Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

「人間の尊厳ということを、深く考えてください!」

2007年01月27日 | 一般
人間の尊厳ということを深く考えてください。

「役に立たない」命は、生きる価値がないのか。人の世話にならなければならない生活になったならば、死んだ方がいいのか。

そういうことを考え、疑う人になってください。


渡辺和子・ノートルダム清心女子大学元学長・現同学園理事長。

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「障害者自立支援法」は身体・知的・精神障害者のサービスを共通にし、国の財政責任を明確にする趣旨で提案された。…「障害者自立支援法」の問題点は多岐にわたるが、主に、①障害者・家族からの負担強化と、②サービスの利用制限に集約できる。

第一の「負担強化」については、介護等の福祉サービスと障害者医療の利用の際に、原則一割負担が課せられるようになる。これまでの応能負担(所得に応じた負担)から、応益負担(サービスの量に応じた負担)への転換となる。つまり、障害が重いほど、サービス利用の量は増えるので、それだけ負担が増える仕組みだ。

大きな問題は、トイレや食事、外出など、生活の基本をなす介護サービスや、生命にかかわる医療の利用を「益」とみなしている点である(つまり、トイレや食事の世話にも負担が要求されるということ)。しかも、重度障害者の所得や就労保障は進んでおらず、多くが低所得にあることから、事実上その負担は家族に求められることになる。

障害者施策では、「家族からの独立が自立の第一歩」という認識にもとづき、少なくとも親兄弟に扶養義務を課さないようになってきた戦後の歴史的経緯がある。家族による障害児殺しや心中事件等の痛ましい事態への反省からだ。その点からすると、世帯に負担を要求するのは、歴史の歯車を逆回転させるものだ。

政府は「低所得者にきめ細かな配慮をした」というが、あくまで(障害者を持つ)世帯単位の収入を見るため、障害者本人には年金以外の収入がなくても、家族同居であるなら、負担減免処置は適用されないようになるケースが多数になる。これまでのデータから、サービスを利用する障害者を含む7割の世帯が、1ヶ月に4万2百円までの負担を求められると見られる。

また「低所得者への配慮」というその内容も、障害基礎年金とわずかな授産(失業者や貧困者に仕事を与えて、生計を助けること)工賃による暮らしからも、月に2万4600円までの負担を求める設定となっていて、「配慮」としては十分ではない。端的に言えば、年収が100万円しかなくても、年間30万円までの負担を求めようということだ。



第二の、「サービスの利用制限」については、サービスの支給決定方式の変更と、サービス再編によるものだ。

支給決定(つまり障害者福祉サービスの受給の資格を審査する方式)については、介護保険に準じたコンピューター判定と各市町村に設置される審査会で決定する方式に変わる。2003年度に始まった支援費制度では、市町村の担当者からの聴き取りにより、障害者本人の意向をふまえてサービス支給決定をしてきた。ところが、これからは、コンピューター判定と審査会が大きな影響を持つことになる。

しかも、判定項目の多くは、現在の高齢者向けの介護保険の基準をそのまま使うことになっている。そのため、厚生労働省が実施したモデル調査でも、二次判定で(いままでなら、支給対象とされたであろうケースの)5割以上に修正が必要となった。さらに「障害者自立支援法」のメリットとして喧伝されてきた精神障害者のサービスについて、この調査では(いままでなら、該当とされてきたケースの)3割以上が「非該当」とされる。このままでは、実際にはサービス支給の対象から外される者が増えることになる。

そして、「サービスの再編」では、障害者の社会参加にとって重要な移動介護が市町村任せになるとともに、重度障害者の介護サービスも、国が設定した基準を超えるものは市町村単独の負担になる可能性が高くなっている。国会審議では、「サービスの高いところを下げることはしない」との答弁を何とか引き出したが、今後の政省令や予算確保のなかで決まることなので、予断を許さない。それで、「これまでの(決して十分ではなかった)サービス・生活が維持できるのか? もし、維持できなければ再び施設や親元に戻らなければならないのか?」という不安が広がっている。

(「障害者の地域生活を揺るがす『自立支援法』」/ 尾上浩二/ 「世界」2006年1月号より)

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トイレに行けば料金が加算される、お風呂に入れば料金が増える。こんな無慈悲に高額なサービスでも、生計を立てるために夫婦とも働いているから、利用しようとする。でも自分たちの事情を考慮する人間はいない、自分たちの話を聞こうとする人間はいない、コンピューターが自動的に合否を振り分ける…。

要するに、障害者の世話は、家族にどんな事情があれ、家族に押しつけるということですよね…。じゃあ、夫婦共働きの家庭はどちらかが仕事を辞めなければならない。たいていは女のほうです。ところが夫のほうは正規職員の待遇が脅かされているし、地方は東京ほど仕事がないし、東京ほど賃金も高くない。財政も苦しい。そんな地方が、住民一人一人の事情に寛大であるはずがありません。

「死ね」ということ?

こんな法律を「福祉」と呼べるでしょうか。これは「支援」ではなく、「排除」です。実際、この法律の背後にある思想は「差別」と「排除」です。上記ルポを書いた尾上さんは、結びのほうでこう言っておられます。

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「自立支援法」の根底に横たわっているのは、「障害を持って生まれたこと、病気や事故で障害を持ったことは、本人や家族の自己責任である」という、「障害=自己責任論」に限りなく収束して行っている。「自己責任」を強調する社会状況が、「自立支援法」の通奏低音をなしている。そして、今回、障害者分野で断行された「改革」が、今後の生活保護や医療の「改革」議論とも密接に連動していることは、容易に見て取れる。

「この国、この時代に生まれた不幸」を国民全体が嘆くことにならないよう、この法律の施行とその影響の行方に注目と関心が高まることを心から願う。

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この「障害者自立支援法」はわずか4ヶ月の議論で法案としてまとめられたのだそうです。たった4ヶ月です。しかも、厚生労働省が使用したデータに疑義が明らかになったのですが、与党の圧倒的多数に押し切られ、国会前で終結した障害者や関係者の反対デモを尻目に淡々と採決されました。2005年10月31日のことです。教育基本法「改正」のパターンですね…。

思想も、「改正」教育基本法と同様です。サービス負担が所得に応じてではなく、サ-ビス使用の量にもとづく、というのは、国の発展の役に立てない人間に使う金は思い切り惜しむぞ、ということです。障害は「自己責任」であり、家族で何とかしてくれ、それがあなた方(障害者とその家族)なりの「お国への貢献だ」ということです。ここまで蔑ろにされてもそれでも、わたしの身のまわりからは、政府への懐疑は目だって生じません。なぜなんだろう? きわめて危険な状況にさらされているのは、ほかでもない自分たちなのに!

やはり、ここでも、メディアの権力者への傾斜があります。

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マスコミはそうした財界の姿勢を批判しようともしない。たとえば昨年の暮れ(2006年)、滋賀県では、障害を持つ娘さん二人とその父親が無理心中をしました。障害者自立支援法によって、娘さんが入っていた寄宿舎が廃止され、父親が二人を家庭で看ることになったからです。いわば自立支援法を直接の契機とした心中で、大きな社会問題を孕むニュースなのですが、東京ではその記事は一行もない。本質的な問題につながるニュースはあえて無視しています。

(斉藤貴男/ 「日本経団連・御手洗ビジョンのゴーマン」/ 「週刊金曜日」2007年1月26日号より)

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わたしが中学生の頃、社会の時間に、先生が「戦争の時代には新聞がちゃんとした報道をしなかった」というようなことを言っておられたのを、何となく思い出します。オウム裁判で、麻原の弁護を引き受けた横山弁護士が、取り囲むメディア記者に向かって、「新聞なんて、戦争中はなあ…」と啖呵を切っていたのを、滑稽だなあと思って見ていましたが、今は違います。新聞というものに、強く嫌悪感を覚えます。新聞記者たち、フリーの記者たちも、あなたたちの心にあるものはおよその見当はつきます。あなたたちは、わたしたち国民を見下しているのです。あなたたちは情報に通じているという自意識と、マスコミ人=知識人という自意識を根拠に、自分を高めているのです。あなたたちに重要なのは、「知識人」にふさわしく、国家・大義を論じることであり、市井の人々の暮らしや人生などには何の価値も与えないのです。愚か者たち。国をつくるのは、国を構成するのは国民です。人間です。国から人間がいなくなれば、あなたたちはそれでも生きていけると思うのでしょうか。

マスコミに目隠しをされていいように振りまわされるわたしたち。大きな声で訴えると、逆に「目立つマネをするな」みたいに逆にバッシングする国民…。何なんだろう、この無気力は。ここまで無気力なのは、もうアパシーだと言ってもいいでしょう。どうすれば知力を取り戻せるんだろう。どうすれば批判力を取り戻せるんだろう。それとも、もう一度、終戦直後まで荒廃しなければ、考える力を取り戻せないんだろうか。そこに落ちるまでどれほどの人々が犠牲にならなければならないのだろう。

明かりのない夜道を、ロービームで照らしながら走る車。ちょっと先は、もう路面は闇に吸い込まれている…。「わらの犬」というダスティン・ホフマン主演の古い映画のラスト・シーンをふと思い浮かべました。


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日本を愛するからこそ…!(加筆バージョン)

2007年01月21日 | 一般
上坂冬子さんといえば、偏狭な民族主義というイメージをわたしは持っています。上坂さんにしろ、小林よしのりさんにしろ、渡辺昇一さんにしろ、「日本は悪くない」調の主張をされます。歴史を検証するということは、どこかの「国」が悪くて、どこかの「国」が正義だという判定をすることではないと思います。「自虐史観」をいう人たちはその辺を勘違いされているのではないでしょうか。でも、上坂さんが最近出された新書、「これでは愛国心が持てない (文春新書)」のタスキに、「日本人の矜持」というジャンル分けのような一語があるのを見て、わたしはふっと思ったのです。

「日本人は、いま、自分に自信が持てないんじゃないか」、と。

また、渡辺昇一さんは、ウェイン・ダイアーという心理学者による自己啓発モノの翻訳を多く出されています。「ひょっとすると、渡辺さんご自身がこのような自己啓発書によって、自分に自信を与えられる必要があったのではないだろうか」、とも思いました。

小林よしのりさんは、首相の靖国参拝擁護、A級戦犯擁護の主張を出版されているようですが、戦争そのものに賛成しておられるわけでもないようですし、新自由主義にも否定的な考えを持っておられるみたいです。

彼らは、日本人はもっと自信を持ってよい、ということを言おうとしておられるのではないでしょうか。もし、そうだとしたら、「だからこそ、歴史はありのままに検証するべきだし、ましてや修正しようなどとするべきじゃない」とわたしは思うのです。

