凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも田沼意次の改革が成功していたら

2006年02月18日 | 歴史「if」
 明治維新というものをよくぼんやりと考えている。どうして明治維新が興ったのか。
 直接的には「尊皇攘夷」運動が幕府を倒した。しかし、尊皇攘夷運動が方便であったことは誰でも知っている。根源的な原因はおおまかに言って二つある。
一つは外圧である。黒船来襲。このペリーの開国要求に、欧米の帝国主義に侵略される危機感を日本が抱いたことから明治維新が興った。
 もう一つは、幕藩体制の行き詰まりであろう。200年以上続いている幕府主体の農本主義、それが日本の現状にそぐわなくなってきたことから、徳川幕府に代わる新しい政権を日本が求めた、ということであろう。
 では、いつから幕藩体制に歪みが出てきたのだろうか。

 徳川家康は、確かに凄腕の政治家だったと思う。しかしこう言ってしまうと反論が多いことが予想されるが、あくまでその政治手腕は徳川家の存続安定に向けられた。
 織田・豊臣の時代、日本は膨張政策だったと思う。兵農分離をやり遂げ、検地を隅々まで行い食糧事情を安定させ、その上で商業を盛んにし経済発展を目指した。その果てに唐入り、朝鮮出兵が行われてしまったわけだが、これは失敗に終わった。家康は反省を踏まえ、農業を主体とした守備型の政権を打ち立てた。徳川に敵対する可能性のある国内勢力の力を削ぐ政策を主眼とする。そして家光の時代までに、参勤交代等の負担を諸大名に課し、自由貿易を制限して交易を幕府の統制下に置く。諸大名の力を蓄えさせない政策と言えよう。その政策が進み、幕府は禁教令、そして鎖国へと進むわけである。
 この体制は初期はうまく発展する。米本位制であったことから、米を売却する必要性があり大坂を中心とした流通体制が確立し、商業も盛んになる。貿易は幕府が独占し、生糸や砂糖、香料などを輸入した。しかし、輸出入ではなくほぼ幕府は買うこと中心だった。金銀が豊富に産出していた時期はそれでよかった。しかし産出量が漸減し、また元禄時代の華美な消費、そして明暦の大火などの支出の増大から、徐々に幕府は財政難となっていく。この頃から少しづつ幕藩体制に翳りが見え始める。
 こうして、幕府は経済立て直しに着手することになる。しかし慶長金銀を改鋳した元禄金銀は質が悪く、かえって物価の上昇を招く。新井白石は正徳金銀を発行して是正しようとしたがうまくいかなかった。また白石は金銀流出を恐れ輸入制限をしたが、これはまた経済の停滞を招いた。
 ここで八代将軍吉宗が登場して享保の改革を行う。
 これは善政だったと言われるが、抜本的改革には繋がらなかったのではないか。倹約令、そして上米(大名から税金を取るようなもの)。新田開発と年貢率の引き上げ。結局農本主義からの脱却がなされなかったので、年貢の徴収高=財政建て直しということである。なので豊作であれば米価が下がり禄米生活の武士は困窮し、飢饉がおこれば米価が上がり打ちこわしも起きた。

 その後に登場したのが田沼意次である。
 田沼意次については、もはやかつての「収賄政治家」という悪評は影を潜め、経済通の人物として評価が高い。僕は池波正太郎氏の「剣客商売」のファンであるので田沼には親近感がある。やはり先を見通せた政治家だったのだ。
 田沼家はもともと紀州藩出身で、吉宗について旗本となった。微禄であったが、吉宗の跡継ぎ家重の小姓に意次が取り立てられることによって徐々に頭角を現す。大名となり、10代家治の時に側用人から老中格へと出世を遂げる。
 軽格であった意次の出世には妬みも多い。しかし政策が一流であったせいでその出世を止められなかった。意次も出世に努力をした。地位を得ないと政策実行が立ち行かないからだ。よく大奥の機嫌をとって雑音を抑えたと言われるが、大奥の女性に取り入ったその着眼点と手段は、僕には大久保利通が島津久光に取り入るために囲碁を学んだという手法とダブる。そうして意次は大奥予算の削減にも成功しているのである。
 結局、吉宗時代に新田開発もある程度進み、年貢徴収による財政安定にも限界があると承知していた意次は、農本主義から商業主義への転換を図ったのだ。
 具体的には、貿易の促進。これはほぼ輸入だけであった交易路線を転換し輸出を奨励する。金銀流出を抑え、干鮑やフカヒレなどを輸出し逆に外貨を稼いだ。また銅、鉄などを幕府の専売にして、幕府自ら商業に手を染めた。そして特定の商人に座を作らせ、そこから運上金(まあ税金かな)を徴収した。そしてさらに株仲間(幕府の御用商人として特権を持つ)を積極的に公認して冥加金(これも営業税)を増収させた。農業に頼らない近代的政策である。
 さらに、新田開発も商業資本を入れ、出資した商人に取り分を約束するという、株式会社的発想も持っていた。実に近代的である。意次の政策は列挙するとキリがないほどであるが、金銀交換レートの統一も試みている。大坂銀本位制、江戸金本位制ということから生じる交換差損を是正しようとした。こういう考え方は当時としては秀逸だと思う。経済感覚は坂本龍馬はん並みだ。

