「沖縄ノート」が著されたのは、沖縄返還以前の1970年です。沖縄返還に当たっては紆余曲折があり、日本政府、とくに自民党は慎重な姿勢をとったらしいのです。当時、沖縄住民は「租税負担をしていないことなど」を理由にして、「沖縄代表議員に対して、沖縄関係だけでなく、(日本国政に関する)すべての案件について、議決権を与えるのは憲法上疑義がある」というのです。沖縄の人々はつまり日本人ではないのだということです。
大江さんは、一体沖縄が当時のようにアメリカの占領地になったのは誰のせいなのか、戦争末期に沖縄に対して、日本は何を行ったのか、その記憶が意図的に隠蔽されているのではないか、忘れ去らせようとされているのではないか、それとも、沖縄戦の記憶に触れたくないのか、もしそうなら、それは戦争当時、沖縄で取った戦略を引き起こした思想、思考が繰り返されていることではないのか、ということを問いかけようとしておられるのでした。
そこで今、係争中の記述が書き記されたのです。ご紹介します。
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このような報道とかさねあわすようにして新聞は、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり、そのような状況下に、「命令された」集団自決を引き起こす結果を招いたことのはっきりしている守備隊長が、「戦友」ともども、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。
僕が自分の肉体の奥深いところを、息もつまるほどの力でわしづかみにされるような気分を味わうのは、この旧守備隊長が、かつて《おりがきたら、一度渡嘉敷島にわたりたい》と語っていたという記事を思い出すときである。
「おりがきたら」、この壮年の(1970年ころ当時)日本人はいまこそ、「おりがきた」と判断したのだ、そして彼は那覇空港に降り立ったのであった。
僕は自分が、直接かれにインタビィユー(ママ)する機会をもたない以上、この異様な経験をした人間の個人的な資質についてはなにごとかを推測しようと思わない。むしろかれ個人は必要でない。それは、ひとりの一般的な壮年の日本人の、想像力の問題として把握し、その奥底に横たわっているものをえぐりだすべくつとめるべき課題であろう。
その想像力のキッカケは言葉だ。すなわち、「おりがきたら」という言葉である。1970年春、一人の男が、25年にわたる「おりがきたら」、という企画のつみかさねのうえにたって、いまこそ時は来た、と考えた。かれはどのような幻想に鼓舞されて沖縄に向かったのだろうか。
かれの幻想は、どのような日本人一般の今日の倫理的想像力の母胎に、はぐくまれたのであるか?
(「沖縄ノート」/ 大江健三郎・著)
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たしかに冒頭部では、この「守備隊長」はほぼ特定されてはいます。名前は出されていませんが、渡嘉敷島での慰霊祭に出席しようとした元守備隊長、フェリーに乗船を拒否された(別の箇所に書かれている記述)人といえば、ほぼ特定できるでしょう。
でも大江さんは、ここで当の元守備隊長を非難しようとしているわけではないことを明言しておられます。
「僕は自分が、直接かれにインタビィユー(ママ)する機会をもたない以上、この異様な経験をした人間の個人的な資質についてはなにごとかを推測しようと思わない」。
「むしろかれ個人は必要でない」のです。
どういうことでしょうか。
「それは、ひとりの一般的な壮年の日本人の、想像力の問題として把握し、その奥底に横たわっているものをえぐりだすべくつとめるべき課題であろう」。
つまり、1970年当時壮年に達していた、戦争を経験したすべての日本人、もっといえば戦争を引き起こすのに同意したすべての日本人の象徴として、この守備隊長は使われているのです。いわば戦争に加担したすべての日本人の代名詞、記号としてここで定義されなおしています。大江さんが告発しているのは、1970年当時の多くの日本人です。本土の日本人です。コンテクストを読めば、個人を中傷誹謗したり、個人の名誉を毀損したりする意図がないことは明らかだと思います。
大江さんは、この守備隊長が語ったとされる「おりがきたら、一度渡嘉敷島に渡りたい」というコメントに激しい拒絶反応を示されます。どんな「おり」がくるのを、この旧守備隊長は、つまり当時の日本人は待っていたのでしょうか、大江さんはこういうふうに解釈して考察されます。
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まず、人間が、その記憶をつねに新しく蘇生させつづけているのでなければ、いかにおぞましく恐ろしい記憶にしても、その具体的な実質の重さは軽減してゆく、ということに注意を向けるべきであろう。その人間が可能な限り早く完全に、厭うべき記憶を、肌ざわりのいいものに改変したいとねがっている場合にはことさらである。かれは他人に嘘をついて瞞着するのみならず、自分自身にも嘘をつく。そのような恥を知らぬ嘘、自己欺瞞が、いかに数多くの、いわゆる「沖縄戦記」のたぐいをみしていることか。