「望星」という月刊誌の2006年7月号に、フリーライターの斉藤貴男さん(「安心のファシズム」、「改憲潮流」、「機会不平等」、「プライバシー・クライシス」、「カルト資本主義」などを発表されています)が、こんな一文を書かれました。

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アジアで最初に近代化を果たした日本という国と社会は、それだけで十分に罪深い存在なのではあるまいか。作家の辺見庸さんは、2002年3月、現代アメリカを代表する知識人、ノーム・チョムスキー氏を訪ねて、散々な目に遭ったという。その時の様子が『永遠の不服従のために』(講談社文庫)に載っていた。



「私がブッシュ政権の戦争政策を非難したことへの、彼の基本的反応はこうだったのである。あなた方はブッシュ政権をとやかくいうほど立派なのかね、といった口吻であったのだ。前段にこれでもか、これでもかという論証があった。

 日本はこの半世紀以上、米国の軍国主義とアジア地域での戦争に全面的に協力してきた。戦後日本の経済復興は徹頭徹尾、米国の戦争に加担したことによるものだ。サンフランシスコ講和条約はもともと、日本がアジアで犯した戦争犯罪を果たすようにはつくられていなかった。日本はそれをいいことに、米国の覇権の枠組みの中で、『真の戦争犯罪人である天皇の下に』以前のファッショ的国家を再建しようとした。(ルナ註: 小泉-安倍政権では『再建しようとしている最中』というのが正確。) あなた方は対米批判の前に、そのことをしっかり見つめる必要がある。

 『1930年代、40年代、50年代、そして60年代、いったい、日本の知識人のどれだけが天皇裕仁を告発したというのですか(N・チョムスキー氏)』。ろくにそれさえしていないではないか。戦後五十有余年を含む永井歴史には、あなた方が記憶にとどめておかなければならない事柄が数多くあるはずだ。それをまず振り返るべきではないのか-」。



むっとしないでもなかったが、一理あると認めるしかなかった旨を辺見さんは書いているが、同感だ。初めてこの文章に触れた頃よりも、近頃はますますそう思う。天皇の告発だけですむものでもない。

自虐史観でも東京裁判史観でもない。人が人であるためには、そうやって常に己の立場を見据えておかなければならないはずである。私の父は、関東軍の特務機関に所属していた。父がどんなことをやったかを聞きだす機会はなかった。私が成人したときに亡くなってしまったからだ。だが、父が現地の中国人に何をやったとしても、それで父に対する情愛や感謝が揺らぎ、あるいは薄らぐようなことは万が一にもない。仮に父が中国人の虐殺にかかわったことがあったとしても、だ。

日本の戦後、さらには近代史のすべてを否定しようとも思わない。誰もが生きるために懸命だった。過ぎてしまったことは取り返しがつかない。朝鮮戦争やベトナム戦争への協力だって、敗戦国である以上、きっとどうしようもなかったのである。

だからこそ。

戦後60年を経て経済大国になりおおせた現在、日本は別の道を歩み始めるべきではないか。欺瞞に満ちていた日本国憲法第9条を(ルナ註:もちろんその他、第24条なども)、今度こそ本物にしていかなくてはならない。でなければ、私たちはいったい何なのだ。生きていることさえ恥ずかしい、最低の存在でしかないではないか…。

にもかかわらず現状は…。


(「報道されない重大事」/ 斉藤貴男・著)

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幕末に、日本に来たアメリカやイギリス、ロシアは、アジアの植民地化を推進していた帝国主義的な圧力を加えるものであったのでした。安政年間に締結した日米修好通商条約は徹底して不平等な条約でした。日本は世界の情勢や公法に通じておらず、江戸時代まで継承されてきた儒教朱子学的な思考で近代化を行うようになりました。欧米列強の植民地化を回避することに必死だったのです。当時の日本の頭脳では他にできることはなかったのかもしれません。長年農民を徹底的に搾取して生きてきた武士・公卿たちの発想では、自由民権運動を容認することができなかったのです。それは彼らの感覚では、とんでもなく野蛮なことでした。身分制の徹底した思考では、政治はエリートのする仕事であり、戦争は武士の仕事、庶民はただ年貢や税を納めるために生きているものでした。それですから、民主主義という方針をそのころには立てられなかったのでしょう。そのために庶民の暮らしは相変わらず悲惨でしたが…。

元老山県有朋は、イギリスやアメリカの民主主義を「暴論」と評する一方、ドイツのような上下階層のはっきりした社会観を「沈着老成」とみなしました。個人を尊重するという思想は軽蔑さえされていたのです。(*)こうしたものの見方は、1960年代生まれのわたしの学生時代にも立派に生きていました。体制に物申すことは「若気の至り」、体制に従順になってようやく「大人になった」と評されるのでした。エホバの証人でもこういう思考が徹底的に教え込まれています。ですから、「元」エホバの証人の掲示板でも、お行儀良く、おとなしくさせようとする「牽制」が暗黙のうちに行われます。はっきりいいますが、ことば遣い・ことばじりに気を取られて思いのたけを話させず、きれいごとに終始し、さらに徹底的な批判を避けていては、新しい明日をつくることはできませんし、「自分の回復」なるものも達成できないでしょう。



(*)山県有朋は明治21年12月に渡欧しました。ヨーロッパ諸国の地方制度の視察が目的でした。その際、ベルリンからこのような書簡を書き送りました。
 「一ニ上下両院会議之けい況より選挙之方法を目撃するに、沈着老成之論議は勿論喝采を得ず、急譟過激之空論(譟、は「そう」と読むようです。騒ぐという意味らしいです。「急進的」に近い意味か)を主張するの徒は漸次名望を博するの影響は、文運発達(文化・文明の発達してゆく成り行き、の意)に随ひ(「したがい」?)尚ほ一歩を進むるの状勢である。行政之権力は立法府に左右され、相互利己主義を主張し、其間一国損害は不数。国会は文明之華実、政治家之精神とも可申と雖(いえども)、其弊や国家を玩弄視するに至っては実に不慨嘆候。目下我国之形勢を将来に推考するに、随分予想外之困難を惹起し可申候。今より覚悟せざる可らずと察申候」。
 難解な文章ですね…。古典は苦手なので困ります。これは民主主義について危惧している文章です。「沈着老成之論議」は有朋たちになじみの深い身分制度の名残りにもとづく支配体制を指すのでしょう、「急譟過激之空論」が民主主義や女性参政権のような思想を軽蔑して言うことばです。民主主義を訴える人々が力をつけてくるのは、文明の進歩につきまとうものである、民衆一人一人を尊重していたのでは一国の威に及ぼす弊害ははかり知れない、日本でもそのような状勢が起きてくることは覚悟しなければならない、というような意味でしょうか。正確にはわかりませんが、おおかたこんなところでしょう。儒教の朱子学の厳格な刷り込みに基づいた江戸時代の武士階級の思考というのはこういうものです。そして、安倍総理に代表されるような、反動的国家主義者の言い分も同じようなものです。それは「改正」教育基本法の条項にありありと表現されているのです…。この点も近いうちに書いてみたいテーマです。(「山形有朋」/ 岡義武・著)より。




それは、日本を愛する、という次元でも同じです。過去を省みて、過ちは過ちとして認め、おなじ過ちを繰り返さないようにすることが、むしろ日本人としての誇りを回復させる道なのです。個人を尊重するという、世界に誇れる偉大な憲法を持つようになったのですから。それなのに日本人による拉致事件である、中国人の強制連行を「そんな事実はなかった」などと否定したり、従軍慰安婦裁判で、暴力的な圧力(つまりは「テロ」)をかけたり、あるいはマスコミを動員して、ネガティブ・キャンペーンを張ったり…。そんなことをしていては、日本の誇りをかえって傷つけるのです。第一、自由に話すことができない社会であるということ事態が、恥さらしなのですから。

今こそ、わたしは歴史を直視し、宮内庁は天皇に関係する資料を全面的に公開するべきだと思います。わたしたちは日本に生まれ、日本に育ちました。ですから、過去に日本がどんなに非道な行いをしてきたとしても、それで日本人というアイデンティティを嫌悪することはないでしょう。斉藤貴男さんがお父さまにたいしてそのように感じられたのと同じように。むしろ、過去の過ちを真摯に受け止める姿勢にこそ、真に愛し、誇るいわれを見出すでしょう。歴史を検証するということは、愛国心を否定することとは関係がないのです。むしろ、日本を愛するがゆえに、歴史を真っ正面から検証するのです。おなじ過ちを犯さないがために、そうやって、日本が成長し、成長によって日本人であることを誇れるようになるために。
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カルトを必要とする人々…

2007年01月20日 | 一般
再び、教育基本法の話題を持ち出します。このような文章を見つけました。今回はちょっと薄気味悪い話です。

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「戦後教育からの脱却」を標榜する安部政権発足直後の国会で、昨年末、「戦後」の土台のひとつをなしてきた教育基本法が、名は同じでも、中身は “教育国家統制法” とも呼ぶべき法律に変えられた。日本国民は大切な「宝」を失った。その代償の大きさは、やがて現場の混乱や子どもたちの荒廃を通じて明らかになるだろう。

この教育国家統制法が及ぶのは、大学や私立を含む学校に限らない。幼児教育から、学校卒業後の生涯学習、家庭から社会教育にいたるまで、ほとんどすべての人、領域にかかわる。実際、文部科学省がこの法律にもとづいて計画している法改正には、学校教育法や地方教育行政法のみならず、社会教育法、図書館法、博物館法などが含まれている。

1980年代、「戦後教育の総決算」を謳った中曽根政権が、やりたくてもどうしてもできなかった教育の「国家統制」を、20年後に、戦後生まれの首相が易々と成し遂げたことになる。リーダーシップもさして強くなく、政権基盤も磐石とはいえない安部政権に、10年前なら内閣が二つ三つ潰れておかしくないこの「大改革」が、なぜできたのか。

もちろん、第一には、2005年9月の総選挙で得た、三分の二を超える大議席という小泉内閣の “置き土産” がある。第二は、野党の方向喪失と労組の弱体化である。愛国心を掲げた意味不明の「対案」を提出することで、民主党は国会での追及の手を自ら縛ってしまった。第三は、国会審議の空洞化。以前からその傾向はあったが、小泉首相がそれを決定的にした。野党の質問にまともに答えず、すり替え、居直り、嘲笑であしらった。「質問と答弁を論理でつないで議論できなくなった」(加藤紘一氏。「世界」2007年1月号)。追求は空回りせざるをえない。

第四は、マスメディアの劣化。もはや死語に近いが、かつてはジャーナリズムは「社会の木鐸(ぼくたく)」と言われた。木鐸とは、木の舌がある鉄製の鈴のことで、それを鳴らして、人々に危機が迫っていることを知らせたという。人々は生活に忙しく、常に周囲を警戒しているわけにはいかない。だからこそ見張り役が必要なのに、今回、この「木鐸」は音高くは鳴らなかった。

