夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

柳下涼美人図 木谷千種筆

2011-09-20 06:03:51 | 掛け軸
台風が近づいています。台風が過ぎたらそろそろ本格的に涼しくなって欲しいものです。

柳下涼美人図 木谷千種筆
絹本着色 軸先塗木製
全体サイズ:縦1100*横345 画サイズ:縦1910*横460



巻き止めに「贈 為新築記念 蜷木(になぎ)」と署されていることから、新築記念のお祝いの品であったことがわかります。



表具はしみなどが出てきており、近日中に改装、シミ抜きが必要であり、その際には美人画として改装(今の表具は地味・・)すると面白いでしょう。




木谷千種(きたに-ちぐさ):1895-1947 大正-昭和時代の日本画家。



明治28年生まれ。木谷蓬吟(ほうぎん)の妻。池田蕉園(しょうえん),菊池契月らに師事。大正元年第6回文展に初入選以来,女性をテーマにした作品で文展,帝展に12回入選する。のち千種会を主宰。昭和22年1月24日死去。53歳。大阪出身。清水谷高女卒。本名は英子。作品に「浄瑠璃(じょうるり)船」「祇園(ぎおん)町の雪」など。



以下は参考資料です。

画家 吉岡千種誕生
 木谷千種は、旧姓吉岡、本名を英子といい、明治28年に大阪市北区堂島の唐物雑貨商の家に生まれました。大阪府立清水谷高等女学校在学中に、清新な写生で知られた四条派の画家深田直城について絵を学び始め、大正2年同校卒業後、美人画を得意とした東京の女性日本画家・池田蕉園の下で本格的な研鑽に入ります。
 同4年、大阪に戻り、北野恒富・野田九浦に師事し、同年第9回文部省美術展覧会(文展)に「針供養」ではじめて入選を果たします。文展は、当時日本でもっとも権威のあった全国公募展覧会で、画家千種の名が世に広く知られるようになりました。

女性画家 千種飛翔
 大正7年、第12回文展に「おんごく」で再び入選を果たす一方で、新たに京都の菊池契月塾に入門し、その筆に磨きをかけました。同9年には浄瑠璃研究の大家、木谷蓬吟と結婚。以後、木谷千種として、文展を受け継いだ帝国美術院展覧会(帝展)を中心に活躍を続け、昭和10年代まで毎年のように入選を重ねていきました。
 このように、千種は大阪の女性画家興隆の中心的な役割を担いましたが、昭和22年、51歳で亡くなりました。


千種と池田
 ところで、千種は、東京からもどった大正4年以降、室町にあった叔父・吉岡重三郎の家に同居していました。ご存じの方も多いかと思いますが、吉岡重三郎は、明治42年、箕面有馬電気軌道に入社し、小林一三を助けて、宝塚少女歌劇の創立に尽力した人物です。また、現阪急電鉄の取締役や宝塚少女歌劇団理事長、さらに、東京宝塚劇場の社長などの要職を歴任し、全国高等学校野球選手権大会の生みの親としてもよく知られています。
 大正5年正月、室町の家で、当時大阪を代表する女性画家の島成園・岡本更園・生田花朝と千種が、吉岡重三郎が招いたタカラジェンヌたちとにぎやかな新年会を催したと当時の新聞は伝えています。千種と池田をつなぐひとつのエピソードです。


千種、池田室町へ
 前回、木谷千種の生涯についてその概略を述べましたが、今回は池田時代について詳しく紹介します。
 千種は、東京の池田蕉園のもとで約3年間の研さんを積み、池田室町の叔父吉岡重三郎のもとへ戻ってきます。大正4年当初、ひょっとすると、同3年の終わりごろかもしれません。ここで、千種の新たな活動が始まります。大阪の北野恒富や野田九浦の塾に通う傍ら、当面の目標は、目前に迫った第1回大阪美術展覧会への出展でした。


第1回大阪美術展覧会入選
 大阪美術展覧会は、大阪にも権威のある展覧会がほしいということで、当時大阪高麗橋三越呉服店の支店長であった梯孝二郎と恒富・九浦・中川和堂によって開設された展覧会です。第1回展は、大正4年2月20日から三越呉服店を会場にして開催されました。応募作品数211点、入選作品数58点、千種は弱冠20歳で出展作品として初めて制作した「新居」で見事入選しました。
 この女性のモデルが、当時日銀の大阪支店に勤めていた佐々木五郎の新妻庸子であったと推定されます。庸子は、大正3年10月に結婚、大阪時事新報の「当世美女伝」にも取り上げられたほどの美ぼうの人で、当初新市街と呼ばれた室町に新居を構えていました。千種も同じ室町にいたことから、彼女をモデルにした作品はこれだけではなかったと考えられます。


