俳優佐藤慶氏が5月2日に、美術評論家針生一郎氏が5月26日に相次いで亡くなった。両氏は阿佐ヶ谷市民講座の呼びかけ人だったので、7月15日(木)夜、白井佳夫さん(映画評論家)が「追悼 映画を使った佐藤慶、針生一郎」という11本の映画を使った追悼講演を行った。
わたくしは大島渚の映画の常連俳優だった佐藤さんに関心があるので、その部分を中心に報告する。
佐藤慶は、本名・慶之助、会津若松出身で1928年12月生まれ。戦時中は中島飛行機宇都宮工場で旋盤工として働き、戦後は会津若松市役所に勤務した。
佐藤が当時、会津若松の映画館で見たのが「大曾根家の朝」(木下惠介 1946年松竹)と「安城家の舞踏会」(吉村公三郎 1947年松竹)だった。杉村春子、小沢栄太郎、滝沢修など新劇出身の俳優の演技をみて「芯がある」と感じ、上京して1952年に俳優座養成所に入所した。4期の同期生には仲代達矢、宇津井健らがいる。しかし舞台には行かず映画界に入った。ちょうどテレビの草創期で日本テレビ「ダイヤル110番」、NHK「わたしだけが知っている」の再現ドラマや海外ドラマのアテレコに出演した。
会場で、小林正樹の「人間の條件・第三・第四部」(1959年)の一部が上映された。佐藤が30歳になるかどうかの若いころだが、陸軍内務班で反骨精神を発揮する骨太の人物を演じていた。国境付近に駐屯する部隊だったのでソ連へ越境し密入国を図る兵隊である。また小林の「東京裁判」(1983年)のナレーターを務めた。「人間の條件」のシナリオを小林と共作した新藤兼人の映画にも「鬼婆」(1964年)をはじめたくさん出演した。
佐藤は、戸浦六宏、小松方正、小山明子らと並ぶ大島組の一員だった。わたしはカギ鼻で鋭い目つきの佐藤が忘れられない。
この日は、「青春残酷物語」(1960年)、「日本の夜と霧」(1960年)、「白昼の通り魔」(1966年) の一部が上映された。佐藤がはじめて大島の作品に出演したのは「青春残酷物語」だった。桑野みゆきがチンピラ3人組に犯されそうになったときヒーロー川津祐介が颯爽と現れる。佐藤は、ケンカの仲裁役を買って出るチンピラの兄貴分の役で、なかなかっこよかった。
「日本の夜と霧」という理屈っぽい映画(大島の松竹での最後の映画)では、共産党を除名された学生役を演じていた。この日見た場面のバックに「若者よ」(若者よ体を鍛えておけ、 美しい心がたくましい体にからくも支えられる日がいつかは来る・・・)という歌が、繰り返し繰り返ししつこいくらいに流れていた。「歌と踊りの民青同盟」というイメージはこの映画により定着したのかもしれない。そして「白昼の通り魔」では連続強姦殺人犯の主人公を演じた。坊主刈りで、このころはずいぶんやせて精悍だった。
以下、白井さんが語った大島と佐藤のエピソードを紹介する。佐藤慶は、党派を組み馴れあうことが嫌いだった。松竹を辞めた大島は独立プロ「創造社」を設立する。戸浦、小松らメンバーはテレビや映画に出演したギャラの10%(あるいは20%)を創造社に拠出することでプロダクションの経営が成立した。佐藤は大島映画に多数出演したが最後まで創造社のメンバーにはならなかった。また徒党を組み群れて何かすることも嫌いで、たとえば石橋蓮司や原田芳雄を周囲に従える勝新太郎を嫌った。
また戦闘的な性格だった。大島組が新宿のバーで飲んでいたとき学生運動家がとうとうと新左翼の政治論をぶった。佐藤は「お前の言っていることは何か!」「お前の論理はなあ!」という調子で、完膚なきまでに論理的に叩き伏せた。学生の恋人の新劇女優が「佐藤さん、そこまでやることないじゃない」と泣き出したほどだった。
一方、よく映画をみたり先端的な本を読んでいた。大島が「次は○○をやるので、原作を読んでおけ」と呼びかけると、「僕もう読んでます」と声をあげるのはたいてい佐藤だった。
大島の創造社は「夏の妹」(1972年)を最後に解散する。大島の言葉を引用すれば「大島の作品で賞を取った人の写真が事務所の壁を一回りするころ、(独立プロは)解散しないといけない」そうだ。解散後、大島が着手したのは、黒沢が失敗した海外資本との提携だった。それが「愛のコリーダ」(1976年)である。フランス映画なので、撮影したのは日本だが現像も編集もすべてフランスで行った。ヨーロッパやロシアで公開されたが、とうとう日本では完全版が上映されていない。日本国憲法21条2には「検閲は、これをしてはならない」とあるのだが。
