りょうさんの思う壺・・!

大ごと、小言ひっくるめ!
巷の話題も、私ごとも!
ひと息ついて、ご一緒ください!

再び旧友との再会

2012年05月18日 | 思うところ
久しぶりに家に戻り郵便物に目を通した話をしましたが、その中に友人から写真展の案内はがきがありました。
こんな案内はよくもらうのでありきたりに中身を確認し、そのままリビングの定位置に座るとメモが置いてありました。



家内が、Sさんから電話があったので、こちらから掛けておいてね!という声がかかりました。
もちろん忘れるはずのない高校時代の友人ですが、大げさながら20年以上の空白があるのではないかと思うくらい会っていない友人です。

S君は高校2年生時代のクラスメイトでもあり、彼はその後県庁に奉職し長年県の広報活動に勤しんだ言わばプロの写真家でもあります。
例外なく人生の通過点であるリタイヤ組みですが、そこは芸術家でもあり創作意欲はますます盛んです。
その作品をこれまた同級生が営む画廊喫茶で展示しているから来いという案内でした。

きょうは金曜日、約束通り朝早く電話を入れたのですが応答なしで、溜まりに溜まった仕事をしているとS君から電話がありました。
もちろん、行くよ!との返事でさっそく出かけることにしました。



我が家からJRで二つ目の駅にある画廊喫茶に入ると奥から手を振って迎えてくれたS君でしたが、さすが写真家・・私の首から下がっていたカメラにさっそく反応し、しばしカメラ談義に花が咲きました。
私の愛用カメラはPENTAXのQ、世界で一番小さいミラーレス一眼です。
プロからすればおもちゃかも知れませんが、素人の私にとっては結構遊べる名機でもあります。

写真展のテーマは「明石で出会ったjazzyな仲間たちという」タイトルで、JAZZライブ会場でステージ上のアーティストをその場の光だけで撮影したスナップポートレートの数々です。
写真から音が伝わってくるというのが大げさかもしれませんが確かにそんな波動を感じます。

前回の白髪の少年たちにも書いたように、一瞬にして時間を巻き戻せるのは何と言っても旧友との再会です。
すごくいい時間を今日もいただきました。

大学時代の旧友と再会してすぐ高校時代の友人から思いがけない誘いを受け喜び勇んで出かけるのはウキウキものです。
2度あることは3度ある・・・ひょっとしたら明日あたり中学時代の友人から連絡があるのかなと思っています。

歳とともに子どもに戻ると聞いたことがありますが、これまた真理であると確信した時間でした。

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白髪の少年たち

2012年05月17日 | 思うところ
あの日に戻りたいと思うことは誰にもあるようですが、何の屈託もなく気兼のない時間に瞬時に戻れる一つは同級生との再会でしょうか。
昨年末、学生時代のクラブの集まりの案内が届きました。
今回の世話役は静岡在住の友人で、この集まりは2年に一度開催することになっています。
とは言っても私自身は久しぶりの再会でもあり、恐らく街角ですれ違っていても気がつかないくらい互いが変貌している可能性があります。



昨年末届いた喪中ハガキから仲間のひとりの死を知り何ともやりきれない思いを経験しました。
遺族からみんなに知らせないでほしいと言われたと聞いて何でや!!と一抹の寂しさを覚えたのですが、それもありかな!と考える機会も与えられました。
人の思いはそれぞれに異なることをこの歳になって思い知ることになりました。
今回も癌の手術をしたばかりで参加できないなどの連絡を受け、間違いなくそんな年齢に達しているのだと痛感しました。

そういえば来月には年金がいただける年齢65歳に達します。
その留めのような郵便物がすでに届くようになりました。
先日市役所から「すこやか手帳」が届きました。
これは神戸市民がその年齢に達すると受ける特権だそうですが、動物園はただで入れますよ・・など親切な案内のはずですが、この手帳が鬼に金棒と成るはずもなく、いまだに気分的にはまだ遠い世界からの便りにしか感じません。
ところが、今回長旅を終えて帰宅するとどっさり溜まった郵便物の中に極め付けのような文字を見つけました。
「介護保険被保険者証」が入った封書で、表には、市のマークと一緒に「ささえあう老後の安心介護保険」と書かれておりこれまた嬉しいはずもなく非常に複雑な思いの中にいます。

