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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

生誕150年記念の牧野庭園

2012年05月27日 | 博物館など
今年は牧野富太郎博士生誕150年の年なので、牧野記念庭園で特別展「サクラで祝う富太郎の誕生日」が開催されている。牧野富太郎(1862年5月22日―1957年1月18日)は高知県高岡郡佐川町(高知市から西へ30キロ)の造り酒屋の一人息子として生まれた。19歳で上京、22歳のときに東京帝大理学部植物学教室に出入りし始め、1893年31歳で助手、1912年講師になり39年に78歳で辞職するまで勤務を続けた。その間、日本植物志図篇、原色牧野日本植物図鑑、牧野富太郎植物記などを発刊、発見した植物600種、亡き妻・壽衛の名をとったスエコザサをはじめ命名した植物は1500種に及ぶ。

銅像の手前にあるのはスエコザサ
牧野は渋谷の道玄坂周辺に住んでいたが、1923年の関東大震災で妻・壽衛が貴重な標本や文書の安全な保管場所を求め大泉に転居する。たまたま24年に一橋大学を誘致しようと鉄道会社が東大泉駅を開設し区画整理を始めたところだった。元書生・芹沢薫一郎が大泉の村役場で働いていたが、その妻の実家が所有する雑木林を牧野が借り受けた。牧野は木造2階建ての住戸と21坪の書庫、35坪の標本館を建て、319本の樹木を植えた。転居したのは1926年5月、64歳の時だった。また27年理学博士号を授与された。学士をもたず博士になったのは日本人で牧野一人だそうだ。その翌年妻が52歳で亡くなった。以降、三女と四女に面倒を見てもらい、のちには次女の世話を受け94歳で亡くなるまで大泉の家で過ごした。この跡地が牧野の死後1958年に牧野庭園になった。

特別展「サクラで祝う富太郎の誕生日」は、第1室には牧野と画工の山田壽雄の共作のおほやまざくら、そめゐよしの、みねざくらなどサクラの絵、第2室には、サクラ博士三好学(1862-1939)、長基コレクションの長基健治(1889-1985)、研究者川崎哲也(1929-2002)、ボタニカル・アートの太田洋愛(1910-1988)、服部雪斎(1807-?)などの作品約100点が展示されていた。服部は文部省の精密な動物掛図(教材)の画家でもあった。
ヤマザクラは、西南日本のヤマザクラと東北・北海道の大山櫻に分かれ、そのほかに大島櫻と染井吉野に分かれる。これらとは別に変種の八重桜、彼岸桜がある。
この記念館は2009年に改築された。そのときに管理棟、企画展示室・常設展示室などが新築された。また北東隅にある書屋展示室は、土間の外側に1962年に造られた鞘堂というコンクリートの建屋に覆われている。書屋は4畳と8畳の2間があり書物や標本でいっぱいだった。恕マ條(ようじょう)書屋という名で、恕マ條とは草木が生い茂るという意味だそうだ。牧野の勉強部屋にふさわしい名だ。
「学問は底の知れざる技芸なり」という額が掛けてあった。

には樹木と草花がたくさんある。それで毎月何かが咲いている。たとえば1月は水仙、2月は椿、3月は梅、4月は桜、5月は藤といった具合だ。桜だけでも、オオカンザクラ、ミシマザクラ、マナヅルザクラ、仙台屋、ヤマザクラなど10種以上ある。
オオカンザクラ、ヤマザクラも大木だが、門を入るとクロマツ、アカマツ、センダン、クスノキなどの巨木があちこちに佇立している。なかには樹皮にびっしり苔が生えている木もある。そのほかセリ、ホトトギス、ヤブミョウガ、ダイコンソウなどプランターに植えてある草本もたくさんある。
1950年(昭和25年)日本学士院会員。1951年(昭和26年)、89歳のとき第1回の文化功労者となる。1953年(昭和28年)東京都名誉都民。
没後従三位に叙され、勲二等旭日重光章と文化勲章を授与された。墓所は東京都台東区谷中の天王寺。また標本40万点は都立大学に、蔵書4万5000点は高知県に寄贈された。

住所:練馬区東大泉6丁目34番4号
   西武池袋線 大泉学園駅南口下車徒歩5分
電話:03-3922-2920  
休園:火曜日、年末年始
開館時間:9時~17時
入場料:無料


国立劇場前庭の仙台屋。開業40周年記念に仙台屋が3本植樹された
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