下のカードの「所属」から始まっている項目を
 すべてコード化して、『数字』で打ち込めばいいのだが、
 一番難しかったのは『物件名』で、5ケタの数字すべての財産物件を表示できることがMUSTなのである。
 そのための分類をやるのだが、機械化と言ってもカードシステムだから、
 コード番号を効率的につけないと、カードの分類に時間が掛かってしまうので、
 最も分析頻度の多い順番にしなければ、効率が悪いのである。
 例えば人を分類するときに「年齢別・住所別・男女別」などいろいろあるが、
 一番利用頻度の多い順にコード化しないといけないのである。
 


 これがその当時作ったIBMに乗せるための基本カード
 たまたま日記帳に挟んであった。

  
 
 
 このカード1枚に財産物件一つを記入するのだが、
 この減価償却のIBM化を明石工場だけでなく、岐阜工場も本社も巻き込んでの『全社統一』を図ったので、
 本社や岐阜工場を巻き込んで入社2年目の私がその旗を振ったのである。

 「IBMによる事務の機械化」などは初めてのことで、経験者もいなかったので、
 新人ながら旗を振ることが出来て、
 ちょうど1年掛ったのだが、この「減価償却のIBM機械化」は実現したのである。

★ もうずっとのち、IBMも日本でも一般化した時代に、IBM社の講習を受けたことがあるのだが、
 その時の講習の冒頭に「何かIBMと関係のあったこと」を喋れと言われるので、
 『昭和35年に減価償却の機械化』をやったと言ったら、
 IBMの方から「10年間違っていませんか? 日本にIBMが入ってきたのは昭和40年代からです」と言われたりしたのである。

 このIBM化が私が入社してはじめてやった大仕事で、
 この機械化をやったために、財産課では減価償却という大作業がなくなって、
 10人近くいた人員がほんの数人になってしまったし、
 私自身も財産課から新しく出来た単車営業部への異動になるのである。


★ それ以降、退職するまでずっと「二輪事業一筋」だったので、
 私の現役時代、単車以外の経験はこの財産課の4年間だけと言ってもいいし、
 その4年間が『新入社員時代』と言えるのだが、
 『新入社員らしからぬ4年間』であったことは間違いなくて
 その間「新しいこと」ばかりをやったものだから、
 その後も『新しいこと』は『あいつに任せば何とかする』と思われたのかも知れぬが、
 その後もこのように全く引き継ぎのない『新しい仕事』ばかりが、
 最後まで続いたのである。

 ●1961 新単車営業課
 ●1962 新広告宣伝課
 ●1963 カワサキで初めてのファクトリーレースチーム
 ●1967 新仙台事務所設立
 ●1972 業界初二輪専門店制・特約店制度
 ●1977 CKD市場開発室・東南アジア市場開拓
 ●1979 新カワサキオートバイ販売設立(アメリカダンピング対策)
 ●1984 ジェットスキーJJSBA設立
 ●1985 JSビジネスの国内を含めた世界展開
 ●1987 一般ユーザーが走れるサーキットSPA直入
 ●1988 国内ユーザークラブKAZE設立
 ●1991 新しいカワサキのイメージ戦略
 ●1994 新国内自動車学校設立
 
 現役時代、殆ど4年単位で異動したと言ってもいいし、
 職場を変わったのだが、時代が変わったり、新しい仕事ばかりだったので、 
 前任者からの引継ぎは全くなかったサラリーマン生活だったのだが、
 そのスタートがこの新入社員時代の4年間だったのである。

★新入社員時代、こんな4年間だったのだが、
 この間に『家内との出会い』があり、結構熱烈な『恋愛時代』なのである。
 次回はその私の青春時代をご紹介してみたい。


 
 
 
 
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新入社員時代の想い出     その2

2022-02-18 07:34:06 | 自分史

★当時の川崎航空機は戦後再開したばかりで、そんなに業績がよかったわけでもないのだが、
私自身は実力で入社出来た訳ではなくて、当時の副社長の砂野仁さんのコネでの入社だったのである。
 大学時代は野球一筋で単位は取れていたが可ばかりで、入社試験の面接でも、
 「君は成績悪いね」から始まったのだが、
 「会社の仕事では絶対に負けないでやれます」と言い切ったのである。

