『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

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『みちしるべ』斑猫独語(11)**<2001.9.Vol.13>

2006年01月05日 | 斑猫独語

澤山輝彦

<自動車のデザインについて少し>

 子供の頃、自動車が大好きだった。だいたい1950年代のことで、今日のような車社会の到来など考えもつかない貧しい時代のことだ。走っていた自動車はほとんど外国車で、アメリカ車が主であった。そんな自動車を見るだけで楽しんでいたのだ。当時のアメリカ車は輝いていた。輝くは比喩でなく、クロームメッキのラジエーターグリルやサイドライン、バンパーなどがピカピカ、ギラギラと輝いていたのだ。ビッグスリーといわれたフォード、ゼネラルモーターズ、クライスラー社の車の他に、パッカード、スチュードベーカー、ハドソン、ナッシュなど今は潰れて無い会社の車も走っていた。あの時代の車は今では懐古趣味者が懐かしんでほめるのでなければ、装飾過剰だった、と負の評価を受けることが多い。でも多種多様で派手なデザインは当時の人々を魅了したのだし、貧乏な異国の少年に夢を与えたのだった。

 それから約半世紀たち、日本は豊かな国になった。物があふれている。車があふれている。といっても豊かさの内実は問われており、単なる物あふれにすぎないとの見方がある。私もその考え方に同調する。それはそれとして少年時代あこがれだった車を持とうと思えば持てる今、車は車公害の発生源であるなど問題をかかえた物になってしまった。だから私は車を持たない。

 日本車は自動車王国アメリカに輸出されるまでになった。四輪車の2001年上半期米国向け輸出実績は74万628台でこの数は前年同期比13.1%の減少という。(日本自動車工業会2001/7/27発表)日本車は値段に対して性能がいい、コストパフォーマンスに優れているといわれる。性能は良いとして、見た目、デザインはどうだろう。日本車のデザインには個性が無いと私は思うのだ。コンピューターで空気力学特性を解析した上での設計が基本となれば、どの車も似たデザインになってしまうのは当然なのだろうが、かつてのギラギラはともかく、画一的とも言えるデザインを見ていると、ここにまで“日本人の横並び思考”が現れているのかと思ってしまう。昔日の私のように、日本車を見て心をときめかしている外国の少年はいるのだろうか。デザインを勉強したこともない私が、車のデザインを評するのは素人のこわい物知らずと、ずうずうしさとからで、少しでもデザイン関係の仕事にでもかかわっていれば、デザイナーの苦労も分かり、こんなことは言えないだろう。

 車のデサインにも時代の流れがある。そこからはみ出したデザインの車は、造形的、機能的に優れていても、その革新性に人々はためらい、手を出すのをひかえる。売れなければ商品価値はない。そんな車は早々と消えていく。後々そんな中から名車と呼ばれるものが出たりするから皮肉なものだ。デザイン、デザインとえらそうに言っても、私はクルマの先頭部、顔の部分を主に見ているだけで、これではただの“面食い”にすぎず、デザインという言葉を使うのは的外れになるのかもしれない。

 空気力学的に車を横からみれば、くさび形が優れているそうだ。最近の車の先頭部が低く厚みのない設計をされているのはそのためだ。ヘッドライトも横に細長くなり、それと同じ幅程度のラジエーターグリル(以後グリルと略す)と、樹脂製の大型バンパー、それにボンネットがついているのが今の車の先頭部の処理だ。大型バンパーにはたいてい空気取り入れ口が付いているから、あえてラジエーターのための空気取り入れ口をつける必要が無いのだろう、グリルのないデザインもある。勿論エンジンやラジエーターの性能が向上したこともデザインに与えた影響は大きい。グリルはラジエターを守る必要から生まれたが、やがて車の性能に関係なくデザインのためにテザインされる部分になった。歴史のある車は今でも伝統的なラジエーターグリルを付け、ブランドを誇っている。パルチノン神殿の柱列をデザインしたと言われているロールス・ロイス、今は無いがパッカード車もある時代までは天秤をデザインしたという端正な縦型のグリルが美しかった。メルセデス・ベンツのグリルも一目でわかる。BMWやボルボなどもそれとわかるグリルが着いている。子供のころ荘重なパッカードの霊柩車があった。死んだらパッカードに乗れるなあと子供どうしで言ったものだ。パッカードも後にはギラギラ横長の平凡なグリルになって、やがて消滅する。

 歴史の浅い日本車が狭い小さなグリル部分をどうさわっても大差のない物が出来てしまうのは仕方のないことなのだろう。会社のマークがなければどこ製の車かわからない車がたくさんある。国産車のシャーシーに往年の英国車風縦型グリル付きのボディを載せた車に人気があるそうだ。差別化をはかる目だちたがり屋が買うのだろうか、それとも今風デサイン批判の精神がこれを買うのか、どちらかだろう。日本車でも大型高級車ともなれば、それなりの“顔つぎ”をしているものがあるし、軽四輪という範疇には独特のテザインがあるようだ。この両車種に挟まれた範囲の車が平凡な顔付きをして、没個性で安住しているということになるのだ。

 バブル経済下の日本で、車は地位の象徴でもなんでもなくなった。金さえ出せば誰でもロールス・ロイスが買えたのだし、メルセデス・ベンツだってそうだ。屋根無し駐車場に置いてあるロールス・ロイスを見たし、車庫がなく路上駐車を続け、鳥の糞にまみれているメルセデス・ベンツを知っている。今どきベンツで驚く日本人など少ないのだ。高級車と言われる車でもこうだから、平々凡々の日本車なんてどうということもない。こんな車は捨てやすい、いまや捨て時ではないか、捨てよう、と話を飛躍させてしまうのだ。

 こうは言っても私は決して車を全否定するものではない。現在の車社会の弊害、全ての人が車を持っているという前提でしか考えられないような街づくりがされたり、行動基盤を車に据えて様々な計画が立てられたりすること、弱者のための車が、弱者を追いやったりする、こんな現状には抵抗しなければならないという考えの下、どうすればいいのかという結論の一つが車を減らす、持たないということになるのだ。

 こんなことを書き終えてから、有名な工業デザイナー、レイモンドローウイの「外見も機能のうち」という言葉に出会った。出典は今のところわからない。ローウイは先にあげた、スチュードベーカー社の車に二度、画期的なデザインを施したが、会社のもうけには結びつかなかったようだ。私たちの身近にもローウイがデザインしたものがある。両切りピースの箱のデザインがローウイの作品だ。

 

これはトヨタの高級車、レクサスです。澤山画伯が言うラジエターグリルを、このような感じに統一してゆくと、新聞記事で読みました。世界の高級車は、ベンツにせよBMWにせよ、統一デザインだということだそうだ。トヨタも意識して、このような形にするという。我らが澤山画伯の、この記事をどこかで読んだのかな?

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