閨秀画家・吉岡千種
 「閨秀」という言葉は現在ではほとんど耳にすることがなくなりましたが、学問や芸術に特に優れた婦人という意味です。現在はやりの「セレブ」に近いニュアンスといっていいかもしれません。第1回大阪美術展覧会では、千種を含め7人の女性画家が入選を果たしています。当時婦人の絵画熱が高まりをみせていたこともあって、「閨秀画家○○」というさまざまな記事が各新聞紙上に見受けられます。その中にあって、千種は新進の女性画家として、また、前述の「当世美女伝」にも取り上げられたこともあり、とくに注目を集めるようになりました。
 さらに、同年10月、全国公募展覧会である第9回文部省美術展覧会に「針供養」ではじめて入選しました。受付作品数2150点、入選作品数218点、大阪の入選画家22人、内女性画家は千種を含め3人というものでした。


女性画家の活躍「浪花花壇」
 ところで、大正時代の大阪画壇の特徴は、女性画家の活躍にあるといわれています。千種をはじめ、その代表格である島成園、岡本更園や東京から移った松本華羊、生田花朝らの女性画家たちは、画壇をもじって「浪花花壇」と表されていました。また、大正5年には、千種・成園・更園・華羊らは「女四人の会」を結成し、西鶴の「好色五人女」を題材にとった展覧会を開催しています。この作品研究のために千種らは、近松研究の第一人者であった木谷蓬吟に助言を求めています。千種と後の夫となる蓬吟との最初の出会いであったかもしれません。
 大正8年正月、京都に住む千種を蓬吟が訪ねています。現在のところ、池田を離れた時期を正確に特定することはできていません。しかし、千種にとって画壇に鮮烈なデビューを果たし、また、蓬吟と出会った池田時代は、ごくわずかな期間ではありましたが、その生涯を決した時代であったといえます。


大阪を代表する女性画家
 大正9年春、千種は近松研究の第一人者といわれた木谷蓬吟と結婚、京都から大阪天下茶屋に移ります。翌年、長男吟一が誕生し、充実した家庭生活のもと、千種の精力的な活動が始まりました。
 文展の後を引き継いだ帝展へ毎年のように大作を出品し、数々の入選を果たします。第2回帝展「女人堂」(大正9年)、第4回帝展「近松戯曲の女二題」(同11年)、第5回帝展「女人形部屋」(同13年)、第6回帝展「眉の名残」(同14年)、第7回帝展「浄瑠璃船」(同15年=写真=)、 第9回帝展「母と娘」(昭和3年)、第10回帝展「祇園町の雪」(同4年)と入選が続き、大正から昭和にかけての大阪画壇を代表する女性画家としての地位を不動のものとしていきました。
 一方で、岡本更園や生田花朝らとともに「向日葵会」という組織を設立し、女性画家の活躍の場を創出することにも腐心しています。また、自宅に女性だけを対象とした画塾(後に研究所組織に改変)「八千草会」を開き、後進の育成にも強い意欲をみせています。
 千種の主眼は、裕福な家庭の子女が身につける教養としての絵ではなく、本格的な女性画家の育成に置かれていたようです。八千草会からは、原田千里・狩野千彩・三露千鈴・石田千春などを輩出し、中には、千種とともに帝展に入選する活躍をみせるものも現れました。


千種が目指した世界
 千種の作品は、当初師である焦園や恒富の強い影響の下にありましたが、大正末年から昭和初年ごろを境に、その画風に千種流ともいうべき独自の形式化がみられるようになります。優艶流麗といわれた千種の世界が確立されたといっていいのかもしれません。また、美人画だけではなく、浄瑠璃や歌舞伎などに題材を求めた作品も多く手掛けるようになり、千種の世界がさらに広がりをもつようにもなりました。
 大正末年、江戸時代末期から明治初年ごろの女性風俗を描きたいと、千種はある美術雑誌の中で述べています。この時代は、明治維新による混乱もあって、当時の社会風俗を伝える資料が欠落した時代でもあります。千種が目指した世界は、単なる美人画というものではなく、新たな時代の胎動を予感させる社会、その中の女性風俗をさまざまな資料を駆使して復元し、絵を介して描き出そうとするより高い次元にあったのかもしれません。


能才型の千種
 ところで、千種を能才型の画家であると評した方がいました。少し抽象的な表現ですが、地道に確実に積み上げられた画題研究の上に作品が成り立っているということを意味しています。確かに、こまやかな表情に描き込まれた情感に、ついつい目を奪われてしまいますが、たとえば、衣装の表現一つを取り上げても、絵入小説である草双紙や戯作者たちが書いた赤本といった資料などから十分な裏付けをとるなど細心の注意が払われています。