次に、日本人監督が外国で映画を撮るという方法を試みた。完成したのが「戦場のメリークリスマス」(1983年)である。音楽家・坂本龍一、デビッド・ボウイ、ビートたけしを役者として起用し成功した。じつは佐藤がシナリオを読み「(坂本龍一が演じた)日本人将校の役は私の役です。私にやらせてください」と大島へ長文の手紙を書いた。しかし大島は一顧だにせず、また「今回は我慢してくれ」と返事を出すこともなく坂本を起用した。
佐藤は馴れあうことを嫌ったがこんな手紙を書いた。それを大島は無視した。大島も大した人物である。このように役者・佐藤と監督・大島のあいだには「共同」する部分と「対立」する部分があり興味深い。
佐藤は、死の2年前ころから住所を教えなくなり電話も通じなくなった。映画関係の人とは縁を断つほど厳しい生活をしていた。家庭的な平和に安穏とする生き方を嫌う人間だった。
市民講座の講師依頼も何度か行なったが実現しなかった。これも、白井と馴れあい講師になることがいやだったのかもしれない。しかしずっとカンパに応じてくれていた。
☆美術評論家針生一郎氏の出演した映画が2本ある。「日本心中 針生一郎・日本を丸ごと抱えこんでしまった男。」(2001年)と「9.11-8.15 日本心中」(2005年)の2本で監督は両方とも大浦信行氏(美術家)である。一部をみたが、密度の濃そうな映画だった。なお大浦氏は昭和天皇の写真を使った作品「遠近を抱えて」で富山や沖縄の美術館で展示拒否の目にあった作家である。
☆わたしが大島の映画で最も好きな作品は、シュールなシーンを含む「日本春歌考」 (1967年) と「新宿泥棒日記」(1969年)である。「絞死刑」(1968年)と「少年」(1969年)は秀作、「愛と希望の街」(1959年)、「ユンボギの日記 」(1965年)を佳作だと考える。しかし「夏の妹」(1972年)には本当にがっかりした。その後の「愛のコリーダ」、「愛の亡霊」(1978年)、「戦場のメリークリスマス」はいちおう見たが、「マックス、モン・アムール」(1987年)はみていない。佐藤慶がもっとも佐藤慶らしかったのは、悪魔のような元高級官僚の家父長を演じた「儀式」(1971年)である。
わたくしは大島渚の映画の常連俳優だった佐藤さんに関心があるので、その部分を中心に報告する。
佐藤慶は、本名・慶之助、会津若松出身で1928年12月生まれ。戦時中は中島飛行機宇都宮工場で旋盤工として働き、戦後は会津若松市役所に勤務した。
佐藤が当時、会津若松の映画館で見たのが「大曾根家の朝」(木下惠介 1946年松竹)と「安城家の舞踏会」(吉村公三郎 1947年松竹)だった。杉村春子、小沢栄太郎、滝沢修など新劇出身の俳優の演技をみて「芯がある」と感じ、上京して1952年に俳優座養成所に入所した。4期の同期生には仲代達矢、宇津井健らがいる。しかし舞台には行かず映画界に入った。ちょうどテレビの草創期で日本テレビ「ダイヤル110番」、NHK「わたしだけが知っている」の再現ドラマや海外ドラマのアテレコに出演した。
会場で、小林正樹の「人間の條件・第三・第四部」(1959年)の一部が上映された。佐藤が30歳になるかどうかの若いころだが、陸軍内務班で反骨精神を発揮する骨太の人物を演じていた。国境付近に駐屯する部隊だったのでソ連へ越境し密入国を図る兵隊である。また小林の「東京裁判」(1983年)のナレーターを務めた。「人間の條件」のシナリオを小林と共作した新藤兼人の映画にも「鬼婆」(1964年)をはじめたくさん出演した。
佐藤は、戸浦六宏、小松方正、小山明子らと並ぶ大島組の一員だった。わたしはカギ鼻で鋭い目つきの佐藤が忘れられない。
この日は、「青春残酷物語」(1960年)、「日本の夜と霧」(1960年)、「白昼の通り魔」(1966年) の一部が上映された。佐藤がはじめて大島の作品に出演したのは「青春残酷物語」だった。桑野みゆきがチンピラ3人組に犯されそうになったときヒーロー川津祐介が颯爽と現れる。佐藤は、ケンカの仲裁役を買って出るチンピラの兄貴分の役で、なかなかっこよかった。
