りょうさんの思う壺・・!

大ごと、小言ひっくるめ!
巷の話題も、私ごとも!
ひと息ついて、ご一緒ください!

快晴の神戸港

2009年09月18日 | 思うところ
東京と水戸通いがまだ続いています。
最近都内との往復は、羽田・神戸空港間の飛行機利用が圧倒的で新幹線を忘れそうなくらいです。
スカイマークの拠点が神戸空港になり東京便がさらに増発するというニュースは納得できることです。
何と言っても9800円の魅力が大きく、B737-800の177席は絶えず満席状態です。
方やANAやJALも飛んでいますが正規運賃は高く緊急時しか乗る気になりません。
そんななか経営悪化のJALが神戸路線から撤退するそうで経営努力の無い企業はドンドン市場から消え去る運命にあるようです。

前日羽田からの最終便は快晴の空で、地上まで雲も無くくっきりと見渡すことができ、海岸沿いに広がる町の灯りがとても綺麗でした。
翌朝のきょうも快晴・・買い物途中神戸港に遠回りして歩いみました。
久しぶりの港・・・空から見下ろす神戸の町と海から見上げる六甲の山並みですが、透き通るような青空が神戸の町を応援しているようなすがすがしい時間でした。
神戸に遊びにきませんか??!!

物乞いと物売り

2009年09月13日 | 思うところ
カンボジアの水上生活者の多くがベトナム人です。カンボジアとベトナムの関係は近い過去を見ただけでも相当な軋轢を生じています。ベトナムのカンボジア侵攻などは最たるもので歴史的にも深い溝を感じます。
一時ポルポトの制裁を逃れ出国したベトナム人が、再びカンボジアに戻り集落をつくっていますが、このような背景からカンボジア人のトナム人嫌いは古くから根深いものです。

シェムリアップに近い湖の遊覧船に乗ると、観光客目当ての物売りや物乞いの子ども、そして大人の集団に囲まれます。圧巻は小型のエンジンボートから突然飛び乗り乗り飲み物を売る女の子です・・買わなければまた小船に乗り移るまるでサーカスそのものの妙技です。
危険この上ない仕事ですが、もちろん男の子の姿も見られます。

また物乞いをする子ども連れの親子も多く見かけます。私たちが持つ通貨の最小単位は米ドル$1です。チップの最少額が$1ですから物乞いの親子に$1を与えることになります。公務員の給料が30~120ドル程度ですから1ドルは現地では相当な収入になります。コインの無い国ですから私たち外国人の財布から出るドル通貨の価値は比較にならないくらいこの国の庶民をも惑わします。

物乞いの子ども達に出会う時、決まって我がカンボジアの留学生から笑顔が消えて寡黙になってしまいます。「ねえ・・この子達にお金をやるのはよくないことかな~・・」思わず私の隣にいた彼女に声をかけました。彼女は薄っすら涙を浮かべこう答えました。
「私がカンボジアに居た時は、少ないお小遣いの中からこの子たちにあげていた・・でも日本に来てその考えが変わった。働く力をこの人たちにつけてあげたい・・」彼女の涙の意味が判るような気がしました。
プノンペン大学を卒業し日本で学び、やがて帰国してカンボジアの教育に貢献するだろう彼女の密かな志が伝わる思いがしました。

私が子どもの頃、戦後かなり経っていましたが傷痍軍人を名乗る物乞いの人が居ました。本物偽者混在の時代だったようですが、カンボジアには地雷で手足を吹き飛ばされた人たちが多くいるのも事実です。
私一人の力では手出しができない現実の壁にあたりますが、そんな中でも何ができるかを忘れないでおきたいと思います。

写真の子は、ずっと私の跡を追いかけて竹の笛を売りにきた女の子です。お経を唱えるように無表情に「2ドル・・ひとつ2ドル!買う?」ずっとずっと付いてきます。
根競べのような時間の中に入りますが、「カワナイ!」それでも私の声を無視するように「買う?」ずっとこの繰り返しが続きます。段々厳しい口調で「カワナイ!」

この子は5歳くらいでしょうか・・決して物乞いではなく正当な販売業務をしているわけです。
やがて「フタツで2ドル・・買う?」に変わりました。それでも「カワナイ!」
そしてこの子は、諦めたのか私のグループの別の人にターゲットを変えました。見ていると完全無視に無視されています。
せめて「買わない!」くらい言ってやればこれもコミュニケーションになるのでしょうが・・・
やがてこの女の子はまた私の所にやってきました。今度は小さな手に笛を2本握り締めてじっと私の目を見つめながら「フタツで1ドル・・ふたつで1ドル!買う?」

その目を見ながら・・・・・「ワカッタ!買う!」やっと商談が成立しました。
仲間から「根負けしたの?」といわれましたが、私は「そうじゃなくてこの子とお友達になったの!!」
ほっとした顔で1ドルを受け取った彼女の表情が忘れられません。手を振るとこれまで寂しそうで機械的な表情しか見せなかった顔から笑みがこぼれました。