 このまま田沼改革が続いていたら、幕府は完全に経済を立て直していたことも考えられる。もしもそうなっていたら。
 幕府経済は高度成長を遂げていた可能性もなくはない。そうなると、次に続く変革は、やはり産業革命ではないかと予想される。それほど突飛な考えでもないと思うのだが。経済発展は需要の高まりを生む。手工業生産は工場工業へと変革を遂げるだろう。既に問屋制家内工業は行われている。需要の拡大は製造業発展へと確実に繋がり、産業革命の息吹が聞こえてくることだろう。
 実際、幕末には薩摩藩を筆頭に各藩内での産業革命は生じている。これは逼迫財政からの脱却を目指して発展したものだが、これを幕府単位で行うことが出来れば、幕府の力は相当なものとなる。
 そして黒船来航。力を失った幕府はこれに対応できず、明治維新が興った。しかし、開国時に幕府が富国強兵に突入できる実力を保っていたとしたら、幕府主導での中央集権国家が生まれていた可能性はかなり大きいとも考えられるのではないか。

 しかし、意次は志を遂げることなく失脚する。時代が意次に追いつかなかった。当時の幕府の理念は朱子学であり、農本主義に直結する。武士が士農工商の最下層である商業に携わることへの反発。周囲の無理解。そういったさまざまな逆風が意次を孤立させる。そして、失脚を決定付けたのが浅間山の噴火である。天変地異は政情不安を生み、そして「天明の大飢饉」がおこり、一揆や打ちこわしが頻発してしまうのだ。
 起死回生の印旛沼干拓も大雨による利根川の氾濫により失敗し、息子意知が城内で斬られ、ついに老中を失脚し、将軍家治が亡くなると閉門となって失意のうちに世を去ることとなった。

 意次の政策の一つに、蝦夷地開発がある。当時北海道は松前藩が仕切っていたが、搾取を繰り返しついにシャクシャインの反乱が起こる。鎮圧後幕府は北海道を直轄地とした。ここで海産物(俵物と言う)を増産させ、交易の目玉にしていくのだが、意次の考えはそれだけに止まらなかった。
 当時ロシア船が頻繁に日本の海に現れており、工藤平助が「赤蝦夷風説考」で国防を訴え、放置すると危機的状況になる可能性もあった。松前藩はアイヌから搾取するだけで具体的措置を全くとらなかったため、意次はまず蝦夷地調査を行う。その時の調査で、意次は廻船商人にこれを請け負わせ、アイヌとの交易も視野に入れていたと言われる。搾取から交易。それだけでも一大転換であるが、調査結果北海道は農耕も可能という結論を出し、新田開発のためアイヌを農耕者として教育しようとする。これは古代アテルイなどの東北の蝦夷と対峙した大和朝廷のやり方である。そして、農耕人口のさらなる確保に、当時の被差別民も送り込もうとしていた。本格的な北海道開拓。これは、後の坂本龍馬構想を彷彿とさせはしないか。
 意次はさらに、脅威であるロシアとの貿易を狙っていたとも言う。国防のために兵力増強ではなく、ロシアとの国交樹立、交易政策によって双方の利潤を生じさせ、侵略を抑えようとした構想があったとも言われる。この世界的構想、ますます「世界の海援隊」を連想させないか。実際は実現は困難であったにせよ、その着眼点はちょっと時代離れしている。
 この計画は意次失脚とともに松平定信が封印する。そして日の目を見るのは明治以降となるのだ。

 意次と同時代、あの平賀源内が居た。意次と源内は懇意であったとも言われる。時代を先に進みすぎた二人。どちらも悲運に倒れるが、この時間を先取りしすぎた二人は真に理解しあえていたのかもしれない。


コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 見渡す限りのひまわり畑 | トップ | リバースクラッチホールド(逆... »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
腐りかけの組織には改革は成功しない? (jasmintea)
2006-02-20 12:44:36
私も今、徳川初期の政策と維新を比べてみようとしていますが結局妥協したところはほころびたような気がします。



時代を見る目がありすぎるとどうも異端に思われるのは昔も今もかわらないでしょうかね???

返信する
>jasminteaさん (凛太郎)
2006-02-20 23:10:36
ここは難しいと思うのです。

この時点ではまだ徳川幕府は揺らいではいますが腐ってはいなかったと思うのですね。結局、家康が作った農本主義と武士道が首を絞めた、萌芽は既に幕府が成立したときからあったと思います。まず徳川家ありきであったところに問題があったかと。しかしこんなの結果論ですけれどもね。



時代が流れれば歪みは必ず出てきます。尊皇運動から出来た明治政府の作った天皇制は統帥権を生み出して日本を一度潰しました。現在の戦後体制にも歪みが…。議院内閣制、間接民主主義はこんな世の中を生んで…おっと政治的発言はやめましょう(笑)。

返信する

コメントを投稿

歴史「if」」カテゴリの最新記事