凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも梶原景時が粛清されなかったら

2008年12月20日 | 歴史「if」
 平安・鎌倉時代の「乳母」「乳母夫」というものの存在の重要性はなかなか分かりにくい。頼朝が比企尼の厚情を忘れず、最後まで比企氏を頼りにしたことを考えれば足るとも言えるが、実母よりも乳母が優先するという実態。そして乳母夫、乳兄弟はその側近となっていくという過程。
 このシステムは、高貴な生まれだけに通用するシステムだろう。庶民に乳母など居ない。そして、鎌倉武士団も当初は庶民みたいなものだった。もしかしたら北条氏は、頼朝の嫡子頼家の養育に比企氏一族があたるということの重要性を最初はそれほど理解してはいなかったのではないか。素人の想像ではあるが。
 無論、そのことは徐々に時政、義時、政子にも理解が進む。成長した頼家は、最早北条氏一族とは言えない存在となっていく。せめて次弟の実朝は我が北条の手に置くことはしたが、嫡子ではない。政子は、頼家の成長を素直には喜べない母となる。富士の巻狩りで鹿を射止めた武勇高き頼家を突き放した話は有名。

 頼朝が亡くなり、頼家が鎌倉殿を継ぐ。18歳とはいえ一流の武士としての鍛錬も積み、棟梁として申し分の無い青年に育っていた。政務、ことに御家人の所領についての判断などは確かに経験不足であったことは否めないが、さりとてボンクラであったとも思えない。
 この頼家がトップとして君臨出来たのはわずか三ヶ月である。頼家は政務の決定権を剥奪され、幕府の宿老十三人がこれに代わった。「十三人の合議制」である。頼家にいったい何があったのか。
 頼家が所領争いの裁断で、地図に一本の線を引いて簡単に片付けた、などの所業によって御家人の一所懸命の心が離反した、などと言われているが(それが事実かどうか僕は疑問視しているが)、三ヶ月程度で何が分かるのか。これはやはりクーデターと見るべきではないのか。
 クーデター説において、仕掛け人は北条時政であったとよく論じられる。しかしながら、前回書いたように時政にそれほどの力があったとは思えない。首謀者は時政にしても、協力者が居るはずである。
 それはやはり御家人トップの座を占める三浦氏だろう。三浦氏と時政は連携していたのではないだろうか。時政の孫であり義時の嫡子泰時と、三浦氏総帥の義澄の嫡子義村の娘が婚姻し、また義時の娘は義村の嫡子泰村に嫁いだ。そして三浦・北条の強力タッグが生まれた。比企氏の台頭を恐れた三浦・北条の思惑が合致し、頼家を追い落としたのではないだろうか。
 だからと言って北条氏が頼家に代わって政務を執り権力を握るわけにはいかない。なのでこの十三人の合議制は、第一段階に過ぎないと考えられる。十三人とは以下のメンバーである。北条時政、北条義時、三浦義澄、和田義盛、安達盛長、比企能員、梶原景時、八田知家、足立遠元、大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政。
 北条氏、三浦氏が二名づつ(和田義盛は三浦義澄の甥)。このクーデターの主体であろうことが想像出来る。しかし、ライバル関係にある比企氏を入れないわけにいかず、比企能員と安達盛長(比企尼女婿)が入る。だが少数派だ。八田知家と足立遠元は思惑あれど中立と言っていいだろうか。大江、三善、中原、二階堂は官僚。そして、梶原景時が名を連ねる。
 この梶原景時をメンバーに加えざるを得なかったところに、この時点での北条氏の力の限界が見える。北条氏が最も排除したかったのはこの景時であったと想像出来るからだ。
 
