らじかのよかん

ふっ急になんかわかんないんですけど↑

「ハイ」と「ロー」:なぜ「ゼッタイいや!!」なのか

2015年10月19日 | 学術・芸術
本稿敬称略

谷山浩子がこの話題にふれたのは、
2012.09.02 猫森集会2012 8日目 Dプログラム2日目でのことだ。

深夜放送風にセットがされていて、ゲストとか構成者がそばに居て進行していた。
で、「Dプロ1日目にやらなかったらアンケートに書かれたから」と云って、
構成者もいない、文字通りのひとりごとになった。

再掲-----
んで、今日の「ひとりごと」。
昼と夜の話(以下要旨:文責らじお)。
ANNがうまくいったのは、無論スタッフの尽力もあったのだけれど、
それは「夜中」だったからではないか。
夜中とか、どんよりとした曇りとか、雨とかが好き。
テンションがあがる。
とはいっても、なまこのようにPCの前でどよーとしてるだけなのだが。
そういうときに「歌」ができる。
人には男と女のごとく、ハイな人と、ローな人がいるのではないか。
もし人類が「ハイな人」のみで構成されていたとしたら、とっくに滅亡していたとおもう。
「ハイな人」が少し沈んだとき、アイドルグループ(の歌)を聞いたらそれは持ち直すかもしれないが、
「ローな人」では無理だろう。
そんな人に(わたしの歌が)届くといい。
---------
このときは書かなかったのだが、
「ハイ」の典型例として、
スポーツの「ビーチバレヱ」と、
アイドルは「ABB78」とかの名前を出していたな。

うつむき、意を決して心から絞り出すような「ひとりごと」だったのよ。
谷山浩子のファンが来ているにもかかわらず「わたしだけかも」とおもっていたのだろうか。


今般、おれさまの秋祭りつーのがあって、
・09月19~27日 猫森集会5公演参加→その日に記事上げ
・10月○○日 丁C2000超特大走行會(集合寫眞撮影有り)
・10月○○日 運動祭り(動體寫眞撮影有り)
・10月○○日 超特大落語會主催
つーのを、ほぼ一ヶ月に亘って敢行したのだ。

特に困ったのは、猫森集会→超特大走行會である。
脳を含む身體の作動部分が異なるらしく、ありていに云うと「やる氣がしない」のよ。
前日の夜、それでもラインくらいは憶えようと、そーゆー動画を見た。

まあ現場に行くと俄然こーふんするのであって、
帰ってもさめやらず。

だが違和感もあった。
なんか「頭が妙にさっぱり」としてるのだ。

星新一の奥さんが
「あなたスポーツでもしたら」と云ったら
「そんなことして頭がさっぱりしてしまったら小説なんか書けない」と云われたと評伝に書いてあった。

これだな。

「ハイ」と「創造」は次元が違うようだ。
「ハイ」は「製造」と親和し、
「ロー」が「創造」と親和するのだろう。

だから
ゼッタイいや!! わたしにアウトドアとスポーツ誘わないで」なわけか。


また、谷山浩子楽曲と落語の違いも明瞭になった。(「あたりまえだ」ぢやなくて)

落語の登場人物は例外なく「饒舌」である。
どんなキツイ人情噺でも。
セリフのみで噺を構成している以上、そうならざるを得ない。

谷山浩子作品は寡黙だ。
つーか谷山浩子自身が寡黙なのだ。
ANNで「なのです」出たのは追い詰められたからで、
ご自身は喉をかばっていることもあり、平素は細く低い声で話す

文学も基本は寡黙だよね。
演劇も相当に寡黙だったりする。(数が少ないのでよくわからんが)

寡黙系のことにはすんなり入れるのだが、
饒舌系は一応の心構えをしている。

「芸術」と「芸能」との差かなあとおもふのよね。

んでも、どちらも「ロー」なんだよな。
証拠に、雨や雪の描写がある噺が多いのに、
晴天の描写がある噺は、上方に少し(東の旅系統)あるかなあ程度。

また、シモダ2曲のセイビセイビは、おれは「ロー」だと感じている。
理由はよくわからない。
工具箱見て「うれしい」つーのが、とても「ハイ」とはおもえないので。


このように、「ケ」が「ロー」で構成されているので、
「ハイ」はつまり、おれの「ハレ」なのだろうね。
淡淡とねこのような日常であるからして、「ハレ」は不得意なのかも。


これ分析でなく感覚で書いてるからな。
更にだからど-したと云われても、とりたてて結論は無いのだ。
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