華やぐ時間

時の豊潤なイメージに惹かれて 。。。。

映画  ” 花よりもなほ ”

2006-06-19 18:34:34 | ★映画  
岡田准一が扮する若い武士の笑顔が アップで載っている広告チラシに見惚れてしまった
主人公がこういう温かい笑顔をする時代劇って  どんな映画なのだろうと気になった
映画” 誰も知らない ”が カンヌ国際映画祭で評価された是枝裕和監督の第二作目の作品である

あだ討ちに藩が賞金を出していた元禄十五年  父のあだ討ちのために江戸へ出てきた宗左衛門は
目的を達成できないまま  貧しくも人情あふれる長屋で過ごしている
剣の腕が弱く  好きなことは何かと問われると「 風呂に入ること 小鳥を飼っている 」と応える
長屋の大人や子どもに習字を教え  花見には長屋の人たちとあだ討ち芝居を演じて楽しむ
武士が助太刀に入ってきたので逃げ  そして長屋の看板には「 逃げ足 おしえます 」が加わる

木を寄せ集めたような隙間だらけで傾く 掘っ立て小屋ふうの長屋は隣りの話し声が筒抜けである
ずるく いい加減っぽい住人たちは  薄汚れた真っ黒い顔をして ボロを重ね着して暮らしている
貧乏なのに 明るく 屈託なく 生きていくたくましさには  人の豊かさ健やかさを感じる  
 
主人公がほのかに慕う子持ちの若い寡婦(宮沢りえ)もまた 夫を殺した仇を探しているらしいが
貧乏長屋の暮らしを楽しんで  のんびり のん気な雰囲気が見えて 楽しい
宗左衛門は仇を探し出し 後をつけるが 仇にも妻子がいるのを知る  
あだ討ちはしなければならないのだろうか
ひそかに長屋に潜伏している討ち入り前の赤穂浪士たちの苛立ちと 対照的である
仇(浅野忠信)の子どもと長屋の子どもが仲よくなり  宗左衛門は仇を呼び出す
「子どもを わたしの寺子屋へ来させてください」と告げたとき  察した仇が深々と頭を下げた
浅野忠信も なにごとかを覚悟して生きてるような静かな雰囲気の侍が似合っていた

店賃を払えない住人たちへ大家が立ち退きを要求する
国許の身内にあだ討ちを急かされ  宗左衛門は芝居好きの住人たちと一計を案じる
「 人相書きどおりの仇を仕留めた 」と藩の江戸屋敷へ 豚の血を塗った死体の者を運び
まんまと賞金百両を得るのである
清廉潔白でなくたって いいのかもしれない   強い者でなくたって いいのかもしれない
貧乏長屋の住人たちの明るさ  赤穂浪士の討ち入りも商売にしてしまうたくましさが楽しい

あだ討ちを 現代のイジワルされたとか 好意への裏切りへの仕返しと同じように考えたとき 
仕返しはしてもいいのだろうか
自分の中で消化 整理整頓ができるのであれば  仕返しは しないほうがいい
一度そうすると それを為してしまった事実が自分の中に生涯残る
それよりは 自分のありのままを受け入れてくれる周りの人たちの明るさに助けられて
あだ討ち以外の楽しいことをみつけていくほうが 大きな生き方ができそうだなと思う

いいセリフがあった 「 桜は 来年もっときれいに咲くために 散るんだ 」  なるほどなぁ
監督は落語が好きらしい   あっちこっちが楽しく笑えるし   人を見るまなざしが温かい
ほかに俳優たちは  古田新太  香川照之  田畑智子  中村嘉葎雄  寺島進  原田芳雄  
石橋蓮司  加瀬亮  夏川結衣  国村準など 厚みのある役者たちで おもしろかった
もういっぺん 観に行って 楽しい気持ちになってきたいなぁ

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

芝居  ” ヴァージニア・ウルフなんか こわくない? ”

2006-06-16 22:52:04 | ★芝居
アメリカの劇作家エドワード・オルビーの原作を  ケラリーノ・サンドロヴィッチ(日本人)が演出
俳優は  大竹しのぶ  段田安則  ともさかりえ  稲垣吾郎の4人
シアター・コクーンは舞台を客席の中央に丸く設えたので 観客は間近に役者の呼吸を感じられそう