これも10年前ならば、もっと詳細な解説と批判が行われただろう。だが今回は最後まで「政局記事」に終始した。だからこそ、伊吹文科相の「(教基法政府改正案は)自民党の新憲法草案との整合性をチェックしている(2006年11月27日)」という仰天発言を、ほとんどの人が見逃してしまったのである。法律をつくるのに、なぜ一政党の憲法草案を参照しなければならないのか。まさに教育国家統制法(=改正教育基本法の性質を取り出して揶揄をこめて表現している)が、現行憲法に照らして違憲の法律であることを当局者自らが告白したに等しい。

たとえ基本法が変えられようと、学校現場が健康で、楽しければ、何の心配も要らない。しかし、いまや教師たちは多くのストレスを抱え、疲弊し、追い詰められている。その大きな要因は、教師への行政による管理強化、思想統制と、成果主義、競争主義の導入である。

結局政府は、子どもの方には向かないで、国家の指示通り、ロボットのように教え込む教師がほしいのだ。しかしそれは全体主義の教室風景である。そういえばタウン・ミーティングでの民意偽装を、ニューヨークタイムズは、 “ソヴィエト・スタイル・パフォーマンス” と伝えていた。


(岡本厚・「世界」編集長/ 「世界」2007年2月号、編集後記より)

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最後の文章に注目してください。「子どもの方には向かないで…」というのは、こどもひとりひとりの個性を尊重しようとするのではなく、国家の指示が確実に子どもたちに刷り込まれていることを見届ける責任を教師たちに負わせるということです。つまり、教師たちは子どもたちに対して責任を負うのではなく、国家に対して責任を負って「教育」を行うのです。でも別に驚くことではないのかもしれません。いままでの学校教育だって、子ども一人ひとりの個性や尊厳は尊重されていませんでしたから。現に、「風紀検査」とかいって、服装や髪のチェックに異常なくらい力を入れた学校ってありましたものね。今回の教育基本法「改正」は、それを公に認定したということです。子どもたちは、「日本人のあるべき姿」を強要されることになります。ひとりひとりの個性や才能はそれぞれ違うのに、それは顧みられることなく、一つか二つの枠型に押しこめられるのです。枠にはまらない者は…除外されるのです。

この下にある前回の記事における、エホバの証人に徹底された輸血拒否の姿勢を見てください。子どもの気持ちをとことん追い詰めるまで、「エホバの証人のあるべき姿」を押しつけられ、子ども自身の個性は一切否定されてきた女の子の人格の崩壊と、その自傷行為を顧みることなく、母親やエホバの証人組織の思うとおりにならないことを「聞くに堪えないことばで罵倒」し、とにかく、輸血は拒否しないと、エホバの証人としての資格が審理されかねないので(エホバの証人はそれをいたく恐怖するよう精神的に訓練されている)、死にかけている子どもになんのいたわりもなく、ひたすら「輸血しないでください」と狂乱する母親の姿を。これは、エホバの証人組織から一元的に教育されてきた人間の姿なのです。エホバの証人の教育による「作品」といってもよいでしょう。これが「全体主義的統制教育」です。新教育基本法が目指す教育の方針とベクトルは同一なのです。

このような事態を招いた責任を、ここでもやはりマスメディアに問われています。マスメディアはしかし、あくまで商業に根を張っているものであり、彼らは「売れる」記事を書こうとします。聖書には、キリスト教を利用して権力を手にしようという輩は、「人々の耳をくすぐる話をする」ようになるだろうと書かれていますが、マスコミもそうです。市井の人々に責任ある情報提供者となる代わりに、人間の下劣な欲望や浅ましい性質を掘り起こし、欲望を創造して、刺激を求めさせるのです。過激な事件が執拗に報道されては、犯罪による不安をあおり、他人の不幸が情緒的に報道されては、法による報復主義の考え方を植えつけていきます。経済的に豊かになることだけが幸せへの唯一の道であるかのように、消費主義をあおり、歴史を検討することなく中国や韓国への競争心と蔑視を醸成させます。「日本人はいつまで謝り続けるのか」という不満を生み出させるのです。人々はマスメディアによって提供される情報を素直に信じて、それをお手本にするのです。こう考えてみると、最終的な責任は、私たち自身に帰ってくるように思いませんか。わたしたちは、自分の頭で考える習慣をあまりにもおろそかにしてきたのではないでしょうか。

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「思考停止」とは、与えられた情報を疑うことなく無批判に信じ込んでしまうことです。世の中には思考を停止させ、無批判に信じ込む人たちが多くいて、一方ではこれにつけ込んで、人を好きなように動かし、自分の利益のために人々の精神や財産を蝕もうとしている人もうようよいます。こんな状況から社会問題が多発しないわけがありません。

このように多くの人々が思考停止に陥るのはなぜでしょうか。その原因は知識詰め込み型の教育体制にあるのではないか、ということが多くの識者によって指摘されています。みなさんが受けてきた学校教育を振り返ってくみてださい。物理的な現象から社会的な現象にいたるまで、なぜそのようなことが起こるのかを追求する姿勢の大切さを教わってきたでしょうか。

おそらく、考えることよりも覚えること、そして必ず存在する「正解」に、いかに効率よくたどり着くかが優先されたはずです。「なぜなんだろう?」といちいち深く考えていたら受験戦争で落ちこぼれてしまいます。

加えて、生徒の身のまわりすら厳しく校則で規定し、行動を管理する教育体制は、批判的に物事を見る姿勢を根絶し、自分のことは自分で考えていこうという意志すら奪います。宗教学者の島田裕巳氏が指摘するように、「彼らは疑うことを教えられてはいない。疑うよりも信じることを叩き込まれて」きているのです。
(ルナ註: エホバの証人はこの典型です。組織やその教理を疑うことは道徳的な弱さ、悪魔的な悪さであると繰り返し繰り返し、教えられます)。

こうして育てられた若者が社会に出て、組織に組み入れられたらどうなるでしょう。彼らは与えられた指示を疑うことなく効率的に実行する「有能な」人材になります。日本の経済成長は、このような「素直な」人材に底辺を支えられてきました。そういった意味では、これまでの教育体制は社会的に非常に「実績」を上げてきたといえるでしょう。

しかし、複雑な社会の現実や、難しい人間関係には、受験の問題のような「正解」があるものなんでしょうか。多様で曖昧な現実に直面し、「正解」を見出せないことに挫折感を味わったとき、自分で考えることができていない人々は途方にくれます。

そこで人々は占いや霊能力者が与えてくれる「正解」に生きかたの指針を認め、容易に信じ込むのです。そんな世界に逃避すれば、与えられた指示に従ってさえいれば安心でき、、自分で何かを考えて決定するというような面倒なことから解放されるのです。


(「不思議現象-なぜ信じるのか」/ 菊池聡・谷口高志・宮元博章・共編著)

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「疑う術を教えられず、ただただ信じ込むことを叩き込まれた」人たちは多様さや曖昧さに耐えられず、「正解」を提供してくれる心霊系のものにすがるようになる…。わたしは、それは心霊系のものだけでなく、カルト宗教やカルト政党なども人々に受けるようになると思います。彼らの話は、わかりやすい。非常に単純化されていて、覚えやすい。またその明快さは感情のうやむやをさっぱり晴らしてくれるものです。たとえば「プチ・ナショナリズム」のように。経済がバブル崩壊の影響で低迷して、日本人が自信を失っていたときに中国が宇宙へロケットを上げて成功した。とたんに「それでも経済ではまだ中国は二流国だ」という言動が新聞やTVで流されていたものです。あれが日本人の本当の考えなのです。また「正解を見出せないことに途方にくれているときに『正解』を提供」してくれるエホバの証人のような宗教は、それを信じたい人々に「従うべき道筋」を確信をこめて示します。彼らは「与えられた指示に従っているだけで済む『安心感』を得、自分で何かを考えて、自分の責任で『決定』するという面倒なことから解放」されてさらに安心するのです。

ただ、わたしのエホバの証人体験に基づいて言うと、その「安心感」は一時的なものです。他人にまったくコントロールされ続けることは、じつは漠然とした不安を抱え込むことになるのです。わたしの場合は、未来がもやもやとしてよくつかめない、ということでした。全体主義というのは、支配者による、被支配者の管理なのです。自分の人生や生殺与奪件を他者に掌握される、これほど不安なことはないのですが、いったんカルトに足を踏み入れると、その不安がまた支配者への依存を強化する要素となるのです。

上記の引用文に、行政による管理教育がこのような人間を生み出したと言いますが、だから教育基本法は変えなければならなかったのではありません。むしろ、そうした管理教育は、旧教育基本法の理念に反したものだったのです。むしろ新教育基本法こそ、管理を法的に権威づけるものなのです。したがって、管理教育が生み出した弊害は、なくなることはないでしょう。つまり、「指示を与えられることを要求し、従っているだけの人生に安心感を見出そうとする」人間に改造されるという弊害は!


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資料:エホバの証人の輸血拒否の現場

2007年01月17日 | エホバの証人のこと、宗教の話
以前から、「エホバの証人情報センター」に投稿されたこの記事を探していたんですが、ようやく見つかりました。エホバの証人の「輸血拒否」の極端な例の資料として、ぜひ掲載したいと思っていたのです。ひとつ、注意点がありますが、元エホバの証人として見ても、これは極端なケースです。わたしの周りのエホバの証人にはここまで極端にエキセントリックな人(以下の記事の中の母親のような人)はいませんでした。しかし、輸血の必要が医師から告げられると、輸血問題専門に訓練されたエホバの証人のスタッフが、患者のもとや病院に押しかけたりするのは事実です。また、治療や患者への関心が、輸血拒否の対応の二の次になりがちなことも事実です。

また、この投稿は、「エホバの証人情報センター」の管理者により転載が許されているものです。


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エホバの証人の自殺と輸血拒否の問題-精神科医の方より
(3-7-05)


始めまして。輸血に関しての疑問を持ち、2chからここに誘導してくださった方がおりましてメールをさせていただきます。

私は某大学付属病院に勤める精神科医です。申し訳ありませんが仕事上の都合と患者様のプライバシーの為友人のアドレスから送らせていただきます。

ここ2週間ほど前でしょうか。精神科への受診をかたくなに拒否し、何度も自傷行為を繰り返しとうとう亡くなられた方がおられます。

私は精神神経科でも特に救急室勤務で勤めておりまして、希死念慮からくる自死企画、自傷行為、規定量を大幅に超えた服薬の処置等をすることが多く毎日を生と死の狭間に仕事をしております。それゆえ「死」という概念が他の方より重要視できなくなる事もしばしばだったのですが、あまりにも心残りな亡くなりようをされたある若い女性についてどうしても納得が行かず、ここ数週間考えております。