そんなことだったので、多分人事課も企画・経理・勤労などの部門には配属しにくかったのか、業務部財産課への配属だったのである。
その財産課の評判は大学の先輩たちもみんな「地味で面白くないところ」というのである。
 確かに、どの部門も大学での社員が何人かはいるのだが、
 財産課は課長以外は大学出の人はいないのである。
 配属してすぐの課長面接でも、部長面接でも「地味な部門だが、確りやってく」と仰るのである。

 財産課とは文字通り「会社の財産管理」をやるところで、
 土地・建物・機械などから工具器具備品・車両運搬具など取得価格が当時の金で1万円以上のものの管理なのだが、
 まだ再開されて5年の新しい会社で、その管理もお世辞にもきっちりできてはいない状態で、
 管理台帳も揃っていないそんな状況であった。
 その現物管理とともに1年に2回、財産物件の減価償却計算をしなければならなくて、その計算事務を当時の「タイガー計算機」を使ってやるのだが、
 それが結構時間と手間が掛かるので、極端に言えばその計算要員として、人が要るのである。


   


 配属されて私が担当になったのは
 一番簡単な車輛運搬具工具・器具・備品
 車両運搬具は車などは殆どなくて構内用の自転車
 工具・器具・備品とは工具や机や椅子などで、確かにそんなにムツカシクはないのだが、
 本来なら自転車は兎も角、机や椅子などは取得価格が1万円以下なので、財産物件にはならないのだが、
 当時ジェットエンジン工場が新設されたばかりで、
 「新設工場は1件300円以上」を財産物件に出来ることから、机や椅子まで300円以上のものががすべて「財産物件」になっているのである。

 そんなことから、償却計算する手間は5000円の机10万円の機械も同じ手間なので、工具器具備品の償却件数はべらぼうに多くて決算期の計算は大変なのである。
 さらに、自転車も回転いすなどはよく壊れて、その修理などの手続きなどに結構時間が掛かるのである。

 そんなことで新入社員ながら、私の下には女子の社員がいたし、
 2年目からは高卒の男子の部下などもいたのである。

★ 机や椅子だから、工場内のすべての課にそれはあるのだが、
 その台帳はないし、現物把握は出来ていないし、ただ償却計算だけをやていて「財産管理」などは全然できてはいない状態だったのである。

 それをちゃんとした管理台帳を作って、管理できる状況にしようとしたのだが、
 課の先輩たちは皆さん、それまでは放置していたものだから、
それはムツカシイ・不可能だ」などと仰るのである。
 ただ、私はそんな状態で放置するのはどうも気に入らなくて、
 すべて現物を把握して『固定資産台帳』を創ろうとしたのである。
 これは確かに「言うは易い」のだが、各課の現物把握が必要で、
 現実には各課の机でも財産物件になっているものと、経費で購入されたものと2種類存在していて、どれが財産物件かという特定が必要なのである。

 そんなことで私がやり始めたのは小さな「財産番号プレート」を造って、
 それを釘と金槌を使って机や椅子に打ち付けて工場の全課を回り始めたのである。
 これは大変な労力は要ったのだが、各課を実際に回っての作業だから、
 各課の人たちとも顔なじみになれたし、 
古谷はいつ見ても釘と金槌を持って歩いている」と言われたりしたのである。
 
全課を回るのに半年以上も掛ったのだが、
その財産物件を管理するために「財産管理担当者」を組織したりしたものだから、
そんな「管理担当者」を入社1年目の私が統括するようなことになって、
全工場に私の顔は売れたし「財産課は変わった」となかなかの評価だったのである。
 
 

★ 当時の回転いすは木製だったのだがよく壊れて、
 1週間に一度、トラックに満載するほどの修理件数が出るのである。

 


   
 

 そんな時、発売になったのが「ネコスの椅子」で
 こんな金属製の椅子だったので、それに変えようと提案したら、
 それは認可されて、順次木製から金属製へと変更することになったのである。


 

        


 ちょうど1年目の最後のほうの2月なのだが、
 予算があるのでそんなに一挙には変えられないのである。
 そしてこれは係員だけではなくて、係長・課長・部長用にそれぞれあて、
 みなさん「新しい椅子」を欲しがるのである。

 その配分権を新入社員だが私が持っていたので、
 各課の管理担当者からいろいろ申し入れがあったし、
 部長や課長からも電話があったりするのである。
 全部交換するのに3年も掛ったと思うが、こんな件でも結構名前と顔は売れたのである。

そんなこともあって、入社1年目からオモシロイ仕事や、新しい仕事が出来て、私にとっては財産課は「地味でオモシロくない職場」ではなくて、
結構「遣り甲斐のある」職場だったのである。
このように「上司の指示で動く」というようなことは一切なしにスタートが切れたのは幸いだった。

入社1年目からこのような「新しいこと」に取り組めたし、
ちゃんと実績を残すことも出来たので、
2年目以降も「私流のやり方」で仕事を進めれことが出来たのである。


 
 

 

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新入社員時代の想い出     その1

2022-02-17 06:38:04 | 自分史

川崎航空機工業入社したのは昭和32年(1957)4月のことだから、
 63年以上も前のことだし、私もまだ23歳の若さなのである。

 昨日は1日かかって当時の日記を読み返してみた。
 よく覚えていることもあるし、全く忘れてしまっていたこともある。

 いまは川崎重工業の明石工場としてこんなになっているのだが、




 戦時中には軍事工場ということで爆撃を受けて、

 


  工場も骨格だけで、残っていたのは
 ほんの一部の建物と、新しく建てられた工場だけだったのである。

 


 戦後の中断があり、川崎航空機工業として再開されたのは、
 昭和27年(1952)のことだから、
 入社当時は再開5年目のまだ新しい会社で、
 激しい爆撃の跡が随所にまだ残っていたそんな時代なのである。

 明石工場はエンジン工場であった関係から、
 戦後もエンジンや歯車・ミッションなどの製造が主で、
 バイクエンジンは明発に供給はしていたが、
 まだバイクそのものの生産は始まっていない時期なのである。


定期採用も正規に多くとり始めたのが、昭和32年度からで、
大学卒は事務系12人・技術系19人と約30名ほどの時代で、
翌年からは60名あまりも採用しているので、まだまだスタートの時期と言ってもいいのである。

 配属されたのは業務部財産課で、会社の財産管理を行うのだが、
まだ、財産物件の管理台帳すら整っていないような状況で、
工場の中には戦時中の機械が残っていたし、爆撃にあった工場の鉄骨などもあって、
 財産物件を管理するというよりも、そんな中古機械や鉄骨を売ったり、
 いまも明石工場は結構広いのだが、当時は今の倍ほどの22万坪もあって、
 その土地の売り食いなどで会社の経営が成り立っていた
 そんな時代なのである。

 大学卒の初任給が12000円という時代だったが、
 昭和32年という年は日本の戦後もようやく終わって
 朝鮮戦争が昭和25年に始まったこともあって、
 「神武景気」と言われた年なのである。
 
 そんなことで、大学卒の採用も多くなったし、
 われわれの入社同期の会の名称は「神武会」と名付けられていたのである。


★その当時の日記だが、いちおう毎日欠かさず書かれているので、
 読み返してみると、なかなか面白いのである。

  

 
 
 日記を書き出したのは、大学2回生の頃で、
 ちょうどその頃、肺浸潤になってちょっと療養をした時期もあったが、
 半年後からは野球も再開したし、入社当時も空洞があったりしたのだが、
 当時は肺結核は非常に多い時代だったのである。
 日記を書き出した理由の中に「そんなに長くは生きられない」かもと、
 「短い自分の人生」を記録しておきたいということもあったのである。

 入社して4年間は財産課で結構オモシロイ仕事もする傍ら、
 会社の野球部にも所属していたのだが、
 4年目に会社の診療所の先生が代わって「野球は止める」ように言われたのをそのまま続けていたら、ユニフォーム姿を見つかって、
 検査をしたら「菌が出ている」ということで結核療養所に入院させられてしまうのである。