たとえば米軍の包囲中で、軍隊も、またかれらに見棄てられた沖縄の民衆も、救助されがたく孤立している。
そのような状況下で、武装した兵隊が見知らぬ沖縄婦人を、「無言で」犯したあと、二十数年たってこの兵隊は自分の強姦を、感傷的で通俗的な形容詞を濫用しつつ、限界状況での「つかのまの愛」などとみずから表現しているのである。
かれはその二重にも三重にも卑劣な強姦、自分たちが見棄てたのみならず、敵に向けるはずであった武器をさかさまに持ちかえておこなった強姦を、はじめはかれ自身にごまかし、つづいて瞞着しやすい他人から、もっと疑り深い他人へと、にせの言葉によって歪曲しつつ語りかけることをくりかえしたのであったろう。
そしてある日、かれはほかならぬ強姦が、自分をふくめていかなる者の眼にも、美しい「つかのまの愛」に置きかえられたことを発見する。かれは、沖縄の現場から、被害者たる沖縄の婦人の声によって、いや、あれは強姦そのものだったのだと、つきつけられる糾弾の指を、その鈍い想像力において把握しない。
(上掲書)
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記憶の書き換え、個々の人々の脳裡から消去するのではなく、社会で、人々の集まりの中で記憶を完全に消去する手だてが、ジョージ・オーウェルの著作「1984年」で書かれているところの、「ダブル・シンク(二重思考)」です。書き物や語ることなど、人々と接するあらゆる機会で、消去したい事実、記憶を別の許容できる表現に置き換えるのです。人々と討論したり、いっぱい飲み屋で演説する際にも、置き換えられた表現で話すようにさせるのです。
沖縄の極限状況で、追いつめられた兵隊と現地の女性が「つかの間の愛」をかわした、と社会のあらゆる場所で語り、また書き、また映画やTVドラマという映像で表現するのです。そうするうちに、現場を知らない人々はそれが事実だと受け止めます。そういう人が多数派になれば、ついにこういうときが来るのです。
“そしてある日、かれはほかならぬ強姦が、自分をふくめていかなる者の眼にも、美しい「つかのまの愛」に置きかえられたことを発見する。”
こんなことが現実に可能なのでしょうか。
可能です!
わたしは目撃しました。カルト宗教教団(たとえばエホバの証人)は世界の滅びの預言をして、危機が迫っているからと言って信者を集め、教団内にとどめようとします。ところが予定されていた年(たとえば1975年)になっても何も起きません。昨日までと同じように太陽は昇り、1976年1月1日には年賀の挨拶が平和裏に交わされていたのです。周辺的な信者はそれで離れてゆきますが、中心的な信者の多くは組織に残るのです。どうしてでしょうか。別の説明が、つまりいいわけが飛び交い、人々は疑念を話し合うかわりに、そのいいわけのほうを人が集まるところではどこでも話し合い、集会で一致団結して呪文のように挙手して口述します。自分で自分に言い訳し、自分で自分を説得するのです。こんな簡単なことで、人間は突拍子もないことをほんとうに信じ込むことが可能なのです。
であれば、都合の悪い記憶ならなおさら「世間で」、あるいは「社会で」完全に消去することは可能なのです。
日本社会で、戦争中の消したい記憶を消去するダブル・シンク(二重思考)に手を貸すのはだれでしょうか。小説家、映画制作会社、TV製作者、そしてマスコミです。協力するのは、積極的に協力したのはほかならぬ大勢の日本国民です。
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慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。
人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい(ママ)罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、歪められる記憶に助けられて罪を相対化する。
つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。いや、それはそのようではなかったと、1945年の事実に立って反論する声は、実際誰もが沖縄でのそのような罪を忘れたがっている本土での、市民的日常生活においてかれにとどかない。1945年の感情、倫理感に立とうとする声は沈黙に向かってしだいに傾斜するのみである。誰もかれもが、1945年を自己の内部に明瞭に喚起するのを望まなくなった風潮の中で、かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう。
(上掲書)
