「役に立たない」命は、生きる価値がないのか。人の世話にならなければならない生活になったならば、死んだ方がいいのか。
そういうことを考え、疑う人になってください。
渡辺和子・ノートルダム清心女子大学元学長・現同学園理事長。
--------------------------------------------
「障害者自立支援法」は身体・知的・精神障害者のサービスを共通にし、国の財政責任を明確にする趣旨で提案された。…「障害者自立支援法」の問題点は多岐にわたるが、主に、①障害者・家族からの負担強化と、②サービスの利用制限に集約できる。
第一の「負担強化」については、介護等の福祉サービスと障害者医療の利用の際に、原則一割負担が課せられるようになる。これまでの応能負担(所得に応じた負担)から、応益負担(サービスの量に応じた負担)への転換となる。つまり、障害が重いほど、サービス利用の量は増えるので、それだけ負担が増える仕組みだ。
大きな問題は、トイレや食事、外出など、生活の基本をなす介護サービスや、生命にかかわる医療の利用を「益」とみなしている点である(つまり、トイレや食事の世話にも負担が要求されるということ)。しかも、重度障害者の所得や就労保障は進んでおらず、多くが低所得にあることから、事実上その負担は家族に求められることになる。
障害者施策では、「家族からの独立が自立の第一歩」という認識にもとづき、少なくとも親兄弟に扶養義務を課さないようになってきた戦後の歴史的経緯がある。家族による障害児殺しや心中事件等の痛ましい事態への反省からだ。その点からすると、世帯に負担を要求するのは、歴史の歯車を逆回転させるものだ。
政府は「低所得者にきめ細かな配慮をした」というが、あくまで(障害者を持つ)世帯単位の収入を見るため、障害者本人には年金以外の収入がなくても、家族同居であるなら、負担減免処置は適用されないようになるケースが多数になる。これまでのデータから、サービスを利用する障害者を含む7割の世帯が、1ヶ月に4万2百円までの負担を求められると見られる。
また「低所得者への配慮」というその内容も、障害基礎年金とわずかな授産(失業者や貧困者に仕事を与えて、生計を助けること)工賃による暮らしからも、月に2万4600円までの負担を求める設定となっていて、「配慮」としては十分ではない。端的に言えば、年収が100万円しかなくても、年間30万円までの負担を求めようということだ。
第二の、「サービスの利用制限」については、サービスの支給決定方式の変更と、サービス再編によるものだ。
支給決定(つまり障害者福祉サービスの受給の資格を審査する方式)については、介護保険に準じたコンピューター判定と各市町村に設置される審査会で決定する方式に変わる。2003年度に始まった支援費制度では、市町村の担当者からの聴き取りにより、障害者本人の意向をふまえてサービス支給決定をしてきた。ところが、これからは、コンピューター判定と審査会が大きな影響を持つことになる。
しかも、判定項目の多くは、現在の高齢者向けの介護保険の基準をそのまま使うことになっている。そのため、厚生労働省が実施したモデル調査でも、二次判定で(いままでなら、支給対象とされたであろうケースの)5割以上に修正が必要となった。さらに「障害者自立支援法」のメリットとして喧伝されてきた精神障害者のサービスについて、この調査では(いままでなら、該当とされてきたケースの)3割以上が「非該当」とされる。このままでは、実際にはサービス支給の対象から外される者が増えることになる。
そして、「サービスの再編」では、障害者の社会参加にとって重要な移動介護が市町村任せになるとともに、重度障害者の介護サービスも、国が設定した基準を超えるものは市町村単独の負担になる可能性が高くなっている。国会審議では、「サービスの高いところを下げることはしない」との答弁を何とか引き出したが、今後の政省令や予算確保のなかで決まることなので、予断を許さない。それで、「これまでの(決して十分ではなかった)サービス・生活が維持できるのか? もし、維持できなければ再び施設や親元に戻らなければならないのか?」という不安が広がっている。
(「障害者の地域生活を揺るがす『自立支援法』」/ 尾上浩二/ 「世界」2006年1月号より)
--------------------------------------------
トイレに行けば料金が加算される、お風呂に入れば料金が増える。こんな無慈悲に高額なサービスでも、生計を立てるために夫婦とも働いているから、利用しようとする。でも自分たちの事情を考慮する人間はいない、自分たちの話を聞こうとする人間はいない、コンピューターが自動的に合否を振り分ける…。
要するに、障害者の世話は、家族にどんな事情があれ、家族に押しつけるということですよね…。じゃあ、夫婦共働きの家庭はどちらかが仕事を辞めなければならない。たいていは女のほうです。ところが夫のほうは正規職員の待遇が脅かされているし、地方は東京ほど仕事がないし、東京ほど賃金も高くない。財政も苦しい。そんな地方が、住民一人一人の事情に寛大であるはずがありません。
「死ね」ということ?