貧しさは人を強くすることも多いものですが、そこにはその人の心に起因する大きな力が必要です。お金だけではなくこの子たちに力を与える努力がどうしても必要です。
豊かさを享受している日本から旅先を訪ねる時、ものの豊かさだけではなくせめてお互い心の豊かさを共有することができれば私たち旅人の役割が少し果たせるのかな・・そんな思いの時間でした。

その4・小学校で・・

2009年09月12日 | 思うところ
私たちがお預かりしている留学生の母校に図書と椅子をお贈りしました。
ぬかるみが残る雨季の校庭はまだ夏休みでしたが、わざわざ私たちを出迎えてくれた子ども達と素敵な触れ合いができました。
不思議なご縁で小さいながら図書と書棚を残せたことは、これこそご縁というものでしょうか・・
比較するのを戸惑いますが、トゥール・スレーン収容所で処刑された子ども達と同じ世代が一生懸命歌ってくれたカンボジアの歌と嬉しそうに語る子どもたちの笑顔から、平和な今のカンボジアを喜ばずにはおられませんでした。

その3・トゥール・スレーン収容所

2009年09月12日 | 思うところ
カンボジアで一度だけ無口になったのが、ポルポト記念館といわれる「トゥール・スレーン収容所」を訪れた時です。
ここは元は中学校でしたが、ここで拷問を受けた知識人は2万人・・一説では生還できた人はたった6人だそうで、あの手この手の拷問と殺戮の舞台となったところです。
以前イギリスのロンドン塔でギロチン処刑場だった部屋に入った時感じた何ともいえない陰の波動と同じものを感じましたが、ここはさらに重い空気が漂っていました。

毛沢東崇拝者で、原始共産主義を実行し理想郷への早送りを行ったポルポトの悲惨な断面がこの場所で観られます。
多くを語る場ではありませんが近代カンボジアの歴史は、平和で繁栄を享受していたわずか少し前の日本と同じ頃に、私たちの知らない世界で公然と行われていた悲しい事実です。

処刑前に写された写真の多くがまるで私に問いかけて来るようで、目を逸らすのが失礼な思いがありました。語りかける顔から当時の苦悩が伝わってきます。
知識人の子だからと犠牲になった子ども達の写真は一層私に語りかけてきます・・

100万人ともそれ以上とも言われる虐殺の数字が、外国に翻弄されてきたカンボジアの歴史のなかから起こったとしたなら、ここから学ぶことは自国の平和を作る努力は政治家の仕事ではなくその国を作る国民の力であること改めて感じるしかありませんでした。

その2、タ・プローム寺院

2009年09月12日 | 思うところ
眠りから覚めたクメール王国の遺跡は荒れ放題のようでした。
アンコールワットの遺跡は今も補修作業が続けられていますが、一方タ・プローム寺院は樹木が遺跡を破壊する有様をそのまま残しています。
1186年に作られた仏教寺院だそうですが、成長の早い樹木の力に圧倒されながらまるで大蛇に飲まれる小動物のようになすすべも無い姿に驚きを感じます。
方や保存に精力を傾けながら一方で滅び行く遺跡を観光地の糧としているカンボジアの商魂を感じないわけでもありませんが、貴重な歴史遺産を護る教訓を残していることに間違いはありません。

アンコールワットを訪ねてその1

2009年09月12日 | 思うところ
アッという間に夏が過ぎ、ご無沙汰しておりました。

ご縁があってカンボジアに行ってまいりました。
私が所属するクラブでカンボジアの留学生をお預かりしています、彼女は大学院で学ぶクメール人の女子学生で、とてもチャーミングかつ人柄がよくみんなから可愛がられています。
彼女を支援する仲間で一度カンボジアを訪ねてみたい・・この希望が実現したものです。

そして私自身にとっても特別な旅でもありました。今回訪ねたアンコールトムやアンコールワットの遺跡は単なる観光ではなく、父親への鎮魂の思いがありました。
昭和17年の後半か18年の初期だったと思いますが、日本陸軍に応召された父の配属先は仏領インドシナ、ハノイでした。今のベトナムホーチミン市になりますがその後配属の関係で転戦し昼夜を徹して国境越えした行き先がこの地カンボジアだったようです。
その後、本土決戦要員として内地に呼び戻されましたが、残った部隊は南方に送られる途中、米潜水艦により撃沈されました。

晩年父は、口癖のように死ぬまでにもう一度ハノイやアンコールワット・・・そして青函トンネルが開通した北海道に行きたいという言葉を繰り返していましたが、このすべてをかなえることができませんでした。
日本軍がまだ勝利を重ねていた頃の前線とはいえ歩いての道のりは厳しい行軍だったと思いますが、父の足跡をたどって見たいという思いもあり今回カンボジアに同行しました。
雨期にしては恵まれた天気に幸いし鎮魂の思いをいだきながら歩くアンコールワットの歴史と、短いながら我が家の家族との触れあいを味わうことはできたことはこの上ない喜びに感じます。