 療養所に入って検査をしたら「菌など出ていなかった」のだが、
 1年間療養所にいたら、空洞も消えてしまったのである。
 そういう意味では、診療所の先生に感謝だし、
 私自身はいろいろ幸運に恵まれていると思ている。

 この4年間の間に、家内とも出会ったし
 オモシロイ仕事も出来たし、
 退院の時期に、たまたまカワサキの二輪の新事業が始まって
 新営業部が出来て、そこに第1号社員として配属されることになったのである。


★ そんな新入社員の頃の5年間が、どんなモノだったのか?
  仕事の内容や、家内との出会いの経緯など、
  何回かに分けて書いてみたいと思っている。
 
  私の青春時代の20代最後の5年間でもある。

 
 
 
 

 
 
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耳鳴り          雑感

2022-02-16 05:25:50 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★右耳が聞こえにくくなって、初めて耳鼻科に行ったのは1月20日ごろのことだったのだが、
 電話などでも右耳では聞きにくい状況は続いている。

 もうよくなることはないので諦めてはいるのだが、
 一昨日は突然「耳鳴り」がした。
 キーンという音が続いて、30分近くも続いたのだろうか?

 その間にネットで「耳鳴り」など検索している間もなり続いていたから、
 多分、30分は続いたのだと思う。

 ネットではこんな情報がいくつもあった。


 

 
 「耳鳴りは脳が本来ない音を作り出している」というのである。

 


 こんな風に説明されていた。

 耳鳴りは周囲に音がないにもかかわらず、「キーン」という金属音や「」という不快な音が聞こえる症状で、
 日本人全体の10~15%に耳鳴りがあり、特に65歳以上に限ると約30%に耳鳴りがあると考えられている。
 外部からの音が不足すると、脳は音の不足を感じて興奮し、音を補おうとして本来ない音を作り出してしまうが「耳鳴り」で、
 実際に耳鳴りのある人の9割に難聴、多くの場合は加齢性難聴を伴っている。


★「耳鳴り」は本人しか解らず、治療もムツカシイなどとあって、
 これは困ったな、ずっとこのように「キーン」という音が続くのかと思ていたら、
 いつの間にか聞こえなくなって、2日経った今は全く「耳鳴り」はしていない。
今のところ、耳鳴りを確実に消失させる薬や治療法がないのが実情」とあるので、
 また「耳鳴り」がしたら、それが消えるまでじっと辛抱するしかないのだろうか?

 
  

  それにしても、人間いろいろ不思議なことがあるものだ。
  今日は全然、「耳鳴り」はしていないのだが、
  どんな時に、起こるのだろうか?
  
  人間、歳をとるといろいろ出てくるものだと思った。
  もう90歳に近いのだから、加齢性難聴は、歳をとるとともにどんどん進むようだから、仕方がないのかも知れない。



 
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北京オリンピック  競技いろいろ    雑感

2022-02-15 07:12:11 | スポーツ

★北京オリンピック、連日沢山の競技で、
 今回は冬季最多の109種目が実施されているという。


 



第1回の冬季オリンピックの競技数は4競技16種目だったというのだが、
回数を重ねるごとに、種目数が多くなり、
今では競技種目だけで、こんなに沢山あるようで、
名前を聞いてもどんな種目か解らないものまである。





 冬のスポーツだということで、
 私などやったことがあるのはスケートぐらいで、
 小学生時代は朝鮮にいたのでスケートはよくやったし、
 スキーの真似事を竹刀の竹を曲げて坂を下ったりしたことはあるのだが、
 スノーボードなど面白そうだが
 始まったのが1980年代後半からというから勿論やったこともない。


★そういう意味では夏のオリンピック陸上競技水泳野球なども、
 自分でやったことがあるので、
 そのレベルは兎も角何となくよく解るのだが、
 冬季オリンピックのスノーボードビッグエアなどは、
 空中でくるくる回転して、これなどとてもやれないし、
 どんなことからこんなスポーツに入って行くのか不思議である。

 




 
 こんな画像を見ると
 私自身、運動神経は悪くないとは思っているが、
 高度恐怖症だし、とても無理だなと思ってしまう。





 スケートは小学6年生までだが、
 冬の間は毎日のように池で滑っていたので、
 こんなカーブでスピードが乗っていく感じなどは、
 何となくよく解って、解説者の言う理屈も納得できたりする。


