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19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した 第一章 (19)

2014年04月06日 | お日様とお月様の光と影
  19世紀半ば、日本の国内には「江戸の幕府と将軍」と「京の朝廷と天皇」との異なる二つの政体が存在していました。しかも江戸時代における幕藩体制は藩という独立国家が300近く存在しその代表として江戸を領地とする幕府が存在する「連合国家」でした。それぞれの藩は好き勝手に領地を統治していて「日本国としての統治制」はありませんでした。

 この頃、300ある藩の中で一頭抜き出ていた藩が薩摩藩でした。薩摩藩は既に藩政近代化改革を推進していて西洋式関連事業を興し幕府を凌駕しょうとしていました。この薩摩藩が長州藩、土佐藩そして佐賀藩と同盟し江戸幕府を倒し「中央集権国家」を樹立させます。しかし日本が幕藩体制の「連合国家」から「中央集権国家」の明治新政府を樹立するためには国内が混乱する波乱の時代を越えて往かなければなりませんでした。

 1855年6月初旬、西郷吉之助は薩摩鍛冶屋町の実家で近所の幼なじみ大久保一蔵と再会しました。大久保と西郷は通商問題について話し合っていました。幕府はアメリカ合衆国、イギリス、帝政ロシアと和親条約を締結した。アメリカ合衆国の総領事が来年に来日するアメリカは必ず通商を求めて来るはず。江戸薩摩藩邸詰めの有村俊斎と有馬新七などの攘夷派志士たちが通商断固反対!の声を高めている。この薩摩藩攘夷派志士と精忠組(せいちゅうぐみ)が対立し薩摩藩分裂を招くと西郷は危機を感じていました。
 
 「西洋列強諸国の軍備や国力を知らずただ過激に騒ぐ攘夷派の藩士達は愚かでありそれらの者を説得するのが吉之助の役目の一つである!」と斉彬に命じられたと大久保一蔵に吉之助が打ち明けました。

 「吉之助さん我らの殿は薩摩藩の分裂を恐れておらるのでは??」

 
 斉彬は島津家当主と薩摩藩主に就任する以前に薩摩藩内で継承問題の内紛が起きました。斉彬は島津家25代当主第8代藩主重豪の影響を強く受けていて藩内の改革派と共に薩摩藩近代化政策を推進していました。一方27代島津家当主10代藩主斉興の側室であるお由羅(おゆら)の子久光を次期当主と藩主に擁立していました。斉興は斉彬派が推進する近代化は浪費と判断しなかなか島津家当主と藩主を引退しませんでした。

 『斉彬擁立派は郷中の二才たちを結集させ斉彬擁立の運動を行いました。この運動に西郷吉之助や大久保一蔵も加わり精忠組を結成しました。斉彬と異母兄弟の久光との島津家後継問題は薩摩藩内紛に発展していきました。この薩摩藩の内紛を「高崎崩れ(お由羅騒動)」と言います。』
 『久光擁立派は幕府に対して直訴する強行手段に出ました。そこで幕閣安部正弘の仲立ちもあって斉彬は1850年43歳で島津家28代当主と11代薩摩藩主に就任できました。』①
 
 『藩主に就任した斉彬はまず久光擁立派の処分を行いました。この時に大久保一蔵と父利世(としよ)は連座して職を解かれ謹慎処分となりました。職を失い大久保家は窮乏に陥りました。2歳年上の幼なじみ西郷吉之助は大久保家の窮乏を心配して西郷家も貧しいのに食糧を分け与えたりしました。また西郷は落ち込んでいる一蔵を励まして共に窮地を乗り越えて行きました。』①

 『そして斉彬は藩政改革を開始し郷中の二才たちに藩政改革の意見書提出を許可しました。歴代薩摩藩主が下士層の二才たちに意見を聞くことなどありえないことで異例な出来事でした。』
 『その頃、下士の西郷吉之助は郡方書役(おこりかたかいやく)という薩摩領内の田畑を歩き実り具合を見て年貢を決める下役人でした。吉之助は斉彬の藩政改革の意見書を何度も提出しそれが斉彬の目に止まり庭方役という役に配属し薩摩工作員として動いていました。一方大久保一蔵は斉彬が藩主になって3年後の1853年に謹慎が解かれ役職に復帰していました。』①


 また斉彬は「西洋近代科学を学びかつ産業を興しそして日本の軍政を近代化改革を行い西洋列強諸国と同等の国力を持たなければならない!」
 と吉之助に説きました。

   「我らが殿は途方の無い国家構想を考えておられる」
  「吉之助さん優れた西洋の学問を学ぶことが何の恥になりますか??」
     と大久保一蔵が吉之助に言いました。
   「実際に殿は領内に西洋式工場を建設し軍艦や武器を製造しておられる」
  「吉之助さん我らの殿はどこの藩主も成し遂げていない事業を行っておられるのです」


 そして斉彬は「我が国は産業を興し経済力を持ちさらには清・インド・ベトナムなどのアジア近隣諸国と軍事同盟を結ぶべきだ!
 と吉之助に説きました。
   「そんなことできるのかな…」
   「吉之助さん我らが殿の考えは桜島の様に雄大なのですよ!」

   西郷吉之助と大久保一蔵は“国のあり様”について時間も忘れ語り合いました。

 1855年6月中旬、蒸気軍艦スムービング号(のち観光丸)がオランダ領 東インド パタブィア(現インドネシア ジャカルタ)から長崎に向けて出港しました。スムービング号の艦長オランダ海軍ペルス・ラケイン中佐は本国からの命令を受け決意を持って長崎に向け出港しました。同じ頃、江戸では幕府の近代化三点セット「長崎海軍伝習所」と「講武所」そして「蛮書調所(洋学所)」の開設に向けて動き始めていました。


 『』① 1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より要約


  つづく
 


 
 お日様とお月様の光と影
  ~東アジア近代化クロニクル(年代記)~ 
 
   第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した

         プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!
         第一章   西洋列強諸国との外交攻防と内政攻防 (1)~(19)


   
   ≪参考文献≫ 
   
 知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社 より
 オールコックの江戸 初代英国公使が見た幕末日本 中公新書 より 
 幕末バトルロワイヤル 井伊直弼の首 新潮新書 より
 講談社社学術文庫 吉田薫 吉田松陰 留魂録  より


 1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より
 1998年放送 NHK大河ドラマストーリー 徳川慶喜 前半 より
 2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝  前半 より
 2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半 より

  
 文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)より
 新潮文庫 司馬遼太郎著 花神 (上) より
 文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より
 文春文庫 司馬遼太郎著 最後の将軍 より


  突っ込みどころ満載!
   筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
 また筆者はこのコラムの様なNHK大河ドラマを観たいそうです。
      


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