 梶原景時。義経を讒言で陥れた人物として悪名が高い。ただ、この讒言が史実として、対平氏部隊の目付として従軍したということは、頼朝の信頼が相当に厚かったことの証しでもある。そして、頼朝が義経と景時のどちらを信用したかと言えば、景時である。思えば、頼朝絶体絶命の石橋山合戦において頼朝を救ったのは景時。この勇猛果敢で頭も切れ弁舌巧み、和歌もたしなむ器量を持ち、そして主人に対してはとことん忠誠を尽くす景時は、頼朝にとって最高の懐刀だっただろう。
 鎌倉政権維持において、景時は各種奉行や侍所所司などの政務の他に、ずっと「影の部分」も担当してきた。上総広常を討ったのも景時であり、義経も追い落とし、さらに範頼追討にも関わったとも言われる。非常に重要な仕事をしている。人間性云々についてはよく分からないが、この時点では時の鎌倉殿である頼家に完全に仕えていた。反頼家の立場の三浦・北条側にすれば、比企能員よりもやっかいな存在だっただろう。

 ここから、北条派と頼家派の綱引きが始まるのだが、これは頼家には荷が重かっただろう。相手は百戦錬磨である。この十三人の合議制に対して、頼家は自分の側近(比企氏の若者など)を押したてようとするが、宿老と若手ではいかんともしがたい。徐々に頼家は追い詰められる。
 頼家の犯した失敗その一は、安達氏問題である。
 宿老安達盛長の長男、景盛の妾を頼家が奪って寝取るという事件が「吾妻鏡」に細かく書かれている。こんな三面記事的事件をこうまで詳細に公式史書が書くものかと呆れるが、この記述を信じると結局痴話喧嘩であり、景盛も怒りまた頼家も怒って、頼家が安達氏追討の兵を出さんとするところを北条政子が止めたとされる。本当なら実につまらない話であるが、こうして比企尼以来味方であったはずの安達氏を頼家は失うことになる。
 女の奪い合いの話は小説的で僕にはピンとこないのだが、ここでは安達氏の離反と並んで、政子が頼家に恥をかかせたということも重要ポイント。鎌倉殿の威信は「北条」政子に劣ることを知らしめたのだ。僕には頼家がうまく嵌められたような気がしてならないのだが、これは想像。

 そして頼家の最大の失敗である梶原景時排斥事件へと続く。
「結城の七郎朝光御所侍に於いて、夢想の告げ有りと~」と書き出す吾妻鏡を読むと、何ともドラマティックであり作者の筆が乗っていると思うが、要は結城朝光が「頼朝様のご恩は忘れられないなぁ。亡くなられた時にワシも出家すればよかった」と思い、つい「忠臣は二君に仕えず(こんなの言葉のアヤだろう)」と言った事に対して、北条政子の妹阿波局が「景時が、あなたが頼家殿を謗っているから殺した方がいいと言ってましたよ」と告げ、びっくりした朝光が三浦氏の下へ相談に行った、という話である。それを聞いた三浦義村が「景時を糾弾せよ」と老臣たちに呼びかけ騒ぎが広がり、ついに御家人衆66人の連判状を作成して訴えた、という顛末に繋がる。
 この連判状は「鶏を養う者狐を蓄えず、獣を牧う者狼を育ざる」と相当立派なものだが、千葉常胤、三浦義澄らを筆頭に御家人の重鎮が名を連ねる中、北条氏の名前が無い。火を付けたのは時政の娘、阿波局であるのに、うまく隠れている。脚本北条、演出三浦だろう。それに、景時は本当にこんな言葉のあやのような部分を抽出して殺せと言ったのか。何だか僕は、家康が豊臣家を陥れた「国家安康」の鐘銘事件を思い出す。
 そうして景時追放が決定するが、これを何を措いてでも止めなければならなかったのは頼家だった。実権失いたりと言えども、これを諫止出来たのは鎌倉殿である頼家ただ一人。しかし、せっかく大江広元が連判状を取り次ぐのを控え時間稼ぎをしたのに、頼家は手を打てず景時は追放、後に討たれることになる。
 「第一の郎党」と言われた景時を失ったのはあまりにも大きい。何故なら、北条氏の暴走を身体を張ってでも止められたのは梶原景時しか居なかったからだ。上総広常を斬ったように。景時は、自らに非難が集中しても主人御為なら泥を被る男。時政を誅することも可能だったろう。
 吾妻鏡は景時抹殺を当然のことのように記述するが、慈円は愚管抄で、景時を庇えなかったのは頼家の不覚と記す。また慈円の兄九条兼実は、景時が頼家追討、実朝擁立の計画を掴んだのだと記す。吾妻鏡の裏に何か陰謀が覆い隠されているのだろうか。
 これで、頼家の味方は比企氏だけとなった。同時期、御家人衆の中では、最大の長老である千葉常胤が亡くなり、また十三人の合議制の中でも、三浦義澄、安達盛長が亡くなり、景時も亡き今、重石の取れた北条時政の勢力がさらに強まっている。