数年前の深夜  映画 ”ヴァージニア・ウルフなんか こわくない” が テレビで放映された
有名な映画だったから見てみようと思って見たのだけれど  とてもショッキングな物語だった
このアメリカ映画は白黒画面で  主役は リチャード・バートン と エリザベス・テーラー
このうえなく乱雑に散らかった部屋    棘も毒気も含んで相手を罵る言葉のやり取り
度を増していく傷のつけ合い 暴き合いに  見ているのがくたびれてしまうのだけれど ラストは泣けた
この物語を 大竹しのぶと段田安則がどんなふうに演じるのだろうかと期待して 観に行った

1960年代のアメリカ  某大学教授宅の深夜  ジョージとマーサの夫婦が酔っ払って帰宅する
ソファに脱ぎ散らかした衣類  床に落ちてるゴミ  卓上に放ってある食べ残しの食器やグラス
だらしなく あけすけな言い方の大竹のマーサ   鷹揚なふうでいて辛辣な応答の段田のジョージ    
今夜マーサの父である学長主催のパーティで知り合った若い夫婦が  招かれて訪ねて来る
初対面の若い新任助教授夫妻の前で  ジョージとマーサは互いの不満を言いつのり 罵りあう
ひっきりなしに酒が注がれ  大学でのジョージの仕事の夢と挫折をえぐるマーサの毒々しさ
ジョージは若夫婦の結婚の裏側の事情にまで立ち入り  平穏さに隠されていた本心を暴いていく
「明日の誕生日には一人息子が帰宅する  幼い頃はどんなに可愛らしかったことか 」 とマーサが
慈しみを込めて 息子の様子を語る場面は 大竹の声 体中から愛が匂い立つようだった

マーサは ジョージの触れられたくないことを眼前に引きずり出して  軽蔑の言葉を浴びせる
一瞬ジョージに甘えるしぐさをしたかと思うと  たちまち攻撃する汚い言葉を投げつける
大竹しのぶのセリフは 汚い言葉で相手を罵るときは しぐさも下品な中年の女がそこに居る
セリフのトーンの強弱  言い回しの緩急  感情豊かに一人の女の切実を演じる
結婚生活の惰性と幻滅  圧倒的な憎悪  軽蔑  絶望  悪意
内面を振り絞るような悪臭に満ちた言葉はなんなのだろう
聞くに堪えない罵りの言葉のうしろに  なにがあるのだろうと気になりながらラストを待つと
結婚23年目を迎えるジョージとマーサの絶望と哀しさと寂しさが  形をあらわしてくる
若夫婦が帰った後に 「ゲームは終わった 」と言うジョージには マーサへの愛情すら見える
「ヴァージニアウルフなんか怖くない~」と歌うジョージ  「わたし 怖いわ」と暗く呟くマーサ
静かに 蒼白く  ゆっくり朝がやってくる
                                     
  
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

” 友情  ある半チョッパリとの四十五年 ”  西部 邁(にしべ すすむ) 著

2006-06-05 19:35:15 | ★本
評論家西部 邁と北海道同郷の故海野 治夫(うみの はるお)の45年間に及ぶ友情の実話である
二人は 1952年(昭和27年) 初めて出会った中学2年の時からの付き合いである
数年間の音信不通と再会  空白  再会  そして海野が自分の手記を西部へ託し  自死をする
著者西部の貧窮  海野の苛酷な生い立ち   二人の背景には戦後の北海道の社会状況がある 

二人とも札幌の進学高校のトップの成績でありながら  傍から見ると どうしようもない不良である
貧乏  鬱屈  渇望  破綻  孤独    二人の心のありよう 生き様は似ている
生活環境が異なっても 西部は海野を見つめ 海野は西部の前で心を許し 生きる孤独を忘れられる  
本は 海野の生い立ちを同伴しながら 西部自身の境遇も綴る  屈折せざるを得ない生活環境
それでも二人とも自分のそういう軌跡に 自己憐憫は持たず  決然と自分の道を行く