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人間としては決して償いきれない罪、それは巨大な岩石の塊のようにも思えることでしょう。戦争で人を殺してきた人たち、人を殺すことを教育されてきた人たちは、教えられたことを実行することしか考えません。しかし、戦争が終わって、敗北者となったとき、自分が犯してきた殺戮は「罪」として問われるのです。戦争が終わったという開放感は、おそらく兵隊も非戦闘員も同じでしょう。殺すか殺されるかという緊張感から解き放たれることは、兵隊にとっても嬉しいことであるに違いありません。これからはそういう開放感の中で生きてゆきたいと願うでしょう。ところがしかし、敵ではなく、自国民を死に追いやった将校は、その責任が問われるのです。
しかし、兵隊の一人ひとりにはどうしようもなかったことではないか、当時はそういう教育だけを刷り込まれていた、兵士個人に責任を問うことは酷ではないか、と思われるでしょうか。いいえ、敗軍の将校には責任が問われます。戦争とはいえ、国際法によってさまざまな規制が設けられています。捕虜の虐待の禁止、住民への強姦・略奪の禁止。ましてや自国民の住民を強姦し、自決を強要するというようなことは責任を問われないはずがないのです。
また、そういう異常な教育がおこなわれる社会を作り上げてしまったのは、国民が個々の利益だけしか考えず、大局的な視点を持たなかったことのツケでもあります。ファシズムはある日突然に完成された姿で国民の前に姿を現すのではありません。小さな利益と引き換えに妥協を重ねていった挙げ句に、巨大な犯罪国家に束縛されるようになったのです。
これは21世紀、2007年に生きるわたしたちへの強烈な警告になっています。生物の進化が徐々に、段階的に変化していって、ついにわたしたち人間のような「ありえない」とも思えるほどの姿にいたったのと同じように、ファシズムも小さな妥協が積み重なったうえに、その巨大な力をむき出しにするようになるのです。
こういう過程から教訓を得、二度と同じ過ちを犯さないようにするためにも、戦争責任は徹底的に検証し、追及するべきなのです。ところが、
「実際誰もが沖縄でのそのような罪を忘れたがっている本土での、市民的日常生活においてかれにとどかない。1945年の感情、倫理感に立とうとする声は沈黙に向かってしだいに傾斜するのみである。誰もかれもが、1945年を自己の内部に明瞭に喚起するのを望まなくなった風潮」が生じるようになります。
戦争映画で、製作者個々人は、売れる作品を撮影しようという意図だけで、戦争中の恋のエピソードを映画にします。すると、映画中の恋する兵士に観客の共感が生まれます。戦争をする兵士もひとりの人間だ、という小さな小さなコンセンサスが形成されるのです。「市民の日常生活」では誰もが素敵な毎日を送りたいに違いありません。ですから、親が幼い子どもを撲殺して自決する、というような話をするよりも、成就しない恋に身をやつし、敵艦に特攻して行った兵士への共感を語る方が、いいに決まっています。こうして誰に言われるでもなく、ダブル・シンクが行われてゆきます。
こういう風にして青春時代を70年代にすごした世代が長じて青壮年になった時代が現代です。一部のエリートが集まって、「新しい教科書をつくる会」などを結成し、南京事件や従軍慰安婦問題や沖縄の集団自決事件といったことを歴史から抹消しようとするのです。
どこに狂いがあったのでしょうか。
時が過ぎ、歴史事実を修正しやすい時期が来た、と考えられるようになりました。当時においてさえそうだったのであれば、現代においてはなおさらでしょう。
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本土においてすでに「おり」はきたのだ。かれは沖縄においても、いつその「おり」がくるかと虎視眈々、狙いをつけている。かれは沖縄に、それも渡嘉敷島に乗りこんで、1945年の事実を、かれの記憶の意図的改変そのままに逆転することを夢想する。その難関を突破してはじめて、かれの永年の企ては完結するのである。
かれに向かって、いや、あれはおまえの主張するような生やさしいものではなかった。それは具体的に追いつめられた親が生木を折りとって自分の幼児を殴り殺すことであったのだ。おまえたち本土からの武装した守備隊は血を流すかわりに容易に投降し、そして戦争責任の追及の手が27度線からさかのぼって届いてはゆかぬ場所へと帰ってゆき、善良な市民となったのだ、という声は、すでに沖縄でも起こりえないのではないかとかれが夢想する。
しかもそこまで幻想が進むとき、かれは25年ぶりの者と生き残りの犠牲者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと、渡嘉敷島で実際に起こったことを具体的に記憶する者にとっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想をまでもいだきえただろう。このようなエゴサントリクな希求につらぬかれた幻想にはとめどがない。「おりがきたら」、かれはそのような時を待ちうけ、そしていまこそ、その「おり」がきたとみなしたのだ。
日本本土の政治家が、民衆が、沖縄とそこに住む人々をねじふせて、その異議申し立ての声を押しつぶそうとしている。そのような「おり」がきたのだ。ひとりの戦争犯罪者にもまた、かれ個人のやりかたで沖縄をねじふせること、事実に立った異議申し立ての声を押しつぶすことがどうしてできぬであろう?