 比企氏の勢力がどれほどであったか、それは勉強不足でよく知らない。ただ、人材的に多少残念な部分はある。
 頼朝の最大の庇護者であった比企尼。その女婿には安達盛長や平賀義信などの面々が並ぶが、夫である掃部允を早くに亡くし、嫡子が居ない。いや、比企朝宗が嫡子であったかもしれないのだが、後年姿が見えなくなる。戦死したのだろうか。家督は、比企尼の猶子である能員が継ぐ。甥であるとも言われる。しっかりした嫡子と何人かの兄弟がいればまた様相が変わったのではとも思うが、それは無いものねだり。ではあるが、能員がだらしなかったというわけでもない。
 乳母夫となった能員は、頼家を庇護し、その娘である若狭局との間には一幡という嫡子が生まれている。この能員の孫が、将来鎌倉殿を継ぐはずである。そして、比企能員は頼家の最後の砦だった。

 ここで、頼家は逆襲に出る。阿野全成事件である。
 建仁3年5月、頼家は阿野全成を謀反容疑で捕えた。全成とは、あの義経(牛若丸)の兄の今若である。この時は北条氏の入婿のようになっていた。妻は、景時を陥れた阿波局である。そしてこの夫婦は、実朝の乳母・乳母夫である。
 全成の謀反の内容は吾妻鏡には記されていない。書けなかったのか。前述の慈円や兼実の論評が思い出されるが、ともかくも頼家は全成を捕え流罪とした。
 この時、頼家は阿波局の引渡しも要求したが、これは何と拒否されてしまう。また北条政子がストップをかけたのだ。あの安達氏事件の時と同じである。
 ただ、このことは実朝擁立の陰謀がもしもあったとしたら、相当な痛手のはずである。頼家の逆襲はある程度成功したかに思われたが、何と実朝の乳母夫の後釜には北条時政自らがなるというウルトラCの離れ技を用いる。あちらの方が一枚上手か。
 頼家は全成を流罪先で命じて討つ。何とか北条氏に対抗したい。しかしこのすぐ後、頼家は何と急に病に倒れてしまうのである。恐るべきタイミングの悪さ。邪推とは分かっていても、僕などはどうしても「一服盛られたか」と考えてしまう。頼家も学習し経験を積み、北条に次の一手を打ってくる可能性もあったからだ。