そんな訳でこの65歳の記念すべき年の同窓会に出席するために伊豆の修善寺に向かいました。
この日は半年前に決まったので、どうやって行こうかと思案していたのですが、直前になって避けられない行事が前日に発生しました。
そうなると家に帰ることもままならずやむなく京都で泊一泊して伊豆に向かうことになりました。



このところ東京へのルートはすべて飛行機です。
新幹線に乗るのは実に久しぶりです・・・落ち合い場所の三島駅に着くと一見オジンですが見慣れた顔がありました。
自分もそう見えているのかと思うとぞっとするのですが、面白いことは数分もすればみんなあの時間に戻れるのが不思議です。
それからの時間は、温泉につかりながら食事を囲みながら、そこはクラブの部室で大論争をした時間や下宿先に押しかけて朝まで激論を交わした時間とまったく同じなのですが、あの時代と異なるのは誰も意地を張る必要のない素直な時間が過ぎてゆくことです。

ここまで来ると、もう友人の領域を超えた兄弟のようなものです。
連日の睡眠不足更に拍車をかける時間でしたが、全く苦痛でもなく快適な時間でもありました。
天気予報が見事に外れ、薄らながら富士山が望める修善寺の一夜は、最近では珍しいくらいお気に入りの時間になりました。

次回はどうするの?の話題にこの歳になれば2年に一度の出会いは、Y君の別れと同じことを生み出す可能性もあり最低は毎年やろうよ!という意見に全員が賛同し神戸で開催することになりました。

考えてみると18歳の出会いがこれまで欠かさず続けてこられた力は、同い年の兄弟が支え合った無言の約束に他なりません。
実にありがたい仲間でもあり大切しなければならない友人が作る宝の時間です。

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帰宅困難者

2012年04月04日 | 思うところ
昨日の春の嵐・・・
すごかったですね!
我が家の周辺は舞子公園などの松林が広がっているのですが、
見事に大木が倒れました

大阪で会議を済ませ三宮までは私鉄で難なくたどりついたのですが・・
何とJRは全線運転ストップで、足止め!

駅員は「お天気のせいだから、うちの責任じゃないよ・・」と言わんばかりに
「振り替え輸送はありません」その上「私鉄の運転状況は知ったことじゃないよ・・」
と実に掌を返したような冷たさです
でも言葉は丁寧ですよ
人身事故という車内アナウンスのくどいほどの「お詫びします」に慣れていますが
こうも違うものなのか、と、すごすごと引き返す人も同じつぶやきでした
これでは本当に南海大地震など大災害が起こった時には
だれも何もできないということを再確認した思いです

私鉄の切符売り場は長蛇の列・・
切符は買わなくても入れるのは幸いですが、ホームは人であふれ
すでに危険エリアです
仕方なく歩けるところまで頑張ったのですが、傘もさせないくらいの強風に加え
雨脚が強くなり、地下道に避難!

これでは朝になると覚悟を決め、井の頭線の最終電車のような
込み具合の私鉄に乗ったのですが、鞄は自分の意志とは違う場所に・・
体は傾いたまま
スゴイスゴイ・・・

それに加えて、いつもがら空き状態のS電車が今夜は超満員!
運転士はいつもがら空き電車の運転なのでブレーキ操作も下手下手下手!
加速もガクン・ガクン応用力のない運転は乗客の体力を奪います

駅に着くたびに下りられない乗客と乗り切れない乗客が入りまじり
大変でした
そんな電車の中で考えていたことは、その前日京都祇園で
仲間と飲んでいたお気に入りの時間・・



名残惜しく終電車に間に合うように京都駅までタクシーを飛ばしたのですが
どうせならこんな日に帰宅困難者になればよかったのに・・
世の中思い通りにはいかないものですね。

本当は、もう少し祇園のお話でもしたかったんですが・・・!