こんな法律を「福祉」と呼べるでしょうか。これは「支援」ではなく、「排除」です。実際、この法律の背後にある思想は「差別」と「排除」です。上記ルポを書いた尾上さんは、結びのほうでこう言っておられます。
--------------------------------------------
「自立支援法」の根底に横たわっているのは、「障害を持って生まれたこと、病気や事故で障害を持ったことは、本人や家族の自己責任である」という、「障害=自己責任論」に限りなく収束して行っている。「自己責任」を強調する社会状況が、「自立支援法」の通奏低音をなしている。そして、今回、障害者分野で断行された「改革」が、今後の生活保護や医療の「改革」議論とも密接に連動していることは、容易に見て取れる。
「この国、この時代に生まれた不幸」を国民全体が嘆くことにならないよう、この法律の施行とその影響の行方に注目と関心が高まることを心から願う。
--------------------------------------------
この「障害者自立支援法」はわずか4ヶ月の議論で法案としてまとめられたのだそうです。たった4ヶ月です。しかも、厚生労働省が使用したデータに疑義が明らかになったのですが、与党の圧倒的多数に押し切られ、国会前で終結した障害者や関係者の反対デモを尻目に淡々と採決されました。2005年10月31日のことです。教育基本法「改正」のパターンですね…。
思想も、「改正」教育基本法と同様です。サービス負担が所得に応じてではなく、サ-ビス使用の量にもとづく、というのは、国の発展の役に立てない人間に使う金は思い切り惜しむぞ、ということです。障害は「自己責任」であり、家族で何とかしてくれ、それがあなた方(障害者とその家族)なりの「お国への貢献だ」ということです。ここまで蔑ろにされてもそれでも、わたしの身のまわりからは、政府への懐疑は目だって生じません。なぜなんだろう? きわめて危険な状況にさらされているのは、ほかでもない自分たちなのに!
やはり、ここでも、メディアの権力者への傾斜があります。
--------------------------------------------
マスコミはそうした財界の姿勢を批判しようともしない。たとえば昨年の暮れ(2006年)、滋賀県では、障害を持つ娘さん二人とその父親が無理心中をしました。障害者自立支援法によって、娘さんが入っていた寄宿舎が廃止され、父親が二人を家庭で看ることになったからです。いわば自立支援法を直接の契機とした心中で、大きな社会問題を孕むニュースなのですが、東京ではその記事は一行もない。本質的な問題につながるニュースはあえて無視しています。
(斉藤貴男/ 「日本経団連・御手洗ビジョンのゴーマン」/ 「週刊金曜日」2007年1月26日号より)
--------------------------------------------
わたしが中学生の頃、社会の時間に、先生が「戦争の時代には新聞がちゃんとした報道をしなかった」というようなことを言っておられたのを、何となく思い出します。オウム裁判で、麻原の弁護を引き受けた横山弁護士が、取り囲むメディア記者に向かって、「新聞なんて、戦争中はなあ…」と啖呵を切っていたのを、滑稽だなあと思って見ていましたが、今は違います。新聞というものに、強く嫌悪感を覚えます。新聞記者たち、フリーの記者たちも、あなたたちの心にあるものはおよその見当はつきます。あなたたちは、わたしたち国民を見下しているのです。あなたたちは情報に通じているという自意識と、マスコミ人=知識人という自意識を根拠に、自分を高めているのです。あなたたちに重要なのは、「知識人」にふさわしく、国家・大義を論じることであり、市井の人々の暮らしや人生などには何の価値も与えないのです。愚か者たち。国をつくるのは、国を構成するのは国民です。人間です。国から人間がいなくなれば、あなたたちはそれでも生きていけると思うのでしょうか。
マスコミに目隠しをされていいように振りまわされるわたしたち。大きな声で訴えると、逆に「目立つマネをするな」みたいに逆にバッシングする国民…。何なんだろう、この無気力は。ここまで無気力なのは、もうアパシーだと言ってもいいでしょう。どうすれば知力を取り戻せるんだろう。どうすれば批判力を取り戻せるんだろう。それとも、もう一度、終戦直後まで荒廃しなければ、考える力を取り戻せないんだろうか。そこに落ちるまでどれほどの人々が犠牲にならなければならないのだろう。
明かりのない夜道を、ロービームで照らしながら走る車。ちょっと先は、もう路面は闇に吸い込まれている…。「わらの犬」というダスティン・ホフマン主演の古い映画のラスト・シーンをふと思い浮かべました。