あの渡嘉敷島の「土民」のようなかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者だったのではないか、とひとりの日本人が考えるにいたるとき、まさにわれわれは、1945年の渡嘉敷島で、どのような意識構造の日本人が、どのようにして人々を集団自決へと追いやったかの、およそ人間のなしうるものと思えぬ決断の、まったく同一のかたちでの再現の現場に立ち会っているのである。
(上掲書)
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沖縄では、当時もいまも、このような日本人の思惑通りには進みませんでした。当時、実際に渡嘉敷島に渡ろうとしたこの元守備隊隊長はフェリーボートへの乗船を拒否されました。
今日でも、歴史教科書から沖縄集団自決の記述を削除しようとする安倍一派の思惑は、沖縄住民によって拒否されました。あの当時は皇国教育が刷り込まれていたから、住民は悲惨な決断を決行しました。しかしいまや住民は学んだのです。知識を得ました。もはや同じ過ちは犯さないのです。
同じ過ちを犯しているのは誰でしょうか。大江氏が元守備隊長を代名詞に使って言い表したのは、本土に生きる私たち日本人全部です。このたびの沖縄での反対運動も、本土の大手新聞紙上では軽く扱われたに過ぎず、言論暴力団・産経をはじめ、読売などは否定的な論陣をさえ張ったようです。
「沖縄ノート」はいまこのときにまったく色あせていません。それどころか、まさにこの2007年の今日に、ぴったりマッチするのです。文体が大仰で、読むのがちょっとたいへんですが、今回裁判になった9章だけでも読んでみることをお勧めします。わたしもいきなり9章に飛んでこの記事を書きました。通勤電車の中で読むにはちょっと固いものですが、時間をぬって、全部を読み進めたいと思います。
大江さんは、一体沖縄が当時のようにアメリカの占領地になったのは誰のせいなのか、戦争末期に沖縄に対して、日本は何を行ったのか、その記憶が意図的に隠蔽されているのではないか、忘れ去らせようとされているのではないか、それとも、沖縄戦の記憶に触れたくないのか、もしそうなら、それは戦争当時、沖縄で取った戦略を引き起こした思想、思考が繰り返されていることではないのか、ということを問いかけようとしておられるのでした。
そこで今、係争中の記述が書き記されたのです。ご紹介します。
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このような報道とかさねあわすようにして新聞は、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり、そのような状況下に、「命令された」集団自決を引き起こす結果を招いたことのはっきりしている守備隊長が、「戦友」ともども、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。
僕が自分の肉体の奥深いところを、息もつまるほどの力でわしづかみにされるような気分を味わうのは、この旧守備隊長が、かつて《おりがきたら、一度渡嘉敷島にわたりたい》と語っていたという記事を思い出すときである。
「おりがきたら」、この壮年の(1970年ころ当時)日本人はいまこそ、「おりがきた」と判断したのだ、そして彼は那覇空港に降り立ったのであった。
僕は自分が、直接かれにインタビィユー(ママ)する機会をもたない以上、この異様な経験をした人間の個人的な資質についてはなにごとかを推測しようと思わない。むしろかれ個人は必要でない。それは、ひとりの一般的な壮年の日本人の、想像力の問題として把握し、その奥底に横たわっているものをえぐりだすべくつとめるべき課題であろう。
その想像力のキッカケは言葉だ。すなわち、「おりがきたら」という言葉である。1970年春、一人の男が、25年にわたる「おりがきたら」、という企画のつみかさねのうえにたって、いまこそ時は来た、と考えた。かれはどのような幻想に鼓舞されて沖縄に向かったのだろうか。
かれの幻想は、どのような日本人一般の今日の倫理的想像力の母胎に、はぐくまれたのであるか?