   


 小学生4年生以降はホッケーのスケート靴を履いていたので、
 ホッケー選手の滑りなど興味があって得点などより
 そのスケーテングに関心があったりするのである。


 


 オリンピックに出る選手たちだから当たり前の話だが、
 ほんとにスケーテングがうまいなと感心しながら見ているのである。



★ 現在のメダル数は11で、好調と言っていいのだろう。
 前回大会のメダル13個を超えられるように頑張ってほしいと思っている。






★ それにしても日本はいろんなスポーツをやる国だなと思う。
 世界のすべてのスポーツを殆ど全部をやっていると言っていい。
 そしてそこそこのレベルを保っているのである。

 アメリカなどもスポーツは強いが
 ラグビー剣道・柔道・テコンドーなどはやらぬし、
 ヨーロッパ野球アメフト等はもう一つなのだが、
 日本は世界のスポーツのすべてで争ったら
 ひょっとしたらトップになるかも知れないほどの
 スポーツ大国と言っていい。

 今回の北京オリンピックもなかなかの健闘だなと思っている。


 
 
 
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息子との3日間

2022-02-14 06:54:30 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ この三連休の休みに息子が鎌倉からやって来た。

  この前いつ何所で会ったのかなと調べてみたら  
  2018年11月にアメリカの娘のところに遊びに行ってた時、
  アメリカで会って以来なのである。
  2年以上会っていないし、三木に来るのはもう5年ぶりかも知れない。

  11日の昼の飛行機でやって来て、
  13日の10時の飛行機で帰ったので実質2日間だったが、
 
  今回は滞在期間は短かったが、オリンピックもあってテレビも一緒に観たし、
  私の朝のスロージョッギングにも付き合ったくれたので、
  ずっと一緒にいたような感じである。

  


  1万歩・約7,5キロを付き合ってくれた。





  今年で58歳なので、息子と言っても還暦に近い。
 サッカー選手だったし、大学もサッカー一筋、いまのANAもサッカーでの入社なので、
 こんな子どもたちのサッカーにも未だに興味があるようである。




 
  一緒に歩いてみたが、
 お互いその年以上に「しっかりしている」ことは確認できた感じである。



 来た日はブリしゃぶをしたのだが、
 一緒に買い物をしたスーパーでは、「明石鯛のあら」を買って
 
  



 一つは塩焼きに、一つは鍋に入れて
 「旨い・旨い」食っていた、
 鎌倉でも「タイのあら」ぐらいはあるだろうと言ったら
 「明石鯛はやはり違う」というのである。




 どちらかというと「家内に似て」性格もきっちりしているし、
 「」についてもこだわりを持っていて
 私のような大雑把なところはない。


 やって来たのがちょうど昼時だったので、
 お互い昼抜きだったので、3時ごろから飲みだした。
 酒も家内に似たのだろう、結構強くて、
 ビールなどはいくら飲んでも大丈夫なようである。
  


 夜はブリしゃぶにビールに
 大吟醸の瓶を1本、殆ど一人であけていた。

 


 こんな珍しいビールの詰め合わせを
 アメリカの娘が贈ってくれていたのだが、
 2日の間に2本を残してみんな飲んでしまった。

  


 
 翌日の昼は定番の「焼肉こさる」に






 ここの焼肉は本当に「旨い」し「安い」ので
 息子にも孫たちにも人気である。





 ここでも結構食ったが
 大ビールを2本、独りで飲んだりもしていた。




 なんでも高い鎌倉に住んでいるからだろう。
 「安い・安い」と気に入っていた。

 「安い安い」というから奢ってくれるのかと思ったら
 払いは家内だったようである。

 


  三木に戻ってきたら
 全くのこども時代に戻ってしまうようなところもあるし、
 家内にとっては何歳になっても「こどもは子供」みたいなところがあって、
 そんな対応の二日間だった。


 伊丹空港まで送って、
 息子との2日間の幕は閉じた。
 今度やってくるのはいつだろう?

  




 
 
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