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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

東京の寄席、90年の盛衰

2010年10月09日 | 博物館など
半蔵門の国立劇場の裏口を通り抜け、いちばん突き当りを右折したところに国立演芸場がある。入口の奥に、規模は大きくないが演芸資料展示室があり、ちょうど「東京の寄席」という資料展を開催していた。

東京の街並みは関東大震災(1923)と東京オリンピック(1964)で大きく変容した。寄席も同じだそうだ。
橘流寄席文字家元・橘右近(1903-95)の記憶では、震災前東京市内には168軒もの寄席があったそうだ。震災直前の1920(大正9)年の「東京市全図」が展示されていた。中心は日本橋や両国橋で、南千住、吉原、錦糸町、高輪、早稲田あたりが市街の外延で、日暮里、白金、渋谷・青山、池袋、巣鴨となると郊外だった。たとえば日暮里や南千住は北豊島郡、目黒や品川は荏原郡、千駄ヶ谷や渋谷は豊多摩郡と郡部だった。
地図に30の寄席がプロットされていた。下谷、浅草、日本橋、神田が主で、本郷や神楽坂にもあった。当時は本郷の若竹座が、茅場町の宮松亭と並び有名で、定員600人の大劇場だった。しかし若竹座は大震災で焼失した。

敗戦後、演芸が盛んになったのは1960年代に入ってからのことだ。ラジオやテレビという追い風があった。しかし寄席の数は、上野鈴本、東宝演芸場、新宿末広亭、人形町末広など7軒にすぎない。それを補ったのは、東横ホール、日経ホール、紀伊国屋ホール、ヤマハホールなどのホール落語だった。
人形町末広は明治以来の老舗で定員250人、交差点の北側にあり裏の楽屋口の近くには歌舞伎の「切られ与三」で有名な玄冶店(げんやだな 歌舞伎のなかでは源氏店)があった。
東宝演芸場は日比谷の東京宝塚劇場の5階にあった。演芸場は80年8月閉鎖されたが東宝名人会は日劇ミュージックホールや芸術座に会場を移し、2005年2月まで続いた。
59年12月の名人会のポスターが掲示されていた。春風亭柳昇、柳家小さん、古今亭今輔、柳亭痴楽などラジオで聞いたなつかしの落語家の名前が並んでいる。
演芸ブームのピークだった66年9月の新宿末広亭のポスターが掲示されていた。こちらは柳家小さん、古今亭志ん生、桂文楽、林家正蔵(後の彦六)、三遊亭円生と、わたしでも知っている落語の名人たちが目白押しである。

しかし人形町末広は70年1月、東宝演芸場は前記のとおり80年8月、浅草松竹演芸場は83年11月、上野本牧亭は90年に、次々に閉鎖した。
浅草松竹演芸場はコント55号が活躍した寄席で、83年11月の閉場記念のポスターが掲示されていた。玉川カルテット、牧伸二、リーガル天才秀才、コロンビアトップ・ライト、コントレオナルド、早野凡平、坊屋三郎、マルセ太郎などテレビでよくみたなつかしい名前が並んでいる。

21世紀の現代、東京23区に寄席は、新宿末廣亭上野鈴本演芸場浅草演芸ホール池袋演芸場の4つ、国立劇場を入れても5つしかない。いくらDVDやCDで古典を聞くことができる時代とはいえ、大震災前の人口370万人(1920年)の東京に150軒以上寄席があったことを思うと、いかにも寂しい。また寄席の料金は2500円から2800円、クラシックのコンサートや芝居よりずっと安い。
なお、笑点で有名になった三遊亭円楽(1932-2009)は私財を投じて85年4月に江東区東陽で「若竹」という寄席を開場した。しかし4年後の89年11月閉場した。

隣の伝統芸能情報館で「歌舞伎の歴史」を開催していた。「歌舞伎の魅力 演技」というビデオが流れていた。
見得、タテの解説と「義経千本桜」「積恋雪関扉(つもるこい ゆきの せきのと)」「奥州安達ヶ原」「浮世塚比翼稲妻(うきよづかひよくのいなづま)」「菅原伝授手習鑑」「天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)」の名場面を30分の解説付きでみることができ、わたしのような門外漢には大いに参考になった。

☆せっかく半蔵門まで行ったので、皇居周回ジョギングをした。休日はいつも行く銭湯・バン・ドゥーシェは休みなので、はじめてJOGLISというシャワールームに行ってみた。ビジター料金は700円と銭湯より高い。ただシャワーが個室になっており、ボディシャンプー、シャンプー、ドライヤーは無料でスペースもゆったりしていた。
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