(「沖縄ノート」/ 大江健三郎・著)
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たしかに冒頭部では、この「守備隊長」はほぼ特定されてはいます。名前は出されていませんが、渡嘉敷島での慰霊祭に出席しようとした元守備隊長、フェリーに乗船を拒否された(別の箇所に書かれている記述)人といえば、ほぼ特定できるでしょう。
でも大江さんは、ここで当の元守備隊長を非難しようとしているわけではないことを明言しておられます。
「僕は自分が、直接かれにインタビィユー(ママ)する機会をもたない以上、この異様な経験をした人間の個人的な資質についてはなにごとかを推測しようと思わない」。
「むしろかれ個人は必要でない」のです。
どういうことでしょうか。
「それは、ひとりの一般的な壮年の日本人の、想像力の問題として把握し、その奥底に横たわっているものをえぐりだすべくつとめるべき課題であろう」。
つまり、1970年当時壮年に達していた、戦争を経験したすべての日本人、もっといえば戦争を引き起こすのに同意したすべての日本人の象徴として、この守備隊長は使われているのです。いわば戦争に加担したすべての日本人の代名詞、記号としてここで定義されなおしています。大江さんが告発しているのは、1970年当時の多くの日本人です。本土の日本人です。コンテクストを読めば、個人を中傷誹謗したり、個人の名誉を毀損したりする意図がないことは明らかだと思います。
大江さんは、この守備隊長が語ったとされる「おりがきたら、一度渡嘉敷島に渡りたい」というコメントに激しい拒絶反応を示されます。どんな「おり」がくるのを、この旧守備隊長は、つまり当時の日本人は待っていたのでしょうか、大江さんはこういうふうに解釈して考察されます。
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まず、人間が、その記憶をつねに新しく蘇生させつづけているのでなければ、いかにおぞましく恐ろしい記憶にしても、その具体的な実質の重さは軽減してゆく、ということに注意を向けるべきであろう。その人間が可能な限り早く完全に、厭うべき記憶を、肌ざわりのいいものに改変したいとねがっている場合にはことさらである。かれは他人に嘘をついて瞞着するのみならず、自分自身にも嘘をつく。そのような恥を知らぬ嘘、自己欺瞞が、いかに数多くの、いわゆる「沖縄戦記」のたぐいをみしていることか。
たとえば米軍の包囲中で、軍隊も、またかれらに見棄てられた沖縄の民衆も、救助されがたく孤立している。
そのような状況下で、武装した兵隊が見知らぬ沖縄婦人を、「無言で」犯したあと、二十数年たってこの兵隊は自分の強姦を、感傷的で通俗的な形容詞を濫用しつつ、限界状況での「つかのまの愛」などとみずから表現しているのである。
かれはその二重にも三重にも卑劣な強姦、自分たちが見棄てたのみならず、敵に向けるはずであった武器をさかさまに持ちかえておこなった強姦を、はじめはかれ自身にごまかし、つづいて瞞着しやすい他人から、もっと疑り深い他人へと、にせの言葉によって歪曲しつつ語りかけることをくりかえしたのであったろう。
そしてある日、かれはほかならぬ強姦が、自分をふくめていかなる者の眼にも、美しい「つかのまの愛」に置きかえられたことを発見する。かれは、沖縄の現場から、被害者たる沖縄の婦人の声によって、いや、あれは強姦そのものだったのだと、つきつけられる糾弾の指を、その鈍い想像力において把握しない。
(上掲書)
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記憶の書き換え、個々の人々の脳裡から消去するのではなく、社会で、人々の集まりの中で記憶を完全に消去する手だてが、ジョージ・オーウェルの著作「1984年」で書かれているところの、「ダブル・シンク(二重思考)」です。書き物や語ることなど、人々と接するあらゆる機会で、消去したい事実、記憶を別の許容できる表現に置き換えるのです。人々と討論したり、いっぱい飲み屋で演説する際にも、置き換えられた表現で話すようにさせるのです。
沖縄の極限状況で、追いつめられた兵隊と現地の女性が「つかの間の愛」をかわした、と社会のあらゆる場所で語り、また書き、また映画やTVドラマという映像で表現するのです。そうするうちに、現場を知らない人々はそれが事実だと受け止めます。そういう人が多数派になれば、ついにこういうときが来るのです。
“そしてある日、かれはほかならぬ強姦が、自分をふくめていかなる者の眼にも、美しい「つかのまの愛」に置きかえられたことを発見する。”
こんなことが現実に可能なのでしょうか。
可能です!