まず、その患者様の経緯からお話させて下さい。

半年前ほどからになります。必ず夜中に酷い自傷行為をしては救急隊に運ばれてくる若い女性がいらっしゃいました。主に腕を中心に一箇所に十数針も合わせなくてはいけない創傷をいくつも作っては血液まみれで運ばれ、出血とショックのため意識は混濁していました。こういう症状を良く「リストカット」というのですが、大体の患者様は傷を創り、血を有る程度流す事によって気分を落ち着かせることができます。その傷は大抵5㎝未満でしょうか。けっして死にたいが為にする行為ではなく、感情処理に対する一種の「代償行為」として行なうことが多く、その嗜癖はなかなか寛解に到ることは出来ないのですが、これによって自死を遂げるという事もありません。しかし彼女の場合は来院のたび血管、神経を損傷し、縫合以外の処置も行なわなくてはなりませんでした。

お解かりでしょう。「輸血」を提案したのです。彼女は意思表示が出来ません。この場合親族に決定権が委ねられます。この時救急車で母親が付き添ってらっしゃいました。もちろんその方にお話しするわけですが、母親は全く話にならなかったのです。なぜなら母親は救急車の中から要救助者の娘に対し、わめきちらし、罵倒の言葉を浴びせ続けていたのです(救急隊の話より)。もちろん処置室に入っても私達から見れはありえないような罵声をあびせ続け、甲高い声で「神がどうの・・・」といった発言を繰り返して治療の妨げとなったため、外へ出て行って貰って頂いたほどの状態だったのです。

もちろん母親は輸血を力強く拒否しました。そして今から牧師?(に当たるような方でしょうか)を呼ぶので絶対にするな、裁判を起こすと言われ全く面食らったのは言うまでもありません。もちろん拒否する権利は患者様にあります。緊急的な事態ではなく、血液を直接入れたほうが回復が早い旨を申し上げたのです。血液損失の際に「吹き出ている」様な状態でなければ、また患者様の身体にまだ余裕があるような状態であれば薬品を使います。なぜなら血液を媒体として入る疾病のリスクを私達は良く知っているからです。ほどなくしてその方々数名が現れ、教会指定の書類でしょうか、治療者として当然存じ上げています!というような事項を一時間以上に渡ってレクチャーされ、私は仕事になりませんでした。彼女は貧血状態のまま呼吸も浅く(つまりその間なんの処置も施せなかったのです)、入院をして頂かなくてはならない旨申し上げましたが、断固として連れて帰る、弁護士を連れてくると言い出し大騒ぎになり、私は医療保護入院の措置をとらざるをえなくなりました。こうして彼女は一日だけ入院し(措置が施せる時間が決まっているので)迎えの母親は、まったく彼女の状態を聞こうとせず、彼女に目もくれず退院しました。私は強
く精神科への受診を勧めたのですが、まったく話になりませんでした。

それから計6回にわたって来院のたび上記のような事が繰り返され、この親子は救急外来の名物となりました。まだあどけなさを残したような彼女の残忍な自傷行為と、それ以上に残忍な母親の態度にです。普段冷静な救急部のスタッフも彼女に同情し、「絶対に助けてあげるからね」とナースたちは声を掛け、医師たちは憤慨しました。私が彼女の来院を担当したのは3回でした。そしてその3回目で彼女は無念にも亡くなってしまいました。

首にある重要な血管にかみそりを思い切り突き刺し、1cmも刃の部分の無い物でそこに到達させたのです。ためらった跡はありませんでした。たったひとつ、4cm程度の傷でした。血管に傷を付けた瞬間に、血液は吹き上がり助かる見込みはほぼ無かったと言って良いでしょう。母親は救急車を要請します。しかし、助かる見込みの無い、もしくは搬送中に亡くなってしまう要救助者に対し、救急隊は応えません。それでも事情の分かっていた隊員が私がいた救急室へコールをしました。普段でしたらこのようなことはありません。ですが私も引き受けるといい、助かる見込みを信じたい気持ちでいっぱいでした。外科の医師はバタード(虐待)通報をする用意があったと教えてくれました。救急車が到着し、扉を開けたとき、無念な気持ちで一杯になりました。車中が血液で真っ赤だったのです。すでに死亡確認もされ、何分も経っていました。それでも運び込み蘇生を試みました。そこに居たすべてのスタッフは奇跡を願いました。反応が出て欲しい、必ず精神科に受診させる、彼女のこれからの人生を助けよう、そう思いました。そこへ母親は飛び込んできて、こともあろうかこう言ったのです。

「輸血しないで下さい!」

私は怒りで一杯でした。外科医は「あんたの娘さん、死んでるんだよ!」と叫びました。

医者は聖職者ではありません。死人を生き返らせることも出来ません。その人本人が生きる、その手助けをさせてもらうだけです。だからこそ生に、死に、特別な思いを持ち、それが私達の仕事の礎です。

私がこの仕事について20年以上になろうとしていますが、これだけ命というものを大切に見つめない方は初めてです。

そして我が子の命をも守ろうとしない事も。

人間には全て心があり、臓器と同じように心も壊れてしまう事があること、これはこの宗教では認められないことなのでしょうか?

精神科に通うことは罪ですか?

私は宗教の否定はしません。精神科に受診なされた方の半分ほどは何かしらの信仰や神を持っていらっしゃいます。私達におぎなえない心の満ちたりを感じていらっしゃるのでしょうと思います。ですからエホバという宗教が納得できないのです。

保護措置をとっていたら、受診をもっと強く勧めていたら、と後悔の念で一杯です。

エホバの証人という宗教の生命への理念を教えてください。
                                       
             長文失礼致しました。






《編集者より》
貴重な症例を教えていただきありがとうございました。重要な症例でありながら、お返事が遅れて申し訳ありません。同じ臨床に携わる医師として、この症例がいかに重要であるか、私も充分に理解いたします。もしまだやられていないのであれば、これは正式に症例報告を行なうべき例であると思います。

まず基本的な情報ですが、エホバの証人の輸血拒否と生命への態度はこのサイトと関連した、「エホバの証人と血の教え」にある多くの文書を参照して下さい。また、エホバの証人の精神科医に対する特別な見方は、「エホバの証人と精神疾患」のページをご覧下さい。

この症例が特に重要な理由は幾つかありますが、あなたも指摘されているように、自殺の意志が他の自殺未遂の例に比べて、自傷の方法や傷の深さから、かなりはっきりしていて強いように見えます。輸血を拒否する自殺者の輸血をどのように扱うかは、医療倫理の関係者の中で解決を見ていない問題です。事故や産科手術に伴う大量出血の場合には、輸血を拒否する意志と生存を望む意志とは一貫性がないわけで、本人の真の意志を引き出すことが常に問題になり、インフォームドコンセントや「医療に関する事前の指示および継続的委任状」の信頼性が問題になってくるわけです。しかし、自殺をはっきり表明した人間が輸血を拒否する場合、その二つの意志は一貫性があり、そこに疑問を挟む余地はなくなります。更にこれは更に大きな倫理上の問題である、自殺者の自己決定権をどのように尊重するかと言う大きな問題につながります。それはまた、全ての自殺を精神の病気として扱うのか、自己決定権としての自殺は社会として尊重されるのか、という問題があります。日本ではそのような見方はまだないと思いますが、私が診療しているアメリカ・オレゴン州では、死期が近づいている患者に限り、医師の処方による自殺が認められています。これはアメリカ50州の中で、オレゴン州だけですが、オレゴンで診療する医師として、私は精神疾患によるのではなく、自己決定権としての自殺を選択する権利を尊重しています。このような患者を扱う場合の大きな課題は、そのような自殺を望む患者の中から、精神疾患の患者を見つけ出し必要な治療を与えることと、精神疾患でない自殺志願者を見極めることです。あなたも充分経験されているように、多くの自殺志願者は、精神疾患の治療によりそのような意志はなくなり生きる希望を持つことができます。この症例も充分な精神医療の診断と治療を受けられなかったことは、ものみの塔協会の教えの影響であるにしても、残念なことだと思います。この問題を扱う多くの医療従事者への提言にもなると思いますので、是非症例報告を考えて下さい。


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ルポ・メディア・リテラシー

2007年01月17日 | 一般
わたしたちはいま、グローバル・ビレッジ(地球村)に住んでいます。地球が狭くなって村に住んでいるみたいに、他の国で起こったことがすぐにメディアを通して伝わります。ところが、わたしたちが知っているつもりの世界も、実はTVや新聞、雑誌などのメディアを通して、見たり聞いたりした限りのものでしかないのです。

我々が見たり聞いたり読んだりするものは、編集者の写真の選び方や映像の送り手のものの見方、書き手のものごとの捉え方に限られたものでしかないのです。

バリー・ダンカン(カナダ・メディア・リテラシー協会会長)

(「メディア・リテラシー」/ 菅谷明子・著)

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メディア・リテラシーの授業の中でも、広告はもっとも頻繁に扱われるテーマのひとつである。広告はメディアの経済基盤であり、その簡潔さ、密度の濃い情報量、それに加えて強烈なヴィジュアルのインパクトを与えるだけに、その仕組みを教えるのは重要だとされている。調査会社ニールセンの調べによれば、カナダの子どもが一日に見たり聞いたりする広告の数は約500にもなり、高校を卒業するまでに見るTVコマーシャルにいたっては35万本にものぼるという。

トロント市のブルーカラーが多く住む地区にある、公立セダブラエ高校でメディア・リテラシーを教えるニール・アンダーセン先生は、「メディアをコントロールするのが業界の仕事なら、視聴者や読者の側を賢くするのが私の仕事です」と胸をはる。アンダーセン先生は、「我々は常にメディアを介してコミュニケーションを図っているため、メディアについて教えることは数学や理科よりも重要だ」と語る。

…いよいよ授業が始まった。
教室の真ん中に置かれたTVスクリーンがオンになって、若い美男美女が映し出された。

仕事から帰ってくる男を女が迎える。二人が抱き合う。そのまま、フロアになだれ込み、今度は裸で抱き合っている。女性の顔がアップになる。二人がベッドを共にする。その後、見つめあったままコーヒーを飲む。「本当の悦びはすぐ(インスタント)には来ません」という文字が映し出され、インスタント・コーヒーがアップになる。

超セクシーなコマーシャルに、生徒たちの目はクギ付けだ。ピューピューと口笛を鳴らす男子生徒に、おどけたポーズでキャッキャと大笑いする女子生徒。机から身を乗り出している生徒までいる。教室は盛り上がった。

