らじかのよかん

ふっ急になんかわかんないんですけど↑

キタ十間川 その1

2010年04月09日 | 身辺
江戸時代に開削された運河である。
大川(隅田川)の左岸、吾妻橋の上流から東に向けて流れる。

途中の亀戸3丁目にある「祐天堂」の由来記(昭和30年7月24日発行)によると
「萬治二年江戸本所普請奉行徳川五兵衛の手にて開削されたるものにして」
とある。
川幅十間だから、当初は「十間川」と称せられた。

大川(隅田川)から「十間川」を通って舟遊びで来られるところから、
柳島の辺(現在の亀戸三丁目付近)は、
堤に掛け茶屋がでたりするほどの景勝地であった。
近くには「梅屋敷」という庭園があり「臥龍梅」で有名だった。
この「梅屋敷」の跡地は、俗称「三角空き地」として長らく放置され、
おれの少年時代には「秘密基地」を極秘に建設したりしていたのだが、
現在では記念碑が建ち狭いながらも公園風に整備されている。

おおむね明治三十年に町制を布かれて以降、
周囲は徐々に工業地帯となり、往事の姿は一変していった。

大正7,8年に「仮り護岸工事」を行う前までは、
幹の直径二尺の喬松もあり、その枝は対岸まで届いていたという。

昭和12年に東京府の起業で護岸工事が行われた。
通称浅草通りの整備も同時に行われたようだ。

   ↓昭和12年護岸  ↓大正7,8年仮り護岸の跡    

|←   この辺全体の護岸は25年位前に作った→|

おれんち一家がこの北十間川の土手の上に形成された浅草通り沿いにきたのは、
昭和10年であるから、この護岸工事中のことだな。



十間橋からタケノコのない西方向を望む(1年半前)
(おれんちはここより東なので写っていないし、景色もずいぶんちがうよ)

以下次号
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする