夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

色紙 猫 フジコ・ヘミング筆 & 鮎 宇田荻邨筆

2017-04-11 00:01:00 | 日本画
畑から発掘されたような須恵器に実際に畑から採ってきた小松菜と紫大根の花・・。



本日の作品はちょっと変わった趣向の作品です。


色紙 猫 フジコ・ヘミング筆 
紙本水彩 色紙   
画サイズ:縦270*横240


 
添付の説明には「猫十態 ニャンスキー」とあります。制作年は2005年で、希少な水彩による肉筆画のようです。



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フジコ・ヘミング:本名ゲオルギー=ヘミング・イングリッド・フジコ(Georgii-Hemming Ingrid Fuzjko[1])は、日本とヨーロッパ・アメリカで活躍するピアニストである。父親がロシア系スウェーデン人(画家・建築家のヨスタ・ゲオルギー・ヘミング(Gösta Georgii-Hemming))で母親が日本人(ピアニストの大月投網子)。ベルリンで生まれる。スウェーデン国籍(長らく無国籍の状態が続いた)。俳優の大月ウルフは実弟。歌手の橋本潮は従姪にあたる。




幼少時代
5歳の時に日本に移住したが、父は日本に馴染めず、家族3人を残し一人スウェーデンに帰国してしまう。以来、母と弟と共に東京で暮らし、母・投網子の手ほどきでピアノを始める。また10歳から、父の友人であり、ドイツで母がピアノを師事したロシア生まれのドイツ系ピアニスト、レオニード・クロイツァーに師事する。以後、芸大在学時を含め、長年の間クロイツァーの薫陶を受ける。

学生時代
青山学院緑岡尋常小学校(現・青山学院初等部)3年生の時にラジオに生出演し、天才少女と騒がれる。1945年2月、家族と共に岡山に疎開する。同年4月、岡山の高等女学校に入学し、そのまま学徒動員される。終戦後、青山学院高等女学部(現・青山学院中等部)に転校。青山高女5年修了で、新制・青山学院高等部3年に進級する。高等部在学中、17歳で、デビューコンサートを果たす。東京芸術大学音楽学部在学中の1953年には新人音楽家の登竜門である、第22回NHK毎日コンクールに入賞をはたし、さらに文化放送音楽賞など、多数の賞を受賞した。東京藝術大学卒業後、本格的な音楽活動に入り、日本フィルハーモニー交響楽団など多数のオーケストラと共演。かねてよりピアノ留学を望んでいたフジコだったが、パスポート申請時に無国籍であったことが発覚する。
その後、留学の機会を伺いつつピアニストとして音楽活動を行っていたが、1961年に、駐日ドイツ大使の助力により、赤十字に認定された難民として国立ベルリン音楽大学(現ベルリン芸術大学)へ留学を果たした。卒業後、ヨーロッパに残って各地で音楽活動を行うも、生活面では母からのわずかな仕送りと奨学金で何とか凌いでいたという、大変貧しく苦しい状況が長らく続いた。フジコは「この地球上に私の居場所はどこにもない...天国に行けば私の居場所はきっとある。」と自身に言い聞かせていたと話している。

ヨーロッパでのピアニスト時代
その間、ウィーンでは後見人でもあったパウル・バドゥラ=スコダに師事した。また、作曲家・指揮者のブルーノ・マデルナに才能を認められ、彼のソリストとして契約した。しかしリサイタル直前に風邪をこじらせ(貧しさで、真冬の部屋に暖房をつけることができなかったためとしている)、聴力を失うというアクシデントに見舞われ、やっとの思いで掴んだ大きなチャンスを逃すという憂き目を見た。
既に16歳の頃、中耳炎の悪化により右耳の聴力を失っていたが、この時に左耳の聴力も失ってしまい、フジコは演奏家としてのキャリアを一時中断しなければならなくなった。失意の中、フジコはストックホルムに移住する。耳の治療の傍ら、音楽学校の教師の資格を得て、以後はピアノ教師をしながら欧州各地でコンサート活動を続ける。現在、左耳は40%回復している。

日本への帰国後のブレイク
母の死後、1995年に日本へ帰国し、母校東京芸大の旧奏楽堂などでコンサート活動を行う。1999年2月11日にNHKのドキュメント番組『ETV特集』「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」が放映されて大きな反響を呼び、フジコブームが起こった。その後、発売されたデビューCD『奇蹟のカンパネラ』は、発売後3ヶ月で30万枚のセールスを記録し、日本のクラシック界では異例の大ヒットとなった。第14回日本ゴールドディスク大賞の「クラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤー」他各賞を受賞したやがて、1999年10月15日の東京オペラシティ大ホールでの復活リサイタルを皮切りに、本格的な音楽活動を再開し、国内外で活躍することとなる。2001年6月7日にはカーネギー・ホールでのリサイタルを披露する。現在、ソロ活動に加え、海外の有名オーケストラ、室内楽奏者との共演と活躍は続く。また、2003年10月17日に、フジテレビ系で波瀾万丈の半生がテレビドラマ化された。スペシャルドラマ『フジ子・ヘミングの軌跡』はフジ子役を菅野美穂が演じて、20.1%の高視聴率を記録した。2013年に自身のCDレーベル「ダギーレーベル」を発足。アルバム第1作「フジコヘミング スペインカメラータ21オーケストラ」を国内外でリリース。

人物
フジコは菜食主義者、クリスチャンとして知られている。食物の中で特に好むのはじゃがいもであるとされる。20歳からずっと愛煙家であるピアノ演奏以外の趣味は絵画、裁縫、読書、水泳などで、バレエや映画の鑑賞も好んでいる。絵に関しては幼少時から得意としており、現在までに書き溜めた絵は本やCDのジャケットで使われている。個展を開くこともある(2001年2月5日 - 2001年2月24日「幻の素描展」より)。また愛猫家、愛犬家の動物愛護家である。東京育ちであるが、母の影響で言葉の端々に関西弁が出ることがある。



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「猫十態 ニャンスキー」として版画やリトグラフで出回っている作品は下記の作品です。



こちらの作品のほうが面白そう・・、猫が好きだという息子へ・・・。色紙額に飾るのはちと面白くないので、江戸期はあろうかという古い刺繍の色紙掛けに入れて飾ってみました。



大はしゃぎの息子は家内のイアリングをして「かわいい?」だと・・、大丈夫かな?



掛け軸は飾っておく期間はひと月まで・・。展示室の床には唐物の額に入れて色紙を飾りました。

鮎 宇田荻邨筆
金彩色紙水墨淡彩 色紙



ブログを検索すると見当たらないので投稿していないかもしれません。



「荻邨」という画号ですが、 彼自身によると、 その由来は伊勢の海岸地帯に多く見られる浜荻にヒントを得て考えた号であると言う。伊勢の浜荻は和歌や俳諧を通じて古くから広く知られていたものですが、「荻邨」という画号には、京都という異郷にありながらも、幼少年時代を伊勢地方で過したこの画家の懐郷の思いが込められていると考えられます。



魚の絵を荻邨が得意とし、荻邨が親しく目にした海の幸を克明に描いた「魚類写生帖」は、魚の特徴を巧みにとらえた達者な筆使いを示しています。



メールにて売り先から連絡があり、『大変良く書かれた「鮎」でこれは 宇田荻邨の前作に間違いないと思います。落款は「印」ではなく肉筆です。「印」を持ってない席で書いたと思われます。』とありました。

いずれの作品も出来からの購入判断です。


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