渡し船
川西自然教室 恵須川満延
先日、夕刊に大阪市の「渡し船」のことが載っていた。法的には道路の一部とされ、無料。大阪には今でも全国最多の8路線が残っており、一時は利用客の減少で存亡の危機であったのが96年に増加に転じ、現在では年間200万人を越す勢いだそうでウォーキングやサイクリングなど健康志向の人々の新しいコースとして道と道をつなぐこの「渡し船」が今都会の人々に人気との事である。
私は5歳位の頃より小学校5年生まで大阪市大正区に住んでおり、祖父母の家が尻無川を挟んだ港区にあったため休日を利用してはよくこの渡し船(甚兵衛の渡し)に乗って出かけたものだ。渡し乗り場の横に小さな売店があり、いつも1本5円の“みかん水”を飲むのが楽しみだった。ラムネ10円、バヤリースオレンジや三ツ矢サイダーが25円位で子供の小遣いではとても手の出なかった時代である。
渡し料は無料だったと思うが船出の時間があったのか、なかったのか、手こぎ舟は一定の乗客があると出発した。どれ位の時間だっただろうか。たぶん10分位だったと思うが、対岸の港区に着くと、目の前には見渡す限りの原野が広がり、その中を1本の地道がずっと真っすぐ続いている。い<ら子供でも迷うなんて事はない。
色々寄り道をしながら祖父母の家に着くといつも「よう来た、よう来た、えらい、えらい」と祖父母が迎えてくれたものだ。
道路と電車が好きで当時大学に通っていた叔父は市電のレール間は何メートル何センチ、国鉄(現JR)のレール間は何メートル何センチ等と私に聞かせては、これからの時代は道路と鉄道だとの夢をよく話してくれた。自転車の後に乗せてもらっては色々の所に連れて行ってもらったのは覚えているが、それがどこだったのか。
人々の交通手段はまだまだ市電と自転車。子供は歩くしか仕方ない。港区朝潮橋の祖父母の家の裏からは赤々と海に沈んで行<夕陽が見られたものだが、もうそんな風景はなくなり市電は地下鉄に替り当然祖父母もいない。叔父は道路公団のある建設局の局長をずっと前に定年。道路作りという面では良き時代であったのかも知れない。
そしてこの私は、車が走りまわる国道173号線沿いの事務所でこの原稿を書いている。
大阪市はまだこの航路は廃止しない方針。渡船場までの道をカラー舗装したり、安全さくを設けたり、整備を進め今後は障害者の人々にも利用しやすいようにバリアフリーエ事や点字板を作って行くとの事である。新間で見なかったらもうすっかり忘れ去っていたあの「甚兵衛の渡し」近い内に乗って来るか。
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