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逆うち

2012年03月29日 | 思うところ
先日来密かに心に願っていたことは、昨年末までに四国霊場八十八ヶ所巡礼を終えることでした。
とはいっても最初の巡礼の旅が結願したのは2001年のことです。その年の暮れ高野山奥の院にお参りをすませめでたく一回目のお役目は果たしたことになります。
お遍路さんが右廻りするのは、僧侶は袈裟で左半身を被い右肩を露出すのは仏陀を敬う心からきているそうで、右肩を常に仏にむけることから聖なるものの周りは「右廻り」となるそうです。
出発は3月26日朝7時・・明石海峡大橋を渡ります。



初回のお遍路を済ませたとき、次回はご先祖様に出会えるという逆打ち・・つまり88番札所から順に1番までを廻るコースに挑みたいと思いスタートしたのは3年前のことでした。
その頃は機会を見つけ、途切れ途切れながら四国に出かけていたのですが、28番札所高知の大日寺から全く足を進める機会を逃してしまいました。
途中走行メータは44444kmに・・・



その頃からうるう年に逆打ちをすると、順打ち3回分のご利益や、お大師さまに会えるという言い伝えを聞いていました。
思いがけず今年2012年はそのうるう年にあたります。この日が我が9回目の結婚記念日ということもあり、記念にベトナム旅行を終えたのですが、今年こそ絶好の機会と感じ日ごろ怠けていた償いをしようと土佐から徳島の巡礼の旅に出かけました。

逆うちとは、逆に廻ってお大師様と会ったとう言い伝えによるのですが、逆打ちは「生まれ変われる」とか「死者に会える」ともいいます。でも最初からの逆うちは禁物でやはり何度か遍路してから逆打ちするのが一般的なようです。



今回も例外なく車での遍路でしたが、それでも半日かけて車を捨て「へんろ道」を歩きました。
第21番札所太龍寺への山道は急坂でかなり過酷でした。富士登山ほどではありませんが、お参りを済ませ下山途中すれ違った巡礼さんの息遣いは相当なものでした。初めて歩き遍路の過酷さを実感した思いです。
一度は歩き遍路をしてみたいと思っていましたが、そう簡単ではないと痛感です。
そもそも金剛杖は倒れた時の墓標となるもので、巡礼は白装束は死への備えの衣装です

ご先祖様に出会うという逆うちの巡礼でしたが、父の出身地である阿波徳島など所縁の地を歩くことができ、自分ながら満足のいく旅になりました。
不思議なことは、その日留守をしていた娘と同行していた家内が同じ時刻に夢のなかで母とであったそうです。私には現れなかったことが何を意味するか分かりませんが不思議な話でした。



3月というのに雪の中の峠を越え高知に入りましたが、土佐でも夜は0.8度まで冷え込みました。
寝袋一つの若者が今夜の宿は野宿です・・と語っていましたが、毎日宿坊に泊まると数十万円を軽く超える出費のお遍路さんは相当な負担となります。
何と言っても健脚でも40日、私の年齢なら60日位を覚悟しないといけません。
それより、金剛杖が実際に墓標になる覚悟も必要です。
今回山道を歩きながら分かったことは、歩けなくなるということは、死を意味するのだと痛切に感じたことでした。



阿波の霊場、1番札所霊山寺で最後の納経をすませたのは3月28日16時30分、無事にうるう年の逆打ちを終えたことに感謝しています。
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バイク野郎・ハノイ編

2012年03月15日 | 思うところ


ヒマを見つけながらのレポートですが、ベトナム・ハノイの旅行記ができWEBで公開の運びとなりました。
最近の旅日記は写真に少しにコメントを加える形式で実にずぼらなものです。
人に見せるというより、自分の記録という意味合いもあります。

皆さんから文章が長いから読む気がしないという賞賛?の意見もあるので、それもありか!という思いです。
そんなわけで読み物としては価値はありません。
ただ、ベトナムに興味のある方に少しばかり目を留めていただけるかもしれません。

http://www.hasegawa.in/overseas/vietnam/index.html

これをコピペしてご覧ください。

ハノイに限らずベトナムのバイク事情はその昔の中国の自転車事情のようにすさまじいものです。
バイクにドラム缶4個を積んで走る光景も見ました。
ダブルベッドを自転車に積んで走っている光景に度肝を抜かされました。
日本の友人はみんな嘘だと取り合いませんが・・・。

そして今回、現地のガイドさんからベトナムでは水牛もバイクで運ぶよ!と言われました。
それはないだろうと・・!で話が終わったのですが、街角で手に入れた絵はがきをみると、そんなこともあり得ると感じる一枚に出会い買ってまいりました。

