タハ自伝(5)

このエントリーから続く)

 タハのお父さんはアルザスで働いていましたから、タハもフランスに渡ってそこに行きました。お父さんは8時間3交代制の仕事で必死に働く大変な生活でしたが、アルジェリアでは地面に寝ていたのが今ではベッドで寝るようになっていました。あと温水、シャワー、テレビ・・・

 彼はアルザスで初めて「雪」というものを見ました。それまで雪というのは・・・伯父さんが大好きだったアダモのTombe la neigeで聞くだけの、抽象物だったそうです。この伯父さんは他にマンガのTintinも好きだったそうで・・・こういうの好きなアルジェリア人っているんですよね。

 タハ自身はアラブ語、まわりの人間はアルザス語alsacien(これはご存知の通りドイツ語の一方言です)とフランス語という言語環境ながら、なんとか急速に適応できたようにタハは書いてます。

 そして西洋の音楽と、映画の世界がタハの前に広がります。

 ちょうどわたしが米英ロックに魅了され始めた頃ですから、ひとごととは思えません。
 彼がJanis JoplinのMe and Bobby MaGeeなんて曲を思い出しているのを見ると、わ、わたしの同時代人という感じがします。(^_^)  フランスの歌手の曲はわたし全然知りませんが。

 それから『ウッドストック』の映画。

 わたしはこれ、京都の祇園会館で見ました。(^_^) 三本立てで、一本目が『明日に向かって撃て!』。二本目がこれ。三本目の『イージー・ライダー』になるともう頭が痛くなってしまって、見るのが苦痛だった。 (^_^;)

 しかしタハはWoodstockに違和感を感じます。その感覚を見事に表現していたのがJim Morrisonのインタビュー記事で、タハはそれを読んではじめて、自分がどうして歌とは別にこの人に好感を覚えるのか分かったと言います。

 ジム・モリソンは、ウッドストックに集まった若者たちはああだこうだいろんなことを信じさせようとしているけれども、結局潜在的に権力の側にあって、チェ・ゲバラよりボーイスカウトに近い存在なのだ、と言います。音楽とドラッグで「ラリッて」(と、当時は言いましたね。この言葉、最近きかないな)楽しんではいるが、結局アメリカ国務省のとる戦略に責任ある立場か、少なくとも共犯的立場になっていくのだ、と。

 タハのステージがジム・モリソンを彷彿とさせるのは、こういう共感から来ているんですね。

 それからパゾリーニ。
 
 革命的暴力は、消費社会の到来によって少しずつ変質していった。大衆はもはやただひとつのことしか求めない。それは「不要のものをより一層消費する」ということだ。自由主義的資本主義は、革命家たちをその目的からそらさせてしまう。民衆の支配的な関心が「消費すること」になったとき、もはや彼らは反抗のために動員されえなくなってしまう。
 だからパゾリーニは、反抗はもはや西洋社会では無理で、蜂起は第三世界の国々から来るだろうと考えたのです。

 でも彼は、そういう第三世界の国々でも多くの指導者が西洋の大国に買収されるというところまで視野が及ばなかった、とタハは結論づけるのですね・・・

 (おまえのことなんか聞いてねーよ、と言われるかもしれませんが (^_^;) )わたしの方は、『ウッドストック』に集まったアメリカの若者のことなんかあんまり関心なくて、音楽とアーチストに神経集中してました。たしか去年にBSで放映されるまでこの映画を再び見る機会はなかったんですが、見直してみてもわたしの印象に残るのはなぜかジミ・ヘンでもフーでもなくてスライ・ストーンなんですね。彼が一番かっこよかった。(^_^)

このエントリーへ続く)
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
ふーん…… (midi)
2008-04-07 19:28:34
今回の後半は全然わからない話でしたが(笑)、最初に住んだの、アルザスでしたか。タハってなんとなく、その反対側(大西洋側)のイメージがありました。何の根拠もなく。
 
 
 
昔の話なんですよ・・・ (raidaisuki)
2008-04-07 19:58:00
midiさま

 ちょっと話が古すぎました。 (^_^;)

 次のエントリーのBretonの小説、Nadjaはどうでしょうか。これは写真入りオカルト回想記みたいな体裁なので、なんとなく連想してしまったのです。

 場所はもちろん、都内某所です。

 どこだかわかる人、おられますか? (^_^)
 
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