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小山 青巖寺

三重県津市一志町小山にある真宗高田派のお寺です。

信心と念仏

2012年02月22日 | 親鸞

 今日は、津中日文化センターで「親鸞の生涯とその思想」の講座の日でした。

 先月は、お葬式が入ってきたのでお休みにしましたし、12月の分は11月30日に行ったので、実に2ヶ月ぶりでした。

 毎回、中日新聞に連載されている五木さんの親鸞を題材にお話ししているのですが、それも12月で終わりました。

 だから今回は、その五木さんの「親鸞-激動編」の題材にした最終回でした。

 12月に連載された箇所に、「信心を得るにはどうすればいいのですか」と聞かれた親鸞が「分からない」と答えるシーンがありました。

 あり得る答えだとは思います。ですが、それは、覚如さんや蓮如さんが主張した「信心正因、称名報恩」という範疇に、親鸞聖人を限定してしまえば、ということです。

 しかし、そういう限定を取っ払って、単に親鸞聖人がどう答えただろうかといえば、「お念仏を称えなさい」と答えられたのではないかと思いました。だから、そういう話をさせていただきました。

 「信心を得るにはどうすればいいのか、そのことを親鸞は何も答えていない」と、昔からよく聞かされてきました。しかし、本当にそうなのでしょうか?

 「信心を得るにはどうすればいいか」と聞かれれば、「お念仏、申しなさい」と答えられていたのではないでしょうか。

 お念仏を称えるということは、お念仏を聞くということです。お念仏を聞くということは、「おまえを必ず救うよ」という阿弥陀仏の呼び声を聞くということです。そして、その阿弥陀仏の呼び声が届いた経験を、信心を得させていただいた、というわけです。

 だから、みなさん、お念仏を称えましょう。お念仏を聞きましょう。「あなたを救いたいのです」という阿弥陀さんの呼び声を聞きましょう。

 南無阿弥陀仏。

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後の世を渡す橋

2012年02月16日 | 聞法会・月例法座

 今日は月例法座の日でした。今、月例法座では「文類偈」を読んでいます。
 今回は、源信和尚の箇所に入ったところでした。そこで、源信とその母親の有名なお話を紹介しました。

 源信は大和の国の生まれで、幼くして比叡山に登りました。

 もともと利発な子であった源信は、15才の時、村上天皇の前で、講義されました。

 帝はその講義の素晴らしさに感銘を受け、源信に褒美の品と「僧都」という位を与えられました。

 源信は、嬉しくて、大和の母に、褒美の品を贈りました。
 すると、母から、こんな歌が返ってきました。

後の世を 渡す橋とぞ思いしに
 世渡る僧と なるぞ悲しき

 「あなたが出家したのは、この世で悩んでいる人たちを仏の世界に導くためではなかったのですか? それなのに、帝に誉められて、位が上がり、褒美の品をいただいたと言って、満足するのですか? うまく世渡りするために仏門に入ったのですか?」ということでしょう。

 この母の手紙を読んでから、源信は比叡山でも最も奥深い横川というところに住んで仏道修行に精進されたとのことです。

 源信が書いた『往生要集』は、平安時代の人々に大きな影響を及ぼし、それは法然・親鸞を通して、今日にまで及んでいます。まさに、源信僧都は「後の世を渡す橋」になられたのでした。

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復興の様子

2012年02月14日 | 東日本大震災

 今日、ようやく「よびごえ」の原稿を書きあげました。

 ところで、原稿では、復興についても少し触れました。そこで、被災地の復興についてネットで調べてみたら、こんな記事がありました。

http://www.dailymail.co.uk/news/article-2099811/Eleven-months-tsunami-earthquake-ravaged-Japan-new-pictures-incredible-progress-multi-billion-pound-clear-up.html

 イギリスのオンラインニュースです。東日本大震災から11ヶ月が経ち、被災地がどれほど復興したかが写真で紹介されています。

 日本の様子を、イギリスのHPで見るのも変な感じですが、これもネット社会のおもしろいところでしょう。

 写真の説明には、“amazing”(「驚くべき」)という形容詞がよく使われています。「驚くべき復興のスピード」として紹介されているわけです。

 実際、写真を見ると、よくがんばったなぁと、日本を誇りに思えます。しかし、実際には、まだまだこれからでしょう。それでも、原発事故さえなければ、もっと手放しで喜べたでしょう。見えない放射能が、復興に向け一つになりたい日本人の心をじんわりと押さえつけているように思えます。

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人間

2012年02月13日 | 素敵な文章・言葉

 むのたけじさんの言葉

サカナは、海中にいても店頭におかれてもサカナである。人間は死ねば「故人」あるいは「遺体」である。生きているから人間である。しんじつ生きていないなら、しんじつ人間ではあり得ない。