いかがでしょうか・・・?
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東日本震災大震災から1年

2012年03月11日 | 思うところ
ベトナムから無事に戻ってまいりました。
首都ハノイとホーチミン(旧サイゴン)とは1000キロほど離れているようですが、とにかく南北に長い国です。
今回のハノイへの旅は、4年に一度の結婚記念日を現地で迎えることと、再びハノイへ・・・と願いながら実現できなかった父の思いの代行でもあります。
現在酷寒で中断していますが、四国のお遍路の逆うちへ挑戦しているのですがこのきっかけも父母やは祖母が歩いた道のりをなぞってみたいという旅です。

日本から海路ハノイに入った父ですが、そのルートや寄港先の場所についてはよくわかりません。
しかし、海はまちがいなく続いていることもあり訪れたハロン湾に父の遺影を添えることにしました。
すでに70年の時間が経ちましたが、駆け込みの宿題を終えたような思いでもありました。



きょうは東日本大震災からちょうど1年を迎えます。
改めて犠牲となられた方々のご冥福をお祈りし、被災された方々にお見舞い申し上げます。
連日の報道でも追悼の番組や復興のつち音を伝える映像が伝えられています。

17年前の阪神大震災は、私自身その真っただ中にいました。
比較的被害の程度が軽微であったため、ボランティア活動の取りまとめとしてお手伝いすることになりました。
当時神戸からお隣の大阪に入るには、半日以上を要する神戸はまさに分断された陸の孤島でした。

これらのサポートのために大阪に入ることになりましたが、電車を使うと兵庫県の北部を経由して京都を回るルートでも早くて8時間、車は緊急車両優先でいつ目的地に着くか全く予想がつかない状況でした。
そこで車庫に眠っていたバイクを引き出し、急きょ整備し大阪に向かいました。
市内にはすでにガソリンもなく、片道切符でただ目的地にたどりつくことを願っての道のりでした。

道中、倒れた家が道路を消し去り、申し訳ないと詫びながらぺちゃんこになった瓦屋根をバイクで越え寒風の中を走りました。
ドミノ倒しのようにすべて同じ方向に倒れた家並みや、すべて燃え尽きた町に手を差し伸べることもできず、鼻水と涙でかすむ目を凝らしながらの大阪を目指したことが昨日のように思い出されます。

阪神大震災のニュースは、その後例の地下鉄サリン事件ですっかり忘れられたのですが、東日本大震災は連日欠かすことがないくらいあらゆる角度から支える力の報道に満ち、復興を支援する声が絶えません。
日本人の思いやりと底力を感じ頼もしい限りです。

やがて来る、南海、東南海地震に備えなければならない我が地方ですが、これらの教訓を学びながら過去の苦い経験を近い未来への備えにしたいと改めて誓う一年目の朝です。

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ベトナム ドン

2012年03月02日 | 思うところ
ハロン湾のクルージングチームの8人の中に入りましたが、残り6人はハノイに帰ってすぐ空港に向かい帰国の途につきました。
そうなると、私たちだけはホテルに残され、翌日の便まで全く自由時間になります。

これが厄介な時間です・・・
昼間はホーチミン廟を見学し、ベトナムにとって偉大な指導者の功績を改めて知ることになりました。



きょうは博物館めぐりでもしたいと思っているのですが、野金曜日は閉館とか・・
街中を歩くにしても最近ひったくりなども増えているとか・・
そんな情報をどんどん提供してくれるのですが、最後には「気をつけてください!」
で勝手にしろです。

ベトナムでの旅人が困惑するのは買い物です。
ツアー旅行者が強制的に連れて行かれるみやげ物店は米ドルや円もOKですが、
街中はそうは行きません。
ベトナムの通貨で戸惑うのは、ゼロが一杯ついてくることです。



ペットボトルの水は、レストランでは1ドル街中では2本1ドル程度ですが、
ベトナムドンで払うと20000ドン位ですから、ちょっとしたものを買えば何十万ドンの単位になり面食らいます。
当然ながら両替したドンは円やドルに戻せないので原則使いきりになります。

