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Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

「生きる意義とは何か」

2006年09月14日 | 一般
エホバの証人の教理に、人間はエホバの目的のための奉仕者となるべく、神に創造されたというものがあります。エホバを信じない一般の人は人生の目的を知らないので空虚に生きている、人生のさまざまな判断において誤まりや失敗も多い。しかし、エホバの証人はエホバから「真の」人生の目的を与えられているので、失敗や過ちを避けて通ることができる、幸福な人生を送ることができる、と言います。

でも多くのエホバの証人の十代の子たちは、集会ではとろんと死んだような目をしています。当然です。試行錯誤をしながら、失敗から学び、自分流のものをみつけてゆくという過程をとおして、人間はアイデンティティを培ってゆきますし、そこから生きている実感というものを得ることができるのです。他人に言われた通りして過誤なく過ごせても、人生を豊かに生きているとは感じられず、自分のほんとうの意向、意欲を果たせず、それは重いいら立ちとなって蓄積し、ある日突然キレたり、ついに暴発したりします。あるいは意地悪な人柄になり、他人の自由を妬んで、ネチネチと他人を苦しめるようなことをして暗い喜びを得るようになったりするかもしれません。

人間は過誤なく暮らせなければならないのでしょうか。生きる目的は神から教えられなければならないのでしょうか。また神から生きかたを教えられない一般の人たちは「空虚に」いきているのでしょうか。「この男、不眠症につき。http://blog.goo.ne.jp/exit_hd1983」というブログでこんな記事がありました。とても読み応えのある記事だったので、諒解を得た上で全文紹介します。タイトルは「生きる意義とは何か」というものです。


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「もし進化論が真実だとすれば・・・
生きることに根本的な意義など存在しない・・・
ということになります。」
「エホバの証人」機関誌『目ざめよ!』特別号より

「エホバの証人」(キリスト教系宗教団体)の手下(笑)が
バイト先に来て機関誌を置いていったので、
ちょっと見てみた。

内容は簡単に言えば、、、

これまでの多くの科学の発見と、聖書の教えは矛盾しない。
(例えば、科学的には地球が六日間でできたなんて有り得ない。
 聖書には六日間だと書かれているが、
 聖書には「1日」が24時間だったとはどこにも書いていない。
 だから聖書は間違ってはいない。 などなど)
科学と聖書は両立するのであり、
科学的事実が証明されたからといって、
聖書が間違っているのではない。

だが、進化論は正しいとは言いがたい。
もしも、進化論が正しいのならば、
神によって創造されたのではない私たち人間には
生きる意義がなくなってしまいます。
さて、あなたはどうしますか?
生きる意義を与えてくれる神の創造を信じますか?
それとも生きる意義を与えない進化論を信じるのですか?

・・・といった感じ。


言いたいことは山ほどあるが、一点だけ僕の意見を。


神に創造されたのでなければ、
生きる意義は見出せないのだろうか。
もっと大きく言えば、
宗教を信じなければ生きる意義は見出せないのだろうか。

確かに、人間存在に本来的に定められているような意味での
「根本的な」生きる意義はないだろう。
でも、だからと言って悲観にくれなければ
ならない理由は何もない。

人間は類的存在である。
1人では生きていけない。無人島では発狂する。
自殺をする場合も、根本的には「類」としての自分の存在
に絶望するからである。

そのような「類」としての人間は、
類的存在であるが故の生きる意義を見出せる。

例えば僕は僕の彼女を必要とするし、彼女は僕を必要とする。
お互いにお互いの生に対して意義を見出し、与えている。
人間は、生の意義を他者に与え、他者から与えられる。
そのような「生の意義の相互付与」の
無数の網の中で人は生きている。

僕が「A君が存在していてくれて本当にうれしいよ」
と感じていると知っても、A君は「生きる意義がない」と
悲観にくれるだろうか?

僕に言わせれば、寿命が無限でもない限り、
家族や恋人や友人から付与される生の意義だけで
悲観することなく生きられるはずだ。
少なくとも、100年足らずの人生を過ごすには充分である。


では、キリスト教の言う生きる意義とはなんだろうか?
おそらく2つあって、ひとつは
「神が生かしてくれているのだから、
生きる意義があるに決まっている」というもの。
もうひとつは、「最後の審判で救われ、神の国へ入るため」
という目的的意義。

まあ、前者の方は真に神の存在を信じる者にとっては
生きる意義になるだろう。
だが、後者はどうか?
「根本的な生きる意義」なんてのを期待してる人は、
神の国で永遠に生きられることが決まった時にも、
きっと(いや、もっと!)「なんで生きているんだろう?」
と問うことになるだろう。
神の国での楽しいだけの永遠の生。生の意義を失わせるには
もってこいの環境だと僕は思うけど?


宗教を信じなくとも、
人間の生きる意義が失われるわけではない。
そんなに崇高な生きる意義が欲しいのだろうか?
そんなに崇高な生きる意義を求めているから、
多くの人から生の意義を与えられていることにも
気付かず、悲観にくれなければならなくなるのだ。


多くの宗教団体は、
「科学では生きる意義は与えられません。
信仰こそが生きる意義を与えるのです。」
と必死に唱える。
でも、僕に言わせれば、科学にも宗教にも頼らなくとも
生きる意義は見出せる。
確かに「根本的」なものではないかもしれないが、
誇りを持って生きるに不自由しない程度の生きる意義ならば。

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人生の豊かさは人間関係にある、というお考えにはわたしも全面的に賛成です。エホバの証人は仲間の目を怖れてビクビクして生きている場合が多い、そんな人生こそ空虚ではないでしょうか。
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