 生きているから人間なんだ、本当の意味で生きていなければ、それはすでに人間ではないのだ、という言葉です。

 『涅槃経』の言葉

二つの白法あり、よく衆生を救く。一つには慚、二つには愧なり。慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。慚はうちにみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。慚愧あるが故に、すなはちよく父母・師長を恭敬す。慚愧あるが故に、父母・兄弟・姉妹あることを説く。

 慚愧があるのが人間で、慚愧がなければ人間ではない、という言葉です。

 慚愧とは、自らを恥ずかしく思い、他に対して申しわけなく思う心です。恥ずかしいな、申し訳ないな、という心があってこそ、家族も成立するんだ、と。

 親鸞聖人の言葉

「是人」といふは、「是」は非に対することばなり。真実信楽のひとをば是人と申す、虚仮疑惑のものをばといふ。

 最後、親鸞聖人の言葉ですが、もともと私たちは「虚仮疑惑のもの」です。それが、阿弥陀仏のはたらきによって、真実信心をいただき、「真実信楽のひと」とならせてもらいます。

 つまり、阿弥陀仏によって、人間ではなかった私が、人間にさせてもらうんだ、ということです。

 本当の意味で生きていなかった自分、「恥ずかしい、申し訳ない、悪かった」という心のない自分、そんな自分が、阿弥陀仏のはたらきによって、本当の人間にさせてもらうのです。

 本当の人間に成らせていただくはたらき、それが阿弥陀仏のはたらきだったのでした。

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試験

2012年02月09日 | 高田短大

 今日は、試験でした。

 持ち込み不可の論述試験で、Q1とQ2の2問です。

 Q1は、親鸞聖人の生涯について書いてもらいます。これは、授業でテキストを使ったり、ビデオを使ったりして、何度も講義したので、大丈夫でしょう。

 問題は、Q2です。なんと、「阿弥陀仏はどのように私たちを救うのか?」という問いです。真宗学を専攻している学生でも難しいでしょうが、解答するのは、子ども学科の短大1年生です。

 試験が始まりました。みんな一生懸命ペンを走らせています。

 試験会場は2クラスでしたが、2クラスとも欠席者はなく、150人全員出席でした。

 試験監督をしているとき、教壇で、みんなを見ていました。

 そして、1年間授業してきて、一体、どれだけの学生に伝えることができたんだろう、と思いました。

 念仏の教え、他力の教えというものは、簡単に理解できるものではありません。せめて、何か、ちょっとでも感じることがあった子が、何人かでもいてくれれば、と思いましたが、それも難しいかもしれません。ごめんな、と思いました。

 来年はもっと上手に教えられるように、再来年はさらに上手に教えられるように、そうやって、ちょっとずつステップアップしていくしかありません。

 試験が終わり、みんなが教室を出た後、答案用紙を回収しました。みんな答案用紙にビッシリ書いてくれていました。

 補助の先生にお礼を言い、誰もいなくなった教室の電気を消して、階段を下りていくと、たまたま二人の学生が帰るのと一緒になりました。二人とも試験を受けていた子です。

 試験の問題について、「これから生きていく上で、覚えていてもらいたいことだったから」と言うと、「うん。いい言葉だった。授業中、泣きそうになったもん」「ちょうど今の私たちのことだし」と二人が言ってくれました。

 「ちょうど今の私たち」というのが、授業で言った何を指しているのかは分かりませんでした。「まわりに迷惑をかけ、まわりに支えられて、生きている」という言葉だったかもしれません。あるいは「今までどうだったかではなく、今どうかでもなく、大事なのは、これからどうするか」という言葉だったかもしれません。あるいは、また別の言葉だったかもしれないし、あるいはすべての言葉が当てはまったのかもしれません。とにかく、何かを感じてくれた子がいてくれて、それだけでもよかったと思いました。

 教務課に行き、手続きをしていると、また別の学生たち3人に会いました。一人の子が、Q2ができてないと言いました。聞くと、「一人で生きてるんじゃない」とか「まわりに迷惑をかけ、まわりに支えられて、生きている」ということは書いた、とのことでした。押さえるところは押さえてくれているようでした。

 「もし、合格点に足らなかったら、レポートを書いてもらうから」と伝えると、まわりの子たちが、「一緒にがんばろう」「いい言葉だよ。心があったかくなる」とか励ましていました。まさしくまわりに支えられている姿をほほえましく思いました。

 これから150人分の採点をしなくてはなりませんが、とにかく授業としてはこれで終わりました。

 授業を受けてくれたみなさん、1年間、お疲れさまでした。

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多忙につき

2012年02月02日 | 日記

 2月に入って、少し時間ができるかと思っていたのですが、そうはいかないようです。

 2月10日までに「よびごえ」の原稿を書き、2月15日までに、論文を1本、および解説を一つ、書かなくてはなりません。さらに、他にも、いろいろ書かなくてはならない書類がたまっています。

 これらの中で、一番力を入れなければならないのが、解説になります。

 とりあえず、今からは解説を書くことに専念することにします。

 ブログでお話ししたいことはたくさんあるのですが、しばらくブログは、簡単に、あったことのみ、記すことになりそうです。

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