ハノイ最後の日、空港までの時間町に放り出されます。
一度も手にしたことがなかったドンを持たなければ買い物もできません。
この加減がいまひとつつかめないのですが、夜の集合時間までバッグを離さず
歩く長い時間になりそうです。
本物のハノイの旅が始まるのかもしれません。
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ハロン湾クルージング

2012年03月01日 | 思うところ
これまで、ほとんどが自由旅行のスタイルでした。
豪華な旅とは無縁だと思っていましたが、思い起こせば貴重な経験も多くさせていただきました。

数年前あるきっかけで利用した旅行会社のツアーに参加して以来、毎日のようにダイレクトメールが届くようになりました。
パンフレットを見ているだけで世界旅行が出来るくらい情報満載ですが、旅の醍醐味はやはり現地に行かなければ十分に味わえません。

今回も思い立ってツアーのお世話になったのですが、初めて利用する会社でこれまたすべてインターネットからの申し込みです。
保険も費用もすべてネット処理で、人に会ったのはハノイの空港で現地ガイドが初めての関係者でした。
空港でも機内でも誰が同行者なのか判らず、一昔ならこんな不安な旅は売れなかったことでしょう・・

この旅で特筆すべきことは、多くの大学生の卒業旅行と出会ったことです。
そのスタイルも実に様々で、一緒にディナーをとったり、道中就職の話に花が咲いたり・・・
予算ギリギリで食事も節約している様子に、差し入れをしたり・・

にぎやかな大阪のグループは「一緒に写真を撮ってください・・・僕らもその歳になったらそんな旅にあやかりたい!」
ちょっと気恥ずかしくなる申し入れでしたが、我々がこの世界から消滅しても彼らがその昔・・と、語ってくれることも悪くないなー・・と思いながら写真に収まりました。

ハロン湾の夕日はあいにくのお天気で出会えませんでしたが、たとえ短い時間でもハロン湾のクルージングでの出会いは貴重なものだったと感じました。

下船時にしっかり交わした握手は「いつか大阪で会いましょう・・」の挨拶とともに、彼らの未来にエールを贈る思いでした。
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ハノイ 4×9 36

2012年02月29日 | 思うところ
べトナムはハノイに着きました
関空からおよそ5時間半、時差はマイナス2時間
極寒の神戸から南国へ・・・
と、服装もそのつもりでしたが意外と寒いのです
南北に長いベトナムは南のホーチミンとハノイでは全く異なる気候です
ハノイでは涼しいと言うのが正しいようです

妙なタイトルになりましたが
2月29日は4年に一度のおまけの日です
この日が9回目の結婚記念日にあたります

それがハノイとどう関係があるのか・・ですが、
実は父が生前ハノイに行ってみたい
もう一度行ってみたい・・と繰り返し言っていたことが頭に残っていたからです

太平洋戦争の初期、皇軍の兵士としてハノイに出征し
その後、本土決戦要員として内地に呼び戻されるのですが
残された部隊は、その後南方に転戦し、
途中アメリカの潜水艦によりあっけなく撃沈・・
父にとって、特別な思いがあったのでしょう

一昨年、ご縁があってカンボジアに行きました
これも父の遺品の中にアンコールワットの絵葉書や手帳に記された記録が残っており
どうやらこのハノイから進駐したようです

そんなこともあり特別なこの日、ハノイの町に降り立ちました
我が青春時代、反戦運動にわいたベトナム戦争の標的地であったハノイですが
町は活気にあふれ、決して美しいとはいえない部分もありますが
人々の営みに確かな活気を感じます

きょうはハロン湾に向かいます
きっと父もたどったはずのルートを歩きながら
特別仲良くした記憶の少ない父でしたが、
父が亡くなった年齢に近づいている自分を感じながら
小さな遺影を手にベトナムの地をたどってみたいと思っています

静かな9回目の結婚記念日です
現地は朝の6時前・・出発の準備を開始します
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雪やコンコ

2012年02月20日 | 思うところ

例年より寒い神戸ですが、暦の上では立派な春・・・
ただ寒さは収まりません!
なんとなく風邪の症状が治まらないので、珍しく家にこもることにしました。
週末は何かと野暮用がありますが、週末はぐっと自分をおさえて休暇としました

家内も娘も外出で留守番役は、我が家の黒猫「くろん」とペアです。
この猫・・・女性には触れられるのですが男には見向きもしません。
極端に人見知りの激しい猫です。
暖かい場所を求めて家じゅうを渡り歩く気まぐれ猫ですが、当然ながら私のところには来ません!