わたしは目撃しました。カルト宗教教団(たとえばエホバの証人)は世界の滅びの預言をして、危機が迫っているからと言って信者を集め、教団内にとどめようとします。ところが予定されていた年(たとえば1975年)になっても何も起きません。昨日までと同じように太陽は昇り、1976年1月1日には年賀の挨拶が平和裏に交わされていたのです。周辺的な信者はそれで離れてゆきますが、中心的な信者の多くは組織に残るのです。どうしてでしょうか。別の説明が、つまりいいわけが飛び交い、人々は疑念を話し合うかわりに、そのいいわけのほうを人が集まるところではどこでも話し合い、集会で一致団結して呪文のように挙手して口述します。自分で自分に言い訳し、自分で自分を説得するのです。こんな簡単なことで、人間は突拍子もないことをほんとうに信じ込むことが可能なのです。
であれば、都合の悪い記憶ならなおさら「世間で」、あるいは「社会で」完全に消去することは可能なのです。
日本社会で、戦争中の消したい記憶を消去するダブル・シンク(二重思考)に手を貸すのはだれでしょうか。小説家、映画制作会社、TV製作者、そしてマスコミです。協力するのは、積極的に協力したのはほかならぬ大勢の日本国民です。
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慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。
人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい(ママ)罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、歪められる記憶に助けられて罪を相対化する。
つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。いや、それはそのようではなかったと、1945年の事実に立って反論する声は、実際誰もが沖縄でのそのような罪を忘れたがっている本土での、市民的日常生活においてかれにとどかない。1945年の感情、倫理感に立とうとする声は沈黙に向かってしだいに傾斜するのみである。誰もかれもが、1945年を自己の内部に明瞭に喚起するのを望まなくなった風潮の中で、かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう。
(上掲書)
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人間としては決して償いきれない罪、それは巨大な岩石の塊のようにも思えることでしょう。戦争で人を殺してきた人たち、人を殺すことを教育されてきた人たちは、教えられたことを実行することしか考えません。しかし、戦争が終わって、敗北者となったとき、自分が犯してきた殺戮は「罪」として問われるのです。戦争が終わったという開放感は、おそらく兵隊も非戦闘員も同じでしょう。殺すか殺されるかという緊張感から解き放たれることは、兵隊にとっても嬉しいことであるに違いありません。これからはそういう開放感の中で生きてゆきたいと願うでしょう。ところがしかし、敵ではなく、自国民を死に追いやった将校は、その責任が問われるのです。
しかし、兵隊の一人ひとりにはどうしようもなかったことではないか、当時はそういう教育だけを刷り込まれていた、兵士個人に責任を問うことは酷ではないか、と思われるでしょうか。いいえ、敗軍の将校には責任が問われます。戦争とはいえ、国際法によってさまざまな規制が設けられています。捕虜の虐待の禁止、住民への強姦・略奪の禁止。ましてや自国民の住民を強姦し、自決を強要するというようなことは責任を問われないはずがないのです。
また、そういう異常な教育がおこなわれる社会を作り上げてしまったのは、国民が個々の利益だけしか考えず、大局的な視点を持たなかったことのツケでもあります。ファシズムはある日突然に完成された姿で国民の前に姿を現すのではありません。小さな利益と引き換えに妥協を重ねていった挙げ句に、巨大な犯罪国家に束縛されるようになったのです。
これは21世紀、2007年に生きるわたしたちへの強烈な警告になっています。生物の進化が徐々に、段階的に変化していって、ついにわたしたち人間のような「ありえない」とも思えるほどの姿にいたったのと同じように、ファシズムも小さな妥協が積み重なったうえに、その巨大な力をむき出しにするようになるのです。
こういう過程から教訓を得、二度と同じ過ちを犯さないようにするためにも、戦争責任は徹底的に検証し、追及するべきなのです。ところが、
「実際誰もが沖縄でのそのような罪を忘れたがっている本土での、市民的日常生活においてかれにとどかない。1945年の感情、倫理感に立とうとする声は沈黙に向かってしだいに傾斜するのみである。誰もかれもが、1945年を自己の内部に明瞭に喚起するのを望まなくなった風潮」が生じるようになります。
