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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

神宮外苑のスポーツ博物館

2009年12月01日 | 博物館など
神宮外苑のいちょうの黄葉が美しい季節になった。いちょう並木を左に曲がり300mほど歩くと国立競技場の巨大なスタジアムが見えてくる。競技場のスタンド下には秩父宮記念スポーツ博物館がある。

博物館の展示は大きく分けるとオリンピック関係と日本のスポーツ史から構成されている。
オリンピック関係では、古代オリンピックのホッケーや埋葬のレリーフのレプリカ、日本が初めて参加したストックホルム大会(1912)で旗手・三島弥彦が着用したユニフォームやスパイクから、聖火のトーチ、開会式のブレザー、12歳のスケート選手・稲田悦子が着用したユニフォーム(1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘン冬季大会)、東京オリンピックの表彰台などさまざまな展示物が陳列されている。またマラソンの円谷選手の足型、東京オリンピックのサッカーボール、コマネチのサイン入りユニフォーム、山下選手の柔道着、野口みずきや高橋尚子のマラソンシューズ、そしてベルリンオリンピック棒高跳びの大江と西田の友情のメダルもあった。
レニ・リーフェンシュタールのベルリンオリンピックの記録映画「民族の祭典(1938)のビデオが上映されていた。五輪旗とハーケンクロイツが並んで掲揚された大会だった。以前「意志の勝利(1934)をみたことがあり壮大なナチスの宣伝映画だと思った。「民族の祭典」は部分的にちょっとみた範囲では、それほどナチスの宣伝色は強くはなかった。優勝確実と予想された女子400mリレーで、スタート時には身を乗り出したヒトラーが、第4走者へのバトンリレーで失敗し天を仰いだ場面も記録されている。一方、敵国アメリカがオーエンスをはじめとする男子400mリレーチームで優勝した場面も、応援団の熱狂とともにそのまま映し出していた。夜まで続いた棒高跳びの死闘も、メドウズ、大江、西田の顔のアップや日本の応援団とともに描写された。
マラソンでは、折り返し点では1位だったザバラ(アルゼンチン)が32キロ付近で棄権し、孫基禎とハーバー(イギリス)がデッドレースを繰り広げる様子が延々とスクリーンに映し出される。日本でマラソンが始まったのは1909年、おそらく朝鮮ではもっと遅かったと思われるが、25年足らずで世界のトップクラスに躍り出たのだから大したものだ。小説ではあるが柳美里の「すっすっはっはっ」の「8月の果て」でも李雨哲の健脚が描かれていた。日の丸を胸につけ、3位のとともに表彰台に立ち「君が代」を聞く孫の胸中はどんなものだっただろうか。画面で、月桂樹の冠をかぶった2人はうなだれていた。