高校生の海野は 親がなく兄弟は離散し  居候させてもらってる居酒屋で一日一食が実情である
真冬の厳寒の北海道で コートも持てず  教室に駆け込んできてストーブの前で学生服のボタンを
はずして暖をとるとき  制服の下は下着も着ていない素裸である
教師が海野へ奨学金をもらえるよう薦めてくれて  面接官の前で生い立ちを正直に語ったら  
あまりの悲惨さに  面接官は海野を 奨学金欲しさの嘘つき呼ばわりして信じなかったという
十歳に満たない子どもが死期の迫った病身の母親の下の世話をし 着物の洗濯をするのである
母の死後  他家へ子守りに出され  朝四時に起きて 釜で飯を炊く  掃除 洗濯  子守り
水汲み  薪割り  毎日のおしめ洗いは冷水で洗濯板でごしごし洗う  あかぎれ しもやけで
腫れた手をしている十一歳の子どもが 海野なのである   真っ黒な水が流れる川の橋の上で 
「 母ちゃん、 俺をあの世に連れていってくれ 」 と十一歳の子が 小さく呟くのである
高校を中退して海野はヤクザに  西部は東大生へと道が分かれていく
海野が刑務所に入り  ヤクザの幹部になり  ヒロポン中毒になり 会わない時が数年に及んでも  
西部の気持ちは  いつも海野を気にかけ  眼差しがあたたかい

こういう生を生きてきた人の事実に  なかなか本のページが進まなかった
この頃のわたしは いろんなことに  まぁ いっかぁ  しかたないなぁ と呟いていることが多い   
この本を読んで  わたしの呟きなど何ほどのことかと思う
いまは  粛然と衿を正す思いである
                                      
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

芝居  ” メタル マクベス ”

2006-06-03 15:29:01 | ★芝居
マクベス?  またぁ?  でも クドカン  主演が内野聖陽と松たか子   行かなくっちゃ!
劇団☆新感線の音楽劇「メタル マクベス」 宮藤官九郎 脚色  いのうえひでのり 演出 
休憩25分を入れて4時間の公演は 指定座席が取れなかった立ち見の身も乗れました~♪
生演奏のへビーメタルって こういう音楽なのかぁ   こんなふうに体がノッテいくンだぁ 
ビートの効いた重厚なリズムに舞台上の役者たちのボディが しなり のけぞる
立ち見のわたしの腰や足先が  ズンズン リズムをきざんで 楽しい~♪
セリフには アドリブのように言葉遊びが飛び交い  剣で戦う場面はスピーディでメリハリがある
歌の歌詞が舞台後方のスクリーンに映されるので  とっても よくわかって ありがたかった

シェークスピア悲劇の ”マクベス ”がベースだけれど  物語は戦争の絶えない23世紀と
1980年代の日本のヘビメタバンドの物語を 行き来して演じられる
レスポール王の上條恒彦は 歌も声量も堂々としていて 存在感があった
主人公の内野聖陽は  茶目っ気  小心さ  誠実さ  深い孤独  さまざまを見せてくれる
夫をけしかける妻の松たか子も 声がよく通りセリフが聞きやすく  目先の欲に取りつかれる若々しい浅慮の雰囲気が可愛く  きれいでさえある
後半 妻が「小さい人間のわたし達が 大きな大それたことをしてしまった」と恐れ 肩を寄せる場面
夢遊病の妻が 繰り返し手を洗い続け 深いため息を漏らす場面の松たか子の立ち居には 哀れさがにじみ出て  ひしひしと寂寥感が伝わってくる
喜劇のようなふざけた場面でも 歌い踊る森山未來の動きは 鍛えられたダンサーのきれいさである
北村有起哉の細身の体は 落ち着きと冷静さをかもし出して マクダフ役に似合っていた

時代設定を変えても  人の心に巣食う野望とその滅亡は 繰り返し同じだろうと思う
「なぜ戦うのか?  王のため 家族のため それとも人殺しが好きなのか?」と先王がマクベスに問う
たった今現実のこの世界で戦争をしている国のTOPたちは なぜ戦っているのだろうか

長い時間の芝居  舞台上を走り回る役者たちの鮮やかな躍動する動き  役者間の呼吸の間合い
膨大なセリフ量    双眼鏡で見つめていても伝わってくるいきいきとした表情 表現力  
いつもいつも芝居人のパワーに感動する
いい芝居を観ることが出来たなぁ      わたしも  がんばろう っと
                                      
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フォントサイズ変更

フォントサイズ変更