戦争映画で、製作者個々人は、売れる作品を撮影しようという意図だけで、戦争中の恋のエピソードを映画にします。すると、映画中の恋する兵士に観客の共感が生まれます。戦争をする兵士もひとりの人間だ、という小さな小さなコンセンサスが形成されるのです。「市民の日常生活」では誰もが素敵な毎日を送りたいに違いありません。ですから、親が幼い子どもを撲殺して自決する、というような話をするよりも、成就しない恋に身をやつし、敵艦に特攻して行った兵士への共感を語る方が、いいに決まっています。こうして誰に言われるでもなく、ダブル・シンクが行われてゆきます。
こういう風にして青春時代を70年代にすごした世代が長じて青壮年になった時代が現代です。一部のエリートが集まって、「新しい教科書をつくる会」などを結成し、南京事件や従軍慰安婦問題や沖縄の集団自決事件といったことを歴史から抹消しようとするのです。
どこに狂いがあったのでしょうか。
時が過ぎ、歴史事実を修正しやすい時期が来た、と考えられるようになりました。当時においてさえそうだったのであれば、現代においてはなおさらでしょう。
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本土においてすでに「おり」はきたのだ。かれは沖縄においても、いつその「おり」がくるかと虎視眈々、狙いをつけている。かれは沖縄に、それも渡嘉敷島に乗りこんで、1945年の事実を、かれの記憶の意図的改変そのままに逆転することを夢想する。その難関を突破してはじめて、かれの永年の企ては完結するのである。
かれに向かって、いや、あれはおまえの主張するような生やさしいものではなかった。それは具体的に追いつめられた親が生木を折りとって自分の幼児を殴り殺すことであったのだ。おまえたち本土からの武装した守備隊は血を流すかわりに容易に投降し、そして戦争責任の追及の手が27度線からさかのぼって届いてはゆかぬ場所へと帰ってゆき、善良な市民となったのだ、という声は、すでに沖縄でも起こりえないのではないかとかれが夢想する。
しかもそこまで幻想が進むとき、かれは25年ぶりの者と生き残りの犠牲者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと、渡嘉敷島で実際に起こったことを具体的に記憶する者にとっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想をまでもいだきえただろう。このようなエゴサントリクな希求につらぬかれた幻想にはとめどがない。「おりがきたら」、かれはそのような時を待ちうけ、そしていまこそ、その「おり」がきたとみなしたのだ。
日本本土の政治家が、民衆が、沖縄とそこに住む人々をねじふせて、その異議申し立ての声を押しつぶそうとしている。そのような「おり」がきたのだ。ひとりの戦争犯罪者にもまた、かれ個人のやりかたで沖縄をねじふせること、事実に立った異議申し立ての声を押しつぶすことがどうしてできぬであろう?
あの渡嘉敷島の「土民」のようなかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者だったのではないか、とひとりの日本人が考えるにいたるとき、まさにわれわれは、1945年の渡嘉敷島で、どのような意識構造の日本人が、どのようにして人々を集団自決へと追いやったかの、およそ人間のなしうるものと思えぬ決断の、まったく同一のかたちでの再現の現場に立ち会っているのである。
(上掲書)
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沖縄では、当時もいまも、このような日本人の思惑通りには進みませんでした。当時、実際に渡嘉敷島に渡ろうとしたこの元守備隊隊長はフェリーボートへの乗船を拒否されました。
今日でも、歴史教科書から沖縄集団自決の記述を削除しようとする安倍一派の思惑は、沖縄住民によって拒否されました。あの当時は皇国教育が刷り込まれていたから、住民は悲惨な決断を決行しました。しかしいまや住民は学んだのです。知識を得ました。もはや同じ過ちは犯さないのです。
同じ過ちを犯しているのは誰でしょうか。大江氏が元守備隊長を代名詞に使って言い表したのは、本土に生きる私たち日本人全部です。このたびの沖縄での反対運動も、本土の大手新聞紙上では軽く扱われたに過ぎず、言論暴力団・産経をはじめ、読売などは否定的な論陣をさえ張ったようです。
「沖縄ノート」はいまこのときにまったく色あせていません。それどころか、まさにこの2007年の今日に、ぴったりマッチするのです。文体が大仰で、読むのがちょっとたいへんですが、今回裁判になった9章だけでも読んでみることをお勧めします。わたしもいきなり9章に飛んでこの記事を書きました。通勤電車の中で読むにはちょっと固いものですが、時間をぬって、全部を読み進めたいと思います。