映像が終わったところで、机に腰をかけたまま先生が質問を投げかける。
「このCMは、何を売っている?」
「…コーヒーのコマーシャルだけど、売っているのは明らかにセックスだと思う」、男子生徒がそう答えると、教室がざわめいた。
「このコーヒーを飲めば、ロマンスがやってくる。そういうイメージを売っていると思います」と女子生徒。

「なぜコーヒーのコマーシャルにこんなセクシーなシーンが必要なんだろう?」
「広告は、理性じゃなくて感覚に訴えるのが効果的だから。質が良くっておいしいって言っても注目されなければ意味がないから」と、覚めた調子で、別の男子生徒が言った。

授業は賑やかで、(日本人が思っている)「勉強」とはかけ離れた雰囲気だ。こうした授業で、ほんとうに効果があるのだろうか。アンダーセン先生は余裕たっぷりに、「生徒に聞いてみるのが一番ですよ」と言って、廊下へ消えてしまった。そのとたん、子どもたちの視線がさっとこちらに集まった。

「メディア・リテラシーの授業から、何を学びましたか?」、こう問いかけると、空中に花が咲いたかのように、生徒たちの手がいっせいにのび上がった。
「家でTVを見ていても、授業の癖が抜けなくて、ついつい分析してしまうんです。このシーンはこうだとか、すぐに解説しちゃうから、家族はうるさがって『黙ってTVを見なさい!』って怒っちゃうんです。でも、わたしに言わせれば、TVを疑問も持たずにそのまま見ているほうがずっと危険だと思うんです」と、女子生徒が言った。あちこちから「うちも同じ」という声が聞こえる。

新聞の読み方が変わったと言ったのも女子生徒だった。「記事のアングルとか、写真の使われ方、それにタイトルやキャプション(写真や図版の説明文、映画やTVの字幕)までもが気になるの。この記事が第一面にあるのはなぜかとか考えちゃう。おかげで新聞を読むのにずいぶん時間がかかるけど…」。

広告をテーマにした授業で、ナイキのスニーカーが高いのは、宣伝に莫大な資金が使われるからだ(*)と知った男子生徒は、ブランド・イメージに惑わされない「賢い消費者」になったと、得意そうに話してくれた。
(*)ナイキのバスケットシューズの原価は、5ドル60セント(1993年現在)でしかないのに、その10倍以上で売られているのは、有名スポーツ選手を莫大な契約金で広告に起用するためであり、その一方で、スニーカー工場で働く途上国の女性労働者には、一日1ドルも支払われていないことなどを、メディア・リテラシー授業用の教科書「メディアとポピュラー・カルチャー」は指摘し、企業がメディアと密接に結びついて、大衆文化や消費社会を作り上げている仕組みを平易に解説している。

最近、学校近くの黒人地区に引っ越してきた黒人の女子生徒は、メディア・リテラシーの考えを使って面白い観察をした。
「ニュースの選択基準について考えるようになったんです。前に住んでいた中流住宅地で起きてもニュースにならないような事件が、ここで(黒人の住む地域)起きると大ニュースになることがわかったんです。この地域は黒人地区で治安が悪いって言うレッテルが貼られているから、『やっぱり』って感じで報道されるように思います。こういうことが続くから、余計に危ないイメージが出来上がるのだと思います」。

「(TVの)ニュース番組は、結局は作っている側の主観がニュースとして報道されるだけだ、ということが今ではよく理解できるようになりました」と言う生徒は、以前ほどTVを見なくなったと言う。



(「メディア・リテラシー」/ 菅谷明子・著)

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今回は、メディア・リテラシーという視点の具体例をご紹介しました。みなさんは、何か「感じ」をつかんで下さったでしょうか。生徒たちの意見から、わたしは、「事実」というものは、基本的に「現場」にいない限り理解できないものなのだ、という感想を持ちました。報道は、新聞のものであれ、TVニュースであれ、程度の差はあっても、結局それは制作側の主観が披露されているに過ぎないのです。ましてや報道側に明らかな体制への肩入れの意図があるならば、別の女子生徒のこのことばに注意を払いたいと思いました。

「どんな時でも、メディアを懐疑的に見ることは必要だと思います。自分がその出来事を直接に見たり経験しない限り、メディアの情報はすべてが二次的なものだから」。


この本から、実際の授業の様子をあと一度、近いうちにご紹介しようと思います。というのは、この本には、このような問題提起があったからです、「メディア・リテラシー的に見れば、歴史も作られたもの…」。

この本は新書版ですので、またルポルタージュなので、どなたにも読みやすい内容となっています。ぜひみなさんがご自分でお読みになってみるようにお勧めします。岩波書店から刊行されています。¥819という価格もお手ごろでしょ?

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改憲を眺める「羊」たち…

2007年01月16日 | 一般
わたしの旧友である北岡和義氏が、27年間のロサンゼルス生活に終止符を打ち、昨年、日本に戻ってきた。(彼は)冒険心とエネルギーの横溢した人で、いろんなことをやってきたが、ほぼ一貫してジャーナリストの範疇のなかで仕事をしてきた。若い頃はフリーライターとして、わたしの“戦友”でもあった。その「今浦島」の彼に、久しぶりに見た祖国日本はどう映ったか。

「日本はがらりと変わった部分とまったく変わらないところがあります。政治家は変わったけれど、官僚は変わりません。メディアが衰退し、ジャーナリズムは堕落しました

「プライドとか社会正義は死語となってしまったのでしょうか。新聞記者は姿を消し、新聞社員ばかり。ファンシーな店が目立つ一方で、 “精神の荒廃” が進行しています」

こう書いてある賀状の結びは、新しい年、いろいろなことが変わるだろうが、「平和不戦憲法は変えてはならない」とある。



実は、その憲法が今年いよいよ危うい。…(中略)…最大の分岐点は7月の参院選挙だが、その前の統一地方選挙、東京都知事選挙がその舞台設定にとって大きな意味を持つだろう。もっと端的にいえば、投票率という主権者の意志の所在(または不在)がすべての鍵を握る。そうでなくても、亥年選挙は低投票率だが、不祥事続き、国民の要求に背を向けた政策の強行に、怒りではなく、不信と諦念が深まり、政治への関心=投票率が低下すればするほど、政権・与党にとっては思う壺となる。投票率が低くなればなるほど、組織的な「岩盤」、なかでも公明党を持つ側が有利となるからだ。

憲法改正を掲げて登場した首相が、不人気にもかかわらず年頭所信で改憲を強調するのは、参院選挙さえ乗り切れば、改憲への白紙委任状を手中にできるからである。後は、改憲手続きの国民投票法を自民党案どおりに成立させれば、投票者(有権者、と表現していないところに注目!)の過半数で改憲できる。ここで、低投票率が有効に働く。投票率が5割を割れば、有権者100人のうち、25人の賛成で改憲できるのだから。

…北岡氏の批判に応えて、ジャーナリズムが行動を起こすとすれば、求められるのは、なかでも「喝破」し、「看破」する知力ではないか。


(筑紫哲也/ 「破滅か打破か」/ 週刊金曜日2007-1月12日号より)

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日本国憲法で、国民に知られているのは9条くらいでしょう。わたしたちは学校時代を通じて、憲法について教えられ、考察することはありませんでした。憲法の理念について、どれほどの人が義務教育で研究したでしょうか。ほぼ皆無でしょう。憲法改正について、その重大さを本当に理解されていない状態で、メディアは北朝鮮のミサイル実験や核実験のニュースを、不安をあおる仕方で、衝撃的に、ドギツく流します。

「ボウリング・フォー・コロンバイン」というマイケル・ムーア監督のドキュメンタリーで、特に強調されていたのは、アメリカのTVを初めとするメディアが、国民に不安を植え付け、人種偏見を生むような演出で流されることでした。黒人のうち、貧困層に属している黒人が警官に取り押さえられている映像が頻繁に放映され、報道されているため(実際は黒人の犯罪は減少しているのに)、アメリカでは他人種への怖れを「植えつけられ」、銃規制が進まないのだそうです。

カナダでは、1000万世帯に700万世帯が銃を所持していますが、銃で殺害された人は、アメリカの年間1万人以上に対し、カナダでは100人に満たないのです。それはまずTV番組の質が違っていたからだと、ムーア監督は主張しておられます。カナダでは、メディア・リテラシー教育が行き渡っているため、操作的な演出の放送・報道は非常に少ないのです。相手の立場に立つこと、相手の言い分に耳を傾けること、批判する目を養うことが話されている映像が紹介されていました。

日本の報道姿勢はまったくアメリカ寄りで、カナダ式からはほど遠い。拉致問題を利用し、拉致被害者の家族の活動を、情に訴えるような仕方で流します。拉致事件の起きた当時は(70年代、80年代初頭)、まったく外務省は拉致被害者の家族に冷淡だったのに。北朝鮮のミサイルが煙を噴き上げて発射される映像を繰り返し流す。国民は、今にも北朝鮮のミサイルが飛来せんばかりに受け止める傾向が大きくなってきています。教育基本法のときもそうです。実際は少年による凶悪犯罪は減少しているのに、新聞やTVニュースは、必要以上に扇情的に報道します。「世の中はもう今までどおりでは対処できないくらい変わった。だから教育基本法を変えなければならない」という論理の超飛躍が堂々と横行しました。国民の多くはまんまと乗せられ、民主主義の根幹である教育基本法は変えられました。わたしはまるで、日本人全体がエホバの証人の熱心な信者のように映ります。何の批判もしないで、ただお上の言うがままに従順に従ってゆく。そして「被害」という火の粉が自分に降りかかって初めて、悲鳴を上げます。キツイ言い方ですが、他人の家の不幸であるうちは、みんな顔を背けるのです。

考える力を奪われること、批判する能力を奪われること。それは人間を放棄することと同じなのです。このままでは、まず確実に、憲法は改正されるでしょう。自民党と公明党で過半数を押さえているのですから。これは単なる、「時代の流れ」なのではありません。わたしたちはマインド・コントロールされてきたのです、ただ単に服従するだけの犬同然に。これは間違っている!



愛と平和を歌う世代がくれたものは
身を守ること、知らぬそぶりと悪魔の魂。
となりの空は灰色なのに、
(自分が)幸せならば顔を背けてる…

「真夜中のダンディー」/ 桑田佳祐・作
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あけましておめでとうございます!

2007年01月04日 | 「心の闇」を解読してみよう
昨年、ルナのブログは「マインド・コントロール」というカテゴリーを設けました。今回はその第一号に当たる記事です。

マインド・コントロールというと、すぐにカルト宗教の教団などをイメージして、おどろおどろしい印象を受けますが、マインド・コントロール自体はひとつの技術に過ぎません。時にマインド・コントロールはスポーツ選手のメンタル管理や、軽度うつ病その他の心理療法でも使われることがあります。しかし、一般にはマインド・コントロールは怖い印象を持って受けとめられています。事実、それは悪用されると恐ろしい威力を発揮します。他人の思惑通りに操作されながら、「自分は自らの意思で、自分の命、人生、財産を放棄しようとしているが、それが幸せで名誉なことだ」と信じ込んでいる自分を想像してみてください。鳥肌が立つでしょう?