そんなわけで、会話もなくそれぞれ別の場所で一日を過ごすのですが、
トイレに立って窓を見るとすりガラスを通して白い影が斜めに通り過ぎていきます・・
珍しい雪だ!と思い外を見ると予想通り大粒のボタン雪が降り注いでいました。



周辺は結構積もったところもありましたが、気温は1.8度・・・
やがてすぐに消えていくのですが、神戸では珍しい吹雪模様におもわずカメラをもち屋上に!

雪国の人から見るとずいぶん酔狂な光景でしょうが、子どものころしばらく雪の地方に住んだことがあります。
雪で苦労をしたことがないせいか、今でも雪景色には郷愁を覚えます。

冷たい雪の中、パジャマ姿でしたが風邪などどこかへ飛んで行ってしまうほど刺激的なピリッとした時間でした。
おじさんは喜び、猫は娘のベッドで丸くなっておりました。



ゆきやこんこ あられやこんこ・・
この歌を思わず口ずさみましたが、子どものころは、雪やこんこん・・と知らずに歌っていました

コンコンはキツネ!猫はニャー・・
つまらないオチになりました。

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2月後半の運勢

2012年02月17日 | 思うところ
あっというまに2月も中旬を過ぎました。

きょうまでの2月は幸せな月ではありませんでした。
その1:
神戸空港で予約便に乗ろうとしたら、該当なし・・
「なんで!!??」
日程が変わり2回ばかり変更したのが原因で、私の操作ミスだったようです!

カウンターで悪戦苦闘しながらも、幸い空席があったので新たにチケットスを購入したのですが、その取り消し時間がなく片道運賃がふいになりました。

その2:
悪いことは重なるもので、出張前にPCのグラフィックボードが認知症になりました。
時々真顔になるのですが、立ち上がりも悪く何より画像が気まぐれになるとストレスが大です。
肝心な時働かないマシンは即退場です!
グラフィックBくらいなら安いので交換しても問題ないのですが、もし他の原因なら・・など、いろいろ考えが頭をよぎります。
そろそろ後身に道を譲る頃でかな・・・。
そんな時、立ち寄ったショップブランドにお買い得があり思い切って買い換えることにしました。

パソコンの引っ越しも結構面倒なものです。
その日のためにあらかじめ引っ越し用HDDにデータを保管していたのですが、どうしても私のレベルでは解決できない課題にぶち当たりました。
そこで、片付けがままならない我がデスクを整理して2月後半が始まりました。

少しだけツキから見放された前半を取り戻せれば・・!
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避難所に咲いた緋寒桜

2012年01月17日 | 思うところ
沖縄では、桜の花が咲き始めやがて満開を迎えるという、爽やかな朝のテレビニュースに17年前を思い出しています。

1995年(平成7年)1月17日、忘れもしないあの阪神・淡路大震災が起こりました。
ドカンという突き上げるような衝撃に飛び起き、とっさに家具を抑えなだら揺れに逆らった行動が可笑しくもありました。
激震地では何の意味もなさない無駄な行動だと気づくのにそう時間はかかりませんでした。

当時我が家は神戸市の一番西に位置し、淡路島を臨む高台でした。
停電の中で、ラジオからもたらされたわずかの情報は、震源地が淡路島付近だということでした。
この情報が私の判断を狂わせました。
震源地に一番近い我が家がこの程度なら大したことはない・・・
すべて、間違いであったことがこの2時間後わかることになります。

死者行方不明者6437人、今回の東日本大震災の同数は19238名・・
犠牲者の数では比較にならないものですが、兵庫県南部のこの狭いエリアの光景は言葉にする勇気も失せることが多くありました。

あの日を忘れることはありませんが、この年生まれた子どもたちも17歳、多感な青春時代を懸命に生きています。

あの日私たちが、いや私自身何をしていたのか・・・
今も鮮明な記憶の中にいますが、17年目のきょう、当時の記録をひとつご紹介しておきたいと思います。
いま沖縄で満開となる緋寒桜と神戸の避難所のお話です。