「日本の夜と霧」という理屈っぽい映画(大島の松竹での最後の映画)では、共産党を除名された学生役を演じていた。この日見た場面のバックに「若者よ」(若者よ体を鍛えておけ、 美しい心がたくましい体にからくも支えられる日がいつかは来る・・・)という歌が、繰り返し繰り返ししつこいくらいに流れていた。「歌と踊りの民青同盟」というイメージはこの映画により定着したのかもしれない。そして「白昼の通り魔」では連続強姦殺人犯の主人公を演じた。坊主刈りで、このころはずいぶんやせて精悍だった。
以下、白井さんが語った大島と佐藤のエピソードを紹介する。佐藤慶は、党派を組み馴れあうことが嫌いだった。松竹を辞めた大島は独立プロ「創造社」を設立する。戸浦、小松らメンバーはテレビや映画に出演したギャラの10%(あるいは20%)を創造社に拠出することでプロダクションの経営が成立した。佐藤は大島映画に多数出演したが最後まで創造社のメンバーにはならなかった。また徒党を組み群れて何かすることも嫌いで、たとえば石橋蓮司や原田芳雄を周囲に従える勝新太郎を嫌った。
また戦闘的な性格だった。大島組が新宿のバーで飲んでいたとき学生運動家がとうとうと新左翼の政治論をぶった。佐藤は「お前の言っていることは何か!」「お前の論理はなあ!」という調子で、完膚なきまでに論理的に叩き伏せた。学生の恋人の新劇女優が「佐藤さん、そこまでやることないじゃない」と泣き出したほどだった。
一方、よく映画をみたり先端的な本を読んでいた。大島が「次は○○をやるので、原作を読んでおけ」と呼びかけると、「僕もう読んでます」と声をあげるのはたいてい佐藤だった。
大島の創造社は「夏の妹」(1972年)を最後に解散する。大島の言葉を引用すれば「大島の作品で賞を取った人の写真が事務所の壁を一回りするころ、(独立プロは)解散しないといけない」そうだ。解散後、大島が着手したのは、黒沢が失敗した海外資本との提携だった。それが「愛のコリーダ」(1976年)である。フランス映画なので、撮影したのは日本だが現像も編集もすべてフランスで行った。ヨーロッパやロシアで公開されたが、とうとう日本では完全版が上映されていない。日本国憲法21条2には「検閲は、これをしてはならない」とあるのだが。
次に、日本人監督が外国で映画を撮るという方法を試みた。完成したのが「戦場のメリークリスマス」(1983年)である。音楽家・坂本龍一、デビッド・ボウイ、ビートたけしを役者として起用し成功した。じつは佐藤がシナリオを読み「(坂本龍一が演じた)日本人将校の役は私の役です。私にやらせてください」と大島へ長文の手紙を書いた。しかし大島は一顧だにせず、また「今回は我慢してくれ」と返事を出すこともなく坂本を起用した。
佐藤は馴れあうことを嫌ったがこんな手紙を書いた。それを大島は無視した。大島も大した人物である。このように役者・佐藤と監督・大島のあいだには「共同」する部分と「対立」する部分があり興味深い。
佐藤は、死の2年前ころから住所を教えなくなり電話も通じなくなった。映画関係の人とは縁を断つほど厳しい生活をしていた。家庭的な平和に安穏とする生き方を嫌う人間だった。
市民講座の講師依頼も何度か行なったが実現しなかった。これも、白井と馴れあい講師になることがいやだったのかもしれない。しかしずっとカンパに応じてくれていた。
☆美術評論家針生一郎氏の出演した映画が2本ある。「日本心中 針生一郎・日本を丸ごと抱えこんでしまった男。」(2001年)と「9.11-8.15 日本心中」(2005年)の2本で監督は両方とも大浦信行氏(美術家)である。一部をみたが、密度の濃そうな映画だった。なお大浦氏は昭和天皇の写真を使った作品「遠近を抱えて」で富山や沖縄の美術館で展示拒否の目にあった作家である。
☆わたしが大島の映画で最も好きな作品は、シュールなシーンを含む「日本春歌考」 (1967年) と「新宿泥棒日記」(1969年)である。「絞死刑」(1968年)と「少年」(1969年)は秀作、「愛と希望の街」(1959年)、「ユンボギの日記 」(1965年)を佳作だと考える。しかし「夏の妹」(1972年)には本当にがっかりした。その後の「愛のコリーダ」、「愛の亡霊」(1978年)、「戦場のメリークリスマス」はいちおう見たが、「マックス、モン・アムール」(1987年)はみていない。佐藤慶がもっとも佐藤慶らしかったのは、悪魔のような元高級官僚の家父長を演じた「儀式」(1971年)である。