そこでまず、マインド・コントロールとは何か、ということについて、この問題では第一級の権威書であるスティーブン・ハッサン氏の著作から引用しておきます。

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マインド・コントロールとは、個人の人格(信念、行動、思考、感情)を破壊して、それを新しい人格と置き換えてしまうような影響力の体系のことである。多くの場合、その「新しい人格」とは、もしどんなものか事前にわかっていたら、本人が強く反発しただろうと思われるような人格である。

マインド・コントロールの技術が、すべてそれ自体として非倫理的であるのではない。重要なのはその使い方である。たとえば、喫煙をやめるのに催眠を使うことは、喫煙をやめたい人のその願いとやめるためのコントロールをあくまでその人自身に任せるならば、つまり催眠治療者の意図、目的が一切介入されないのなら、言い換えれば、催眠治療者の意図的な操作が入り込まなければ結構である。

…マインド・コントロールは、露骨な物理的虐待(=身体的虐待のこと。心理的虐待は含まれていない)はほとんど、あるいはまったくともなわない。そのかわり、催眠作用が(わたしたちがふつうイメージするような、両手を前に伸ばして虚ろなまなざしでふらふら歩くというようなものではなく、「思考停止状態に陥る、あるいは陥らせる」という表現のほうが、ここでの「催眠作用」という語の、より正確な理解です)、グループ・ダイナミックス=集団力学(わたしたちがふだん使う、「集団心理の作用」という意)と結合して、強力な教え込み効果をもたらす。

マインド・コントロールを施されている本人は、直接に身体的危害を伴う脅迫を受けるのではないが(*)、だまされて、心理的に操作されて、教団や国家機関によって決められたとおりの選択をしてしまう。だいたいは、自分に対して行われたことへ積極的に応答してしまう。

(「マインド・コントロールの恐怖」/ スティーブ・ハッサン・著)

(*)エホバの証人の場合は、心理的虐待や心理的脅迫は頻繁に受けます。実を言うと一昔前までは身体的虐待も公然と行われていたのです。広島県でせっかん死事件などがあって、今は子どものしつけについての見解に「調整」が加えられています。せっかん死事件については、ものみの当協会の指導に責任が求められず、協会の指導をバカ正直に実行した親の「やりすぎ」で片付けられたものと思われます。詳しくは、「エホバの証人情報センター」のHPをご覧になってください。あったと思うんですが…(^^)。

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マインド・コントロールは、他人の思惑通りの行動を「自発的な意思で」おこなっていると信じ込ませるところに、その真骨頂があります。自分の生命や財産を放棄するところまで行かなくても、国家の指導党を選択する選挙のときに、実際は国民に不幸をもたらす政策を実施しようとしている人が、あたかも国民にとって救世主のような、なにかパーッと派手で胸のすく政策を行ってくれそうな人という「イメージ」を抱かせ、そのイメージによって多くの浮動票を獲得することに成功するとしたなら、そこにはやはりイメージ創作というマインド・コントロールが行われているのです。イメージによって思考を停止させるのです。

小泉さんや安倍首相下の政権は、TVやキャッチ・フレーズをフルに活用しました。小泉劇場とさえいわれましたよね。安倍さんがなぜ総理に推薦されるようになったか、についてこのような記述があります。

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実は、安倍政権というのも、やはりこれの延長上にあって、小泉元首相が歩んできた道をなぞっていくような形で生まれたのだろうと思います。彼の政治経歴を見ると、議員バッジをつけたのは1993年です。…わずか13年にして権力のトップに躍り出たということですが、自民党の派閥活動で実績を上げたとか、あるいは何か派閥の力学に乗じて権力の階段をのぼってきたというのでもない。ある意味では、確たる実体というものを持っていない世論の人気、大衆人気、それのなせる業が結局安倍政権であったということだと思うのです。

彼がこれまでに経験してきたのはせいぜい内閣の官房副長官であり、それから幹事長、副幹事長、官房長官。それもそれぞれ短期間務めただけでしたから、特別の実績があったわけではない。しかし、その間にTV出演を頻繁にして、特に世間の耳目を引く「拉致問題」を彼が先頭に立って引っ張っていった。そしてお茶の間でTVを通じて人気を高めていった。

(「岸信介と安倍晋三」/ 原彬久/ 「世界」2006年11月号より)



「テレビ国家」をここで暫定的に定義しておこう。

「テレビ国家とは、テレビを中心にしてメディアが編成された現代のコミュニケーション社会において、近代民主主義の政治的代表制をバイパスする形で(つまり政治的代表制を避けて通る形で)、メディアを通して世論の支持をとりつけ、(メディアを通して)権力を正当化することを政治過程に組み込んだ政治権力、そういう政治権力による統治の形態である」。

テレビ国家は、大衆を動員する形で映画やラジオによるメディア支配を行った20世紀前半の全体主義国家のような独裁体制とは異なる。小泉やブレア(英国首相)は「独裁者」と言われるが、それはたとえであって、20世紀的な意味での文字通りの独裁者ではない。テレビ国家は、民主主義の「死」をすぐにもたらすようには考えられないが、民主主義の変質をもたらすものであることは間違いなく、事実、各国でそうなりつつある。

テレビ国家は、小泉の「靖国参拝」にみられるような独特の「捩れた(ねじれた)没論理」をいたるところに持ち、そのことによりかえってTV的な「イメージの論理」に従っている。…実際、近年のメディア化した政治家たちの古典的識字力はどう見ても高いとは人々から思われていない。ブッシュJr.がその典型だが、ベルルスコーニ(イタリア首相)や小泉にしてもまっとうな論理力を疑わせる発言を重ねている。

テレビ国家の政治家たちに求められているのは、綿密な論理能力や知識・学識ではなく、プレゼンテーションのパフォーマンスやコミュニケーションにおけるチャーム(魅力)なのである。テレビ国家においては、文字に書かれた一般的な抽象理念(法の普遍性や平等の原理)よりは、個別の具体例が説得力を持つ傾向が生まれる(一昨年の郵政選挙のように、ひたすら郵政民営化だけを叫び続けた小泉首相のように)。そこから生ずるのは、立憲主義や立法主義の原則をないがしろにする傾向である。

(「テレビ国家」/ 石田秀敬/ 「世界」2006年6月号)より。

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TVは民主主義を変質させ、論理や理念というものを没落させ、イメージによって感覚的に合意や世論を形成してゆきます。「TV国家」の政治家たちは、お茶の間に頻繁に顔を出し、チャーミングな側面をパフォーマンスし、「あの人って親しみやすいな」と視聴者に思わせるのです。その演出にはスピン・ドクターという情報操作のアドバイザーたちのアドバイスを受け、そのパフォーマンスには、メディア・コンサルタントの危機管理を受けている、とのことです(上記「テレビ国家」より)。

このように、21世紀は、TV言語という感覚的で非論理的、反理念的なメッセージで世論が形成されつつある時代であるため、わたしたちにはそれに操られないだけのリテラシー(識別力)が求められています。他人から、宗教団体から、反動的国家から操作されないために、私たちの主権と自由と尊厳が剥奪されてしまわないためにもわたしたちはメディアを積極的に読み解いてゆくスキルが緊急に必要です。ただ漫然とメディアの消費者であってはもはやならないのです。そこで、今注目されているのが、「メディア・リテラシー」です。

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わたしたちはさまざまな情報をもたらすメディアに取り囲まれている。わたしたちはこれらのメディアに日々、接触することによって、今、世の中で何が起こっているのか、国内、世界の状況はどうなっているのかを把握しようとしている。

しかし、このメディアの提供する情報は現実そのものではありえない。わたしたちは無限に存在する情報素材のなかから、特定の基準(あるいは「目的」)にもとづいて選択され、編集され、加工された「脚色された現実」を記事やニュースとして読んだり、見たり、聞いたりしているに過ぎない。社会が現在どのような状況にあり、何が重要な問題であるかをメディアが決定し定義しているというのが、文字通り「現実」なのである。

広告やドラマ、バラエティ、アニメなどの娯楽番組、コミック、ゲームなども、メディアのそのテクストを通してわたしたちに、女性であること、男性であること、豊かに生きるということ、社会とは何か、人生とは何かということまでステレオタイプなイメージを植え付け、定義しているのである。メディアはこのように、わたしたちの社会観や価値観の形成に、いまや深いかかわりを持っている。

このようなメディア社会において、メディアが実際にどのような社会観、価値観をわたしたちに「教育」しているかを分析し、明らかにしていくことは、私たち自身の自己認識や社会に対する認識が、何を根拠にどう形成されてきたかを問い直す契機ともなる。こうしたメディア分析を試みるためには、単にメディアを評論するだけでなく、まずメディア内容を客観的に分析し、そのうえでメディア・テクストがどのような視点や価値観にもとづいてつくられているかを一歩はなれたところからクリティカルに読み解き、意識する必要がある。

メディア・リテラシーとはこのように定義される。
「メディア・リテラシーとは、市民がメディアを社会的文脈でクリティカルに(批判的に)分析し、評価し、メディアにアクセスし、多様な形態でコミュニケーションをつくりだす力をさす。またそのような力の獲得をめざす取り組みもメディア・リテラシーという」。

(「Study Guide メディア・リテラシー 入門編」/ 鈴木みどり・著)

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マインド・コントロールは情報を操作することによっておこなわれます。わたしたちは、いまや漫然とメディアの提供する作品群を受動的に消費しているだけでは、私たちの命、人生を他人の思惑通りに利用されてしまいかねない時代に生きているのです。メディア・リテラシーというスキルは、現代を賢く生きていくための、また自分が豊かに生きてゆくための必須の知識であるといえるでしょう。メディア・リテラシーには基本的な概念が設けられています。今回はその基本概念をまず紹介します。

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【メディア・リテラシーのキー・コンセプト】

1.メディアはすべて構成されたものである。
メディア・リテラシーでおそらくもっとも重要な概念は、メディアが外面的現実の単なる反映ではなく、「つくられたもの」を提示するものであり、それは常に特定の内容を持つ、ということである。

これらの「作品」の成功は、どこからみても自然に見えるところにあるが、実際はそうではなく、製作側の多種多様な決定要因と決断に沿って巧妙に構成されている。技術的観点からみても、優秀な作品が多く、そのような作品にわたしたちが慣れ親しんでいることもあって、「作品」を現実の忠実な描写ではない何かとして見るのがほとんど不可能である。

