夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

豆皿 再興九谷吉田屋 

2011-04-17 06:09:08 | 陶磁器
豆皿は昔、蔵に入ると20人揃いや50人揃いで箱に入りたくさんあったものです。
醤油皿などと箱にはよく書かれていました。宴会に席で使われるものですから、割れていたり欠けていたりしていました。

蔵を解体したり、家を移ったりしているうちにどこへいったのでしょうか? まだ少しは自宅や田舎の蔵にはありそうですが・・大概伊万里や地方の窯のガラクタが多いです。それでも今みてみるとなにかしら味があるものです。このブログでも「ふくらスズメ」をとりあげましたが・・。

お気に入りの豆皿があると重宝です。なんにでも使えます。高いものは論外で壊しても惜しくないものがいいですね。

100円ショップで器を揃える時代はもうそろそろ卒業しましょう。デパート?で新しいものを揃えるのも卒業しましょう。

日本の焼き物に少し興味を持ちませんか? 人が使ったものに抵抗がなければ骨董品だけで身の回りは十分揃います。

味気のない日本文化になってしまわないようにしたいものです。

豆皿 再興九谷吉田屋 
割補修有
口径115*高さ25




古九谷のまがい品としての評価が長かった再興九谷ですが、近年評価が高くなってきています。

前々から古九谷とは言わないまでも再興九谷を欲しいと思っていました。完品は再興といえども結構な値段がします。しかもこれまた評価が高くなると贋作が多くなります。



割れている品を廉価で買うことができました。とはいえサラリーマンにはちと高い。割れていて補修(無論、私が補修しました)されていますが、あくまでも評価の対象は作品が持っている品です。本作品は小品ながら品のある作品ということで購入しました。




今さら九谷を論じるつもりはありませんが、当方は九谷は詳しくありません。本作品も由来は当方では判断しかねるのが実情です。勘で買っています。

再興九谷吉田屋:聖寺の豪商、豊田家(屋号・吉田屋)四代伝右衛門が古九谷窯跡の地で開いた窯である。しかし、あまりに不便な土地であったため、1825年に九谷村の窯を閉鎖し、翌年、山代の越中谷に移している。

吉田屋窯の製品は、当時から「九谷焼」と称され、最も古九谷の作風を受け継ぐものとして声価が高かった。芸術的鑑賞に十分耐えうる作品を焼成した近世後期の有数な窯として広く知られている名窯であった。

作品は、平鉢・皿・徳利・盃・向付・手炉・燭台・香炉・茶碗などから摺鉢・土鍋・植木鉢などと、広範にわたり、芸術的な作品と量産方式による日用品とが実にうまく併用して経営されている。全般的な傾向として、青手古九谷の「塗埋手」を踏襲しており、“青九谷”と呼ばれている。

豪壮雄大な筆づかいの青手古九谷に対して、吉田屋窯の青九谷は、軽快な筆づかいが特徴である。文様も花鳥・山水・人物から染物の文様などを取り入れた幅広いものがあり、江戸時代後期特有の緻密な繊細さを示している。



銘は古九谷同様、角の「福」字銘が圧倒的に多い。

そういえば、仏壇の経机の上の蝋燭置き用にずいぶん前に購入しました下記の皿を用いています。これも再興九谷??

色絵古九谷 吉田屋角皿
古箱入 横幅140*短径105*高さ25



購入先の説明には「金沢商家蔵品。貝尽くしの絵が描かれた、古九谷小皿です。時代は、江戸~明治期ごろと思います。状態は、口辺にホツありますが、旧家伝世の名品でないかと思います。」とありましたが、鵜呑みにしてはいけません


古九谷の特徴は釉薬が厚い部分が虹色に見えることですが、その特徴はこの作品も持っていました。









この作品を購入当時の私が作成した説明書の一節です。

「江戸後期、加賀の人々の美意識が作り上げた究極の色絵磁器“吉田屋”。窯元がたった7年間で滅んだため、その存在は一部の美術愛好家の間でしか知られていませんでした。吉田屋が目指したのは江戸初期の“古九谷”でした。古九谷は、1655年ごろから制作が始まり、後世に残る名品を生み出しながらわずか40年で途絶えています。その大胆な図柄と華麗な色使いは、世界的に高い評価を得ています。1824年(文政7)、古九谷に魅せられて再興しようとしたのが大聖寺城下(現在の石川県加賀市)の豪商、四代豊田伝右衛門です。屋号を吉田屋と称したことから、この再興九谷焼は“吉田屋”と呼ばれています。大聖寺藩領内、山中温泉の奥にある九谷村の古九谷古窯の横に吉田屋窯の築窯が着手され、翌年、初窯が焚かれます。吉田屋窯は優れた製品を生産し、、京阪神の文化人の間で古九谷が珍重されていたこと、吉田屋が古九谷と見分けが付かないほどの出来栄えだった。30年(文政13)には、大聖寺藩内の民窯にもかかわらず「本藩御用」という高い評価を得ます。吉田屋窯は九谷陶石に陶土を混ぜた灰色がかった二部入り素地の上に、緑、黄、紫、紺青の四彩を用いた鮮やかな色絵や青手古九谷風塗埋様式の優れた作品を数多く生みだしました。しかし作品を調査するうちに、古九谷を目指していたにもかかわらず同じ図柄の作品が1点もないことがわかってきました。古九谷と吉田屋の大きな相違点は、その時代背景にもあります。古九谷は大名が育成したもので、その用途から作品は大皿が中心でが、吉田屋を支援したのは町衆でした。このように商売として十分、成り立っていた吉田屋窯でしたが、わずか7年後の31年(天保2)に廃窯してしまいます。その陰には、吉田屋の当主たちの悲話があります。開窯から3年目、76歳になっていた四代伝右衛門は、家業をまかせていた息子に先立たれ、あとを追うようにその3カ月後に亡くなります。孫が六代を襲名したものの家業を縮小せざるをえなくなくなったようです。六代も廃窯の翌年、28歳の若さで夭折してしまいます。しかし吉田屋窯が廃窯してからも、加賀の地に再興された陶芸の炎は途絶えることなく、宮本屋窯、佐野窯、庄三窯などでは赤絵金襴手などの磁器作品が生産されていきます。また、粟生屋源右衛門は蓮台寺窯、松山窯などに指導に行き、“青九谷”と呼ばれる作品群を生み出しています。こうして明治維新後も産業としてだけではなく、創造力あふれる個人作家を多く輩出しています。」



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