東京オリンピックのころ使われたペースメーカー
日本のスポーツ史のコーナーでは、前述した日本のマラソンの始まりである1909年3月の大阪・神戸レースの写真や、日本のマラソン王・日比野寛が校長だった愛知一中の全校マラソン大会(1912)、第1回早慶戦(1903)の写真、大正時代のテニスのラケットなどが展示されていた。日比野校長が「健康鉄則、上体はいつも真っ直ぐ腰の上」と直筆で書いた扇子もあった。また東京オリンピックのころトラックの内周にレールをつけて走らせたペースメーカーが陳列されていた。世界記録の早さで動くよう東芝がソフトを組み、選手に指示を伝えるワイヤレス受信機が内蔵されていた。トラックの長距離選手が使っていたそうだ。
こちらでも10分ほどの戦前の映画が上映されていた。「体力章検定」(1941 都商会文化部)である。体力章検定は15~25歳の男子を対象に厚生省が1939年から実施した。種目は100メートル走、2000メートル長距離走、走幅跳、鉄棒懸垂、手榴弾投擲、俵運び走の6種目だった。種目ごとに上・中・下・級外の4ランクに判定するものだ。たとえば100メートルは14秒が上級、15秒が中級、16秒が下級、級外も3ランクに分かれていた。2000メートル走は7分30秒で上級、8分で中級、みな裸足で走っていた。手榴弾投げは540グラムの重りを何m投げられるかというもので、いまのソフトボール投げのようなものだ。手榴弾投擲は、伝令競技、突撃競技など国防競技というジャンルの一種目だった。厚生省は国民の健康増進と体位向上により「非常時国防ノ根基ヲ確立スル」、はっきりいえば立派な兵隊育成と母体の体力向上を図るため1938年1月、内務省から分離して設置されたことは知っていた。しかし、ここまで露骨に国民の「体力」を国家目的で管理していたことは知らなかった。
このほか国民体力法が1940年に制定され年1-2回、学校卒業後26歳未満、徴兵検査前の男子や20歳未満の女子に実施された。こちらは健康診断のようなもので、身長、体重、胸囲、視力、ツベルクリン反応などの検査だった。
この博物館の一番奥の間は秩父宮(1902年6月25日 - 1953年1月4日)の遺品室である。昭和天皇の弟、秩父宮はスポーツ好きで、学習院時代の剣道の道具、オックスフォード留学中にボートのフォアの選手になった写真、マッターホルンなどアルプスに登頂した登山道具、29歳で陸軍大学校を卒業したとき皇太后(大正天皇の妻)が贈った騎馬像などが展示されていた。そして秩父宮が下賜した大日章旗が展示されていた。この旗は1924年のパリ五輪から戦後のメルボルン五輪(56年)まで使用された。
思えば皇室とスポーツは相性がよいようだ。この国立競技場正面スタンドの貴賓席は「ロイヤルシート」である。サッカー、バレー、バスケット、卓球、柔道などの競技では天皇杯・皇后杯が授与されている。1956年12月の国立競技場の起工式には灘尾文相と並び秩父宮妃殿下が招かれた。
外苑が整備され1924年に始まった明治神宮競技大会、戦後1950年に始まった五大都市体育大会、国体と、スポーツと皇室の世界では敗戦前後の断絶はなかったようだ。
もともと明治神宮外苑は明治天皇の死後、全国の青年団の勤労奉仕で絵画館や陸上競技場、神宮球場が整備された地域である。秩父宮ラグビー場には女子学習院があり、国学院高校や青山高校がある場所には近衛歩兵第4連隊、北青山の都営アパートがある場所には陸軍大学校があり、その東側は21世紀の現在も皇太子夫妻や常陸宮はじめ皇族が住む赤坂離宮がある。
だれにとっても健康は大切だ。健康維持や体力向上のためスポーツをするのは自然なことだ。また、人にはスポーツを楽しむ固有の権利がある。ただスポーツは全日本大会や国際大会などでの国威発揚を通して、応援する観客も含め、容易に国家あるいは国家主義に取り込まれる。わたしたちは、この点を強く意識すべきである。

住所:東京都新宿区霞ヶ丘町10番2号
電話:03-3403-1159
開館日:第2・第4火曜日のみ休館(祝日の場合は開館)
開館時間:9:30-16:30(入館は16:00まで)
入館料:一般300円、高校生以下100円


☆競技場の近くで不思議な建物をみつけた。奄美の高倉づくりの建物で、近くにいくと「建国記念文庫」という説明板があった。建国記念の日は、いまから33年前の1966年12月9日審議会の答申を受け即日、政令が公布された。それまで全国から届いた数十万通の希望や意見書を保管する建物だそうだ。この説明文を書いたのは審議会会長の菅原通済だ。菅原というと、小津の映画にゲスト出演したのでタレントのような人かと思っていたが、審議会会長もやっていたようだ。

☆スポーツ博物館を見学したきっかけは「国立競技場ファンランDAY2009」というイベントだった。ジョギングのフォームを教えてもらえるのかと思ったら、柔軟性、脚力測定、体重心測定、ペース測定など5項目の測定と診断がメインだった。朝は小雨で寒い日だったが国立競技場のトラックを走ることができて満足した。メキシコオリンピック銀メダルの君原健二さんがゲストで、聖火リレーを行ったりスタジアムツアーもいっしょに見学された。
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