 頼家の危篤状態は続く。もはや助かる見込みは無いと判断されたのか、後継の話し合いが比企、北条間でなされる。
 ここで比企能員は頑張った。頼家の嫡子一幡はまだ幼少の身。だが実朝とて幼い。地頭職こそ一幡が関東二十八国、実朝が関西三十八国と分割されてしまったが、日本惣守護職は一幡が獲った。領地のことはともかく、惣守護職は鎌倉殿の証しである。実質、後継は一幡と決定したわけだ。おそらく道理で押し通したのだろう。吾妻鏡は「御外祖比企判官能員憤り怨み、叛逆を企て千幡君並びに彼の外家已下を謀り奉らんと擬すと」などと真逆の筋違いのことを記述しているが。
 このままでは鎌倉殿は一幡が継いでしまう。北条氏はついに実力行使に出る。時政は比企能員を自宅に呼び寄せて暗殺し、次いで比企氏謀反を宣言して討伐軍を放ち、比企氏は一族諸とも滅亡した。鎌倉殿の正統な後継者と先般決まったばかりの一幡も焼死したと考えられる。わずか六歳。この悲劇はどうだろうか。
 さらに藤原定家の日記によれば9月7日、京都に「左衛門の督頼家卿薨ず」と使いが来て、一幡も死んだから実朝に将軍を継がせろと朝廷に言ってきている。冗談ではない。頼家はまだ生きているのだ。また間の悪いことに、その後頼家は危篤状態を脱し正気を取り戻してしまう。
 もはや頼家を生かしておくわけにはいかない。頼家は修善寺に幽閉され、後に死ぬ。吾妻鏡は死因を書かないが、愚管抄は明確に殺されたと記す。その殺され方は、祖父である源義朝と同様、入浴中だったとされる。またか。
 その頃、北条時政は政所別当となり、ついに「執権」の道を歩き出す。

 書いていて嫌になるが、頼家は結局負けた。それでも、精一杯の抵抗は見せたと僕などは見たい。惜しむらくは、やはり景時を失ったことである。彼が頼家の近くに居れば、時政を誅する機会は何度でもあった。最初は頼家も分からなかったのだろう。しかし、経験を重ねるにつれ状況が見えてくる。何故あのとき景時を助けられなかったかについて、後悔しただろう。おそらく、時政を斬れる胆力を持つ男は、景時しか居まい。
 景時は現在、さまざまな評価のされ方をしている。ただ、以前のように「讒言の卑怯な男」という見方は廃れたと言っていいだろう。平家物語にも「梶原の二度駆け」など泣かせる話は多い。案外涼やかな男だったのではないか。
 また嫡子の景季も、宇治川の先陣争いの話などで「気持ちのいい男」と書かれている。景季も景時と運命を共にし、討たれた。景季は、例の二度駆けの一ノ谷の合戦で、箙に梅の花の枝を挿して戦い、その風流は語り草になったという。
 時は移って太平記の時代、足利尊氏と直義が仲違いし合戦となったとき、尊氏側に梶原孫六、そして梶原弾正忠なるものが居た。戦いは直義側に分があり、孫六と弾正忠らは敗走を余儀なくされたが、勇猛果敢な梶原景時、景季を祖にもつものの矜持として、後ろを見せるのを恥とし、たった二騎で敵軍に斬り込んだという。孫六は突き抜けたが、弾正忠は奮戦虚しく討たれた。この武者は誰かと見ると、斃れたなきがらには梅の花が挿されていたといい、あの豪傑梶原景時、景季に連なるものであればこの奮戦振りも合点、とされたという。この話を僕は司馬遼太郎氏の著作で知ったのだが、この合戦は僕が今住んでいる兵庫西宮での出来事であり、中世の史跡が近所に少ないために親しみを持った。合戦の当地である越水城址にはもう石碑が残るのみだが、梶原氏に思いを馳せつつ歩いたことがある。
 また遡ると、梶原氏の祖は鎌倉氏だった。大庭氏や長尾氏と共に「鎌倉党」を形成していた。この鎌倉氏にはあの有名な「鎌倉権五郎景政」がいる。後三年の役で、右目を射られ矢が刺さりながらも怯まず奮戦した逸話が知られ、後に神として鎌倉に御霊神社として祀られている。
 これは「御霊」神社であるから怨霊を祀ったものと考えられるはずだが、鎌倉権五郎が怨霊とはとても考えられない。なので、鎌倉・梶原・村岡・長尾・大庭五氏の五霊神社とか、権五郎神社が訛って御霊神社となったのだとか巷間言われる。
 だが、僕はここにどうしても梶原景時の無念を見てしまうのだ。讒言の男と言われながら、皮肉にも自らが讒言によって滅ぼされた男。そして、それを助けられず自らもまた散った源頼家。かの男たちは「御霊」と呼ばれても全くおかしなところは無い。