わたしたちがしなければならないのは、メディア・テクスト(ルナ註:活字、映画、TV、オーディオ等のメディアによるコミュニケーションの作品、のこと)の複雑さを暴き出し、現実と「作り出されたもの」との区別をつけることである。


2.メディアは「現実」を構成する。
わたしたちはみな、各人の頭の中で、世界とは何か、それはどう機能しているか、といったような事柄にかんするイメージを思い描く。このイメージは「構成されたもの」であり、自分の観察と経験から得た感覚にもとづいて構成されている。

ところが、「自分の観察、自分の経験」と思っているものの大半が実はメディアから得たものであり、メディアが前もって態度、解釈、結論を決定している。こうなると実際は、わたしたちではなく、メディアが現実を構成している、というのが実情となっている。


3.オーディエンス(マスメディアの消費者の総称。TVの視聴者、ラジオの聴取者、映画・演劇・演奏の観客、活字メディアの読者など)がメディアから意味を読みとる。
メディアの理解で基本となるのは、わたしたちとメディア・テクストとのあいだで起こる相互作用を意識化することである。わたしたちはメディア・テクストを目にすると、各自、多種多様な要素を通して、そこに意味を見出す。

それらの要素には、
① 個人的なニーズや、
② 不安、
③ その日に経験した喜びや心労、
④ 異人種や異性に対する態度、
⑤ 家庭的背景や文化的背景、
…などがあるが、いずれもわたしたちの情報処理の仕方にかかわってくる。

簡単にいえば、わたしたちはそれぞれのやり方でメディア・テクストから意味を見出し、その意味を「読み取る」のである。したがって、メディア・リテラシーを教える教師や、メディア・リテラシーを身につけた人たちは、生徒たちやメディア・リテラシーの訓練のない他の人々が、それぞれ独自にメディア・テクストを解釈し、経験する仕方を受容しなければならない。そこには個人レベルでのさまざまな背景があるからである。


4.メディアは商業的意味をもつ。
メディア・リテラシーには、マスメディアの制作の経済的基盤を意識化し、それが内容、技術、配給にどのような影響を及ぼしているかを知ることも含まれる。

メディア制作は商売であり、利益をあげなければならない。たとえばTV産業界の場合、番組はどんなものであれ、その視聴者数によって判断されなければならない。米国のネットワークのプライムタイム(放送業界にとって、視聴率の高い時間帯。午後7時から午後11時まで)で放送される番組の視聴者が2000万人を割れば、一般的にいって、その番組の放送継続はむずかしい。

視聴率調査や読者調査は広告主に対して、特定のメディアのオーディエンスに関する詳細な人口統計データを提供する。この知識を得ることで、メディア・リテラシー授業を受ける子どもたちは、番組内容と広告主のターゲットとされている彼ら自身との関係を知ることができるし、また視聴者の集団を市場として販売するやり方も理解できる。

メディアの所有と支配、それに関連する問題についても明らかにされなければならない。カナダや他のいくつかの国では、メディアの所有権が一部の少数の人々の手に握られるという寡占傾向が強まっており、しかも複数のメディア間で所有権の系列化が見られる。この傾向が実際的に意味するのは、限られた数の人々の決定で、どの番組をTVで放送するかが決まり、どの映画を上映し、どの音楽を録音・放送するか、どの問題を調査・報道するかが決まる、ということである。たとえば(カナダの)オンタリオ州の多くの市には日刊新聞が1紙しかないし、それらの新聞はどれも同じ新聞の系列下にある。このような状況では賛否両論のある問題の報道、調査報道にとって多くの支障が生じてくる。


5.メディアはものの考え方(イデオロギー)と価値観を伝えている。
メディア・リテラシーでは、メディア・テクストが含み持っている、ものの考え方や価値システムを意識して拾い出す作業が必要になる。メディア作品はある意味ですべて宣伝である- メディアが生産するもの自体を宣伝しているだけでなく、価値観、あるいは生き方を宣伝している。そしてそれらは一般に既存の社会システムを肯定しようとするものである。

たとえば典型的なハリウッド製TVドラマに含まれているイデオロギー・メッセージをとりあげてみよう。それは北アメリカの人々の目には見えなくとも、開発途上国の人々が見れば明白である。

北アメリカの典型的なマスメディアが伝えているのは、「よい生活」とは何か、豊かさの役割、「消費主義」の利点、女性の望ましい役割、権威の容認、不問に付される愛国心、というような数多くのイデオロギー・メッセージである。

わたしたちに必要なのは、これらのメッセージや価値システムを解読するテクニックである。メディア・リテラシー授業の教師にはメディア・リテラシー・テクニックと価値教育の方法をも知ることが求められている。

*価値観: 個人や社会的集団にとって何が大切で、何が大切でないか、についての信念。世の中の事象を評価し、判断する基準となる。


6.メディアは社会的・政治的意味を持つ。
メディア・リテラシーの重要な側面のひとつは、メディアが生み出す社会的効果および政治的効果を意識させることである。この二つの効果は明確には区別しがたく、互いに重なり合っている。

メディアの効果は、家庭生活の質的変化、余暇時間の使い方の変化といった形であらわれるが、子ども(あるいはメディア・リテラシー講義の生徒)はそのことに気づく必要がある。

マスメディアは価値観や態度の形成に直接的に関与していなくとも、それらを正当化し、強化する役割を果たしている。

メディアのこの役割を知れば、子どもの世界に、なぜメディア作品を消費する集団にはまらせるような、いくぶん強制的なプレッシャーがあるのかということも理解できる。若者はしばしばマスメディアを母体としてポピュラー・カルチャーや友人との関係を規定している。

より広範にみると、メディアは今日、政治の世界や社会的変化と密接につながっている。TVが、主としてイメージにもとづいて国家の指導者を選出する。同時にTVは、わたしたちを市民権問題、アフリカの飢餓、あるいは国際テロなどの関与させてしまう。よかれ悪しかれ、わたしたちはみな、自国の関心事とグローバルな問題のいずれにも深く関与するようになっている。

カナダの人々にとっては、アメリカのメディアによる支配が明らかに(カナダの)文化的な問題となっている。カナダ人としての明確なアイデンティティの確立は今後も困難な問題であり続けるが、メディア・リテラシーのプログラムでも、この問題を挑戦と受けとめて、真剣に取り組む必要がある。


7.メディアの様式と内容は密接に関連している。
子ども、生徒はこの関係を理解しなければならない。その際に基本となるのは、マーシャル・マクルーハンによって理論化された概念、すなわち、メディアはそれぞれ独自の文法を持ち、それぞれのやり方で現実を分類する、ということである。したがってメディアは同じ出来事を伝えても、それぞれに異なる印象を生み出し、そのメッセージも違ったものになる。

8.批評的にメディアを読むことは、創造性を高め、多様な形態で、コミュニケーションをつくりだすことへとへとつながる。
マクルーハンは、「メディア・リテラシーは単にクリティカル(批評的、批判的 *参照)な知力を養うだけでなく、クリティカルな主体性を養うことを目的とする」と述べている。

メディア・リテラシーに取り組む者は、メディアをクリティカルに読み解く知力を育成するなかで、メディアにアクセスしたり、主流にない情報を自らつくりだしたいと望むようになる。それが「コミュニケートする権利」の自覚である。

その権利をオルターナティブ・メディア活動(*)によって実現していくことも、メディア・リテラシーの目標である。主流メディアの模倣ではないオルターナティブ・メディアによる実践が可能になることは、メディア・リテラシーの中心的課題である、「多くの人が力をつけ(エンパワーメントされ)、社会の民主主義的構造を強化すること」につながってゆく。

(*)批判的: メディア・リテラシー教育における「クリティカル=批判的」という語は、日本語のニュアンスにあるような、「否定的に批判する態度・立場にあるようす(岩波国語辞典)」といったようなネガティブな意味合いではなく、むしろ「適切な基準や根拠にもとづく、論理的で偏りのない思考(「クリティカルシンキング 入門編」/ E.B.ゼックミスタほか著)」という、建設的で前向きな思考を指していう。…この(*)部分は(「メディア・リテラシー」/ 菅谷明子・著)より。

(*)オルターナティブ・メディア: 産業的・文化的に優位な立場にある主流メディアに対して、そこでは扱われない視点や、主流メディアの押しつける視点に対抗する見方や見解にもとづいて、自分たちの表現を行ってゆこうとする人たちがつくるメディア。



(「メディア・リテラシー」/ カナダ・オンタリオ州教育省・編/ FCT-市民のテレビの会・訳/
「Study Guide メディア・リテラシー・入門編」/ 鈴木みどり・編)

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テレビから 考えもらう テレビ漬け 

毎日新聞に掲載されている「毎日川柳」に載せられていた一句です。年末のものでした。わたしたちはいま、どんな考えをテレビから教育されているでしょうか。もっと怖いことに、いまや教科書さえ、偏った歴史観を植えつけようとしている時代なのです。

エホバの証人は、エホバの証人のあり方や教理を批判的に読み解くことを禁じます。情報を制限されているのです。ですから、輸血拒否をあそこまで徹底して、貫徹するのです。みなさんはエホバの証人を非知性的な生き方をする人々だと思いませんか。でもそういう情報操作を行うのはエホバの証人だけではありません。いまや国家機関が公然と行っているのです。タウン・ミーティングのやらせがその具体例です。

みなさん、教育基本法のような重要な理念法を変えたければ、いえ、変える必要があったと思うならそれはそれでいいことです。民主主義的な手順を踏んで行ったことであれば。しかし、現実にはどうでしょうか。綿密な議論を積み重ねた結果だったでしょうか。わたしはそうは思いません。あきらかに誤った情報や偏った情報にもとづいており、審議もきわめて非民主主義的な手順で行われていました。わたしたちは操作されているのです。このままこの流れに身を任せていては、私たち自身をイギリス国民の二の舞に導くことになるでしょう。
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「自信とおびえの心理」の目立った点 (1)

2007年01月01日 | Monologues






巨人に土屋という内野手がいた。松本深志高校時代の土屋はどのポジションでもこなす万能選手であった。二年生の時は捕手と三塁手、三年になってからは投手をやった。テニス、バスケットボール、バレーボールと球技ならなんでも得意だったという。


彼は野球を静かにやった。大声をあげて野球をするのは野暮だとでも思っているかのように、静かに野球をやった。


一年生の頃、球拾いに飽きてくると、こっそりとテニスコートへいって、テニスのラケットを振っていたという。おそらく球拾いをしても野球は上手にならないと思ったのであろう。


土屋は東大を受験するつもりだった。ところが三年生の秋に巨人からスカウトが来た。熱心な巨人の勧誘に彼の心は揺らぎ、ついに彼は巨人入団を決意する。


しかし巨人入りの記事が新聞に出たとき、彼の心は傷ついた。ということは彼はまだ新しい世界に入ってゆくという決断ができていなかったということであろう。もちろんまだ少年の彼に「男の決断」を求めることは無理であろう。