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 震災後、避難所への救援物資輸送や医療活動支援のために開局された11の非常無線局は、全国から駆けつけた学生を中心とする若者のエネルギーによって支えられた。 
 私にとっても31年間のアマチュア無線活動の中で類を見ない経験をすることになった。
 不自由さをおして集まった仲間は、高校、大学生はもちろん休暇を先取りした東京のテレビマン、物書き、会社員等、実に様々で全国規模の混成チームができあがった。
 
 2月に入ってすぐの頃、仲間の一人から相談を受けた。「神戸の町から色が消えた。灰色になった町に彩りを取り戻そう。まず避難所に花を届けよう」という内容だった。
 避難所の食料は充足してきたものの、特定の物資はまだまだ不足している。その中で、沖縄で今咲き誇っている桜の花を神戸に届けてはという提案であった。
 
 沖縄の桜は赤味の強い緋寒桜という種類で、日頃お馴染みの本土の桜とは明らかに異なる。
 2月27日、待ちかねた桜の花が大阪空港に到着した。
 沖縄周辺の島々からこの日のために持ち寄せられたもので、それぞれの島の特徴がうかがえる贈り物であった。
 渋滞の町を避けて六甲の山越えで運ばれた桜を早速、東灘区の幾つかの避難所に届けることにした。満開の300本の桜と沖縄の菊の花500本が避難所に彩りを添えることになった。
 
 最初に訪ねた小学校の校庭で、焚火を囲む10人ほどの人の輪に加わった。燃料は倒壊した木造家屋の廃材だ。積み上げられた廃材から生活の臭いが漂っている。
 暖をとるおばあちゃんの「花を見てホッとした。ありがとう。ありがとう」と繰り返す潤んだ笑顔が忘れられない。
 
 恐る恐る教室の扉を開けた。我々にいぶかしそうな視線が注がれている。
「こんにちは、沖縄から桜の花を持ってきました」の呼び掛けに部屋の雰囲気が一瞬和らぐのがわかる。
 日本で生活する者には、桜の花にとりわけ特別な思いを抱くのだろうか。
 春の訪れなど考える余裕も与えられなかった避難所の人たちに、束の間の夢をプレゼントできたのかも知れない。
 重苦しい教室に笑顔が戻ってくるのが嬉しかった。
 
 花瓶もなく愛用のグラスに丁寧に小枝を差す人や、じっと感慨深く花を見つめる人がいる。
 「もう一本もらえますか?」という声に振り返ると、枕元から一枚の写真を取り出してきた。亡くなった子どもさんの遺影だそうだ。
 笑っている写真の主人公と桜の花の色合いが妙に似合うのが哀しい。残された人の優しい眼差しに隠された震災のすごさが、無言のまま重く伝わってきた。
 
 花を配り終えるころ、照明灯に浮かぶ校庭の片隅にある自衛隊の仮設風呂から子どもたちの歓声が聞こえてきた。復興の手助けには程遠いほずの花が持っ不思議な力を知らされた一目であった。
 避難所とのふれあいの中で活動した我々の業務も、4月15日をもって終わりを告げた。

 多くの出会いを与えてくれた90日間の仲間と、桜の花が橋渡しをしてくれた、人との出会いはかけがいのない絆をつくり、生涯忘れることのできない思い出を残した。

                         (1995年記)

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神戸の心は今、東北の人たちの心と同じです。
一日も早い復興を願いつつ・・・
きょうは心静かに黙祷から始まる一日となりました。
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映画「マイウエイ 12000キロの真実」

2012年01月16日 | 思うところ
戦争映画「マイウエイ 12000キロの真実」を観てきました。

日本人と当時日本の統治下にあった朝鮮人の青年が、幼少の頃、京城(今の韓国ソウル)で出会い、マラソンのライバルとして激しく意識してゆきます。
やがて日中戦争がはじまり、ノモンハン戦争を皮切りに幾多の戦線で悲劇的とも言える運命の出会いと葛藤を繰り返していきます。
数奇な運命に支配される人を描いた作品ですが、日本軍人が捕虜のあとロシア兵になり、そしてドイツ兵となって連合軍と戦うというあり得ないストーリーながら、実際にあった人物がモデルとなっているそうです。
最後は、連合軍の総攻撃地点となった激戦地ノルマンディー・・・
戦場での生と死はどんな力によって決められるのか、誰の力で生死が決まるのか、そんな感覚の中で映画の展開に息つく暇もありません。