千種と蓬吟
 さて、蓬吟は、本名を木谷正之助といい、明治10年4月4日、五世竹本弥太夫、キタの次男として大阪市西区北堀江で生まれました。父の影響もあり、幼年から芝居に大変興味を持ちましたが、11歳の時、大病を患ったこともあり、実業家の道を進むことになりました。明治29年大阪市立商業学校を卒業と同時に、神戸の日本貿易銀行に就職します。
 しかし、文楽や芝居に対するつのる思いを断ち切れず、父が亡くなった30歳を機に、近松研究に専心することになりました。ちなみに、号である蓬吟は、貿易銀行の「貿」と「銀」をもじったものだそうです。
 このような中で、以前紹介したように、千種と出会うことになりました。蓬吟が16巻にもおよぶ大著『大近松全集』の刊行を決意したころです。ふたりの仲は、大正8年前後から急速に深まり、同9年4月8日、京都平安神宮での挙式に至りました。
 千種は大正末年から昭和初年を境に大きな転機を迎え、美人画だけではなく、浄瑠璃や歌舞伎などに題材を求めた作品も多く手掛けるようになります。このような作品の広がりや作品研究の深まりに、蓬吟の存在がみてとれます。


蓬吟の著書と千種の装丁
 蓬吟は生涯に数多くの著書や論文を残しましたが、千種はその装丁や主宰誌の表紙の制作などにもかかわっています。『大近松全集』に付けられた、富田溪仙や上村松園ら著名な画家16人による近松戯曲中の人物の木版画の制作にも作品を寄せています。
 また、蓬吟が編者となって昭和4年に創刊した雑誌『郷土趣味大阪人』の表紙を飾ったのも千種です。「彼岸の天王寺の蛸々踊」にはじまり、「せいもん拂」、「神農さんの虎」、「事はじめ」など、雑誌の内容にふさわしい、浪花の歳時記でもあります。昭和16年発刊の『浄瑠璃研究書』も千種の装丁です。シックで深く渋みをたたえた、いかにも千種のという作品です。


木谷千種 その終焉に向かって
 改組第1回帝展「附け紅」(昭和11年)・第1回新文展「義太夫芸妓」(同12年)、紀元二千五百年奉祝展「陰膳」(同15年)、第6回新文展「花譜」(同18年)の入選、出品と、千種の活躍は昭和10年代以降も継続しています。
 しかし、円熟期を迎えようとする千種とは裏腹に、日増しに濃くなる戦時体制は、千種も例外ではありませんでした。昭和17年、長男吟一が招集され、さらに、戦局の悪化にともない、昭和19年、南河内郡高鷲村東大塚(現羽曳野市)へ転居、生活は困難を極めることになりました。その後、無事終戦を迎えましたが、昭和21年がんに侵されていることが判明。昭和22年1月24日、画家としては短い51年の生涯を閉じました。
 同年2月、千種を失った蓬吟のために、「千種を偲び蓬吟を慰むる会」が友人、関係者らによって開かれました。その時の様子を牧村史陽は、「蓬吟氏の『比翼の鳥の片羽をもがれた想ひ』という述懐には泣かされた」とその日記につづっています。蓬吟の妻・千種への深い思いと、哀切が伝わってきます。
 最後になりましたが、第6回新文展に入選した「花譜」を、ある美術評論家がただ一言、「温藉な画境」と評しています。聞き慣れない言葉ですが、心広くやさしく、しとやかなことを言うそうです。千種が到達した世界を表すのにもっともふさわしい言葉であるかもしれません。






最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
いつの時代も (米吉)
2011-09-21 06:22:00
女性の存在には敬服してしまいます。
結婚して、子を授かり育て、家族愛に満ちた家庭を築く母性愛。それに比してなんと男子の微力で我が儘で女々しいことか!
閨秀画家 千種も、素晴らしい女性の一人ですね。才能ある男子より才能ある女性が輝いて見えるのは母性があるからなのでしょうか・・・。
最近の男子に覇気や志しを感じません。女性の母性を尊重しつつ、男子よ!夢と大志を抱き現実の荒波を乗り越えて、いざ!行かん!
返信する
男子 (夜噺骨董談義)
2011-09-21 07:12:45
「我が儘で女々しいことか!」・・そこが男子のいいとこであったはず。「男子の微力」というのは問題ですね
米吉さんの家庭が窺い知れる様な久しぶりのコメント
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。