わたしの住民運動(8)
山幹の環境を守る市民の会
山本すまこ
平成7年2月6日、局長が謝りに来られてから、私達も震災のあとの生活の建て直しに必至でした。地域には崩れたままの家屋があちこちにあるので、出火の心配があり、夜回りを交代で行いました。山本家は3月31日に仮住まいの枚方に引越しましたが、役員や地域の皆さんが、5月末まで夜回りをして下さいました。
こんな時期に、市も山手幹線どころではなかろう、しばらくは休戦であろうとたかをくくっていました。ところが6月に入って、市当局は住民との協議会の開催について打診していた。
平成7年7月7日、国道43号線道路裁判原告団の19年に亘る闘いに、最高裁がついに判決を下した。原告の住民に、国と公団は賠償の責任ありとの歴史的な結論をだした。道路建設に反対している私たちにとって、大きな希望となった。もっと頑張ろうと、追風になると意を強くした。行政側にとっても今、このような判決を目のあたりにすることは、決して有利な材料ではないことを自覚していた。
7月12日、協議会の趣旨と住民側の代表名簿を提示した。代表は各町会長各々、各町の代表および若干名とした。そして結果8月に一度開催をしてもいいかなと。然し、阪神間道路問題ネットワークと同じ日にして、メンバーにも同席してもらおうということになった。
市には第一回協議会なので、是非とも小出助役の出席をと要望した。暑い盛りの8月6日、上甲子園サービスセンターにて、ネットワーク月例会の終了後、午後3時から開始となった。例会は少々時間が延びてしまった。早い目に到着した小出助役は、日曜日のクーラーのない、下の事務所で待たされる羽目となったのである。やっと20分程して連絡に行った。「わしを誰だと思ってんのか、いつまで待たせるんや。」といわんばかりにせわしげにばたばたと扇子を使って入って来た。この日、住民の要望で都市計画部の職員が出席した。後に局長となった志摩部長が、都市計画部長として来ていた。住民は計画段階の話をしたかったのである。初めて助役が出席しての会であり、皆、今日の会は画期的な会となるであろうと期待も大きかった。
しかし、冒頭からこの会の目的について、市側と住民側の理解が全く違っていたのである。我々住民は、今後どのような説明会を、どのようにして開催していくか、双方代表をだして協議していこうというものであった。ところが、市はどのように工事を進めていくかを、住民と話し合って行こうというものであった。真っ向から正反対の立場、理解のなかでこの協議会が成り立つ筈がなかった。結局、助役も協議をしないとは言っていないといいつつ、激しい抗議に対して、議会が承知している、議会に何度も陳情した結果、賛同を得ていないではないか。とまで言い放った。いらいらも頂点に達していた。助役は住民の質問にもたもたしているN局長を、扇子で叩いたりもした。滑稽な姿であった。そして結論は、市側は住民との協議会の設置を拒否!と断言して会を終了した、と言うよりせざるを得なかった。助役はあくまでも住民には説明をするというので、沿道全体の住民に説明をするようにと。N部長は全地域ですか、とびっくり。全員が口をそろえて「そうです!!」。後日この「全地域」がたいへんな思いをされられることになったのである。
平成7年8月9日、住民は8月6日の結果はまことに遺憾であると抗議し、住民としては速やかに協議会の設置を再度要求した。8月21日、協議会の趣旨が市側と住民側とで、違いが大きすぎるので協議会は設置しないと言ってきた。そして市は、広い範囲の住民を対象の説明会を、開催したい旨の書面を届けてきた。また、同時に再度、瓦木小学校講堂にて3日間、連続で開催するというものでした。各町内に回覧、または全戸配布し、8月25日発行の市政ニュースで公表するといった。翌8月22日、即抗議文を提出。地域全体の説明会としては、周知期間があまりにも短い。平成6年12月26日という、年末のあわただしい時に説明会を開催したり、今回また、周知徹底できない形で強引に推し進めようとする。