まちかど逍遥

私ぷにょがまちなかで遭遇したモノや考えたコトなどを綴ります。

憂鬱なGW、高砂を歩く

2010-05-23 00:44:12 | 建物・まちなみ
最高の行楽日和だったにもかかわらずどこにも出かける気が起こらず、休日出勤と実家へ
帰った以外は家の中でだらだら過ごした今年のゴールデンウィーク。土日もまだ気分が乗らない。
・・・しかし無情にもきっぷの期限は迫ってくる(苦笑)。
スルッと関西3dayチケットの期限の最終日だった日曜日の午後、重い腰を無理やり上げて
電車に乗った。乗り継ぎが楽という理由で、西九条から山陽方面へ。高砂ででも下りてみようか。

行ったら行ったで楽しいんである。
尾上の松駅を過ぎたところから山陽線に並行した空地が続いているのがはっきりわかる。
途中で水路を渡るレンガの橋台も残っている。加古川の護岸は後年改修されたようで
跡は見えないが、それを越えたところからまた緑地帯が続いているのが見えた。
国鉄高砂線というのが加古川から高砂港まで延びていたらしい。よし、下りよう。

高砂駅のロータリーに面したレトロな商店街の裏側に、大きくカーブした細長い敷地が残っている。
裏側感あふれるこの場所は、現在駐輪場として使われているが、ここが高砂北口駅だった
場所だろうか。駅の名残は見つからなかった。


カーブの先はずっと遊歩道になっている。両側には建物が建っていて軌道敷のスケール感が
そのまま感じられる。少し歩いたところに、うわ、転てつ機がずらりと。腕木式信号機まで
立っているじゃないの!

まるで並んだ砲台のよう。

ここは国鉄高砂工場の方からの線と合流している部分。そちらも遊歩道になっていて、
そのふたまたの中央部に、信号機が立っているのだ。いいねぇ~


もう少し下ると、廃線跡はラケット型のバスロータリーになっていた。横を見ると、
「銀座商店街」の電飾アーチのある商店街があった。今はすっかり寂れているが、
銀座のようににぎやかな商店街だったに違いない。ということはここが、高砂駅跡だな。


近くにおられた年配の女性に声をかけると、ここが駅でしたよ、とにこやかに教えて下さった。
よく見るとすぐ横に説明書きの石碑があった。
昭和59年まで走っていたという。昭和59年などというとついこないだのような気がするが、
よく考えてみるともう25年も経つのだな。廃線跡に植えられた木も大きく成長するわけだ。



バスロータリーの先にはグラウンドがあり、子供たちがサッカーに興じていた。
ははぁ、この場所は車両基地だったんだろうな。
その横、線路1本分の幅の敷地がさらに先へと続いている。
こうやって廃線跡をたどって歩いている途中、姫路から飾磨港へと延びていた飾磨港線
(正式には播但線)と何度もイメージがオーバーラップした。但し、こちらはきれいに整備
された遊歩道が途切れることなく続いていて、飾磨港線のような自然な風化がないのは
少し物足りないが。。。

それでもこの高砂線沿線では、梅ヶ枝湯のような渋い現役のお風呂屋があったり、
こんな洋館があったりして、また別の楽しさがある。


このままずっと港まで行ってみた。途中、鐘紡の工場への引き込み線があったらしいが
痕跡は見つからず、どこから分岐していたのかさえ見当がつかなかった。
岸壁の前にまたグラウンドがあったのでこのあたりが高砂港駅だったのだろうか。

港には産業廃棄物運搬船が停泊していた。昔はここから旅客船も発着していたのかな。

戻りはちょっと違う道に入って堀川の方へ行ってみた。


加古川に近いそちら側のエリアは江戸時代から舟にまつわる職業の人々が住んでいたらしく、
船頭町や釣舟町などの町名が残る。町名の由来が書かれた木札がまちかどに立てられていて
それを知ることができる。
堀川の周辺には江戸時代そのままかと思うような古い蔵と街並みが残り、外壁に古い舟板を
利用した民家も見られる。


近代建築もいくつかあった。ほほぉ。廃線跡だけを歩いていたら見逃すところだった。




もともとこの辺りは四方を運河に囲まれた場所だったらしい。
どうも国鉄高砂線は、西側の運河を埋め立てた跡地に敷かれたようだ。舟運から鉄道へ、
移り変わった歴史が、今も地割に現れている。面白いなぁ。


気が向かないのを無理やり出かけた高砂だったが、盛りだくさんで充実した1日だった。

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