大学進学への未練を断ち切れない彼は、その新聞記事で、大学を受験しようとしている仲間たちから外れた、という感じを持ったという。


彼は二軍に入り本塁打王になった。しかし本塁打王になりながらも、まだ彼は心の区切りがつかず、「自分はまちがった選択をしていたのではないか」と迷っている。「ここは自分のいるべき場所ではない」と彼は思いながらもそこにいた。筆者(加藤諦三)に言わせると、土屋は技術においては天才であっても、人間の生きる姿勢としてはきわめて優柔不断であった、つまり未熟であった。


昭和三十年夏、二軍は信州へ遠征した。彼は四番打者であった。それにもかかわらず自分は場違いなところにいる、という思いは頂点に達していた。


試合が終わってそのまま松本の実家へ帰ってしまった。


もうやめて出直そう、と彼は思った。夏のうちから勉強すれば来春の受験には間に合う、と思ったのである。ところがこう思いながらも実は彼の腹はまだ決まっていなかった。技術的能力における天才は、生きる能力において鈍才であった。


松本から夜行で東京の合宿所に世界文学全集を取りに行った。着いたところで僚友たちに、「おう、来たか、ちょうど川崎の試合に間に合うぞ」と言われた。そしてユニフォームを着てしまう。「着おさめのつもりで」ということだが、実はこれこそいいわけであろう。ところが寝不足にもかかわらず、天才だからこの試合で逆転の二塁打を打つ。無断帰省を叱られるどころか、ほめられて、また何となく合宿所へ戻ってしまう。


その年の秋から一軍に移る。


練習中に水原(1950年から1960年まで巨人の監督を務めた、巨人の内野手)が「声を出せ」というと、内野手のなかで土屋だけが黙っていた。水原が叱ると、「ぼくは声を張り上げると耳鳴りがするんです」と答えたという。


「声を出せ」という水原監督の言葉は、実に大切な言葉である。元気だから声を出すのではなく、声を出すから元気になる。そういうのが人間なのである。その点が生きる基本的観点である。生きることに何か意味があるわけでもなく、意味がないわけでもない。意味があるという前提で生きることで、意味を感じ取ることができるのが人間である。「声を出すより、要は球を取ればいいんだ」という理屈は、いちばん深いところで、「どうせ人は死ぬんだから何をやっても意味がない」というニヒリズムに根ざしている。


昭和三十三年、長嶋茂雄が巨人に入ってくる。天才には天才が見抜ける。長嶋の天才を見抜いた土屋は二塁にまわされることに不満はなかったという。それでも彼はプロに徹してみようと思う。長嶋と広岡が派手なプレーをやるので、逆に静かなプレーをやろうとする。難ゴロを平凡な打球のようにとってしまう。天才にしかできないことである。ヒステリー性格の人間なら平凡なゴロを難ゴロであるかのように取る演技をするであろう。しかし土屋は違った。


大学を卒業してサラリーマンになっていたかつてのチームメイトに、「もう少し派手なところを見せたらどうだ」といわれて、彼は逆に喜んだ。「この連中にも見抜けないほど、自分は天才技術を発揮しているのだ」と。この喜びには、明るく大きく青空に抜けてゆくような壮大で軽快な性質がない。どこか少しひねくれた感じがある。彼は、自分は他の連中とは一段も二段もレベルの違う特別な人間なんだという意識があったのだろうと思う。彼は派手なプレーに沸き立つ観衆たちを見下していたという。


土屋は天才であるから、このゴロは取れるか取れないかががわかる。取れないゴロは追いかけない。それでベンチへ戻ると、「何で追わないんだ」と怒鳴られる。土屋は取れないと分かっているものを追いかけて横ざまに倒れて見せるようなことはしない。合理主義と言えばその通りだが、さわやかな感じがない。なんかひねくれていて不気味な考え方だ。ニヒリズムの行きつくところは「どうせ人は死ぬんだからシャカリキになることに何の意味があるのか」という諦観だ。


たしかに人間は死ぬことは死ぬ。しかし人間として生まれてきたことも事実なのである。シャカリキになってやったってどうせ同じように死ぬんだから無意味だという理屈は死ぬことに焦点が合っていて、生まれてきた、という事実から目をそらしている。


ある試合で巨人は大差でリードしていた。相手の一塁走者が二塁盗塁した。このとき、土屋は二塁ベースのカバーをしなかった。「なぜベースへ入らなかったか」と言われて、彼は答えた。「馬鹿のお守りはできませんよ」。十分点差が開いているのにあえて土まみれになって盗塁してまで点を稼ぐのは非合理的で格好悪いと。


しかし、人はなぜ生きるのか、と問われたら、彼は何と答えるだろう。彼は愚直という言葉の意味を知らないのだろうか。


フランスの作家カミュは、人生が生きるに値するかどうかは緊急かつ本質的な問題だという。そしてこの本質的な問題をどう考えるかについては二つの考え方があり、そのうちのひとつはドン・キホーテの思考の方法であるという。筆者もその通りだと思う。もうひとつの思考は、ラ・パリスだとカミュは言う。非常に勇敢に戦い、1525年に戦死したフランスの勇将である。


いずれにしろ、土屋にはドン・キホーテのようなところがどこにもない。またある試合で、ゴロを胸に当てて彼は大きく前へはじいた。そのままうずくまって拾いに行かない。投手だった別所がマウンドを降りて取りに行った。これを見ていた読売の正力松太郎はカンカンになって怒ったという。「球を拾ってから倒れるのが巨人の選手だ」と正力は言った。


土屋に言わせれば、「もう拾いに行ったって間に合わない」ということだろう。たしかに土屋の考えかたのほうが合理的で、正力の考え方の方が非合理的である。しかし、「人はなぜ生きるのか」ということに合理的な理屈などない。土屋の考え方は合理的なようだがニヒリズムに根ざしている。正力の考え方は非合理的だが、生きる意味をとらえている。


昭和三十四年、川上がヘッドコーチになる。春のキャンプで土屋は川上からノックを受けた。例によって取れないと思うものは最初から追わなかった。「どうして追わないんだ。やる気がないならやめてしまえ!」と怒鳴られて、ほんとうにベンチに引き揚げてしまったという。


やがて土屋は国鉄スワローズ(今のヤクルトの前身らしい)にトレードに出される。三番や四番に入ってバリバリ打つ。そして四月末から五月にかけて、長島と激しく首位打者を争う。五月の連休の頃、0.413という驚愕的な打率でトップに立つ。土屋は後にこう語る、「国鉄に行ってすぐ、よく打ったのは、見返してやる、という意地のせいだったでしょうね」。


この意地こそが実は生きることだと、彼はどうして思わないのだろうか。しかし結局はこのシーズンの土屋の打率は0.269に終わり、長島は0.353で首位打者になる。「意地がありながらそれを持続させる何かに欠けていた」とルポライターの上前淳一郎は述べている。確かにその通りだろう。その「なにか」こそ、実は人間の生きるということを根本において支えているものなのである。


この年をピークに土屋はだんだん影を薄くしていく。そしてプロ野球から引退していくのである。一口に言って、土屋にはロマンがない。

 





(筆者注:土屋の言動については、上前淳一郎著、文芸春秋刊「英雄たちの挽歌」によった。)

「自信とおびえの心理」/ 加藤諦三・著 より

 


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加藤諦三教授の書いた本のなかでは、これはわたしが一番好きな作品です。残念ながら今はもう絶版になっていて容易には手に入らないんですが。1986年に刊行された本です。


この章の後に、土屋の行動様式の解説が述べられています。土屋氏の行動や考え方は資本主義的合理主義を体現したもので、それは(バブル直前の)われわれ日本人の心性でもある、上手に格好よくムダなく行動するのは、機械化するのと同様であり、ムダかもしれなくても球を追うのは、野球というゲームで、ルールに則って相手に勝つということを自分の意志で自分に強いて、それにのめりこむことであり、それが生きることの意義となるのだ、と加藤先生は訴えています。


合理性、効率という意味合いでの合理的に行動するのが良いのなら、不治の病になった人に棺桶を贈ることが理にかなった行為であるが、それでいいのか、ということになる、しかし誰でもそれはおかしいと思う。


人間は進化の過程で人間にまで至った、進化は効率のいいシステムが自然淘汰の過程を通して生物をはぐくんできた、弱肉強食の非情な掟が真理であるように見えるが、人間が他の生物にないくらい繁栄したのは、知識を記録して残し、おおぜいの協力が行われたからです。人が結婚その他で結びつくのは効率がいいからではなく、ある場合には経済的に苦しむのは分かっていても、うまくいくかどうかわからない夢や目的に共感して、苦境を共にする覚悟をもってすることもざらにあるのです。だから財産目当てで結婚する人たちに対しては、公然と非難はしないものの、内心では軽蔑を感じますよね。土屋選手と似たような、イヤ~なものを感じ取るからです。人間の営みをまるで機械のように見なされることに、わたしたちはいや~なものを感じます。逆に高校野球がいろいろ問題があっても支持されるのは、ゲームにのめりこむその真摯さにわたしたちはさわやかさを感じるからなのです。

生きることとは、自分でやりたいと思ったことにのめりこむこと、ひたむきに、誠実にハマることであり、誰かに決められるものでは決してないのです。見た目に格好悪くても自分で決めた道にひたむきにハマる姿にこそ、人びとはここ起きなく賞賛を与えるでしょう。逆に、賞賛を求めて望まないことをそつなくやり遂げる人には嫌味しか感じませんが。


こう考えてくると、ふられるのを怖がってアタックしないことのばかばかしさがわかるし、世間の非難を怖れて汲々と暮らすこと、やりたいことをあきらめることというのがいかにニヒリスティックか、わかるのではないでしょうか。その背後には、土屋選手に通ずる、ニヒリズム、虚無主義があり、自分のほんとうの気持ちを見失っている深層心理があるのです。


不治の病の人に棺桶を贈るのが合理的という記述がありましたが、今はまさにそういう時代になっています。効率主義、市場原理主義とも呼ばれる小泉政権以降の日本の政策のむごさはありません。死亡税、独身税、など効率よく税収をあげるのにかつてはなかったような発想が公然と提案されるのです。年を取るのはみんな同じなのに年金や生活保護が減らされ、福利厚生を締め上げ、一部の人間だけが生きれるような世の中にされつつあります。弱肉強食のおきてが自然の摂理だというのが根本思想です。お金を稼ぐことにしか人間の値打ちを認めない昭和の雰囲気の帰結なのでしょう。安倍政権を終わらせられない背景には根本的にわたしたち庶民が生きることの意味を見失っていることがあるのだと、わたしは思います。



 

 

 

 

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