コメント (5)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« もしも源頼朝が北条氏排除に... | トップ | 喜納昌吉&チャンプルーズ「... »

5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (jasmintea)
2008-12-27 09:54:20
北条政子、彼女のことを考える時に頼家との関係で血も涙もない母みたいにとる向きもありますが、時代を考えれば凛太郎さんが書いて下さったようにちーっとも不思議ではないのですよね。
だから実朝の時は同じ轍を踏まないように考えたワケで。頼家の件があったから実朝暗殺も、の図式には賛同できません。

私は頼家の暗殺より、比企氏滅亡が悲しいです。比企と、後の三浦をはめていく様は本当にため息が出ますよね。たくさん並んでいる一族の墓を見るとこの場所で果てた比企の無念さを感じてしまいます。
鎌倉はたくさんの無念がつまっていますね…
(鎌倉だけではないと思うのですが何故か私は無念が詰まった鎌倉に心惹かれます)
と、書きながらあの御霊神社の不可思議な空間を思い浮かべていました。
あの場所がどんな場所なのか知りたいですね~

PS 一度記事を拝読してから吾妻鏡を通勤電車で読み返しました。機会を与えて下さったこの記事に感謝♪
返信する
>jasminteaさん (凛太郎)
2008-12-27 17:41:51
この話ではどちらかといえば時政に焦点を当てまして、政子については必要最小限しか触れなかったんです。政子について書くと、どうしてもその「親の心情」みたいなものに触れざるを得ませんので。それはあんまり書きたくなかったんですね。ちーっとも不思議でないかどうかは僕にはわかりませんけど(汗)。
景時は損な役回りですが、この人のことを考えているとどうも石田三成や江藤新平とダブる部分が見えてきたりもします。しかも武勇優れた豪傑。案外正義感に溢れる人物だったのかとも思ったりして。
正義感と言えば畠山氏ですが…和田、三浦そして安達氏と、次々と粛清が続きます。北条のやり方云々に対してどちらが正しいとかそんなことは到底判断つきませんが、藤原氏と異なって武力を持つものの闘争はやっぱり血なまぐささはどうしても避けられませんね。無念だらけだな。

吾妻鏡は不思議な書物ですね。書紀や徳川実紀もそうですが、肝心なことは書いていないように思えて。案外平家物語や太平記に真実があるのかも、なんて思えます。
鎌倉時代は書くことが多いですね。公暁の話、九条頼経if、霜月騒動と。まあゆっくりと書いていこうと思います。
返信する
度々すみません (jasmintea)
2008-12-27 20:11:41
途中まで藤原と北条の比較を書いていたのですが人様のブログで書くことではないな、と反省しやめました。
この時代は本人一人ではなく一族郎党すべてが犠牲になるので哀れを誘うのかもしれません。

頼経のifはどんなことを書かれるのか興味深いです。
宝冶合戦なんかもぜひ♪←なんてリクエストしたりして!
返信する
>jasminteaさん (凛太郎)
2008-12-28 19:31:45
いやいや何書いていただいても結構なんですけどね(汗)。
一族郎党と言えば、古代もそうでしたね。そうなると、平安時代というのは様々な負の側面はあるにせよ、藤原氏が築いた泰平の時代であったのかもしれません。一面的な見方であることは承知ですが。

頼経ifとは筆が滑りました。そんなトリッキーな視点は用意していません(汗)。もしも書くとしても、普通の話になっちゃうと思いますのですみません^^;
「もしも三浦軍が宝冶合戦に勝利していたら」か…。どうやったら、どこで修正すれば勝てるのかな。これは承久の乱から紐解かないと駄目でしょうね。んで勝っちゃったら歴史はどうなっちゃうでしょうか。興味深いですが難しいですねぇ(笑)。
返信する
どこのドイツ (ガーゴイル)
2020-12-08 10:54:57
征夷大将軍に就任したのは本当は執権得宗家である。
返信する

コメントを投稿

歴史「if」」カテゴリの最新記事