どんな映画かはWebの映画宣伝をみればしっかりと分かるので、改めて紹介しませんが眠くならない映画です。

この映画に興味を持ったのはオダギリジョー扮する、日本軍将校でありマラソン選手でもある主人公長谷川辰雄と、そのライバルであった当時朝鮮のマラソン選手、ジュンシクを演じるチャン・ドンゴンの共演ということも手伝っていました。

当時のアジアの歴史的な背景と、時代に翻弄されたオリンピックのマラソン競技を通して描かれた映像は、韓国の著名なカン監督作品により凄まじい迫力を作り出しています。

でもここで描かれているのは、単なる戦争映画ではない・・

人は戦争によって運命が左右されるだけでなく、心まで変わらざるを得ないというという訴えが身に沁みます。
しかしながら逆説として、戦争の極限を迎えても、また過酷な戦場の中でも、人の心に本来の人間性を取り戻させることができるということを訴えているのもこの映画の特徴でしょうか。

神戸でも映画館の閉鎖などが見られ観客動員が話題になりますが、日曜のしかも封切館にしては驚くほど観客が少なくゆったりしていました。

私の前には観客はひとり・・

上映直前に私の席を一つはさんで若いカップルが座りましたが、上映中ごそごそと飲食を続けているのが気になりました。

戦争映画の大音響が、この二人の動きを助けたのですが、静かなシーンの連続ならひんしゅくものでしょう・・・
映画が終わりやがてスーパーテロップに差し掛かるとそそくさと席を立っていきました。
その席には、飲料水のカップや食べ残しのゴミがそのまま置き去りにされていました。

映画よりいつものゲームの方が面白かったのかも知れませんが、彼らにこの映画の意味がどう理解できたのか、これまた興味のあることでした。
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イチゴ

2012年01月11日 | 思うところ
連日寒い日が続くと春が恋しくなります

チャイムが鳴り、
インターフォンの画面に目をやると、
クロネコ便のお馴染みのお兄さんの顔・・・

届いたのは、神奈川県の友人からの荷物です
中身は大好きなイチゴ!!

イチゴの香りと色合いに触れると幸せ感が湧いてきます。
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えべっさん

2012年01月09日 | 思うところ
関東の方にはあまり馴染みはないようですが、「柳原のえべっさん」という愛称で親しまれる神戸の兵庫の蛭子神社は、毎年1月9日〜11日の間「十日えびす大祭」として商売繁盛や家内安全、学業成就を祈念してにぎわいます。
明日は仕事なので、宵えびすにお参りしてきました。



この神社は神戸市の中で、歴史と伝統のある兵庫の地に、えびすの杜として鎮座しています。
「えびす神」の中でも一番古くから語られているのが、『古事記』『日本書紀』の国生みの段に登場するヒルコ(蛭子)の神です。
この神は、イザナギ・イザナミの神が日本国土を創世する際に、その御子として生まれましたが、手足が不自由であったといわれています。
どうやら鎌倉時代に、ヒルコ神がえびす神ということが定着したようです。



昨日からNHK大河ドラマ「平清盛」が始まりましたが、 兵庫のまちは平安時代の昔から「大輪田泊」と呼ばれる良好な港のあるまちとして知られていました。
平安時代の末期、平清盛は大輪田泊(おおわだのとまり)と呼ばれた兵庫の港で中国(宋)との貿易を行いました。
また、治承4年(1180)には、わずか半年間ではありますが、京都から現在の兵庫区福原に都を移し、貿易の拠点として港の大改修工事が行い後に兵庫のまちは「兵庫津」と呼ばれるようになり、海陸要衝の地として発展していきました。

とにかく私の故郷でもありルーツの兵庫ですから、この界隈には商いとは無関係に自然に足が向いてしまいます。
この周辺には歴史的な名所も多く、今年は特に観光名所として脚光を浴びる場所でもあります。
いちどお越しになりませんか!
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