夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

春景浅絳山水図 岡田半江筆

2011-06-09 04:34:26 | 掛け軸
大阪文人画家の大家にて評価が高い画家ゆえ・・・忘れ去られた画家シリーズにいれようかと思いましたが、忘れられた画家という表現は適切ではないと思い、通常の投稿としました。

浅絳山水という語句は覚えておられますでしょうか? 青木木米池大雅の作品にもいえる作風です。

青木木米と池大雅の投稿した二作品の真贋はまだ正直、迷っています。池大雅の印章は一致せずと判断したのですが、どうも似すぎていて贋作とは決め切れません。楽しめる作品ですから、まだまだ手元において悩んでみます。本作品は、ひとめで真作と判断しております。


春景浅絳山水図 岡田半江筆
水墨淡彩紙本軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:縦2045*横605 画サイズ:縦1720*横450








賛は「倣巨然渓山幽意図 戊戌春月写 半江田粛 印」とあり、天保9年(1838年)、岡田半江が56歳頃の作品です。中国、五代宋初(10世紀初め)の画僧、巨然の画風を倣った作品であることをうかがい知れます。印章は「田粛」、「半江」の朱方印が押印されていいます。出来、賛、落款、印章から真作と断定され、傑作が多い天保9年頃の名品です。









文人画はいまは人気がありませんが、幕末から明治にかけては日本画の主流でした。幕末の幕府の体制下で封建的な体制に縛られた社会では、自由闊達な文人画が人気を呼んだのでしょう。現代において抽象画が人気なのと同じ様なものです。

雰囲気を楽しむ絵です。山水画は下から掛け軸を眺めるのも一つの鑑賞方法です。屏風は左右の横からというのと同じです。美術館でこのような鑑賞をしている人が少ないのも鑑賞方法を知らないからでしょう。掛け軸にしろ屏風にしろ所有してみて解ることがたくさんあります。




岡田半江:天明2年(1781年)~弘化3年2月7日(1846年)は江戸時代後期の 文人画家。岡田米山人の子。大坂の出身。幼名を常吉、諱は粛、字を士羽。半江は画号。俗称を卯左衛門(宇左衛門)、のちに吉継。岡田米山人39歳の子。米屋を営む自宅、大坂西天満宮寒山寺裏長池(大阪市北区曽根崎一丁目曽根崎天神付近)で生まれた。半江は中年期に恵まれた初子だったので父が溺愛した。幼い時から父に習って画作を続け、居宅に出入する多くの文人墨客に感化され、自然と書画に興味を持った。12歳頃の作品に既に小米を用いているが、この画号は米山人が米芾・友仁父子に倣ったもので「しょうべん」の音に近いことから半江は好まなかったという。28歳のとき父に代わり伊勢国藤堂藩の下役となり、大坂蔵屋敷の留守居七里鎌倉兵衛に仕えた。この頃吉継を名乗った。翌年、安積家の四君子図襖絵を米山人はじめ戸田黄山・森川竹窓らと合作している。文政年間に相次いで両親を失い、稼業の米屋を継いで米屋彦兵衛を襲名。しかし、父と同じく藤堂藩には下役として仕え続け文人画家としても活動した。頼山陽をはじめ多くの文人・学者らと交遊。蘭医の小石元瑞や儒学者の篠崎小竹とは竹馬の友であり、また大塩平八郎とも長年親交している。同13年にお伊勢参りに出かけている。天保3年、山陽の訃報に大きな衝撃を受け、体調不良から稼業の米屋を13歳の息子九茄に譲り隠居となった。藤堂藩の下役も40代後半で辞任。天満橋東辺の淀川畔に別宅を買い求め詩書画三昧の暮らしを送るが、この別宅には田能村竹田が足繁く訪問し、さながら大坂の文人サロンとなった。天保7年に山陽道を旅しかつて父と合作した襖絵のある播磨国神東郡剣坂村(兵庫県加西市西剣坂)の安積家を訪問し懐旧の情に浸った。帰阪後まもない天保8年3月、民衆の窮状に義憤を募らせた大塩平八郎が挙兵(大塩平八郎の乱)し、虚しく敗死する。この争乱によって大坂は戦火に見舞われ焼土と化した。半江の別宅も焼失。父米山人から受け継ぎ自らも買い増した膨大な典籍・書画・骨董器物などが灰と消えてしまった。幸いにも自宅は無事であったが、この事件を転機に住吉浜に移住。友人を失い、家宝を失ったことによる精神的なダメージもあったが、大塩の乱に関与したという嫌疑を避ける意味もあったと推測される。天保9年頃からようやく創作意欲が戻り、その後は画作に没頭。住吉浜の地で数多くの傑作を画き、充実した晩年を送った。享年66。直指庵に葬られる。 友人の篠崎小竹が半江の死を悼み詩文を寄せている。

 

文献参考落款と印章は下の写真のとおりです。





画風:半江は28歳以前のとき周囲から画力が充分と認められていなかった。田能村竹田『山中人饒舌』の中に名が見えず、米山人も文化4年(1807年)に田能村竹田に自分の衣鉢を継ぐ者は竹田以外にいないと語っている。37歳のときに半江独自の繊細な筆遣い・周到な構図・配色の調和が見いだされる作品が現れ始め、50代になって独自の画風を確立したとされる。特に傑作は住吉浜に移住後に集中し、詩情豊かで柔和な筆致、自然で気負いのない構図、繊細で効果的な配色によって高逸枯淡な画境に達した。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。