市当局のやりかたは、住民に対して「理解協力を得ながら事業を進めたい」と言っていることとは程遠く、形だけの説明会を強引に行おうとしている。このような市の態度は住民を無視して、一方的に事業に入ろうとしているに他ならない。私たちは断固、このような説明会は受け入れることは出来ない。あらゆる手段をもって抵抗していく。最後に「円滑に説明会を開催するために、再度協議会の設置を」との申し入れをするとともに、今回の三日間の説明会の中止を要求した。市当局に抗議しつつも、対策を考えなければと8月27日、緊急の相談会を開いた。
山本家は枚方に転居中、早くても9月半ばまでは帰ってこれない。枚方から三日間、通って来なければならない。これは大変である。とにかく、一日目は何とか枚方から来ることにし、説明会を流会にしよう。地域全体を対象にしているのだから、横断幕をつくって反対のアピールをしようと決めた。染原会長は、連合の各会長へのアタックを試みて下さったり、記者にアドバイスを求めたりして下さったようでした。当日は広い講堂から声が透るように、住民にもマイクをと約束をとりつけた。
平成7年8月30日、当日墨根鮮やかに堂々とした男らしい字で
- 「市民との対話を拒否する説明会は中止せよ」
- 「西宮市は環境破壊する道路計画を撤回せよ」
- 「行政の横暴を許すな」
- 「山手幹線の拡幅、架橋に絶対反対」
との横断幕を用意し、市が計画図を貼る前に講堂の正面にでかでかと掲げた。
はじめて、沿道地域全体を対象とした説明会の開催で、今までに参加したことのない小学校周辺の会長も“どんなんかな”と覗きに来た。圧倒的な住民の迫力に度肝を抜かれたに違いない。本心は絶対賛成。市の不甲斐なさを情けなく見守ったに違いなかった。集まった住民は約130名、口々に反対を訴えた。環境面から、私たちの地域の、また地球全体からみても、これ以上環境を破壊する行為は罪と言っても過言ではない。
市の財政面からも、想像を絶する阪神淡路大震災で、いまだ生活の基礎を失い希望を見い出せない多くの人達への支援が優先されるべき時。地域の生活道路として、何ら不自由のない山手幹線道路を、住民の心を踏みにじってまでも推進しようとする行政のやり方に、憤懣やるかたなき思いが溢れていた。この場に参集した住民の多くは、行政とは一体誰のためにあるのかと考えたに違いない。私たち反対の会の一人一人は、自信を持っていた。この当局の誰が私たちの生活環境を守ってくれるんだろう。この人達は仕事をしているだけなんだ。内容を考えることは、仕事の邪魔になるんだ。やっぱり自分たちの地域の環境は、自分たちで勝ち取るほかないんだ、と。仕事をしている人も、自分の地域に帰った時、私たちと同じとは言わないまでも、それに近いところまで理解ができるに違いないと思った。
平成7年8月30日、平成3年から続けてきた反対運動、またこれからも続くであろう運動の中で、この日の説明会は一つの歴史的な日となったのでした。それは、この日初めて集まって、初めて市の横暴を目のあたりにして、初めて「山幹反対のやからは何をほざいておるんだと思っていた人」が、その意味がわかってくれた日となったのでした。市を前に住民の意見が、市の説得を超えていることを知った市民は、即、私たちと同じ行動はできなくても、心に潜在することが大事であることが、後々に解るところとなった。会の最後に、市民の会の代表が、「今日の会は流会と言うことでよろしいな」で流会になった。
とにかく8月25日の市政ニュースで公表されて、30日の開催という、今までにない市の一方的なやり方に、少なからず不安を抱いていた我々でしたが、いざ大勢の聴衆を前に、市が無謀なことをしようとしているかを訴えることが出来た。と、まずは一息ついた。
枚方に帰り着いたのは午後11時を過ぎていた。
翌8月31日は、上甲子園サービスセンターでの説明会、市も必死であろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます